第64話 笑ったことなんて、なかったから
あれから、紗英ちゃんは少し口数が増えた。
「紗英ちゃん、一回塩ラーメン以外も食べてみなよ? 美味しいよ?」
「私は他人を信じられないって言ったでしょ」
相変わらず彼女の表情は変わらないままだし、俺に心を開いてくれているのかどうかはよく分からないままだけど――
「ほら、俺の今日のカレー。めっちゃいい匂い。ちょっと食べてみない?」
どさくさに紛れて俺のスプーンで間接キス、なんて。
「私はね、ラーメンと心中すると決めているの。味は塩以外認めないの。以上」
「はは、そうですよね……」
少し前に進んでいるような、そんな気がしている。
「高弘君、あの後輩の女の子のこと、好き?」
席に着き、いつものラーメンをすすりながら解き放たれた彼女の一言に、俺は口に頬張ったカレーライスを危うく彼女のラーメンの中にぶちまけるところだった。
「なっ、なに言ってるんだよ、紗英ちゃん!?」
このタイミングで、俺が好きなのは君だよ! とでも言ってしまえば良かったのだろうか。
それができずにただひたすら狼狽することしかできないのが石見高弘であり、仕方がなかった。
「すっ、好きとかそういうんじゃなくてっ、あいつはその……腐れ縁っていうか……」
「……ふーん」
そもそも、そんなこと言ったら「先輩に好かれるなんて最悪です」「屈辱の極みこの上ありません」「死んでください」とか言われそうだな……。
「大体あいつなんて、いっつも俺のこと馬鹿にしてくるし……」
「……でも、すごく仲が良さそうに見えるけど」
「そっ、そうかな……あいつがただ俺をからかって――」
「……何か、あったの?」
紗英ちゃんはラーメンをすすりながら、上目遣いでじっとこちらを見つめてくる。
その視線がグサリ、と深く胸に刺さり、思わず俺は口が開けなかった。
「何か」――それは、ずっと俺が隠してきた罪。
俺と倉元を大切に思ってくれていた教授をこの手で殺した、俺の罪――。
「スキあり、カレーもーらいっ」
「……え?」
気がつけば、ラーメンをすすっていたと思っていた紗英ちゃんは俺のカレーに手を伸ばし、パクリ、と口にしていた。
しかし残念ながら、カレーを食べるのに使用されていたのは俺のスプーンではなく、器用なことにも彼女の箸であったため、先程切望していた間接キスの夢は儚くも砕け散る結果となった。
「もぐもぐ……うん、やっぱりラーメンの方が美味しい」
「さっ……紗英ちゃん?」
「なにかしら、その訝しげな目は?」
彼女はツン、とすました表情でチラリとこちらを見やる。
一方の俺は、突然の彼女の行動に驚きを隠し得ないまま、口どもったまま。
「……もしかして、私のラーメンが欲しいの?」
紗英ちゃんは大きな瞳をパチパチとさせてから、動揺して視線を泳がせる俺に対して一言。
「別にあげないけどね」
彼女は意地悪そうにそう言うと、俺の困った顔を見てクスリ、と笑った。
それが、俺が初めて見た――彼女の笑顔だった。
《君を……傍で守りたい》
その笑顔を、どこかで見たことがあるような気がして。
その笑顔を見た瞬間、初めて彼女に出会ったときの感情が心の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
「その方が……素敵だと思うよ」
「なに?」
「君は……笑っている方が……」
可愛いと思うよ、という台詞はとてもじゃないけど俺には恥ずかしくて言えなかった。
きっと三谷だったら、こんなときこういうことが言えるんだろうなあ。あいつ、イケメンだし。
「私……笑ってた……」
やっと彼女が笑ってくれた。
そのことに対し喜びのあまり踊り出しそうになる俺の一方で、当の彼女は驚いたような表情のままカチリ、と固まっていた。
「さ……紗英ちゃん?」
「わ……私……」
彼女は笑うことはなく、ただ目を大きく見開いたまま、小さく呟いていた。
「最近、ずっと……笑ったことなんて、なかったから……」
「…………」
そのとき――何て声を掛ければ良いのか、分からなかった。
ただ、「笑うことなんてなかった」という言葉を口から零れさせる彼女の小さな身体が、頼りなく小刻みに震えているのを見て――胸のあたりが熱くなった。
無表情だった彼女。
無愛想だった彼女。
《私は、他人を信じられない……他人が、怖いの》
他人が怖くて仕方ないのに、
それでも彼女なりに努力して、俺と話してくれていたんだとしたら。
《……もしかして、私のラーメンが欲しいの?》
《別にあげないけどね》
ようやく俺に心を開いて、笑ってくれたんだとしたら。
《最近、ずっと……笑ったことなんて、なかったから……》
もし今まで、笑う余裕もないくらい、心を閉ざして過ごしてきたのだとしたら――。
そのとき無性に、小さく震える彼女の華奢な手足を抱きしめてあげたくなった。
ずっと、ひとりで生きてきたのかもしれない。
他人が信じられなくなって、笑うことさえできなくなって。
そんな辛い世界の中で、たったひとりきりで生きてきたのかもしれない。
――そんなの、辛すぎるじゃないか。
いくらでも笑わせてあげたい。
俺が傍にいて、「もうひとりじゃないんだよ」って言ってあげたい。
「さっ、紗英ちゃん……試験が終わったら、その……夏休み、一緒に遊園地にでも行かない……?」
「…………」
紗英ちゃんはしばらくの間黙っていたが、やがて「うん」と口を開き、小さくコクリと頷いた。
《お前が紗英嬢を守りたいって思うことに、そんな資格、必要ないんじゃねーの》
夏休み、遊園地に行ったら、俺は紗英ちゃんに自分の想いを伝える。
上手くいくかも分からないし、そもそも俺にそんな資格があるのかも分からないけれど。
笑うことがなかったと言って震える紗英ちゃんを、ただひたすらに――守ってあげたいと思ったんだ。
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