第60話 先輩はただの馬の尻尾です
――翌日。
場所は図書館の談話スペース。
俺はそこで、後輩の試験勉強に付き合わされていた。
「だからここでこの式をあてはめるんだよ」
「え〜何でですか先輩。だってこの式は既に別の例題で使ったじゃないですか。これじゃあいくらなんでもこの子が働き過ぎで可哀想ですよ? 私は反対です!」
「お前の意見はどうでもいいから、さっさとあてはめろ」
「私は反対って言ったのに~。先輩って結構サディストなんですね、クスクス。あ、上手くいきました」
「……分かったら同じ要領でさっさとやれ」
学問とは些細なことにでも疑問を持つこと――誰かがそんなことを言っていたような気がする。
しかし思うのは、こんな調子で一つ一つの処理に難癖を付ける彼女に、果たして学問が向いているのかということだ。
因みに、以前の期末試験で彼女の面倒を見てやるのに所要した時間は、約一週間だった。
「言っとくけど今回は前回ほど長い時間面倒見てやれないからな、倉元」
今回は紗英ちゃんを誘って試験勉強するって決めてんだ。悪く思わないでくれ。
「何でですか先輩! まさか共に死線をくぐり抜けてきたかけがえのない後輩を見捨てるおつもりですか?」
「大事な所は大体教えてやっただろ? 後は適当にやればいいんだよ、適当に」
「アドバイスが雑です! 先輩は私の単位が吹っ飛んでも良いんですか!」
「別に」
自己責任だな。
「良くないです!」
そう言って彼女が机をバン、と叩いて立ち上がるので、周囲の視線が一挙にしてこちらに集まってきたのも仕方がなかった。
いたたまれなくなった俺は慌てて倉元を制し、とりあえず席に座らせる。
「分かりますよね……頼れるの、先輩しかいないんですよ……」
倉元は俯きながら寂しげに呟く。
彼女の頭に結わかれたリボンがしょんぼりと下を向いていた。
「お前、まさかまだ友達できてないのか?」
「できてないんじゃないんです。作らないんです!」
それは友達がいないやつの典型的な言い訳だぞ、倉元。
「私と話の次元の合う人が先輩しか居ないんですよ……」
「ちょっと待て。俺はいつお前の次元に巻き込まれたんだ?」
「何言ってるんですか先輩。初めから先輩は私と同じ匂いをしていたじゃありませんか」
どんな匂いだよ。
「確かに私はちょっと周りと比べて様々な才に欠けるところがあるかもしれないですけど……でも、私だって必死に生きてるんですよ? 分かりますよね、先輩なら!」
倉元が俺の瞳を真剣な眼差しで見つめてくる。
俺は少し俯いて答えた。
「ああ……分かるよ」
こいつが必死でこの世を生きていく姿を不器用だというのなら、それは俺にあてはめてみても同じなのかもしれない、と思った。
同じ学部の、同じゼミの後輩。
初めはよく分からない人間だと思った。人を小馬鹿にしてくる生意気な奴だと思っていた。
しかし、そうして少し距離を置いて接するうちに、気がついたことがあった。
彼女は――孤独だった。
人付き合いの決して上手くない彼女に対する周囲の視線は冷たく、周りの人間は彼女を中心としてまるでドーナツの円を描くかのようにして、どこか遠くにいる。
そして俺も、その中の一人だった。
ゼミで旅行に行く機会があった。
自由行動の時間、倉元は女子のグループから外れて、一人で過ごしていた。
旅館に残り一人で外の景色を眺める彼女の姿を見て抱いた感情は、同情だった。
《お前……いつも人の事馬鹿にしてくるけど、本当は寂しいんだろ?》
倉元は外の景色を見つめたまま、いつもの生意気な口調で答える。
《……勘違いしないでください。私の次元に会う話し相手が居ないだけです》
《はは、強がんなって》
周りと距離を置いているのは、彼女の方でもあるのだろう。
それが自分を守るための手段であるからか、はたまた他人を心底軽蔑しているからなのかは分からないが――
少なくとも、賑やかな外の景色を見つめる彼女の視線は、とても寂しそうに見えた。
彼女の瞳が、「助けて」と言っているように見えた。
《俺のこと、いつだって馬鹿にしてくれて構わないからさ。……本当に辛い時は、頼れよ》
不器用な彼女。
この世を生きていくことが彼女にとって難しいというなら、そんな彼女を放っておくことのできない俺もまた、不器用なのだろう。
倉元ひかるは一瞬目を丸くしてから、声のトーンを落として呟いた。
《先輩なんて……嫌いです》
こいつがどれだけ俺のことを嫌おうと、こいつがどれだけ俺に迷惑をかけてこようと、
放っておくことなんて出来なかったのだから、仕方が無い。
そして今、試験を前にしたこいつが頼れるのは俺だけなのだ。
こいつがどんなに生意気なことを言ってこようと、助けを求める彼女の手を振り払うことは、俺には出来ない。
この世を生きていくことが難しいのは、今や俺も同じだから。
それでも、俺もこいつも、必死に生きている。
そうするしか道はないのだ。
俺は、人殺しの力を抱えて、生きていくしか。
俺達は、消えることのない罪悪感を抱えて、生きていくしか――
《『何で』? ……決まっているだろう。お前は……》
《お前らは……俺を裏切ったからだ》
「大丈夫ですか、先輩。急にボーっとしてますけど」
件の倉元は俺の目を覗き込みながら、「意識はありますねぇ……」と呟いた。
「さては先輩、昨日の女性のことで頭がいっぱいになっていたのではないですか?」
そう言うと、彼女は「まったく……私の単位が危ういというのに」と大きなため息をひとつ。
対する俺としては、全くもって見当違いの推理をされてはたまったものではないので慌てて否定するが、それが彼女の的外れな推理を助長させることとなった。
「そんなに慌てて、相変わらず先輩は分かりやすい生き物ですね。どうせエッチなことでも考えていたのでしょう」
「はぁ……」
違うって言ってるんだがなあ。
「まあ良いでしょう先輩。どうせ先輩のことですから、まだ片想いの一方通行なのでしょう?」
「なっ……何で分かった?!」
お前はエスパーなのか?
「単純なことですよ。先輩の必死な態度と、対するお相手の方の落ち着き払った冷静な態度。誰がどう見たって先輩の一方的な片想いです。以上、証明終了、Q.E.D.です」
倉元は満足気な表情を浮かべながら、赤ぶち眼鏡の右端を人差し指でクイッと持ち上げる。
一方、完全に言い当てられてしまった俺は、彼女の完璧な証明に抗弁の言葉もなく、ただうな垂れることしかできず。
「それにしても、先輩が恋ですか〜。良いなぁ、羨ましいなぁ。私も素敵な恋がしたい!」
「お前、それ本気で思ってないだろ……」
「私は嘘なんて言いませんよ?」
はい、ウソ。
「いつかきっと、白馬の王子様が私を素敵な世界へ連れて行ってくれるんですよ……!」
そう言うと、倉元は瞳をキラキラと輝かせながら、少女漫画に出て来るような「白馬の王子様」について語った。
「ああ、きっと白馬の王子様はすぐそこにいるのに……!」
「すぐそこってお前、はは、それはもしや俺の事――」
「自惚れも大概にしてください、先輩。先輩はただの馬の尻尾です」
馬ですらなかった!
「安心してください。先輩のことは私、部屋にあるぬいぐるみや玩具程度にしか思ってないですから」
お前にとっての俺は先輩としての威厳どころか、男としての尊厳すらないのかよ……。
ガクリ、とうな垂れる俺に、倉元は彼女なりの励ましの言葉をかける。
「大丈夫ですよ、頑張ればぬいぐるみだってカッコ良くなりますから」
「そもそもぬいぐるみの時点で可愛い路線じゃねーか」
「先輩は素材がぬいぐるみなんだから仕方無いです。諦めましょう」
倉元は「大切なのは中身ですよ中身」と言いながら、他人事のようにケラケラと笑う。
一方の俺は、自分の容姿に改めて不安な思いが込み上げてきた。
「はあ……俺、ちゃんと紗英ちゃんに男として見てもらえるのかな……」
「それは先輩の容姿がぬいぐるみだという点ですか?」
「俺は断じてぬいぐるみじゃないと言い張るぞ」
イケメンとかオオカミ君とか言われてみたい人生だったよ……。
「雪のように白い肌と、対照的な艶のある黒髪。発色の良いぷっくりとした唇に、マスコットのような愛らしいつぶらな瞳が……」
「描写やめろ描写」
「私も先輩みたいな可愛らしいぬいぐるみになりたい」
「お前はこれ以上俺の傷を抉るな」
自分の容姿に再びげんなりとため息をつく俺に、彼女は「大丈夫です大丈夫」と根拠のないエールを送る。
「さっきも言いましたけど、大切なのは中身なんです、先輩。先輩の気持ち、優しさ……少なくとも私にはちゃんと伝わってますから」
そう言うと、倉元はニコリと微笑んだ。
《大事なのは見た目じゃねぇだろ》
《お前、良い奴だもん》
まったく、どいつもこいつも同じことを言いやがって。
でもまあ、言われてみればそうなのかもな。
最初は俺に対して一度も笑ったことなんてなかったこいつがここまで心を開いてくれるようになったのは、
俺の気持ちがこいつにちゃんと伝わったからなのだろうか。
「……ありがとな、倉元」
倉元がそう言ってくれるなら、きっと大丈夫だろう。
「グッドラックですよ、先輩!」
俺にだって出来るはずだ。
「ああ、お前も応援しててくれ」
「了解承知まるです! 陰ながらしっかり奇襲のタイミングを見計らっておきますので」
奇襲されんのかよ。
「お前、邪魔する気満々だろ……」
「そんなことないですよー、いくら先輩の反応が面白いからって、そんなことないですよー、はは。ささ、勉学に励みますかね」
「嘘は言わないんじゃなかったのかよ……」
空気の読めないどころか積極的に自分の害を成そうと意気込む倉元に、今後が心配になる。
しかし、当の彼女はふと優しい表情になって、目を伏せながら小さく言った。
「先輩……私のこと、迷惑だったらいつだって無視してくれて構わないですから。本当に辛い時は、頼ってくださいね」
聞き覚えのある台詞を言いながら、彼女は照れくさそうにして笑う。
彼女の不器用なりの応援に多少なりとも安心感を覚えている自分が、その瞬間、確かにそこにいたのだった。




