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wink killer  作者: 優月 朔風
第7章 死神の過去
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第58話 お前を助けてやる

  ♪♪♪


 人間というものは、いくつもの顔を持っているものだ。

 俺がその真実を知ったのは、ごく最近のことだった。


 コーヒーの芳しい匂いの漂う、書類やらファイルやらがごちゃごちゃと散らかった研究室。

 足繁く通っていた部屋の、いつもと変わらない光景。

 父親のように頼りにしていた教授の部屋。


 そこが、俺の墓場になる――はずだった。


 「土井(どい)……教授……何で……っ」


 首がギリギリと強い力で締めつけられていく。

 細くなった気道からやっとのことで漏れ出した弱々しい言葉は、血走った教授の目をさらに赤く充血させた。


 「『何で』? ……決まっているだろう。お前は……」


 「  」


 首を締める力はいっそう強くなり、頭部に血液が滞留していく。

 苦しい。


 そして、呼吸ができず意識が朦朧としてきたとき――そいつは現れた。


 紫色の長い髪をした女。

 整ったストレートヘアは腰の長さ程もあり、キューティクルの輪が腰のラインに合わせて艶やかに輝く。


 アナログな研究室に突如として現れた彼女の異様さを物語るのは、その長髪だけではなかった。

 彼女の服装――もうすぐ真夏を迎えるにも関わらず、彼女の全身を覆う、黒いコート。


 『そこの青年。いいか、今から私の言う事を聞け』


 彼女は涼しげな顔で俺を見て言った。


 「な……で……」


 苦しい。今にも死んでしまいそうだ。


 信じたくなかった。

 まさかこんなことになるなんて。


 『  』


 人生の終わりとは、かくも呆気ないものなのだろうか。

 人は何かを守るために、何かを失うしかないのだろうか。


 『お前を助けてやる』


 俺は、信じたくなかった。

 俺は、失いたくなかった。

 俺は、……。


  ☆★☆


 気がつけば、自分の首を締めていた教授は床で倒れていた。


 「き……教授……?」


 彼は何の外傷もないまま――死んでいた。

 怖くなった俺は、気がつけばその場から逃げ出していた。



 暗い廊下を、走る。走る。

 周りの人間が自分を睨んでいるような気がした。


 嫌な予感が止まらなかった。


 《お前を助けてやる》


 失いたくない、と思ってしまったから。


 俺が自分の命を選んだせいで、

 教授はあの女に……。


 きっと、あの女に、殺されたんだ。


 廊下の突き当たりまで走ったところで、隣の壁が青白く光ったかと思うと――突然、光の中から人が現れた。


 思わず驚いて飛び退き、床に尻を打ち付ける。

 怪奇現象とでも言うべき事象と共に突然現れたその人物に、俺は見覚えがあった。


 「お前……さっきの……!」

 「ああ。お前の命を救ってやった恩人だ。感謝しろ」


 女はうっすらと誇らしげな笑みを浮かべながら、床に尻をついた俺を上から見下ろす。

 得体の知れない恐怖に声が震えるのを必死で抑えながら、俺は黒コートの女を睨んで言った。


 「お、お前だな……土井教授を殺したのは」


 キッと彼女を睨みつける俺に対し、女は「これは滑稽だ」と鼻で笑う。

 そして次の瞬間、女は低い声で残酷な事実を告げた。


 「殺したのはお前だ、青年。お前の意思だ」


 その一言が、信じられなかった。


 「俺の……意思……?」

 「私はお前を助けてやるとしか言っていない。私はその力の使い方を教えただけ――それを実際に使ったのはお前だろう?」

 「力を……使った……?」


 目の前の世界がぐらりと揺れる。

 激しいめまいの中で、先程の記憶が脳裏を過ぎる。


 ――蘇る悪夢。


 《いいか、青年。お前に渡したその力は、死神の力だ》


 「嘘だ……」

 ああ、そうだった。


 《お前は相手の目を見ながら右目を瞑ることで、相手の魂を天界に転送することができる》


 「嘘だ、嘘だ………」

 気が付かない振りをしていたかったんだ。


 《つまり……》


 「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘」

 俺が右目を瞑った瞬間……教授は。


 《お前が右目を瞑れば、相手は……死ぬ》


 「俺が……殺したんだ……」


  ♪♪♪


 「あれから俺は……ずっと罪を背負って生きている」


 部屋の窓から、暗くなった夜空を見つめ、小さく呟く。


 「でも、お前が俺を助けてくれたことには感謝してるんだよ。チサ」


 死神チサ。

 俺に人殺しの力を分け与えた、死神の名前。


 あれ以来彼女はずっと、力を分け与えた俺のそばに憑いている。

 横柄な言葉遣いや態度とは裏腹に、どうやら彼女は戸惑っていた俺のことを気に掛けてくれているらしい。


 彼女には元来、目的があった。


 死神が天界から下界に降りるには相当のリスクを伴うらしい。だから、滅多なことでは下界に死神は現れないのだ、と彼女は言っていた。

 それでも彼女が下界に来た目的――それは、天界の大罪人を捕らえること。


 天界の厳重な牢を抜け出し下界に逃げ込んだ大罪人を捕まえるために、彼女は危険を犯してこの地に降り立ったのだという。


 そんな彼女が、何故俺に死神の力を分け与えたのだろうか。

 それを彼女が話したことは、まだ一度もなかった。


 彼女はここ数日、目的の大罪人を追って家を離れている。

 しかし、なかなか手掛かりを掴めないのだそうだ。

 たまに俺の部屋に戻ってきては、まるで仕事帰りのサラリーマンのような愚痴をこぼす彼女の話を、俺はいつも苦笑しながら聞いてやっている。


 「あいつ……今回はちゃんと手掛かり掴めてると良いけどな」

 遠くの家の、屋根の上にある黒い影と、彼女の姿が重なって見えた。


 「……早く帰って来いよ、チサ」


 お前が外に出掛ける度に、一人になると……いつも不安になるんだ。

 思い出してしまうんだ。

 ――あの日のことを。


 時計の針が午前0時を指す。

 俺は窓にカーテンを掛け、部屋の電気を消した。


 カーテン越しに街灯の光が差し込んでくる。

 一人暮らしのアパートの薄い壁から、隣の住人の賑やかな話し声が聞こえてきた。

 冷房の効いてきた部屋の中で、俺は布団の中に入り、タオルにくるまって考える。


 自分は正しかったのか。

 あの時、教授が死んで、自分が死なずに済んだこと。

 自分が生き永らえるために、土井教授を殺してしまったこと。


 「俺は……」

 自分が手にしてしまった人殺しの力。

 人間の俺が、こんな力を持つことは許されるのだろうか。


 「俺……生きてて良いのかな」


 自分が生き永らえるためとはいえ、人の命をこの手で奪ってしまった。

 人を、殺してしまった。

 そんな俺が、普通の人間として生きることは許されるのだろうか。

 そんな俺が……誰かを愛することなど許されるのだろうか。


 ――ふと、そんな不安が頭に過ぎった。


 「きっとあいつがいたら、馬鹿にされるんだろうな……『悩む必要がどこにあるんだ』って」


 自嘲気味にはは、と笑いながら、ごろりと寝返りを打つ。


 《人間というものは本当に面倒くさい生き物なんだな》


 浮かんでくるのは、以前のチサが俺に言った言葉。


 《何かを守るためには何かを犠牲にしなければならないことだってある――当たり前のことだろう?》

 《何も犠牲にしないで生きていける奴などいない。誰も傷つけずに生きていくことなど、できないんだよ》

 《お前が守りたいものは何だ? そのためにあの男が犠牲になった……それだけのことだろう》


 人間味のない死神チサの言葉に、どこか強さと優しさを感じて、

 その言葉が俺の心に突き刺さった。


 《悩む必要がどこにある、高弘》


 起こってしまったことが変えられないのなら、それを受け入れる以外に道はない。

 きっとこの不安は、いつまでも自分の心の奥底でくすぶり続けるのだろう。

 この罪悪感を抱えながら、俺は生きるしかないのだろう。


 所詮何が正しいのか分からないのなら、その中でもがいて生きていくしかないのだ。


 枕に顔を埋める。

 瞳を閉じて浮かんでくるのは、昼間の天使の寝顔。

 彼女に振り向いて貰うために、努力すると決めたのだ。

 それに、三谷だって応援してくれている。


 「俺にだって……出来るはずだ」


 肺の奥底に溜まる不安をかき消すようにして、俺は自分に言い聞かせた。

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