第38話 すれちがい
――時は劇の本番前に遡る。
私が舞台袖に入ると、数人のクラスメイトが「台詞合わせ」という名目で私の所にやってきた。
「ねえ永美ちゃん、本当にこの台詞全部覚えたの?」
会う度ごとに聞かれるのは、今回の長台詞の話だ。
台詞の話を聞かれる度にあの委員長の作り笑顔を思い出す。
最悪な気分である。
「まあ、大体だけどね」
「またまたぁ、そんなこと言っちゃってさ。永美姐さんさ、謙遜とか要らないから。はは……」
そう言って彼女達は笑う。
人間ってやつは何を考えているのか分からなくて、
こいつらも今、何を企んでいるのか分かったもんじゃない。
「まぁそれはさておき、姐さんってばちょっとしか出てない練習でも完璧だったんだし、今日もきっと完璧な演技をして下さるんだよね」
「はぁ…………」
「永美ちゃんならきっと大丈夫! きっとこんな癖のあるジュリエットだってスラスラーってこなしちゃって、本番でもばっちり完璧なジュリエットやってくれるよ! だって、永美ちゃんだもん!」
「…………」
「そうだよね、やっぱり、門田さんだからね~」
「はは……」
やっぱりそうだ。
そうやって、「完璧」の呪縛で私を縛りつけてくる。
自分達は他人事のように笑いながら。
――本当は、完璧な人間なんかじゃないのに。
そんなことは、口が裂けても言えなかった。
この状況から抜け出したい思いの一方で、どこかこの環境に安心している自分がいるから。
だから、いつまで経っても抜け出すことができない。
――「完璧」という呪縛から。
台詞はほとんど覚えている。
それでも、不安が全くないと言い切れるほど、私は完璧な人間じゃない。
でも、周りの人間は「完璧」を私に求めていて、
そんな状況に安心している自分がどこかに居て。
「門田さん、台詞合わせなんだけど、本当に台本見なくても大丈夫なの?」
「うん……もう、覚えてるから」
だから、いつまで経っても抜け出せないまま。
「バカ、何失礼なこと聞いてんの。永美姐さんが本番当日に台本なんか見るわけないでしょ! もう全部完璧に覚えてんだから」
それを否定する言葉を示すことも、できない。
しばらくして、蒲田未玖が舞台袖に入ってきた。
彼女の元に集まったのは、神崎花と、あの男子生徒――神峰将だった。
二人とも、未玖に騙されている。
彼女を信じている。
蒲田未玖の笑顔と、彼女を信じて疑わない二人の笑顔を見ているうちに、肺の奥底から黒いものが湧き上がってくるような感覚がした。
《あなたがね、私をとっても楽しませてくれるから》
悪夢に見たあいつの嘲笑が頭を過ぎった。
――吐き気がする。
あいつの顔なんて見たくもない。
私は控室で気持ちを落ち着かせることにした。
そうだ。とりあえず今は「ジュリエット」に専念しなければならない。
集中するんだ。私は今、ジュリエットなんだ。
そして、本番はやってきた。
台詞運びは順調。滑舌も良好。感情も「ジュリエット」らしく、大げさに表現する。
全ては上手くいっていた。
――あいつが、舞台に出てくるまでは。
『おや、君、こんなところでどうしたんだい』
神峰将。何も知らない、蒲田未玖の手駒の一つ。
『まぁ、私を心配して下さる優しいおじいさん。実は私、あるお方のために探しものをしていたのです。でも……どうやらその途中で迷ってしまったようですわ』
『ほうかい、ほうかい。で、お嬢さんはこんなところで何を探しておいでかね?』
『実は、この山の奥にあるという伝説のきのこを探しているのですわ。それはそれはたいそう美味だというお話ですからわたくしどうしてもあの方のためにそれを見つけ出したいのです』
『きのこ、とな? わしゃ狩り専門じゃからのぅ……いっつも山菜採っとる婆さんなら知っとるかいの。ほれ、婆さん、何か知らんか』
『きのこ……そ、そういや、前に山菜採り行ったとき、妙に鮮やかな色した、でか……でっけぇきのこがあったかね』
相変わらずひどい演技力。
――否、凄い演技力。
あんたは、そうやっていつも、できないふりをしてきた。
そうやって、私を……周りの人間を油断させてきた。
何のつもりだ。
一体あんたは、何がしたいんだ。
『…………。まあ! 本当なのねお婆さん。で、そのきのこ……一体どこで見かけたんですの?』
一瞬調子が狂ったものの、ふと我に返り、咄嗟に顔に「ジュリエット」の表情を張り付ける。
それに、未玖のぎこちない台詞が続いた。
『あ、あっちじゃ』
舞台の奥を指差す彼女の手が震えている。
《でもね、永美は面白いから好きだよ?》
分からない。
どうしてその手は震えている?
『…………』
《必死で頑張って強くあろうとしてるの、とても滑稽で素敵》
ねえ、教えてよ。
あんた、一体何がしたいんだ。
何でこんなことしてんだ。
『…………』
《私が何であなたを殺さないか教えてあげる》
意味が不明だ。何で。
何で。
あんた、そんな平気でいられるんだ。
連続殺人事件の犯人――
人をたくさん、たくさん殺しておいて、どうしてそんな平気でいられる。
《あんたは……人の命を何だと思ってるんだ……!》
《別に……何とも思ってないけど?》
狂ってる。
不気味で気持ちが悪い。
《ゲームの一番の醍醐味と言ってもいい》
あんたは、最悪なクズの人間なんだ。
あんたは堀口君を利用して殺した人間だ。
《あなたのような駒がいてくれるから、私はこのゲームをより楽しむことができるの》
最低だ。
お人好しの仮面被って、周りの人間が踊り狂う様を見て愉しむ最低の人間なんだ。
所詮あんたは人殺しだ、この殺人鬼。
《必死で頑張って強くあろうとしてるの、とても滑稽で素敵》
何で。
何で。
何で 何で 何で? なんでなんでなんでなんでなんであんたがこんなことしてるんだ
なんでこんなとこで変な演技してんだよ
いったいなにが目的で何がたのしくて何が?
はは楽しいのそんなことして私達をもてあそんで笑って嗤って哂ってたのしいの
は はは、はは。ははは ははははははは。
《もっと楽しませてよ……永―美ちゃん?》
……ハア。
もう、分からない。
何もかも。
『…………』
会場が、舞台袖がざわつき始めている。
私は少しずつ視界が暗くなっていくのを感じた。
『…………』
ああ、そうか。
私は、今……「ジュリエット」を放棄しているんだ。
思考が完全に停止する。
この舞台も、目の前にある現実も、少しずつ私から遠のいていく。
わかるのは、全て「終わってしまった」という感覚だけ。
私はその場で座り込んだ。
私に立ち上がる気力などなかった――
……筈だった。
突然の衝撃が私の全身を襲う。
蒲田未玖が私を強く抱き締めた。
一体、何をするつもりなのか。
しかしそれに抗う気力など、もはや私にはなかった。
『辛かったろう……ここまでずっと、一人で歩いて、さまよってきたんじゃからの』
それは「お婆さん」の台詞の体を為していたが、私には蒲田未玖自身の台詞であるかのように聞こえた。
そして不覚にも、その台詞が私の胸に突き刺さってくる。
「一人でさまよってきた」。
この森でさまようジュリエットも、この先どうすればいいのか分からない私も、同じだ。
……私も、ずっと道を彷徨ってきた。
でも……
でも、それはあんたのせいじゃないか。
私を迷わせているのは……私を掌で躍らせているのは、他でもないあんただろ……!
両手の拳に力がこもり、身体が震える。
そして私を抱きしめる彼女は、私の耳元で小さく囁いた。
『 』
――その瞬間、全身に寒気が走るのを感じた。
彼女が囁いたのは、道を教えてくれた老夫人に対する、ジュリエットのお礼の台詞。
私の本来の台詞。
『まあ……助かりましたわ……』
口から乾いた、震えた声が洩れだす。
『この御恩は……一生、忘れません……』
「一生」という言葉が重く圧し掛かってくる。
今、こいつが私の背中でどんな表情をしているのかは分からない。
でも、ハッキリしていることが一つある。
私は今、蒲田未玖にこの台詞を「言わされた」のだ、ということ。
☆★☆
前半の幕が終わった。
とりあえず、後半が始まるまで一人で落ち着くための時間が私には必要だった。
しかし、控え室へ向かおうとする私は足止めされることになる。
数人の生徒が「先程のアクシデントでは心配した」「けれどもさすが門田永美だった」との事務報告に訪れる。
そして結局、私が舞台袖を後にするまでには数分の時間を要した。
――違う。私はジュリエットを放棄した。
あれは私の力なんかじゃなくて、本当は未玖が……
蒲田未玖が、私を……。
助けてくれたことへの感謝よりも、未玖が私に偽の栄光の冠を捧げたこと、それが彼女の意図の上で成されたという事実による屈辱の方が勝っていた。
既に私の全ては、あいつの掌の内にあるということ――その事実を認め、私は屈服したのだ。
《この御恩は……一生、忘れません……》
先程の台詞が頭から離れない。
控え室へ向かう途中で、私は未玖の姿を捉えた。
珍しく一人のようだった。
無意識のうちに、私は彼女の後をつけていた。
何かを話しているようだ。
独り言だろうか? いや、誰かと電話をしているのかもしれない。
内容がよく聞き取れない。
でも、こんなときに一体何を話しているのだろう。
それに、相手は一体……?
少しずつ近づいていき、ある程度近づいたところで私の足は止まった。
彼女の言葉がたった一言だけ、聞き取れた。
「そんなことしたら……永美のプライドが潰れちゃうでしょ」
☆★☆
「門田さん、本当に体調は大丈夫なの?」
もう何人にも同じことを聞かれた。
でも皆同じで――本当はそんなこと思ってないくせに。
「本当? 永美姐さん滅多にこういうことないからさ、ちょっと心配しちゃったよ」
心配? 笑わせる。「安心」の間違いじゃないの。
「でもさすが姐さん、あそこからよく立ち直ったよね~。感動して泣きながらお礼言うところとかさ、迫真の演技だったよ」
「感動して泣きながら」――
そういうシナリオに持っていくことも全て計算済み、というわけか。
私に偽の花束を手向け、その陰で私が悪戦苦闘する様を見て笑うあんたは本当に、最低のお人好しで――
――その瞬間、私の瞳が蒲田未玖を捉えた。
「……未玖」
「え、永美……」
驚いた、とでも言いたそうな無邪気な表情。
彼女の浮かべる「純粋無垢」な表情に、無性に、腹が立った。
「何で……私のことを助けたの」
「……何言ってるの、永美?」
「とぼけないでよ!」
何だ、その作り笑いは。
虫唾が走る。
「あんた……何で私に台詞なんか教えたの」
それは、私に上下関係を分からせるため。
「ねぇ……あんたは私に、何がしたいの……」
あんたは、私がもがいて苦しむ姿が見たいだけ……
《私は――永美の力になりたい》
あんたは前にそう言った。
――何でこんな台詞言ったんだ。
《あなたのような駒がいてくれるから、私はこのゲームをより楽しむことができるの》
《もっと楽しませてよ……永―美ちゃん?》
あんたは演技をしていて、その台詞も全部嘘で、本当は……
「私は、いつも永美に頼ってばっかりだったね……」
未玖が口を開いた。
――何が、言いたいんだ。
「でもね、今度は――」
その瞬間、未玖の浮かべる笑顔を見て、寒気がした。
「……永美が、私を頼る番だよ」
私はこのとき、完全に理解した。
彼女の言葉が示すのは、「屈服」――彼女の手駒の一部となり、彼女の描くゲームの中で、何も知らずに、苦しみもがきながら這いずり回れ、ということ。
このゲームのプレイヤーは蒲田未玖。屈服した人間共は、彼女の手元のカードの一枚に過ぎない――
――認めてやるものか、そんなもの。
誰が、そうやすやすとあんたの手駒なんかになるものか。
私はもう既に、あんたの悪意を見抜いている。
私は門田永美……あんたなんかに屈服する人間じゃない……!
私はその場から去った。
後半が始まるまで、他の生徒と後半に向けて流れの確認をしている間中、
蒲田未玖の私に向けた嘲笑が頭から離れなかった。




