第1話 力
次の日の朝。
目覚まし時計で、まだ眠い身体を叩き起こす。
一瞬、昨日のあの光景が脳裏に浮かんだが、それを振り払うようにして、学校の支度をしなくては、と重たい身体を起こす。
すると、部屋の中に知らない人影があることに気がついた。
(だ……誰……?)
朝目が覚めたら、自分の部屋に不法侵入者の姿がある。それだけで、私の寝ぼけた頭はすっかり冴えわたった。
ましてや、昨日の今日なのだ。このタイミングで得体の知れない人物が現れたとなると、この事態は、私に警戒心を抱かせるには十分過ぎるシチュエーションである。
さらに、私の部屋の椅子にもたれかかり、すうすうと寝息を立てるその不法侵入者は、明らかに異様な雰囲気を醸し出していた。
黒いコートを羽織った全身黒一色の青年。もうすぐ夏休みに入るというのにその恰好は明らかに季節外れで、異様さを際立たせているのもそのせいだろう。
しかし、彼の異様さはそれだけではなかった。
彫刻のようになめらかな白い肌、華奢な手足、吸い込まれそうな漆黒の黒髪。
それから、天使のような長いまつ毛……
(お、お人形さんみたい……)
その見た目は女子と言われても分からないほど、可憐で整った造形をしていた。
私が少し離れたところから様子をうかがっていると、しばらくして、彼は目を覚まし、大きくあくびをした。
「やっべ、寝ちまった」
彼は顔を上げ、私の方を見た。
その瞬間、彼の瞳は赤い輝きを放ち、漆黒の髪や着ているコートの黒、雪のように白い肌とのコントラストが、彼の異様な雰囲気をより際立たせた。
「誰、なの……?」
警戒心を強める私に、その人物は目をこすりながら、何故か呆れたようにして言った。
「何だ、君、やっと俺に気づいたのか……昨日からずっと近くにいたのに」
まさか。
「昨日から……?」
「そうだよ。なのに君、全然気づかないからさ……俺ずっと呼んでたんだよ?」
私の脳裏に、昨日眠りにつく前に微かに聞こえてきた声が思い浮かぶ。
が、状況が全くつかめず、私は混乱し、そして恐怖した。
「ずっと近くにいたって……いつからいたの……?」
この男は何者なのか。そもそも、何が目的なのか。
もしや――「あの時」、この人物は私を目撃していたのか……?
それとも、次は私が呪い殺される番なのだろうか……?
様々な疑問が頭の中を交錯するが、混乱と恐怖の中で私は最も的確な質問などできるはずもなく。
「『いつから』か。そうだな……君が『不審者』に襲われたとき、って言ったらいいのかな」
「……!」
見られていた。
いや、私が殺したわけではないのだから、私が焦る理由はないはずだ。落ち着いて考えないと。
そうだ……もし、この人が、あの時殺されそうになっていた私を助けようとして、あの人を殺したんだとしたら……
あの人が――堀口君が死んだのは、この人が……?
「もしかして、私を助けてくれたの?」
「…………」
彼はしばらくの間黙っていた。
が、ふいに小さくため息をつき、苛立たしげに「いや、微妙なとこだな」と答えた。
「どういうこと?」
「俺が助けた、というより……君が、俺の力を奪ったんだよ」
「力……? 私が……奪った……?」
私が犯人か、と問い詰めるわけでもなく、あの怪奇現象を呪いだと告げるわけでもなく。
私が力を奪った……? 彼は一体何を言っているのだろう。
予想外の答えに、私は既に訳が分からなくなっていた。
「だって、君が殺したあいつ、変な死に方だっただろ?」
「……私が………殺した?!」
突然のその宣告に、私は顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。
衝撃のあまり私が話せないでいると、彼は訳の分からない私を察して――呆れたようにため息を一つついてから、説明を始めた。
「ずっと昔――俺達の仲間が一人、下界に降り立った。その人物は、ある力を持っていた」
「……?」
「ざっくり言うと、そうだな……『魂を天界に転送する力』って感じかな。君が俺から奪い取った力」
この人は一体何を言っているのだろう。
疑問の錯綜する私をよそに、彼は話を続けた。
「その人物は自らの力に気が付いたとき、自らをこう名乗った」
彼は遠い目をしていた。
「『死神』――俺達は、死神なんだよ」
一瞬、彼の表情に淋しさが混じっていたような気がした。
「魂を死後の世界に転送する力は’wink killer’と呼ばれる。死神は魂を見て右目を瞑ることで、魂を転送することができる」
「死神……’wink killer’……?」
死神。
そう名乗った彼は、混乱する私を一瞥してから、再び話を続けた。
「まぁそうだな。簡単に言うと、死んだ魂を天界に送ってるってこと。下界で死んだ人間の魂は普通、成仏して自動的に死後の世界へ転送されるんだけど、まれに成仏できずにそのままこっちの世界に残ってしまう魂も存在する。俺達は、そういう魂を見つけ次第転送することになってるんだよ」
「……死神が……魂を……?」
彼の突拍子もない説明を、私はもはや信じられないといった表情で聞いていた。
すると、彼は椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んで「あーあ、面倒くせぇな」と言ってハァ、と大きなため息をついた。
「俺がたまたまあそこの路地を歩いていたら、急に君に力を奪い取られたんだよ。そしたら君が死神の力を使ってあの人間を……」
「ちょっ、待ってよ……! 私にそんな力なんてないし、まず私、あの時右目なんて瞑ってな……」
私ははっとして、自分の左目を覆う眼帯に触れた。
そう言えば、昨日はこの眼帯のせいでずっと左目を瞑っていたのだ。
《嫌だ……私、死にたくない……!!》
もしかして、あのとき私が目を瞑ったとき――
両目を瞑ったつもりが、右目だけ閉じていたのだとしたら……
「あーあ、君のせいで仕事が台無しだ」
彼はため息をつきながら、私をジトリと睨みつけて言った。
「下界に追い出されたのは向こうの世界で仕事サボってたからで、それはしょうがないにせよ、だ。来たら来たで力は奪われて、肝心の転送の仕事はできないし、それに人間に力をとられたなんてことがバレたら、『あの人』に何怒られるか分かんないしなー」
「ご……ごめんなさい……」
この死神の言う通りなのだとしたら――私は、彼の死神の力を奪ってしまったのだろう。
そんなつもりなんてなかった。
でも、そのおかげで私の命は助かったのかもしれない。
《死にたくない……!! 》
私が、そう願ってしまったから……。
すると、さっきまでため息ばかりついていた死神が、突然何かをひらめいたかのように「あ、でも」と声に出す。
「君が死ぬまで監視してるってことにしておけば、仕事サボってもオッケーじゃん? はは、俺って天才」
そして、彼は笑いながら私に告げた。
「ってことで、今日から宜しく」
――えっ。
驚く私をよそに、彼は「今まで遊んで暮らしてきたツケが回ったと考えれば安い方だな」などと言ってケラケラ笑っている。
「か……監視って……? まさかずっと近くにいるってこと……?」
すると、彼は私の事情など毛ほども気にしないといった表情で、あっけらかんと笑って言った。
「大丈夫大丈夫! 俺、他の人間には見えないし、声も聞こえないからさ」
「いや……そういうことじゃ……」
「じゃあ……そんなに俺が嫌?」
「え……でもだって、死ぬまでって……」
面倒くさいが仕方ない、と覚悟を決めたであろう彼は前向きな表情をしていた。
しかし、こちらとしては「そんな一方的に言われても」という状況なのであった。
「俺だってこのまま帰れるなら苦労しないんだよね。だから、ここは一つ。俺を助けると思って」
そう言うと、彼は顔の前で両手を合わせた。
ある日目の前に突然現れた死神に「憑かせてくれ」と頼まれるこの異常事態は、おそらく私の知る限り全国を探してもこれが初めてだろう。
(この人……あまり怖くなさそうだけど、死神だし、逆らったら殺されちゃうかも……)
死の危機に瀕した人間は、どんな道であっても助かりたいと願うものである。
それに……彼の力を奪ってしまったのは、どうやら私のようだし。
そのおかげで、今私は息をしているのだ。
私には最早、選択の余地などなかった。
「……うん、分かったよ」
「本当か……?!」
すると、彼は安堵の表情を浮かべながら「良かった良かった」と呟いた。
「あの……私、力なんて使えないと思うけど……。だって、魂なんて見えないよ……見たことないもん」
彼は驚いたような顔で答えた。
「何言ってるの? 肉体に宿っている魂は全部、人間の目に宿っているんだよ。だから、君だっていつも見てきたはずだ。……まぁでも、肉体から離れてしまった魂は、’wink killer’を持ってないと見られないけどね」
「じゃあ私は……本当に、人を……堀口君を……」
正直、半信半疑だった。
けれど、ようやくここではっきりと理解した。
私が彼を殺したのだということを……。
その瞬間、身体の奥底から恐怖心が湧きあがってくるのを感じた。
ヒトヲ、コロシタ―――
「……私、こんな力使わない……使えないよ! ねぇ、返せないの? この力……」
彼はまた大きなため息をついて、私を見上げた。
「それができたら、俺もこんなに苦労してないよ」
「そんな……」
私が戸惑い立ちすくんでいると、ドアの外から母親の声がかかる。
「未玖ー? まだ起きてないの? 遅刻するわよー」
「だ……大丈夫、今行くから……」
明らかに取り乱しながらドアの方をチラチラと見る私に向かって、彼は笑いながら言った。
「ほら、遅刻するって。まぁ、何も気にしないで平気だよ。俺は他の人間には見られないし、声も聞こえないから」
「そういうことじゃないんだけど……」
「それに、君にとって死神の力はそんなに悪いものじゃない。まあ、君はもう身を持って体感したと思うけど……その力は、死んだ人間の魂にだけではなく、生きている人間の魂にまで効果が及ぶ。……つまりだ」
死神は瞳を赤く輝かせて言った。
「もし、また不審者に襲われたりして危ない目にあったとしても、その力は君を守るよ……よかったね、君」
死神は残酷な笑みを浮かべ、私は言葉が出せなかった。
こんな恐ろしい死神の力は使ってはいけない――脳味噌が、全身が、そう叫んでいた。
通学途中、私が自分自身に言い聞かせていると、彼が私に話しかけてきた。
「ねぇ、君さ、まだ名前聞いてなかったよね? 何て名前?」
「わっ、私……?」
突然の質問に、一瞬戸惑う。
「私は……蒲田未玖だけど、あなたは……?」
「俺はミタ。これから俺を呼ぶときはミタで良いよ」
「へぇ……変わった名前なんだね。名字は……?」
彼は空を見上げて言った。
「ないよ。昔は人間だったみたいだから、そういうのもあったんだろうけどさ」
「『みたい』? ……覚えていないの?」
彼は自嘲するように、笑って言った。
「おかしいよね……何となく昔は人間だったってことは分かるんだけど……全然、記憶がないんだ。気がついたら『あの人』の前にいた」
「『あの人』……?」
彼は遠い目をしていた。
その顔はちょうど、さっき自分が死神だと名乗ったときのものと同じだった。
「あぁ、天界の一番エラい人ってとこかな。俺達は昔からその存在の下にいて、皆『あの方』って呼んでる。まぁ、俺は『あの人』って呼んじゃってるけどね」
「そ、そうなんだ……」
「天界でもさ、皆象徴が必要なんだよ。だからそういう存在がある――下界では『神』とか呼ぶんだろ、そういうの」
「神様……」
神様なんて本当にいたんだ、と思いながら、この急展開にも大分慣れてきた自分に正直驚く。
すると、彼の瞳がまっすぐ私を見つめた。
「俺のこと、ミタって呼んじゃって良いからね? まぁ、仲良くしようよ」
「う、うん……」
ビー玉のように澄んだ黒い瞳には、先程の赤い輝きは消え失せていた。
私は思わず目を逸らしてしまったが、ゆっくりと顔を上げ、小さく呟く。
「よろしく、……ミタ」
ぎこちなく返した私の返事に、彼は満足そうに微笑んだ。
(この人、死神なのに……思ったより怖くなさそうかも……)
私は少しほっとしつつ、学校へと向かった。