第16話 回想
♪♪
「姉ちゃん、最近様子おかしいけど……何かあった?」
「え?」
玄関を出ようとする私を心配そうに呼び止めたのは、弟だった。
私は突然掛けられた言葉に驚きつつ、咄嗟にその場で作り笑いを浮かべることしかできなかった。
「別に何もないけど、……それがどうかしたの?」
「いや……ならいいけど」
弟の不満そうな顔を尻目に、私は玄関のドアを開ける。
爽やかに降り注ぐ太陽の光が右目に染み込んでくるのを感じながら、私はいつも通り「いってきます」と言って家を後にした。
いや、いつも通りではないのかもしれない。少なくとも、ここ最近の私は。
拓也の言う通りだ。
確かにここ最近の私は、以前とは違う。
今、私の左目は眼帯で覆われている。
別に失明したとか、誰かに抉られたとか、そんなんじゃない。というか、「抉られた」はおかしいか。
単にものもらいで腫れすぎた左目を覆い隠しているだけだ。
昔から泣きじゃくった後によくものもらいを作っては、翌日腫れあがった瞼を見られるのが恥ずかしくて、それを覆い隠すように眼帯をしていた。
それは今回も同じで、特に左目を強く擦る癖のあった私は、いつものように真っ赤に腫れ上がってしまった左目を隠して外へ出ることとなった。
ここ最近の私は、いつも泣いてばかりいた。
原因は、彼氏と別れたこと。
振ったのは私の方だ。
でも、裏切られたのも私の方だ。
数日前、たまたま街で見かけた彼氏の隣には、同じ歳くらいの可憐な女の子がいた。
幸せそうに歩く二人の後ろ姿を見た瞬間――私の中で、何かが込み上げてくるのを感じた。
それは怒りに似た感情でもあり、悲しみに似た感情でもあった。
落胆に近い感情でもあり、絶望に近い感情でもあった。
今思えば、あの場で逃げ出してしまわずに、彼を問いただしても良かったかもしれない。
隣にいた女の子が誰だったのかを、この目で確かめてみても良かったかもしれない。
けれど……
私にそんな勇気はなかった。
問いただしたところで、きっと何も変わらないのだろう。
彼との関係が以前のように戻ることなど、もうないのだ。
私は臆病だ。
自分の臆病さが自分の怒りを鎮めてしまったせいで、私の中にはやり場のない感情だけが残ってしまった。
そんな私にできることは、あのとき見た二人の幸せを願って、私自身が身を引くことぐらいだった。
それしか、私にはできなかった。
臆病な自分を守るには、幸せそうな彼ら二人から逃げることしか――
「さようなら」
通学路の途中、バス停を降りた私は、離れていくバスを見ながら静かに呟いた。
彼と出会ったのは一年くらい前のことだった。
当時、遅刻しそうになっていた私は急いで学校に向かっていたのだが、急いでいた分かえって注意力が散漫になっていたのだろう。私はバス停を降りようとした時になって初めて、自分の定期がないことに気がついたのだ。
けれど、そこでパニックになってどうしようもなくなっていた私を助けてくれたのは、見も知らない彼だった。
たまたま近くにいた彼は、自分の運賃の分と合わせて私の分も支払ってくれた。
その時の彼が、どれだけ神々しく、親切に感じたことか。
それから何度か会うようになって、いろいろなことを話した。
見た目は少し年上に見えるが、実際の年齢は知らない。もちろん住所も、家族構成も。
学生なのか、就職しているのか。好きな食べ物も、趣味も、……彼のことは何一つ、知らなかった。
唯一知っていたのは、連絡先を交換したときに教えてもらった彼の名前――
「……さようなら、堀口君」
携帯の連絡先から、彼の名前を消す。
すると、喉の奥から込み上げるようにして溢れた涙が、液晶画面の上にポタリと落ちた。
「あれ、もう泣かないって決めたのに……」
涙声で呟きながら、左目に手を伸ばす――が、その指に硬い布生地の感触が伝わる。
そっか。私今、眼帯してたんだっけ。
はは……多分私、ひどい顔してるんだろうな、今。
切り替えなくてはいけない。今の気持ちを。
昨日までのことは忘れて、今日から新しい私で生きるんだ。
――そう、決意していた。
夕方、彼と最悪な形で再会することになるまでは――。
☆★☆
息が苦しい。
心臓が飛び出てしまいそうだ。
気を緩めると思いだしてしまいそうで怖い。
先程の情景を……突然私の目の前で息絶えた、元彼のことを。
急に降り出した雨に濡れたまま、私は全力で家へ駆け込む。
玄関を開けると、たまたま近くにいた弟は驚いたように私を見た。
「あれ、姉ちゃん? そんなに濡れてど……」
いつもと変わらない弟を見て、私は咄嗟に弟にしがみついて泣きじゃくった。
泣き声と嗚咽の混じったような声を上げながらしゃくり上げる私に、弟はしばらくの間困惑していた。
当たり前だ、と思う。だって私は、弟の前でこんなに泣いたことなんてなかったんだから。
でも、私はこうするしかなかった。
本当に殺されそうになって、震えが止まらない程怖かった。
恐怖に押しつぶされそうになって、不安で、心細くて……誰かの温もりが欲しかった。
だから、ごめんね、拓也。
「大丈夫だから」
え……?
「姉ちゃんは、俺が守ってあげるから」
拓也……。
私の背中を温かい手が包む。
拓也の声が、私の心に温かく沁み渡っていく。
……ありがとう、拓也。
こんな私を支えてくれて。
私、拓也のおかげで生きていられるよ。
だから、
私も
あなたのことを
守ってあげるから――
〈え……〉
冷たくなっていく。
私を包みこむ彼の手が、少しずつ温もりを失っていく。
〈拓也……?〉
冷たい。
おかしい。
まるで、
死んでしまったかのように――
〈…………!〉
目の前に広がる、血だまり。
彼は力を失い倒れ込んだまま、私を見ながら優しい笑顔でこう言った。
今にも消え入りそうな、優しい微笑みで――
《姉ちゃん……》
《守れて、……良か……っ……た……》
〈……拓也っ……!〉
嫌だ
嫌だよ、こんなの
〈いやっ、死んじゃ嫌あっ〉
嘘でしょ、拓也
〈嫌だよ、拓也ああっ〉
嘘だって言ってよ、拓也
〈いやああああああああああああああああっ!〉
殺された
誰に?
弟が
どうして
何で
悪くない
優しい子
殺したのは
大事な弟
誰が
悪いのは――――――――――――。
『あなたに決まってるじゃない』
涙を流す私の脳内で、「声」が冷たく響き渡った。
『あなたが、早くあいつを殺さないからよ』
そう言うと、「声」はふふ、と笑って続けた。
『あーあ、可哀そうな弟さん』
――や……やめて……。
『あなたが〔臆病〕だから』
――やめてよ……!
『あなたがそうやって、あの子を』
――お願い、やめて……!
『……見殺しにしたせいで』
――――!
呼吸が早まっていく。
手から汗が止まらない。
私のせいだ。
私のせいだ。
私が、弟を見殺しにしたんだ……。
『可哀そうね、拓也君』
ワタシ……ガ……ミゴロシニ……?
喪失感と、何に向けていいのか分からない怒りで、私は頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
そんな私に、冷たい「声」が耳元で囁いた。
『……早く弔ってあげないと、ね』
ト、ムラウ……?
ドウ、ヤッテ……?
『そんなの、決まってるじゃない』
「声」は、冷ややかに笑って言った。
『あなたから大切なものを奪った、あの男を殺すの』
タイセツナ……モノ……?
ワタシカラ……ウバッタ……?
その瞬間、先程の男の表情が蘇った。
『そうすれば、あなたもきっと楽になるわ』
脳の奥にこびりついて離れない、あの嘲笑。
『人の大切なものを奪っておいて笑っていられるなんて、最低よね』
私を見下す、あの目。
そうだ。
……最初から、こうしていれば良かったのだ。
だって、こいつがいなければ。
こいつがいなければ。
私の弟は、私を助けようとすることはなかった。
私の弟は、拳銃で撃たれて死ぬこともなかった。
私は、弟を助けられずに苦しむこともなかった。
最初から、悪いのは全部――
この男だったじゃないか。
こんな奴がいるから、私の弟は……
何の罪もない私の大切な家族は――命を落とすことになった。
こんな奴がいるから。
こんな奴がいるから。
私から大切なものを奪っておいて平然と笑っている、この男――。
こんな奴、死んじゃえばいいのに。
『こんな奴、死んじゃえばいいのに』
「ゆるさない」
警察に連れられ、パトカーに入れられた男を睨みつける。
拓也を……私の弟を殺した人間。
まるで人を殺すことを何とも思っていないような、あの嘲笑うような目。
私を見下す、その表情。
そんな勝手な人間に、私の弟は……拓也は、殺された。
私を守ろうとして、
こんな奴に……
こんな人間に…………!!
「……あの男」
ゆるさない……
許さない、
赦さない赦さない!!!
――この、殺人鬼。
「私が……」
――殺してやる。
殺すのは簡単だ。
ただあいつの目を見て、右目を閉じるだけ。
簡単なこと。
私には何の痛みもない。
(……さようなら)
私は小さく心の中で呟き、
右目を閉じる。
――それは、一瞬だった。
車内で突然、あいつの首が力なくもたげるのを、私の視界は捉えた。
(……死んだ)
その瞬間、自分でも気がつかないうちに、驚くほどに冷静になっていた自分に気がつく。
弟を殺した人間を、冷静なまま躊躇わずに殺した自分に――。
あたりは一気に騒然とし始め、
――喧騒に包まれる
パトカーの中で既に息絶えた男の肩を、警官が揺さぶる
人々が恐怖に青ざめる
私の横の女性警官は、震える声を必死に押し隠しながら、
私に何とかして温かい言葉をかけようとする
私は、ただ……
《どうしてだ! 何故被疑者が死亡している!》
《まさか……また例の……》
《くそっ、やられたか……!》
ただ……
《もう嫌だ……もう帰らせてよ……!》
《きっと……俺も殺されるんだ……》
《お願いだ……どうか助けてくれ……!》
《大丈夫……あなたは大丈夫だから、何も心配しないで平気よ……》
あたりが騒然とし、
人々が恐怖し、
女性警官が私に声をかけ続ける中――
――私はただ、大切な弟を殺した男を睨み続けていた。