第15話 拓也の決意
♪♪
――姉ちゃんは、俺が守る。
そう決意したのは、もうずっと前のことだ。
もう何年も前になる。
まだ小学生だった俺を守ってくれたのは、姉ちゃんだったんだ。
俺はいつも、近所に住む同じクラスの奴らの標的だった。
奴らにとって俺は、恰好の憂さ晴らしのターゲットだったってわけだ。
昔から弱虫で、泣き虫で、
俺をいじめてくる奴らに対してどうすることもできない自分に、いつも歯噛みして。
悔しくて、
悔しくて、
挙句の果てに、それは姉ちゃん譲りの悪い癖だと決めつける程の、
どうしようもないクズだった。
いつもそうだ。
姉ちゃんはいつも弱くて、
臆病で、
――でも。
帰り道。いつものように、俺はクラスメイト達にいじめられていた。
悔しかった。
けど、何も言い返せなかった。
奴らが言う言葉が全部、本当の言葉だからだ。
《弱虫!》《クズ!》
奴らの言葉が胸に突き刺さる。
そうだ。俺は何もできない、最低のクズなんだ。
俺は……。
「ち……ちがうんだからっ……!」
それは、よく知っている声だった。
「拓也は、よっ、弱虫じゃないし……クズなんかじゃないもん……!」
震えた声。
俺を必死にかばおうと、無理して張った見え見えの虚勢。
この声を、知っている。
「拓也は……強い子なんだからっ……!」
そう言って、姉ちゃんは俺の前で精一杯手を広げて見せた。
その声は弱々しく、
その手は小刻みに震えていた。
その時俺の目の前にいた姉ちゃんは、
確かに臆病で、すぐにでも壊されてしまいそうなほど弱々しく見えたけれど、
何故だか――とても強くて、頼もしく見えた。
そこで、気がついたんだ。
弱虫は、俺だけだったんだってことに。
自分がどれだけ甘えていたかってことに。
今まで弱虫で臆病だと思っていた姉ちゃんは、
本当は弱虫なんかじゃなくて、
臆病者なんかじゃなくて、
他人を守れる強い人間なんだってことに――。
だから、俺は強くなるって決めたんだ。
誰かを守れるくらい、強く――
俺はもう、弱くない。
ずっと決めてたんだ。
今度は、俺が姉ちゃんを守る。
約束するよ。
だって、俺は――
姉ちゃんの、弟だから。
♪♪
私の視界が、目の前に居る人物を捉えた。
彼は責任感が強くて、優しい子で――
一番、この場に来て欲しくなかった人。
「拓也……!」
私の喉から乾いた叫び声が、力なく漏れ出す。
――途端、すぐ傍で私に拳銃を突きつけている男が慌てたような声をあげた。
「お、お前っ……! 何のつもりだっ……!」
こちらに向かってくる彼の腕に抱えられているのは、近くにあった木製のイス。
彼は叫び声をあげながら、こちらに向かってくる。
「とっ、止まれ……! とと、止まらないと、撃つぞ!」
男の表情は見えないが、頭部に突き付けられた拳銃ごしに、男の動揺が伝わってくる。
男はその身体を震わせながら、精一杯の威勢を込めた叫び声を上げた。
が、拓也がその声に耳を傾けることはなく、彼との距離はみるみるうちに縮まっていく。
(お願いだから逃げて、拓也……! 拓也まで巻き込まれたら、私……!)
道連れに銃で撃たれて殺されてしまう弟の姿が、一瞬、私の脳裏をかすめた。
私の全身に、危険信号が鳴り響く。
『さあ、早く』
耳元で、あの「声」が響き渡る。
そ……そうだ……。
《この力は、きっと、誰かを守るためにあるんだ》
《だから……友達を、大切な人を守るために、私は力を使おう》
私が、やらなくちゃ。
《この前私、決めたからね。――大切なものは私が守るんだって》
《だからこれからは、私が弟を支えていきたいと思うんだ。どんな形であっても。……あの子はいつも私のことを支えてくれたから》
私が、弟を守らなくちゃ。
《私だって、――大切なものを守ることができる力を、持っているんだ》
この人を殺して、私は大切なものを――弟を、守るんだ。
叫び声を上げながらこちらへ向かってくる拓也との距離が、少しずつ縮まっていく。
私は――
「うあぁぁぁぁ!!」
「と、止まれって言ってるだろ! し、しし、死にたいのかっ!」
(早く、この人を――)
――5m。
「う、撃つぞ! いい、良いのかよ!!」
(この人の――)
――3m。
「とと、止まれぇぇっっ!!」
「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
(この人の、目を――)
――2m。
目前、拓也は腕に抱えたそのイスを力強く振り上げ――、
私は思わず、頭上を通過するイスを見上げる。
頭上を、まるで時が止まったかのようにゆっくりとイスが通過していき――
『そう、それでいいのよ』
耳元で、満足そうに微笑む「声」が聞こえた。
ついに、私の視界が男の表情を捉えた――しかし、その瞬間、私の背筋に凍りつくような戦慄が走り、――
……1m。
その瞬間、店中にパン、と乾いた銃声が響き渡った。
「な……」
目の前に広がる光景に目を凝らす。
信じがたい光景に、一瞬、今までのことはすべて夢だったのではないかという錯覚に陥りそうになった。
とんでもない、悪夢だったのではないかと――。
「……拓也……?」
私の口から、弱々しくかすれた声が出ていく。
拓也はイスを掴んだまま、床に倒れた。
「な……」
拓也の身体から静かに、真っ赤な血が広がっていき――――――――
その瞬間、私は言葉を失った。
☆★☆
頭のどこか遠くの方で、人々の悲鳴が聞こえてくる。
〈あはひゃはひゃひゃはひゃ!! おっ、俺はぁっ、生きているっ。いき、生きているぞぉお!!!〉
拓也を撃ったことで錯乱した男は、狂ったように叫びながら、その手に所持した銃を乱射する。
無作為に発砲される銃弾になすすべもなく、人質にとられた客のうち数名がその命を落とした。
〈は、話が違うじゃないか、お前! 客殺すなんて聞いてなっ……〉
強盗に入った仲間の男のうちの一人が彼を制止しようとするも、その言葉は彼の放った銃弾によって絶たれることとなった。
錯乱した彼を止める手立てはもはや残されておらず、人々はただ恐怖に震え祈ることしかできなかった。
人々の叫び声が、頭のどこか遠くで響いている。
まるで戦場と化した店内で、私はとっさに弟のもとへと駆け寄った。
腹部から大量の血を流しながら、弟はかろうじて意識を保っていた。
言葉を失った私は、彼の傍でうずくまり……ただ涙を流していることしかできなかった。
守れなかった。
私のせいだ。私の――
握った彼の手の温もりが、私の手の中で少しずつ失われていく。
私の姿を見ると、彼は安心したように顔の表情を緩めた。
「姉……ちゃん……」
彼は私を見つめ――最後の力を振り絞るようにして、ゆっくりと微笑む。
すると、彼の私の手を握る力に一瞬だけ、僅かに力が込もり――
「……無事で……良かっ……た」
涙を流す私の傍らで、
拓也は切なげに微笑みながら、
――最期の言葉を告げた。
拓也は静かに目を閉じ、
静かに、彼の呼吸が止まる。
私の手を握る彼の手から、完全に力が失われる。
その瞬間、私に絶望的な事実が襲いかかった。
「拓也……!」
これは夢などではなく、
虚構に形作られた悪夢などではなく、
うなされる程に息苦しい現実なのだと。
――嘘、だよね?
嘘なんでしょ、拓也?
嘘だって言ってよ……
ねえ、拓也……!
こんなの嫌だよ……。
死んじゃやだ、拓也……!
起きて、お願い……
お願いだから……
お願い……目を覚まして……。
〈あひゃひゃっ! 生きているぅっ! ひゃっはぁっはひゃひゃひゃ!!!〉
銃を乱射する男の、狂気に満ちた叫び声。
〈神様……どうかお助けください……!〉
〈ママー、怖いよー〉
〈大丈夫よ、ママがついてるからね……〉
無作為に放たれる銃弾に怯える人々の、悲痛な叫び声。
ファミレス内はもはや狂気と恐怖とに包みこまれ、
人々は泣きながら身を寄せ合い、この絶望的な状況が終わることを祈るしかなかった。
「拓也っ……」
冷たくなって動かなくなった弟を抱きしめながら、私は声をあげて泣いた。
涙が溢れて溢れて、止まらない。
「ごめんね……拓也……っ」
結局、私は何もできなかった。
もっと早く、あの人を殺していれば。
私は、大切なものを――弟を守れなかった。
全部、全部、私のせいだ。
私が臆病なせいで、拓也は――。
私の大切な家族は――!
いつ死ぬかも分からないという恐怖の中、人質にとられた人々の心理状態は既に極限にまで達していた。
このまま状況が停滞するかと思われたその時――
店内を包みこんでいた張りつめた空気は、突如として現れた他者の介入によって破られることとなった。
私達の居るファミレスに、警察が駆け付けたのだ。
〈お……おい、何でサツが……! 見張りの奴らはどうしたんだよ!!〉
〈サツが来てるってことは捕まっちまったってことだろーが、畜生!〉
〈落ち着け、お前ら……今はとにかく、俺達があいつに殺されることはなくて済んだってことだろ〉
拳銃を所持していない仲間の男達は、冷静な判断を見失った彼に殺されないようにと、イスの下に隠れてひそかに話し合っていた。
彼らはもはや自分達にとっても凶器となった彼をどうすることもできず、ただただ身を隠していることしかできなかったのである。
武装した警官たちは次々と店内に入り込んでいき、武装していない男達はもとより、銃を乱射していた男でさえもあっさりと取り押さえた。
それは実に迅速で、死を感じ絶望に包まれていた人々にとって、まるで救世主が現れたかのように思われた。
警察は人質に捕られていた人々を保護し――そして、私の元に一人の女性警官が駆けつけ、憐憫の情に満ちた声でこう言うのだ。
「可哀想に……。もう大丈夫だからね。一緒について来て」
女性警官はそう言うと、私に手を差し伸べる。
抜け殻のようになった私は、その警官に連れられファミレスを後にした。
未だに弟の死という現実を受け入れられぬまま――
☆★☆
〈怖かったでしょう……もう平気よ、心配しなくて大丈夫〉
今私に声を掛けているのは、誰……?
それに、向こうから誰かが出てくる……あれは……。
〈ほら、早く歩け〉
〈……〉
あれは、強盗の……。
〈モタモタするな、ちゃんとまっすぐ歩け〉
〈……〉
拓也を……殺した男……。
男が私の前を通り過ぎる瞬間――
その男はチラリと私の方を見やり――おそらく私以外の誰にも気づかれない程短い時間――男が、私に視線を向けながら浮かべた表情に、私は全身に震えが走るのを感じた。
私が男と目を合わせていた時間――それはとても短い時間ではあったが、私に底冷えのするような感覚を植え付けるには十分だった。
まるで私の心の奥底まで全てを見透かしているかのような、血も凍る程の冷ややかな嘲笑。
私はその表情を覚えていた。
「あ……ああ……」
忘れることはない。
あの時、拓也がイスを振り上げた瞬間――
男は震えながら、
怯えたような声を発していながら、
――同じ表情を浮かべていたのだ。
人を見下すような冷笑。何かを嘲笑うかのような口元。
それはとても錯乱していた人間の浮かべる表情とは思えない程に、冷静で――残酷な表情だった。
おそらく彼の心中には、「恐れ」などなかったのだ。
仲間を含めた、複数の人間を無差別に殺害する行為。
この人間に、殺害の「目的」も、殺害に伴った「恐れ」も、存在するはずがなかったのだ。
何故なら、この男は――
他人の大切なものを奪うことに、「悦び」を感じていたのだから。
そのことに気がついた瞬間、私の脳内で、鮮やかな映像が映し出された――