第10話 それぞれの
――翌朝。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、拓也。気をつけるのよー」
母親に送り出され、俺はいつも通り学校へ向かって家を出る。
しかし俺の頭の中から、昨日出会った女性のことが離れることはなかった。
(本当に、綺麗な人だった……)
美しい佇まいからは気品があふれ出し、その言葉遣いや表情からは彼女の優しさが手に取るように分かる。
何というか、まさに「完璧な人」だった。
(あの人と、もう一度会えないだろうか)
そう考えながら、俺はぼんやりと空を見つめたまま学校の中へ入っていった。
教室の中、俺は自分の席に座り、机に肘をついて相変わらずぼんやりと考え事をしていた。
(というか、金髪碧眼って――どう見ても外国人だよな。日本語めっちゃ上手かったけど)
(そもそも、どうしてあんなところに居たんだろう……。観光――な訳ないよな、さすがに)
俺は自分の考えにハハ、と笑いながら、再び頭の中にあの女性を映し出す。
(またどっかで会えないかなあ……)
そんなことを考えながらぼんやりと宙を見つめていると、俺が気づかない間に、隣の席の女子が不思議そうに声を掛けてきていたようだった。
「ねえ、どうしたの、拓也君? 目が明後日の方向だよ? 蒲田拓也君」
しかし、彼女の呼びかけに応じなかったせいか、彼女は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「そういうリアルしかとって結構傷ついちゃうんだけどなあー。ねえ、拓也君ってば!」
彼女が俺の右肩を揺らすので、俺はその時点でようやく、隣の席の女子がこちらに話しかけているということに気がついた。
「ん? ああ、ごめん。何、どうしたの?」
「どうしたの? って、こっちがどうしたの、って感じなんだけど」
彼女はハア、とため息をつきながら俺をジトリと見つめる。
「今日来てからずっとその調子だよ、拓也君。……ずーっとぼんやりしてて、心ここに非ずって感じ」
「そ……そうか?」
「そうだよ」
そう言うと、彼女はうつむきながら言った。
「お姉さんに、話は聞けたの?」
「…………」
――そうだった。
結局昨日、姉ちゃんとは直接話せていない。
姉ちゃんの様子を直接見て知ることはできたけれど……それだけじゃ意味がない。
姉ちゃんから直接話を聞いて、それからなのに……
「まだ、聞いてない」
「……そう」
結局逃げたんだ。
また、姉ちゃんと関わることから逃げてしまったんだ。
昨日出会ったあの女性のことを考えて――結局俺は、姉ちゃんのことを考えることから逃げていた。
「話、ちゃんと聞いてあげなよ」
彼女はそう言うと、悲しそうな表情を浮かべた。
「きっと……本当はさ、拓也君が声掛けてくれるの待ってるんじゃないかな」
「…………」
そうだよな……いつまでもこのままじゃダメだ。
俺が姉ちゃんを救えるなら……。
「そうだよな。ありがとう……いつも、相談に乗ってくれて」
「……え?」
彼女は一瞬目を見開いたが、
「そんな……いいよ、別に」と言うと、小さく微笑んだ。
帰ったら、ちゃんと姉ちゃんに話を聞こう。
あの日何があったのかも、……今、何を抱えてるのかも。
「ねえ……あのさ」
彼女がうつむきながら、小さな声で呟く。
「何?」と返すと、彼女は口どもりながらゆっくりと言葉をつないだ。
「拓也君ってさ……一度も私の名前呼んだことないよね」
「……そうか? まあ、確かにないかもな」
「べっ、別に、名前で呼んでほしいとかそういうんじゃなくて、名字でも名前でもあだ名でもなんでも構わないんだけど! ……ほら、あれでしょ、いつも『ねえ』とか『おい』とかでしょ? それだとちょっとあれだなー、なんて」
じゃあ、何て呼べば良いんだよ。
珍しく彼女が慌てているので俺は首を傾げたが、彼女が顔を真っ赤にしているのを見て思わず苦笑する。
「とにかく、感謝してるからさ。……ありがとう」
「なっ……」
俺が隣の席の彼女に微笑むと、彼女はさらに顔を赤くしてうつむいた。
よく分からない奴だな、と思った。
☆★☆
昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、生徒たちは一斉に伸びをし始めた。
「やっと授業が終わったー! あー、疲れた疲れた」
わざとらしく首をこきこきと鳴らしながら、花が後ろの席から私にだれてきた。
花は私の肩からだらりと両腕を垂らすと、私に話しかける。
「それにしても今日は未玖の独り言が多すぎて集中できなかったなあ~」
そう言うと、花は意地悪そうにニヤリと笑った。
「ごめん……やっぱりうるさかったよね……」
「はは、本当だよー。てかてか、何、誰と話してんのー?」
だって、今日はやたらとミタが話しかけてきたんだもん……途中から筆談じゃ追いつかなかったし。
「ねえねえ、聞いてるー? 未玖ー」
大体、ミタが私の勉強邪魔してるんじゃない? そうだよ、あんなに偉そうに言ってたけど、ミタのせいじゃん。
「おーい、未玖~。……あ、ダメだ、全然聞こえてないわ」
私がミタを睨むと、ミタは決まりが悪そうに愛想笑いを浮かべていた。
「あ、満咲、永美! え、お昼? 良いんだけど、今ちょっと未玖が誰かと交信中みたいでさ」
ミタがもう少し授業中我慢してくれれば、私だって集中できるのに……。
「そうなの、花? それは一大事じゃない」
永美はそう言うと、私の顔の前で勢いよく両手をたたいた。
パン、と乾いた音が教室内に響き渡り、私は突然現れた目の前の手を見つめる。
「え……永美……」
「あら、おかえり、未玖」
永美はにっこりと微笑み、机に荷物を置いた。
「まあまあ、随分すごい音響かせたねー永美。ストレスでも溜まってんの?」
花がけらけらと笑いながら永美の顔を覗く。すると、永美は肩をこきこきと鳴らしながら、「もうすぐ模試があるからかしら」と言って近くの席に着いた。
そっかあ。永美は受験のために今からそんなに勉強してるんだ。
すごいなあ……やっぱり、私なんかとは全然違うや……。
永美はクラスの中でも頭が良くてしっかりしていて、いわゆる優等生。
その上顔も良くてスポーツもできる……なんていうものだから、憧れる生徒も数多くいる。
事実、私もその中の一人だ。
(神様は二物も三物も与えるんだなあ……まあ、その分私は何もないのかもしれないけど)
私は力なくハア、とため息をつきながら机の向きを三人と合わせる。
それから私達は、しばらくの間談笑していた。
けど、私だって。
私だって、――大切なものを守ることができる力を、持っているんだ。
☆★☆
放課後の教室にて、ミタは尚も気になって仕方がなかった。
昨日から感じている、妙な気配。彼に警戒心こそ抱かせはしないものの、何だか気になって仕方がないのだ。
(この近くに感じるんだよな……あいつの気配とは違う、何だか懐かしい気配が……)
ミタは先程からあたりを見回してはいるものの、それらしい人物の姿は見当たらない。
(単なる気のせい、ってわけじゃないよな……)
「どうしたの、ミタ。何だか……そわそわしてるけど」
未玖がミタに問いかけると、ミタは意を決したように言った。
「……俺、ちょっと散歩してくる」
「え?」
「大丈夫、すぐ戻ってくるから!」
そう言うと、ミタは教室の窓から勢いよく飛び出ていった。
突然の出来事に一瞬茫然とした未玖だったが――
「そっか……また、行っちゃうんだ」
もう無茶はしないでって、言ったのに。
何もかもひとりで抱え込もうとする彼は、その苦しみが他人にまで及んでしまうことを、決してよしとしない。
……だから、いつも他人に頼ろうとしないのだ。
私はうつむきながら、自嘲するように小さく呟いた。
「所詮……私は『人間A』ってことなんだね」
☆★☆
帰り道、俺はいつもの通学路を歩いていた。
(そう言えば、昨日はここら辺で会ったんだよなあ……あの女性に)
――もしかしたら、また同じ場所で会ったりして。
まさかな。そんな映画みたいに都合のいいこと、ある訳な……。
しかしそのとき、俺の目に映ったのは、以前出会ったあの金髪の女性だった――。
「う……嘘だろ……? まじかよ、奇跡かよ……!」
俺は目の前の女性に驚きつつ、願って止まなかったあの完璧な女性に再びこうして出会えたことに感動していた。
俺が声を掛けようとしていると、女性は俺に気がついたのかこちらに向かってにっこりと微笑む。
俺は吸い寄せられるようにしてその女性の元へと向かった。
「あら、こんにちは。……以前はどうもすみませんでした」
そう言うと、女性は以前と同様、丁寧に頭を下げた。
「い、いえ……。あの、俺、蒲田拓也って言います。あの、あなたは……宜しければお名前を……」
俺が女性に尋ねると、彼女は優しく微笑み、彼女を取り巻く光がさらに輝きを増したかのように見え――というか、実際に眩しい光が俺を包みこんだような気がした。
俺は一瞬ぼんやりとしてから、突如ハッと我に返り小さく首を傾げた。
(おかしいな……俺、今何か聞こうとしてたんだけど……何て聞いたんだっけ)
だが、そんな小さな疑問を解決するより、今の俺を支配していたのは目の前にいる女性にとにかく話しかけようという使命感の方だった。
「あ……あの……明日、またこの時間にここで会えませんか?」
俺が意を決したように言うと、女性はにっこりと微笑む。
「ええ、良いですよ。……あの、私実はこのあたりは初めてで、迷ってしまって……。宜しければ、案内して下さいませんか?」
「もちろん、良いですけど……いいんですか、こんな小さな街を案内しても」
まさか、観光って訳じゃないだろうしな……。
俺が疑問に思っていると、女性は笑いながら答えた。
「はい……来てみたかったんですよ、この場所」
そう言ってにっこりと微笑む彼女の表情に、俺は思わずうっとりと見惚れてしまった。
☆★☆
夕食後、私は自分の部屋に入るなり、ベッドに潜り込んだ。
《……俺、ちょっと散歩してくる》
《大丈夫、すぐ戻ってくるから!》
また出ていくんだね、ミタ。
《君を監視してるってことにしておけば、仕事サボってもオッケーじゃん? はは、俺って天才》
《ってことで、今日から宜しく》
最初は私に一生憑くとか言ってたくせに……いつも、どっか行っちゃうんだから。
私が彼の力を奪ってしまった。
私が苦しいとき、彼は私を支えてくれた。
私はミタを頼った。なのに、ミタは私を頼ってくれないんだ。
ミタは私にとって大切な存在。
でも彼にとって私は――死神にとって私は、ただの「人間A」に過ぎないんだ。
《冗談だよ馬鹿。俺だってこう見えて、君に死なれたら寝覚めが悪いんだよ》
嘘つき。
《ほら、帰るぞ。君の家に》
嘘つき、嘘つき。
本当は私なんて、どうでもいいくせに。
ふいに、目から涙がこぼれ落ちた。
声を上げて泣いたのは久しぶりだ。
結局、彼にとって私は……ただの数いる人間のうちの一人にしか過ぎないのだろう。
彼の力を奪ってしまった、迷惑な人間にしか過ぎないのだろう。
結局、私には彼の考えていることは分からない。
彼が私を頼ろうとしない以上、彼の考えていることなんて、分かるはずがなかった。
私が涙を拭うと、しばらくして窓の外から声が聞こえた。
――ミタの声だ。
「ごめん、未玖……また、遅くなっちゃって」
「……ううん、待ってたから」
私は窓を開け、彼を部屋の中へ入れる。
彼は「ありがとう」と言って優しく微笑んだ。
嘘つき。
私のことなんて、どうでもいいくせに。
そんな優しい顔で「ありがとう」なんて、言わないでよ……。
私は胸が締め付けられるような思いがしたが、何とかぎこちない愛想笑いを浮かべる。
すると、ミタはいつものイスに座り、いつものように手足を広げて大きく伸びをした。
「んじゃあ、未玖の勉強でも教えてあげようかな」
「はは……何言ってるの、ミタ。ミタには無理でしょ」
私は頬を緩ませた。やっぱり、これがいつもの会話だ。
私は今まで感じていたモヤモヤしていたものをとりあえず心の奥に押しやり、笑顔を浮かべた。
精一杯の、笑顔を。
「俺だって今日の授業は理解できたよ? 未玖は忙しそうだったけど」
――それは貴方のせいですよね?
とは言わず、私は一際大きなため息をつくことにした。
心の中に溜まっている感情をため息と一緒に押し出すようにして。悲しみも、苦しみも、全てをはき出すように。
そして、いつもの笑顔を表情に貼り付ける。
精一杯の、笑顔を。
「ていうか、ミタはいつもそのコートだね。前から思ってたけど、やっぱり死神は皆そのコートなの?」
私が尋ねると、ミタは苦笑しながら答えた。
「うん……そうだよ。これが死神の装束みたいなものだから」
「へえ……」
はは、やっぱりそうなんだ。うわー、夏とか暑そうだなあ。
私が思わず苦笑いを浮かべていると、ミタは笑いながら言った。
「この服を考えたのはずっと前の『あの人』らしいからね。いや本当、ああいう人ってセンスがないんだね」
――ん? やっぱり、「ずっと前の『あの人』」ってどういうことだろう。
ていうか、神様にそんなこと言ったらバチが当たるんじゃ……。
昨日同じような台詞を吐いた当の私がミタの心配をしていると、ミタは「大丈夫大丈夫」と言ってケラケラと笑った。
(何か……神様って威厳ないのかなあ)
以前からミタに聞く話からは一向に感じられない「あの方」の威厳だったが、本当にこんなものなのだろうかと考えると何だか脱力してしまう。あ、でもこの前は「見た目だけはいい」とか言ってたような言ってなかったような。うーん。
私が「あの方」についていろいろな構想を立てていると――突如、ドアノブがガチャリと音を立てた。
(――誰……!)
直前までミタと会話していたこともあってか、私は自分の家であるにもかかわらずとっさに警戒態勢を敷き、ドアの方向を凝視する。
すると、部屋のドアがゆっくりと開き――ドアの隙間から現れた人影が私の視界に映る。
(あれ……こんな時間にどうしたんだろう?)
しかし、彼の発した一言によって、一瞬にして部屋の空気が凍りついた。
「姉ちゃん……誰と話してるの……?」