第9話 金髪の女性
目の前でにっこりと微笑むその女性の姿に、俺は思わず口が半開きになる。
「あ……」
キラキラと金色に輝く長髪が揺れ、その頬はこの世のものをすべて包み込むかのような優しい微笑みを湛えている。
ガラスのような透き通った青い瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
既に日も落ち、街灯がぼんやりとつき始めた街を照らし出すように、彼女から眩しい光が溢れ出しているように感じた。
そう、まるで彼女は――女神のようだった。
「あの……大丈夫……でしたか……?」
女性の声ではっと我に返ると、自分が思わず見とれてしまっていたということに気がつき、焦りを感じる。
それを誤魔化すようにして、俺は頭を掻きながら小さく笑った。
「す、すみません、俺がぼーっとしてたせいですから」
「い、いえ……私のせいです、ごめんなさい」
彼女はそう言うと、俺に向かってぺこりと頭を下げた。
金糸のように輝くその長髪が、肩からさらさらと落ちていく。
(綺麗な人……同じ人間とは思えないほど……)
思わずその女性に目が釘付けになりながら、俺は言葉を失った。
彼女と別れた後も、しばらく俺は、その場で彼女の後ろ姿を眺めていることしかできなかった。
☆★☆
「はあ~、疲れた」
私は家に着くと、教科書やら体操着やらを詰め込んだ重たいカバンを床に下ろし、とりあえずリビングのソファーに横になった。
「ていうか、何でこんなに持って帰ってきたんだよ……どうせこんなに勉強しないだろ?」
「そっ、そんなことないもん……教科書があれば、気分だけでも『勉強しよう』って気になれるでしょ」
「君には無理だと思うけどね」
「なっ……」
相変わらず私をからかうミタだが、確かにその通りだったので思わず口どもってしまう。
夏休み中は提出義務のある宿題に追われっぱなしだったのだが、いざ「義務」がなくなってみると、私の中で一気に勉強をやる気が消沈してしまっていたのだ。
「い……いいよ? 今日はちゃんとやるもん、勉強。……いつかすっごい頭良くなって、ミタを見返してやるんだから」
「はは、笑顔がひきつってるよ、未玖」
私達がソファーであれこれ言い合っていると、玄関のドアが開く音と共に聞き慣れた声が聞こえてきた。
玄関から入ってきた彼はリビングのドアを開けると、ぼーっとした表情のままゆっくりと歩いていく。
「拓也……?」
弟の明らかに違和感のある様子に思わず彼を凝視してしまう私達だったが、彼は私達の近くまで来ると、ふいにぼそりと呟いた。
「……綺麗な人だった」
――え?
私が聞き返す前に、拓也は虚ろな目つきのままふらふらと階段を上がっていく。
リビングに残された私達はしばらくの間互いに言葉を出せずにいたが、しばらくしてミタがゆっくりと口を開いた。
「……何かおかしかったね……君の弟」
「う……うん……」
いや、本当にどうしたんだろう。……何があったのかな。
私とミタはしばらく顔を見合わせていたが、さして気にすることもせず、再び次の話題へと移った。
☆★☆
夕食の間。
私は未だに箸をつけずぼーっとしている拓也を見て、声を掛ける。
「拓也、どうしたの? ご飯冷めちゃうよ」
私が拓也の顔を覗き込むと、拓也はふいに頬を緩め、遠くを見つめたまま呟いた。
「優しい人だったなあ……」
――はい?
「あ、いや……何でもねーよ、姉ちゃん」
拓也は小さくハハ、と笑うと、今まで手をつけていなかった食事をハイペースで口の中へ運ぶ。
「……変なの」
私は首を傾げつつ、再び夕食に箸を伸ばした。
私達が黙々と夕食をとっている間、ミタは窓際で一人、外を眺めていた。
「何だか妙な気配がするな……」
すっかり暗くなった空を眺めながら、ミタは目を閉じ、妙な感覚の原因を探る。
が、理由が掴めない。
「気のせい、か……」
窓ガラスに手を置くと、ミタは静かにため息をついた。
すっかり冷たくなったガラスの冷気が彼の掌に伝わっていく。
彼は遠くの星空を眺め、小さく呟いた。
「何だろうな……この懐かしい感覚は」
☆★☆
就寝前、私が自分の部屋に戻ると、既に部屋の中で待機していたミタが私に尋ねてきた。
「で、拓也君は何て言ってたの」
彼が私のイスに座りながら腕を組むのを見て、「もう完全にミタのイスになったなぁ」などと思いつつ、ため息をついた。
「全然。何も言ってなかった」
「へえー」
確かにおかしい。明らかにおかしい。
あの様子……一体何を考えているんだろう。
「君はそんな弟が心配ってわけだ」
「……」
「生意気とか言ってたけど、確かに良い子だもんねー。仲良い姉弟じゃん、二人とも」
確かに、普段の拓也は生意気で、素直じゃないけど……
昔からいつも、私が困っているとき助けてくれたのは拓也だった。
本人がどう思ってるかは知らないけど、拓也はいつも不器用な私を支えてくれた。
私が元カレに殺されかけた「あの日」も――拓也が傍にいただけで、何だか少し救われたような気がしてた。
拓也は何も言わないけど、いつも私の心の支えになってくれた。
「……昔から、私が不安なときに黙って傍に居てくれたんだよね」
その支えがあったから、私はここまで来られたのだろう。
「拓也が居てくれるだけで、私は救われてた」
だから、私は今笑っていられるのだろう。
「何だかんだ言って、あの子は良い子だから」
私にとってかけがえのない存在なのだ。
「――だから、私の大切な弟なの」
私が照れながら微笑むと、ミタは「そっか」と言って小さく笑った。
「ていうか話変わるけどさ、結局未玖は今日勉強しなかったよね」
――え。
今、良い話してたよね。してたよね? 雰囲気ぶち壊しだよ、ミタ?
「な……何のことかな」
私は内心慌てるのを必死で隠そうと、ぎこちない笑みを貼り付ける。
「いや、何か気になっちゃって……だってさっきはあんなに『今日は絶対やる』とか言ってたのに、どうして……」
「あっ、いや、それは、その……ねえ……はは」
――あー、耳が痛いです。もう私が悪かったですから、この話やめましょうよ。
「未玖……このままじゃ成績どんどん落ち込んでくよ?」
ミタはハア、とため息をつくと、机の上に積み上げられた私の教科書に目をやる。
「ていうか……授業中はミタが邪魔してくるじゃん」
「……!」
ミタは一瞬ギクり、と顔の表情を硬直させたが、すぐに表情を戻して笑いながら言った。
「わかったわかった、じゃあ俺が勉強教えてあげるから」
えー。そんなのより授業中集中した方が絶対良いと思うんだけど……。
ていうか、ミタは勉強できるんですか。見た目は私よりちょっとだけ大人っぽく見えなくもないけど……
「何だよ、その疑いの目は。俺だって一応ちゃんと勉強してたよ? ……多分」
「多分、て」
「だってしょうがないだろ、人間だった頃の記憶がないんだから」
そう言うと、ミタはふてくされたようにイスに寄り掛かった。
――ミタが人間だった頃、か……。
そう言えば昔言ってたね。死神になる前は人間だったって……。
「ねえ、何でミタって名前ミタなの?」
「……え?」
突然の質問に一瞬驚いたミタだったが、しばらくして彼は笑いながら答えた。
「何でって言われても……それが『あの人』につけられた名前だったから」
へえ……じゃあ、「あの方」につけてもらうんだ、名前。
それにしても、こんなこと言ったらバチが当たっちゃうかもしれないけど、その、ネーミングのセンスなさ過ぎでは……。
何か、「家政婦の〇タ」のパクリみたいだよ。
「でも、何で『ミタ』なんだろうね」
私が笑いながら尋ねると、ミタは照れながら「俺だって知らないよ」と答えた。
「でもまあ、皆こんな感じの名前ばっかだな。セルとかタマとか」
何だか……ネコの名前みたいだなあ。
「タコとか、カミとか」
うわぁ、嫌だなあ、そんな名前。あれ、ちょっと待てよ。「カミ」って良いのか、「カミ」って。
ミタの話を聞きながら、私は苦笑いを浮かべ、思っていたことを正直に告げた。
「何か、その……あれだよね、えと……センスない、よね」
私が口どもりながら呟くと、ミタは苦笑しながら言った。
「…………まあ一応、ずっと前の『あの人』が作った由緒正しい命名法に則ってるらしいから」
え。何その「由緒正しい命名法」って。
それに、「ずっと前の」って何だろ。「ずっと前に」じゃないんだ。
私が首を傾げていると、ミタはふと小さく微笑みながら呟いた。
「でもさ……俺は『あの人』がつけてくれたこの名前、嫌いじゃないよ」
そう言うと、ミタは遠くを見つめるように懐かしそうな表情を浮かべる。
私はミタの言葉に驚きつつ、彼に尋ねた。
「……生きてた頃の名前は覚えてないの?」
私の言葉にミタは少し黙っていたが、
「……覚えてないな」と呟くと、少し寂しそうにして笑った。
「そっか」
やっぱり、忘れちゃうんだ。
そりゃそっか。一回死ぬってことだもんね。
私は少し寂しいような気持ちになりながら、「あーあ、疲れた」と言ってベッドに横になった。
私も、いつか死神になるのだろうか。
名前をもらって、その真っ黒なコートを着て……いや、私が死んだら、死神じゃなくて別のものになるのかもしれないけれど。
いつか死んでしまうとしたら、私の傍にミタはいるのだろうか。
私はちゃんと長生きして、大切な人を守って死ねるだろうか。
そんなことを考えながら、その日の夜は更けていった。