第8話 蒲田拓也
翌週、月曜日――朝。
制服の袖に腕を通し、母親の作った朝食を口に入れ、家を出る。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。気をつけるのよー」
どこにでもある、ありふれた朝のひとコマである。
登校中の私はいたって平凡な女子高生であり、その姿は9月上旬の秋めく景色にすっかり溶け込んでいる。
あれからしばらくの間、ミタは私から離れることはなかった。
結局何故私から離れていたのか未だに聞き出すことはできずにいたが、ミタが傍にいるという「当たり前」が戻ってきたような気がして、私は何となく安堵していたのだ。
(何か、いつもの生活って感じだなあ)
おそらく、他人が「死神が憑いている」というこの異常な光景を目の当たりにすれば、私のたった今の心中思惟を不気味に思うかもしれないが、既に私の「日常」の一部と化したミタは、今日も私の傍に憑いていた。
最初はどうなるかと思ったが、最近ではこの力を使うようなことはないし、何だかうまくやっていけそうな気がする。
それに、ミタも私の元に戻って来たのだ。
このまま、きっと平穏な日常を送ることができる――そんな根拠のない自信を胸に、私はまっすぐ前を見つめた。
(きっと、神様が私に味方してくれてるのかもしれない)
ミタから聞いた話の、変わった気さくな神様を想像しながら、私は思わずクスリとする。
するとその時、突然背後から誰かに肩を叩かれた。
(……ミタ?)
振り返ると、そこに立っていたのはミタと、見覚えのある――ここに居るにはずのない少年。
「拓也? ……え、何でこんなところに」
私より少し背の高い、二つ下の弟。
焦げ茶色の髪の毛に、黒い瞳。運動部らしく引き締まった身体の彼は、中学生にしては少し大人びた雰囲気を漂わせながら、私をジッと見つめてただ黙っていた。
しかし。私の通う高校とは方角的に反対側に位置する中学に通う拓也が、何故こんなところにいるのだろう。
「あのさ、未玖……この子、君の弟だよね? ……本当に、君の『弟』なんだよね?」
ミタが拓也を見ながら、私に不思議そうな顔で尋ねる。
私はとりあえず、拓也の目を盗んでミタに小声でこたえた。
「そうだけど……それがどうかしたの?」
ミタは「そっか」と言いながら頷き、意地の悪そうな顔を浮かべて言った。
「え、だって、君より大人っぽいししっかりしてそうに見えるからさ」
――悪かったですね。子供っぽくてしっかりしてない姉で。
「毎日仕事をサボっているミタには言われたくないなあ」
「なっ」
「……姉ちゃん?」
拓也が怪訝そうに私を見つめる。私は弟のことをすっかり忘れていたことに気がつき、それを悟られまいと、苦し紛れに笑いながら返事を返した。
「姉ちゃん……これ、弁当。母さんが渡すの忘れてたんだって」
「お弁当?」
おもむろに差し出された弁当袋を見て、私は自分の持っているカバンの中に弁当が入っていなかったことに気づく。
(そっか。わざわざここまで届けてくれたんだ)
私は生意気ながらも気遣いのできる弟に感謝しつつ、本日の昼食でひもじい思いをせずに済んだことに安堵した。
「ありがとね」
私が拓也に礼を告げると、拓也は無愛想に頷いてから私とは反対方向へ歩いていった。
「優しい弟だねー、未玖」
ミタがからかうように私に言う。
「わざわざ届けてくれるなんて……普段はそういう子じゃないんだけど」
私は珍しいこともあるものだ、と思いつつ、弟から手渡された自分の弁当袋をカバンの中にしまい、学校へ向かって歩き出した。
☆★☆
いつもより少し遅れて教室に着くと、俺は自分の席につき、深いため息を漏らした。
そんな俺に、隣の席の女子が笑いながら声を掛ける。
「はは、何かお疲れだねー」
「……まあな」
俺は再びハア、とため息をつくと、机に肘をつき、先程の出来事を思い返した。
やっぱりおかしいよな……姉ちゃん。
前から気になってはいたけれど、やっぱりおかしい。
最近、姉ちゃんは独り言が多すぎる。
いや、姉ちゃんの明らかな異変に気がつき始めたのがついこの間だっただけで、本当はもっと前から……姉ちゃんの様子はおかしかった。
あの日……姉ちゃんが全身雨でびしょ濡れになって帰ってきた、あの日から――。
「そっか。やっぱりお姉さんの様子、変だったんだ」
「な……」
俺まだ、何も言ってないぞ。
「そうなんでしょ。だって顔に書いてあるもん、蒲田拓也君?」
フルネームで呼ぶなよ……。
彼女はニヤリと笑いながら、楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。
意地悪そうな笑みを浮かべる彼女のポニーテールが、ぴょんぴょんと跳ねる。
コイツは最近、よく姉の様子を心配していた俺の相談に乗ってくれているのだが……。
俺は「まあ、そんなとこだけど」と返すと、机に頬杖をつき、本日三度目のため息をこぼした。
「ねえ、そんなにため息ついてると幸せが逃げてくよー?」
隣で楽しそうに笑う彼女に、俺は小さく呟いた。
「幸せ……か」
姉ちゃんは、幸せなんだろうか。
俺は再び、自分の姉についての思考を巡らせた。
最近、やたらと部屋から独り言が聞こえてくるので、さすがに不審に思い、先日ドアの隙間から彼女の部屋を覗いてみたのだ。
が、心配していた姉の様子は――
「それって……つまり、お姉さんが誰かと話してるみたいだったってこと?」
彼女の言葉に、俺は不安げにコクリと頷く。
「独り言っていうより何だか幻でも見てるみたいで……俺、もしかしたら姉ちゃんが幻影見てるんじゃないかって」
「……ふうん」
姉ちゃんが、そこまで深刻な事態に陥っているとは思っていなかった。
だとしたら姉ちゃんは、きっとあの日からずっと不安を抱えていて……ヤバいところまで来てしまっているのかもしれない。
俺が真剣に姉の心配をしていると、隣で話を聞いていた彼女が笑いながら言った。
「ねえ、それってもしかしたらさ――本当に誰かと話してるとかだったりして」
「……え? どういうことだよ?」
俺が不審な顔を浮かべていると、彼女は真剣な表情で言った。
「だから、お姉さんは……何か見えてるんじゃないかってこと」
「いや、だからきっと幻影が……」
「そうじゃなくて、お姉さんが話してる相手は……」
そう呟くと、彼女は俺の耳元で声のトーンを落として小さく囁いた。
「――この世のものじゃない、何か……」
「……!」
彼女の言わんとする意味を理解し思わず身体を硬直させたが、しばらくすると俺の耳に彼女の笑い声が入り込んできた。
「ってのは冗談だけど」
彼女のケラケラと笑う声に、俺は不満気に眉間にしわを寄せる。
「な、何なんだよ……」
「あれ、てか、拓也君って意外と苦手なんだ~」
「……何が?」
「そういう話!」
そう言うと、彼女はニヤリと笑って俺を見た。
俺は未だに寒気を感じてはいたものの、それを隠すようにぎこちなく口角を上げる。
「にっ、苦手っていうより、あれだ、目で見えない物は信じない主義なんだよ、俺は」
俺は苦し紛れに笑いながら、目の前の彼女から目線をそらした。
そんな俺を見て、彼女は「へえ~」と呟きながらクスリと笑った。
しばらくして教室に担任が入ってきたことで一旦この二人の会話は途切れたが、HR中も彼女は俺を見ながらニヤニヤと笑っていた。
☆★☆
「ハア……」
帰り道、比較的人通りが多い賑やかな街中で、俺は一際重たい空気を漂わせていた。
「大丈夫……じゃないよな、姉ちゃん」
俺は最近の姉の様子について頭を悩ませていた。
姉は、自分のことをあまり人に話そうとしない。
本当は誰よりも打たれ弱いくせに、真っ直ぐで他人より優しい心の持ち主――だから、彼女は自分のことで迷惑をかけまいと、自分の悩みを心の中に封じ込めるのだ。
本当は苦しい筈なのに、彼女はいつもひとりで抱え込んで、他人にはいつもと変わらぬ表情で接する。
その不安を心の奥底に押し込めて、そこに何重もの壁をつくっては、他人に悟られぬようその表情に笑顔をはりつける。
(ずっと近くで見てきたから、俺には分かるんだよ……そんな見え透いた愛想笑い)
姉と弟、嫌でも同じ家の中で過ごしているのだ。
でも、だからこそ、俺は姉のことを嫌な程理解していた。
自分では抱えきれないということを分かっている筈なのに、自分では耐え切れない苦しみだと知っている筈なのに、
彼女はその苦しみが他人にまで及んでしまうことを、決してよしとしない。……だから、他人に頼ろうとしないのだ。
彼女は不安定で、弱くて、それなのに真っ直ぐで、全部自分で抱え込んで……
そんな彼女がもどかしくて、――放って置けなかった。
だが、あの日――全身を雨で濡らして帰ってきたとき、彼女は玄関から入るなり俺にしがみついて、声を上げて泣いていた。
自分のことを隠そうとする姉が。他人に弱みを見せようとしない姉が。
初めて俺に見せた「弱さ」だった。
自分にしがみつく姉の震えた手から、今まで感じたことのない不安が伝わってくるのが分かった。
今までに見たことのない姉の姿に、俺は困惑と同時に恐怖を覚えた。
一体、彼女の身に何が起こったのだろうか……?
その日のことを彼女は一度も話そうとはしなかった。
いつもと違った姉の様子に俺は声をかけることもできず、結局はいつも通り「無関心を装う」ことしかできなかった。
異変には気がついていた――けれど、彼女のことを見るのが怖かった。
いつか壊れてしまうのではないかと恐れていた。
明るい姉が、いつもの姉でなくなってしまうような気がして、怖かった。
結局何もできない自分を直視することが、怖かった。
(結局、俺はずっと逃げているだけじゃないか)
姉を助けてやりたいと思っていながら、いつもと違う姉の様子に何もしてやることができない。
もしかしたら壊れてしまっているかもしれない彼女を、この目で見るのが怖い。
助けたいと願っていた自分が姉を助けられなかったという事実を直視するのが、どうしようもなく怖かった。
そんなとき――心の奥で澱んでいた不安を取り去ってくれたのは、隣の席のクラスメイトだった。
彼女は俺の悩みを真剣に聞いてくれた。
「相談に乗ってあげる」と言うと、彼女は毎日のように話を聞いてくれた。
彼女の言葉はずっと心の奥で溜って消えなかった不安をかき消し、
俺は確かに、彼女の言葉に励まされた。
そしてつい先日、俺は決心した。
その目でしっかり彼女のことを見るということを。
彼女から逃げないということを。
深夜、物音で目覚めた俺が聞いたのは、姉の声。
俺は少しずつ姉の部屋へ近づいていき、ドアの隙間から、その様子を伺った。
姉の様子を見るだけ。簡単なことだ。自分が躊躇しているのが信じられないくらいに。
そして、俺は姉の姿を見た。
心配していた彼女が浮かべていた表情は――――いつものぎこちない、笑顔だった。
以前から聞こえてきた独り言。何かに向けられたその表情。
その瞬間、何に対して? という疑問が頭の中を駆け巡った。
姉ちゃんは、一体誰と話をしているんだ……?
もしかしから、幻影を見ているのかもしれない。
それ程までに彼女が壊れてしまっていたなんて。
それまで、自分は姉に何もできなかっただなんて。
俺は自分の不甲斐なさを悔やんだ。
人通りの絶えない街中で、俺は深いため息をつく。
(もし、姉ちゃんが本当に幻影を見ているんだとしたら、)
うつむく俺を、通りすがる人影が避けていく。
(俺は姉ちゃんを精神科医とかに連れて行くべきなのだろうか?)
人混みの中で、俺はゆっくりと歩を進めた。
自分の中で、いつもの姉が、少しずつ遠のいていく。
彼女の明るい笑顔が、少しずつ、小さな音を立てて崩れ落ちていく。
(そもそも、姉ちゃんが何考えてるのか聞いてみないと……)
そのとき、俺は正面から何かにぶつかったかのような強い衝撃を感じた――。
「すみません……あの、お怪我はありませんか……?」
「あ、は……はい」
完全に思考に没入してしまっていた俺の無防備な頭部に衝撃の余波が残る中、俺は何とか短く言葉を返す。
意識が朦朧とする中、ゆっくりと顔を上げる。すると、そこで見たのは――
「ごめんなさい……私、すっかりぼんやりしてしまっていたみたいで」
優しく微笑む、金髪の女性の姿――。