序章(ロゴあり)
激しく、降りしきる雨が、住宅街をみるみるうちに濡らしていく。
道路の至る所に雨が溜まり、私がその上を走る度、びちゃびちゃと水が跳ねていく。
その後ろから、重々しく足音がこちらに迫ってきていた。
「嫌だ……何で追ってくるの……」
私は恐怖に押しつぶされそうになり、何とか逃れようとして必死で走った。
が、突如、私は思わず足を止めることとなる。
「行き止まり……?!」
その瞬間、背後に気配を感じ、後ろを振り返る。すると、そこにはフードを深く被った男が立っていた。
雨に濡れながら、その男はフードを外して笑う。
フードの下のその顔を、私は知っていた――。
「元気そうじゃないか。……なぁ、未玖?」
「な……何しに来たの……」
一週間前に別れた元カレ。
彼は私の知らない所で浮気をしていたのだ。
そのとき街角で見かけた彼には――となりに女の子がいた。
後ろ姿だけで誰かはよく分からなかったが、私にそれを確認する勇気などなかった。
それから私は「顔も見たくない」と言って、彼と別れた。
しかしその彼は、久しぶりの私との再会に不敵な笑みを浮かべている。
泣いて、泣いて、泣き腫らして、ものもらいで腫れた私の左目を覆う眼帯が、雨に濡れてびっとりと瞼に張りつく。
「僕は……」
夜道は暗くてよく見えないが、彼がポケットから何かを取り出しているのは分かった。
嫌な予感がする。
彼は、歪んだ顔で私に言い放った。
「君と……ここで死にに来たんだ」
「……!」
ポケットから取り出したナイフが、雨に濡れながらキラリと光る。
私は震えながら必死で言葉を絞り出そうとするが、足が震えて力が思うように入らない。
喉から、乾いた呼吸音だけが通り抜けていく。
「君と別れてからずっと考えてた――やっぱり、僕には君が必要なんだ」
目の前の人物が少しずつ、自分の方に近づいてくる。
逃げよう――と思ったが、足が、身体中が、動かない。
「未玖、僕と……一緒に死ぬんだ」
彼の振り上げたナイフが、薄い月明かりに照らされて不気味な光を放つ。
(嫌だ……私、死にたくない……!!)
その瞬間、私は強く目を瞑った――。
「…………?」
痛みを、いや、衝撃を感じない。
それに、皮膚の感覚が、未だに雨が身体に降り注いでいるのを捉えている。
数秒間の沈黙の後、私はおそるおそる、目を開けた。
「……え――」
目の前で、元カレは血のついていないナイフを握ったまま倒れていた。
私はゆっくりと、彼の元へ近寄った。
「……息……してない……」
死んでいる。
外傷は皆無だった。
彼は、私を刺そうとしたさっきの歪んだ顔のまま、明らかに不自然な状態で死んでいたのだ。
「な……何で……」
怖くなった私は、その場から逃げるように、とにかく無我夢中で走った――――。
☆★☆
「……ただいま」
「おかえり、姉ちゃん」
家に辿り着き、未だに震えが止まらない私をまず一番に迎えたのは、二歳下の弟だった。
「……どうしたんだよ、姉ちゃん?」
いつもと変わらない弟の声を聞いた途端、私の中で一気に安心感が込み上げてきた。
――そっか。
私、生きてるんだ。
ちゃんと帰って来られたんだ……
「傘、差さなかったのかよ? そんなに濡れてど……」
弟が言い終わる前に、私は思わず弟に抱きつき、声をしゃくりあげて泣いた。
弟は突然の出来事に呆然と立ち尽くし、
しばらくの間、家の中に私の泣き声が響いていた。
その日の夜、シャワーを浴びる私の脳裏に、先程の惨劇がこびりついて離れなかった。
ふと、白目を剥いたまま倒れた彼の最期の表情が思い出され、慌てて首を横に振りながら、両目を強く瞑る。
(一体、何が……)
鏡にげっそりとした自分の顔が映った。
鎖骨あたりまで伸びた栗色の髪が、水で濡れてピトリと頬に纏わりつく。
顔は青褪め、茶色の瞳を覆う左瞼は、ものもらいでぷっくりと腫れていた。
――酷い顔だ。
入浴後は、疲れのあまりすぐに布団へもぐり込んだ。
布団の中で私は、掠れた声をしゃくり上げ、一晩中泣いていた。
どうして、こんなことに。
彼は何故私を殺そうとしたのか。
何故突然、私の目の前で倒れたのか。
「どうして私、生きてるの……」
あのとき確かに私は、死にたくない、と強く願った。
その代わりに、彼が死んだとでも言うのだろうか。
だとしたら、彼が死んだのは――
「私の……せいだ……」
脳内に蘇る鮮やかな映像。
死に際の、彼の表情。
私を殺そうとする歪んだ表情のまま、彼は死んでいた。
それは明らかに不自然な死だった。
何かの呪いかもしれない。
もしかしたら、次は自分かもしれない――。
「い……嫌……」
私は未知なる恐怖に震えた。
『ねぇ』
どこかから、聞いたことのない誰かの声が聞こえた気がして、全身の毛が逆立つのを感じた。
「き、きっと気のせい……!」
私は布団にくるまり、強く耳を閉じる。
(これがどうか悪い夢でありますように……!)
私は布団の中でうずくまりながら、夜が明けるのをひたすら待ち、
気がつけば私の意識は遠のいていった。
すぐ傍に、人ならざるものがいることにも気がつかずに――。