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解放の五寸釘  作者: 妄執
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第八話「あの女」

 <解放者>に目覚めた私は、立ち食いソバやで月見コロッケそばを三杯ほど食べ、食料を買い込んで家に帰った。


 もう私には怖ろしいものなどなにもない。何故なら私は<解放>された人間だからだ。死も恐怖も生も怒りも全てが私自身の支配下にある。私の喜怒哀楽は私が完全に自律しているのだ。

 

 真の人間とは、自身を完全に律するものである。自身の感情、精神、喜怒哀楽、それら脳に精神に左右されていた事象を全て己が支配下に置いた者のことを指すのだ。


 私は他人をどうこうすることはできないが、変わりに私は私を完全に支配している。私自身の幸福も不幸も今ではもう全て私自身の手の中にあるのだ。他者に左右されぬ完全なる幸福がここにあるのだ。もう、私自身を措定するものは私自身に他ならないのだ。


 生への欲求、死の恐怖、それは人間が持つ最も動物的な原初の本能。知性ではない動物性、それらからの脱却、<解放>。生への執着も死への恐怖も自己自身で操作できる完全なる知的生物。それこそが<解放者>なのだ――


「ふぅ…………」

 居間の座布団の上に座って温かい緑茶を啜る。クーラーの効いた涼しい部屋で飲む緑茶はまた格別の味だ。湯呑を見ると茶柱が立っていた。これは幸先もいい。今は盆休み中だったが、気づけば休みも終わりかけている。本来ならもっと休みを満喫するはずだったが、色々あってその殆どを苦悩の内に潰してしまった。けれども、こうやって<解放者>に目覚められたことを思えば、災い転じて福となすというやつだ。


 体中に力が漲ってくる。試しに工具箱の中に入っていたバールを両手で掴んで力を入れてみると、真ん中からぐにゃりと折り曲げることが出来た。この力も<解放者>となったことの副次効果なのだろう。


 ピンポーン……


「む?」

 お茶請けの羊羹を棒のままかじっているとインターホンが鳴った。

「はーい」


 ガチャリ――


 生気の無い青白い肌に、線の細い卵型の顔、充血した大きなまつ毛の長い三白眼に、左目の下にある泣きボクロ、その目の下に浮かぶクマに、長い黒髪――


 扉を開けると、そこには、あの、丑の刻参りの女が立っていたのだ――


「…………」

 いくら<解放者>に目覚めたとはいえ、突然のことに多少面食らう。

 しかし、今目の前にいる女は、あのときのように頭に鉄輪をはめてはいないし、白装束も着ていなければ、わら人形も木槌も五寸首も持っていなかった。黒長の髪を一本に束ねて、白いチュニックに黒いズボンを履いて両手には菓子折りのようなものを持っていた。

「あっ……あのっ……っ」

 女は大きなまつ毛の長い瞳に涙を溜めて、体を震わせながら何かを言おうとしている。

「まぁ……暑いから、中に入りなさい」

「えっ?」


 なんとなく話が長くなるだろうと思った私は、女を家の中に招き入れた。女はまさか招かれるとは思っていなかったのか驚いた表情を浮かべながらも、おずおずと私に従って家に上がった。座布団を敷いてやりお茶を淹れてやり、茶請けに先程かじっていたものではない新しい羊羹を切って楊枝を添えて出してやった。


「……どうやって私の家がわかったんだい?」

 私は羊羹の続きを齧りながら女を促した。

「あ……あの……これを拾いまして……」

 小さく正座して、その体をさらに申し訳なさそうに縮めるように座っていた女は、そう言いながらポーチの中から私の財布を取り出してそっと机の上に置いた。やはり、この女が持っていたのか……探しても見つからないわけだ。

「中を見たら、もっ、申し訳ないと思ったんですけど……」

「いや、構わないよ」

 謝ろうとするお女を片手で制して謝罪の言葉を遮った。


 <解放者>である私はもうそんな些事には拘らない。たとえ中身をすられていようが住所がばれようが、大したことではない。それよりも今私が気になっていたことは、どうしてこの女は丑の刻参りをしていたのか? しかも何故私を呪っていたのか、ということだ。


「……どうしてあんなことをしていたんだい?」

「あ……あの……」

 女は小さく構えていた身体をさらに小さく縮こまらせて言葉を濁した。

「言いにくいことだろうから、嫌なら無理強いをするつもりはないけど、一つだけ聞きたいのは、どうして私を呪っていたんだい?」

「えっ?」

 女は驚いたような表情をして、顔を上げて私を見た。

「そっ、それは……どっ、どういうことでしょうか……?」

「いや、なんでわら人形に私の写真を貼っていたんだい? 僕とキミとは、あのとき以外に面識ないよね? だから、恨まれる理由もないと思うんだが」

「えっ、いえいえ、こう言うと貴方の意見を否定しているようであれですが……貼っていませんよ。私が呪っていたのは別の男です。そもそも、貴方の仰るとおり、あなたとはあのときが初対面ですからっ……」

 女は心底違うといったように否定している。

「いやいや、その証拠に私はあのわら人形を持って帰ってきているんだ。そんなわけないだろう。ちょっと待っていなさい」

 あの押し入れの奥深くに封印しておいたあのわら人形を取り出してみると、そこに貼られていたのは、私の顔写真ではなく、黒髪の七三分けの若い、私の全く知らない男の写真だった。それを見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。


「はっ……はははっ……」


 そうか……あれは……私の恐怖心が作り出した幻だったのか――


「どっ、どうしました……?」

 女はおっかなびっくりとした様子で、一人で笑い出した私のことを、体を小さくさせながら上目遣いに見ていた。

「いや……なんでもないよ。すまないね、私も混乱していてあらぬ疑いをキミにかけてしまったようだ」

 そう言いながら、持って帰ってきたわら人形を机の上に置いた。

「――っ!」

 女はそのわら人形を見ると、一瞬怒りに目を見開かせて、何かを堪えるように両膝に置いた拳をぎゅっと握った。

「キミはこの男のことを恨んでいるようだけれど、よかったら話を聞かせてくれないかい?」

 優しい笑みを意識しながら、優しい声音で、語りかけた。

「えっ……でもっ……」

「誰にも相談できなかったんだろう? だから思い詰めてあんなことをしていたんだろう? こうして知り合ったのも何かの縁かもしれない。だから、よかったら話してご覧なさい……ね?」

 緊張している女の心を解き解すように、優しく慈愛を込めて囁く。

「は……はいっ……」

 女は目の端に涙を溜めながら、ぽつぽつと何故丑の刻参りを始めたのか、その理由を話した――


 女は名をミツヲと言い、わら人形に貼られていた男は、ミツヲの元彼で婚約者であった男らしい。

 だが男の正体は半グレを率いる結婚詐欺師で、ミツヲは最初、その男の真面目そうな性格や見た目に騙されて詐欺に遭い、多額のお金を騙し取られた挙句、男にお金を返せと言いに行くと、男がつるんでいる半グレの連中に捕まって散々にその身体を辱められたそうだ。

 ミツヲは自殺を考えたが、死よりも恨みのほうが勝った。だが、その男や半グレの連中に腕力では敵わず、さらには弱みを握られ、警察に行くこともできなかった。

 そのために、どのような形でもあの男に復讐したいと、ミツヲはあんな丑の刻参りを行うことを決意したそうだ。


 そして初めての丑の刻参りを行った日に、幸か不幸か私に見られてしまったそうだ。

 ミツヲは涙をポロポロと流しながら声を震えわせて、全て語った。

 語りつくすころには、目は最初よりも真っ赤に晴れ上がり、声は枯れていた。


「なるほどね……そんなことがあったんだね……」

「はいっ……関係ない貴方に迷惑をかけてしまいましたし……本当に申し訳ありませんでした……っ」

「……それはもう、いいんだよ。お陰で私はこうして<解放者>になれたのだからね」

「かいほうしゃ……?」

「ところで、キミはこれからどうするんだい? そんな男に騙される見る目の無いキミも悪いんだが、泣き寝入りしないで、なんでもいいから抗おうとするその性根は素晴らしい。いいかい、ミツヲさん、人間はね、諦めたら終わりなんだ。それに、私に申し訳ないと思う良識もあるようだ。キミは、根の良い人なんだろうね」

 ミツヲは顔を伏せると、かみ締めるように言葉を発した。

「もうやめようと思います……こうして他人様にまでご迷惑をかけてしまいましたし……こんなことやったってなんにもなりませんから……」

 そう言ってミツヲは、全てを諦めようとしていた。

 

 だから私は怒った――


「なんでそうなるんだっ!!」

 アパート中に響き渡るほどの大声でミツヲを一喝した。

「ひっ――!」

 驚き怯えるミツヲの肩を掴む。

「事情はわかった! だがお前は、まだ何も解決できていない! お前は解放されていない!!」

「なっ……なにをっ」

 ミツヲはわけがわからないといった様子でうろたえている。

「何故やめる、何故諦める!? お前の心は何も救われていないじゃないか!」

 言葉ではなく、感覚で伝える、私が言いたいことを、この心情を、<解放者>の共感を使いミツヲに伝える。ミツヲは少し私が何を言いたいのか理解したらしい。

「じゃぁ……どうしろって……いうんですかぁ……」

 ミツヲはまた涙を流しながら私に訴えた。

「私の問いに答えろ! 真摯にだ、嘘をつくな、お前の本当の気持ちを言え!! わかったか?!」

「はっ……はいっ!」

「ミツヲ、お前は悔しいのだろう? 騙され辱められた、出来れば殺してやりたいのだろう?」

「はいっ……!」

 ミツヲがその男たちへの殺意のこもった視線を私に向けた。

「お前を騙した男だけじゃない、お前を辱めた者共等、皆悉く殺してやりたいだろう?」

「……はいっ!」

 ミツヲは私の目を真っすぐに見て答える。

 だから私も真っ直ぐに答える。

「そうだっ!! それは正当な感情だ!! 何故その感情を押し殺そうとする!? <解放者>である私の前で抑圧するな! 自分の気持ちを解放しろ! 叫べ! 感情を解放しろおお!!」

「悔しいっ!」

 ミツヲが叫ぶ、だがまだ声が小さい。魂が入っていない。

「もっと!! 激しく勇ましく!!」

「悔しい!! 殺してやる!! この手で!! 殺してやりたい!!」

 惜しいがまだその言葉は自身から<解放>されていない。

「そうだっ! もっとだ! 解放しろ! 感情を解放しろ!! ここでお前の全てを曝け出せ!!!!」


「殺すっ!!!!」


 そうして初めて、今この瞬間、ミツヲの魂の叫びが発された――


「そうだっ――!!」

 私はガバと、ミツヲを強く、そして優しく抱きしめた。

「……えっ? えっ……?」

 ミツヲは状況が呑み込めないのか理解できないのか、えっえっと発し困惑している。

「辛かったな……ミツヲ……辛かったろうに……苦しかったろう……もういいんだよ……」

 優しく抱きしめ、本当に心の底から彼女を労わる言葉、言霊を発した。


「あ……ああ……」

 ミツヲの身体から力が抜ける。脱力していく……そして――


「ああ……うわぁあああああああ――!!」

 ミツヲは私の背中に両腕を回して子供のように泣きじゃくった。

「……もういいんだ……私がなんとかしてやる……この私が、お前を<解放>してやる」

「うわああああああ――」

「今は思い切り泣くといい……泣き終えたら、全てを終わらせよう……お前が始まるために<解放>されるために――」

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