第五話「ひゃっぽこ」
結局家に戻って、口を空けて呆けたまま、気付けば夜になっていた――
お腹が減った……
冷蔵庫を開けてみると、調味料の類と期限切れのこんにゃくが一つ入っていた。
「ああ……」
私はこんにゃくが好きではない。臭いし不味いし何がいいのか全く分からない。だというのに何故私の家の冷蔵庫にこれが入っているのかも分からない。いつか買ったものだったのだろうか? 何かのオマケでついてきたものだろうか? 朦朧とする頭では、このこんにゃくがいつ我が家に来たのか、全く思い出せなかった。
嫌いだから食べたくないし、そもそもこんにゃくに栄養はない。我慢して食べたってなんにもならない。むしろ消化するカロリー分マイナスにしかならないではないか。
「ああ……うぁぁ……」
テーブルの上を見ていると何故か荒縄が一巻き置いてあった。
「ああ……?」
はて? これは一体何に使うためにここに置いてあったのだろうか? 会社か町内会の夏祭りのためだろうか、それとも個人的な趣味のためだろうか、それとも何処かから拾ってきたのだろうか、新聞紙を縛るために買ったのだろうか、それすらも思い出せない。
「うん……うん……」
今の正確な時刻はわからないが、おそらく深夜辺りだろう……深夜といえばあの女の活動時間だ……気は抜けない……
私はこんにゃくを袋から取り出して、そのこんにゃくに荒縄を古紙を縛るように十字状に、抜けないようにしっかりと縛り付けていた。特に意味は無い手遊びだ。
そうしてこんにゃくに荒縄を縛り付けてひゅんひゅんと振り回していると、先ほど私の部屋へ壁を叩いた無礼者が住んでいる隣室から、何やら物音が響いてきた――
「んん……? なんだ?」
あの女の恐怖ゆえに神経が研ぎ澄まされ、僅かな物音ですらテレビの最大音量並みに聞こえるほどに鋭敏になっていた私は、隣室と繋がる壁へと耳をぴたりとくっつけてその物音がなんの音なのかを聞いた。
「んん……ああ―― んあぁっ―― ああっんんっ――っ!」
そこからはパンパンという音と共に、声高な女の声が響いていた――
それは嬌声だった。隣人の彼女の嬌声だろうか。実に艶かしい。そういえばこういうことが度々あった。私が仕事で疲れて夜遅く帰ってきて早く眠ろうとしているのに、隣人が今のようにコトを始めてその声で私が眠れないことが何度かあった。今もきっとそういうことだろう。
前までの私ならその嬌声が耐え難い騒音に聞こえていたが、今の私がうける感想は全く違った。
「ああ……ありがたい……」
恋人の営みとは、即ち性である。つまり性は生である、生きる生のまさにリビドーなる行為だ! 今のデストルドーに支配されつつある私にとって、これほどありがたいエールはあるのものか? いや、ない!!
隣人は私にエールを送ってくれているのだ!! 諦めるなと!! 死ぬなと!! 生きよと!!
「ありがとう!! ありがとう!!」
私は嬉しくなって涙を流した。こんな近くに私を応援してくれる人がいる、隣人は私を愛してくれている。私は嬉しくなっていてもたってもいられず、ありがとうと叫びながら、そのパンパンと聞こえる音に合わせるように壁を叩いてエールを贈り返した。
人は贈り物を、好意を受けたままではいけない。受けた分はちゃんとお返ししなければならない。そうすれば好意の輪が世界を巡り人は幸せになれるのだ。今日の小さな善意がバタフライ効果で大きな善となりその善や好意が悪意を駆逐し世界を席巻するのだ!
「ありがとぉっ……!! がんばれぇ!! がんばれぇっ!!」
私は無我夢中でとなりのカップルの行為をを応援しながら、そのパンパンというピストン音に合わせるようにピストンパンパンの裏打ちをするように壁を叩いた。
パンパンパン! ドンドンドン!
「がんばれぇーっ!」
パンパンパン! ドンドンドン!
「あらよっ!」
パンパンパンパンパンパンパン! ドンドンドンドンドンドンドン!
「がんばれぇっ――!! いけぇっ!! いけぇっ――!! ありがとおおおおおおお!!」
ドゴォッ――!!
「うわぁっ!」
一人でヒートアップしていると、物凄い勢いで家の玄関扉が叩かれた。
ピンポーンピンピンピンピピポーン!
次いで物凄い勢いでインターホンが連打される。
「なんだなんだっ!?」
ついにあの女がやってきたのかと慄いていると、ドアを叩く音共に怒声が聞こえた。
「おらああ!! ふざけてんのかてめええええ!! おい!! でてこいごるぅああああ!!」
その声には聞き覚えがあった。何を隠そう、今まで私がエールを送り続けていた隣の学生その人の声なのだ。
「ちょっとやめなって……!」
その隣人の男の声と共に先ほどの嬌声の持ち主と思わしき女の声も聞こえてくる。
なんだと思って壁に耳を当ててみると隣はすっかり静かになってしまっていた。
隣人の大学生が何を怒っているのかわからないが、とりあえず私はあの女ではないとわかったので出てみることにした。こんな深夜に随分と無礼だが、先ほど私を勇気付けて応援してくれたのだから、多少の非礼は目を瞑ろう!
「はぁい!! なんですか!!」
「なめてんのかてめぇ!!」
玄関を開けると、いきなり胸倉を掴まれた。
「ぐっはっ?」
隣人の男はタンクトップに短パンというラフな格好で身体中に汗を滴らせて、額に青筋を浮かべて目を血走らせながら怒りに満ちた顔で私を睨み付けていた。
「ちょっやめなよっ」
その隣にいる女も男と似たような格好で必死に男を宥めていた。
「は? なっ、なんです?」
私は何故こんなことをされるのか心底わけがわからなかった。
「お前ふざけてんなぁ? なぁ? おいっ!?」
「何がですかっ?」
「お前人がやってる調子に合わせて叫びながら壁叩いてたろうこの野郎おい!?」
「ああ……」
その言葉に目の前が真っ暗になる思いがした。崖から落ちかけていた所を助けてもらいかけて突き放された感覚だ。
「えっ……じゃぁ……あれは……私のためにやってくれていたのではないのですか……?」
一縷の望みをかけて問いかけた。胸倉を掴まれた私は爪先立ちで、着ているシャツもミリミリと嫌な音を立てている。
「はぁっ!? てめえ頭おかしいのかこのやろう!! てめえのためにやるわけねえだろうがこらああ!!」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。
「じゃあお前は……人の迷惑も考えずにおっぱじめた挙句……自分は些細な騒音で壁殴ったってことか……?」
「ああん? なにぶつぶつ言ってんだこら!!」
男は胸倉を掴む手に力を入れ揺さぶってくる。
「…………返せ」
「ああっ!!?」
男は凄むが手を出してくる気配はない。どうせ女の手前悪ぶってみせたいだけの小心者なのだろう。警察沙汰にはしたくないのだ。だが、今の私にはそんなことは露ほども関係ない。
「俺がお前に送ったエールを返せやごらああああああああ!!!!」
私は大きく振り被って男の鼻柱に頭突きをくらわせた。
「ぶべっ?!」
男は鼻から勢いよく血を吹き出させ、そしてその衝撃から私の胸倉を掴んでいた手を離した。
「人が応援してやってるのになんだその態度はこのやろおおおおおお!!!!!!」
私は急いで部屋の中に走って、あの縄で縛ったこんにゃくを手に持って、再び男の前に立ち、大きく振り被って、縄こんにゃくを叩きつけた。
「ひゃっぽこ!!」
ベチィーーーーーーーン
「うわっ――」
縄コンニャクの一撃をくらった男は鼻血を吹き出しながら両手で顔を守った。
「ひゃっぽこぉおおおお!!!」
べちぃーーーーーーーん
「うわぁっ!」
「お前らはぁ! 自分たちの性ばかりを追い求めるからクズなんだよぉおおおお!!」
「ちょっとこいつやばいって、帰ろう! 帰ろう!」
女が蒼白な顔をして男の服を引っ張っている。
「ひゃっぽこおおおおおおお!!!!!」
べちぃいいいいいいいーーーーーーーーん
ついでに女にも縄こんにゃくの一撃をくらわせる。
「きゃぁっ」
「性は生を応援しろおお!! 死を覆す生は性でなければならないんだあああああ!! 死に囚われているている人間には性の生が重要なんだよぉお!! 貴様らは性欲の塊のくせして性欲根源説のフロイト先生もしらないのかっ?! それでも大学生かぁっ――!!」
縄コンニャクをヒュンヒュンと振り回しながら二人を追い詰める。
「こいつ頭おかしいぞっ……!」
そうして男と女はみっともない捨て台詞を残しながら走って自分の部屋へと逃げていった。
「ひゃっぽこおおおお!! ひゃっぽこおおおおおおおおおお!!!!!」
だがそれでも気のすまない僕は、その男が入っていった隣室の扉へと縄コンニャクを打ちつける。バカ共へ生とはなにかを教えてやるために!!
「ひゃっぽこ!!」
べちぃいいいいいん
べちぃいいいいいーーーん!
べちっ――
「ああっ!?」
数度目かのひゃっぽこの果て、縄コンニャクは千切れて、天高く飛んだ。そのこんにゃくが飛んでいくさまがスローモーションのように目に写る。そして千切れて飛んだこんにゃくは、綺麗な放物線を描きアパートの垣根を経て、丁度通りすがったトラックの荷台に落ちて、闇夜に消えていった――
「ああああっ!?」
そして手に握っていた荒縄も、突然舞い降りてきた鷲に掴まれて持っていかれてしまった。
「ああああああっ?!」
私は目の前が真っ暗になった――