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解放の五寸釘  作者: 妄執
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第二話「不安」


「はぁー……ひぃ……ふわぁー……」


 家に入ってドアを閉め鍵をかけて一息つくと、そのままヘナヘナと体から力が抜けて、玄関のたたきへ、半ば転ぶような勢いで尻餅をついた。その瞬間、ガラスの割れるバリンという音と共に、尻に激痛が走った――


「いっ――!」

 思わずうめき声が漏れる。何事かとすぐに腰を上げ、上半身を捻って尻を見ながら手をやってみると、ズボンの後ポケットに入っていたウイスキーの空瓶が、尻餅をついた衝撃で割れていたのだ。


「泣きっ面に蜂かよっ」

 愚痴りながら急いでズボンを脱いでみると、ポケットが入っていた尻の右側に、ビンの割れた破片が、ズボンから貫通して何本か刺さっていた。


「いっづっぅうう……っ」

 それを掴んで引き抜こうとするが、思いのほか深く食い込んでいるらしく、思うほど簡単に抜けない。弾力のある餅に刺さっているようで、自分の尻肉がこんなにもっちりしているのかと思うほどに抜きにくいし、結構な痛みが走る。


 それでもなんとか全て引き抜くと、思いのほか血が流れた。見た感じ縫うほどではないが、絆創膏では間に合わないくらいには、ポタポタと出血している。


 けれども今は、この痛みと出血は、あの女を見てしまったから、丑の刻参りを見てしまったから降りかかった、呪いなのではないか? と怖くなって痛みどころではなかった。それどころか、この流れ出る自分の血が、自分のものでは無いようにすら見えてきた。私の血は本当にこんなに色をしていたか? そもそもなんで私はウイスキーの小瓶なんて持っていたんだ? ウイスキーの瓶は案外厚くできているのに、こんな簡単に割れるものか? と、もう考えが四方八方に飛び散って、ワケがわからなくなる。


「見ちゃっちゃよ……見ちゃっちゃっちゃ……」

 そうして息が整って落ち着いてくると、今だ続く尻の出血よりも、あの女のことが怖くなって仕方なくなってくる。

 私はあの女を見てしまった、見てはいけないものを見てしまったのだ。

 つまり、私は、この視覚を通して、女を見て、その女を見た情報が脳へと焼き付けられてしまったのだ。一生忘れられないだろう――


 そしてなによりも怖ろしいことは、私は、あの女に、私の顔を見られてしまった。見ていたことを見られてしまったのということだ――


「どうしよう……どうしよう……」

 殺されるかもしれない……殺されてしまうかもしれない……丑の刻参りは絶対に誰かに見られたらダメなものらしいから……もし故意であれ偶然であれ見た者がいるなら……どうなるのかなんて想像もつかない……


 根が小心で神経質な私は、一回こういった恐怖感を抱くと、どうしようもならなくなる。

 そもそも、こんな怖ろしい経験は人生で一回もしたことがないのだから、どうしたらいいのかすらもわからない。


「ね……寝よう……とりあえず寝よう……」

 私は風呂にも入らず、服を脱いでタオルで尻の血を拭い、エアコンをつけ、常用している睡眠薬を四、五錠ほど飲んで布団に入った。やはり効果が出てくるまでは恐怖が勝って眠れるどころではなかったが、だんだんと薬の効果がでてきて、一回の服用量の五倍近く飲んだためか、目が回るような、酩酊のような状態に近くなって、気づけば意識を失うように眠っていた。 


 翌朝目が覚めると、時間は朝の七時だった。

「うぅ~ん……うっ!」

 呻きながら上半身を起こしてみると、尻に痛みが走り、その痛みで、昨夜にあったことを全て思い出した。

 森の中で丑の刻参りをしている怖ろしい女に出会ってしまったこと、顔を見られ追いかけられたこと、帰宅して尻餅をつき、ウイスキーの瓶が割れ尻に刺さったこと、その全てを鮮明に思い出し、顔から血の気が引き、これはダメだ。長引くタイプの悩みだと悟った。朝起きた瞬間、寝起きに思い出すタイプの苦悩や悩みは非常に長続きする、一生モノの悩みなのだと、経験上わかっている――


 恐怖感に頭が支配される。陰鬱な気分になる。今日からずっと楽しみにしていた盆休みだが、全くそんな気分にはなれなかった。どちらかといえば、逃亡犯の心境に近いようなもので、隠れ家は見つけたが、いつ見つかるかはわからないという、脅迫観念のようなものが頭の中を渦巻いている。


「くそっ……! 俺別に悪いことしてないよなぁ……? ねぇ……?」

 誰に言うでもない情けない声が漏れる。

「もうっ……っ! やだやだやだっ!」

 枕を力いっぱい抱きしめて腕と足を激しくばたつかせる。


 一人暮らしを長いことしていると、こういうふうに、独り言を言う癖がついてしまう。特に私のような親しい友人も恋人もいない人間は、特に酷いのかもしれない。それを指摘してくれる人さえいないのだから終わっている。軽度か重度かすらもわからない。


「くそっ……」


 昨夜の恐怖と、まだ自分が追われているのではないか? 外にはあの女がウロウロと私を探して徘徊しているのではないか? という恐怖感が合わさって腕が脚が全身が震える。寒くもないのに歯がカチカチと音を鳴らすほど震えている。


 PC机の上に置いてあった、一回一錠の精神安定剤をとって三錠ほど飲み込んだ。何分か経って薬が効いてくると、頭が解放されるような、ぼんやりとするような感覚になって、少しだけ気持ちが楽になってくる。頭の中を占めていた鮮明な恐怖の、その輪郭が薬によってボヤけてきたような感じだ。手の震えも治まって、恐怖で震えていた身体が、やっと動けるようになってきて、お腹が鳴った。


「あーお腹へったなぁ……」


 空腹を覚える程度に、精神的な余裕が取り戻せてきたようだ。

 何か簡単なものを作って食べようかと冷蔵庫を見てみるが、殆ど食材が入っていない。お米もきれているし、買い置きのインスタント食品もお菓子も何もなかった。

「何もないじゃん……」


 それはそうで、私は盆休みや正月休み等の長期休暇には、休みに入った初日に連休が終わるまで、一切外に出なくてもいいように、食材やお菓子をまとめ買いするのだ。なので連休に入る直前は、どうせ数日後にまとめ買いに行くのだから……と、持ち前の不精が起こって、なんとか買い物に行かないで、家にあるものだけで済ませようとする。残っていた食材は昨日に殆ど食べきってしまったので、今我が家に食料が無いのは当然と言えば当然なのだ。

「外に出たくないけど……買い物にいかなきゃ……」

 このままでは餓死してしまうし、ネット注文をするにしても限界があるし、なにより出前はお金がかかる。

「よし行くぞっ……! 考えすぎだ考えすぎ……」

 そう自分に言い聞かせながら仕度を始めた。

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