第一話「出会い」
「ねっこじゃねっこじゃと、おっしゃいま~すが~おっちょこちょいのちょいっ! あらよっ! おっちょこちょいのちょいっ」
夏の夜、会社の暑気払いの飲み会で一杯飲んで気分の良くなった私は、二次会があったスナックから歩いて家に帰る途中であった。今の会社に入社して今年で二年目になるが、なんとかうまくやっていけているし、飲み会も楽しかった。それに明日からは盆休みだ。これで気分がよくならないほうがウソというものだろう。
「おっちょこちょいのちょいっ、おっちょこちょいのちょいっ」
猫じゃ猫じゃを歌いながら、補正されていない土道の上を歩く。
この付近はあまり民家もなく、このとおり大声で歌っても文句を言う相手はいない。横を向けば右に田んぼ、左には鬱蒼とした森が広がっている。森からは鳥の、田んぼからはカエルやらの鳴きがうるさいほどに聞こえてくる。
空を見ると大きな満月と、無数の星がきらめいていた。
外灯すら満足にないような場所だが、この月明かりのお陰で、真っ直ぐに道を歩くことができる。田んぼに落ちないように注意すればいいだけだ。
「ふんふふーん、ふふふふふ~ん、あらよっと! ふふ……ん?」
雨が降っていたのか少し水気を含んでいた土道の、むせ返るような土の香りの中、虫や鳥の音に混じって、カーン……カーン……という、変な音が何処かから聞こえてくることに気がついた。
「ああん? なんだこの音?」
カーン……
カーン……
カッ……カーン……
その音は断続的に森の中から響いてきているようだった――
私はなんとなく気になって、その音の出所を探りたくなって森に近づいた。森の中は名も分からぬ背の高い木が沢山生えていて、その葉が茂って上から森を多い、中はほとんど月明かりが届かない暗い空間になっていた。
「もっと奥だなこりゃぁ……」
一人ぼやきながら、葉っぱや木の枝を掻き分けて森の中を進む。
私の座右の銘は「危うきに近寄らず」「石橋をとにかく叩いて渡れ」であるのだが、酒を飲んで気が大きくなっているからか、今は好奇心のほうが勝り、普段なら絶対に入らないであろう夜の森に、さらには妖しい音に向かって歩みを進めた。
案の定、森の中は暗くて殆ど前が見えなかった。
今夜は風も吹いていないため、暑くなってきてじっとりとした汗が額から頬を伝う。さらには藪っ蚊が沢山体に纏わりついてきて酷く不愉快だった。なんだかんだ帰りたくなったが、それでも帰らない理由は、歩を進めていくたびにそのカーンという音が近づいてきていることと、森の木々の葉の合間から差し込む月光が、神秘的な美しい雰囲気を醸しだしていたからかもしれない。
酔っていると、頭の中が軽くなって、ストレスや普段なら気にしてしまうような些細なことを忘れることができる。もっと酔うと、現実と幻想との区別が曖昧になってくるが、今がそんな状態なのかもしれない。音の元を見つける意味も理由も無いのに、こうして前に前に向かっているのだから。
カーン――
カーン――
カーン――
どんどん音が近くなってくる。
よくよく聞いてみれば、その音は乾いた木に何かを打ち付けているような音であった。
「ふぅ~」
流れる汗を拭いながら、何故か尻ポケットに入っていた、ウイスキーのスキットル型の小瓶を取り出してグイっと一息に呷った。
「かぁ~」
夏の外気と自分の体温で温くなっていたウイスキーは、喉が焼け爛れるような飲み心地で、喉と胸と腹がカッと熱くなった。
「効くなぁ~おぃ~」
頭が輪をかけてぼうっとする。自分にかかる重力が減じられたように体が軽く、頭の枷が外れていくような、ふわふわとした心地になり、とても気持ちがよかった。
カーン――
カーン――
カーン――
空になった瓶を尻ポケットに戻すとき、一陣の風が吹いて火照った頬を撫でていった。そして、その風の行方を追って木々の間に、向こう側へと目をやってみると、遠くに何か白いものが見えた。
「……えっ? なにあれ?」
転ばないようにゆっくり木々を手づたいに歩いて、その白い何かへと近づいて行った。白い何かが近づくと同時にカーン……という音も徐々に大きくなっていった。そうして木々の間から、顔を出すようにゆっくりその白いものを覗いて見ると、そこは一本の大きな樫の木が生えており、その樫の木の周囲は切り開かれたように何も生えておらず、広場のようになっていた。
そしてその樫の木の前に、真っ白い着物を着た女が立って、わら人形に向かって五寸釘を打ちつけていたのだ――
「……っ」
あまりの光景に思わず言葉を失う。ここからは後姿しか見えないが、その姿は白装束を身にまとった長い黒髪の女だと感じた。
「やっばいかも……」
だって、だって、そりゃそうだろう? まさか、こんな所で丑の刻参りをやっている人間に出会うなどと思うわけがないではないかっ――
カーン……カーン……という音は、五寸釘を叩いている音だったのだ――
「やばいやばい……」
冷や汗が全身を伝い、心臓が動悸している。自分の心音が耳に響くくらいにうるさい。足も震え始めている。とにかく、泣きそうだ。怖くて、まともな思考ができない。一気に自分の顔から血の気が引いているのがわかる、あれほど火照っていたのに、今ではびっくりするほどに身体が冷たくなってきている。
確か、丑の刻参りは、絶対に見られてはいけないものだということを聞いた覚えがある。もし私が今見ているのがバレたら、私も何をされるものか分かったものじゃない。というより、あの釘を叩いてる女は本当に人間か? もしかしたら妖怪や幽霊の類かもしれない。とにかくヤバイ。危ない、危険だ。私は踵を返して、来た道を戻ろうとしたそのとき――
テーテーテーテーテテテー
私の携帯が鳴った――
テーテテテーテテテテテテテテー
その音に、一心にわら人形へ五寸釘を打ち付けていた女が、鬼のような形相でこちらを振り向いた。
三本の火の着いたロウソクのはめこまれた鉄輪を頭にはめ、その顔は線の細い卵型、肌の色は生白く、顔には生気が全く無かった。女は血走った真っ赤な目尻の釣り上がった三白眼でこちらを睨み付けている。その目の下には夥しい量のクマが浮かんでいた。振り乱れた長い黒髪は真ん中で分けられており、頭頂部や側頭部あたりには溶けた白い蝋がくっついており、額や顔には流した汗に前髪が所々くっついていた。
「う……あ……」
女と目が合うと、金縛りにあったように体が動かず声も出ない。
「きっ……きゃああああああいてじゃらえ!!!!!!!!!」
女は森全体に響くよな大奇声をあげて一本歯の下駄を鳴らしながら、釘と木槌をもったままこちら目掛けて走ってきた――!
「うわああああああああああああああ」
私は腰が抜けそうになったが、ここで動けなかったら殺されてしまうと思って、なんとか走った。全力で走って走って森の中をどう走ったかもわからないくらいに走りつくした。
気がつくと、私は、もう自分が住むアパートのすぐ近くまでたどり着いていた。辺りを見回してみるが、女の姿はない。ここまでくればもう大丈夫だろう。この辺りは民家も多く、コンビニだって目の前にある。さらにちょっと歩けば駐在所だってあるのだから。
そして私は女が着いてきてないか、周囲に気を配りつつ、自分が住むアパートへ戻った。