(オマケ)月はそこに、ある
「これで良かったのか?」
「はい」
気遣わし気な声に「大丈夫ですよ」と返事をする。
見上げた顔はやはり気遣わし気で、フロスティは思わず笑ってしまった。
肩にぽんと落とされた大きな手がどれだけ頼もしいか。その持ち主が傍らにいてくれるだけで、どれだけ心強いか。
いくら彼女が訴えても、本人にはその半分も伝わっていないのだろう。彼女の新たな婚約者は、そんな渋い顔つきをしていた。
かつての婚約者であるヒュイスの王太子が、どうやら少しまともになったらしい。
そんな皮肉交じりの噂を持ってきたのは、かつてかの国で宰相をしていた父オーキッドと、官吏だったのにオーキッドに付いてきてしまった部下たちだ。
王太子に厳しい彼らが言うのだから、間違いないのだろう。
それでも、久々に顔を合わせてどんな顔をされるやら、どんな恨み言をぶつけられるやらと不安に思っていたのだが。
なにしろ、婚約者だったにも関わらず、彼から憎まれ口以外の言葉をほとんど聞いたことがなかったフロスティである。
意外にも平穏に、あっさりとその時間は過ぎてしまった。
あの秀麗な顔に戸惑いと後悔の念が浮かぶ様など、初めて見た。
対して、フロスティが王太子を前にして笑顔を浮かべることができないのはもはや条件反射である。周囲がひそひそと何か話していたようだが、容赦して欲しい。
気の抜けたような顔でほうっと笑う彼女は普段より雰囲気が柔らかい。
元の婚約者に向ける無表情と、現在の婚約者に向ける微笑み。この歴然とした差が、周囲の人々に非常に好意的に、あるいは同情的に取られていることを彼女は知らない。
そして、傍らのヒーザー王子もつられたように笑みを浮かべた。こちらも、婚約者以外の若いご婦人方にはまず見せることのない優しいものだ。
彼は、わざと肩をすくめてみせる。
「残念だ。あなたの為なら国のひとつやふたつ、すぐにでも落としてみせるのに」
口調は冗談じみているが、その言葉が冗談ばかりでないことをフロスティは知っている。
彼女が嫌がる素振りを見せれば即退室。ましてあちらが何か仕出かせば即開戦。
口だけではない。実際クロムには隣国をすぐに潰せるだけの軍事力は備わっており、また秘かに戦の準備まで進めていた。
彼女が望めば、明日にでもヒュイスに攻め込んでいるだろう。恐ろしい将軍様である。
フロスティの気疲れは、何もジェンティアン王子のせいばかりではないのだ。
「……あなたまで、私を悪女に仕立て上げるおつもりですか?」
フロスティが悪女になるのは簡単だ。
彼に、ヒュイス王国を滅ぼして欲しいと頼めばいい。それはすぐに実行されるだろう。
後世には、復讐のために隣国の王子をたぶらかしヒュイスを滅ぼした女とか何とか記されるに違いない。
それだけ彼がヒュイス王国からフロスティが受けた仕打ちに憤っているということで、そしてそれだけ彼女を大切に思ってくれているということでもある。
何もそこまで怒らなくても、と彼女はむしろ呆れてしまった。
そんな事は冗談でも口になさらないで下さい。
あえてそう言い軽く睨んでみせれば、なぜか嬉しそうに笑われた。
「人の良いあなたが悪人になれるとは思えないけどね。なれるものなら、なればいいよ」
それであなたを見つめる熱い視線が少しでも減ればいいんだ。
こんなことを、平気で言い返してくる。
国の内外から賓客を招いた社交の場だというのに、王子は彼女から少しも離れようとしない。ヒュイス王国の王太子のこともあるのだろうが、これは少々無作法だ。
それでもちゃんと来客への挨拶や社交はこなしているので、周囲からは非難ではなく微笑ましいような視線を頂いている。ようやく決まった婚約だから仕方ない、と。
正直、居たたまれない。
「悪評なんて、クロムの王子妃に相応しくないと責められるだけです」
「そんな事は誰にも言わせない」
「……横暴」
「駄目ならおれが王子を辞めるだけだ」
「わがまま!」
つい丁寧な言葉遣いも忘れて、フロスティは顔を真っ赤にして喚いた。
こんなことをさらりと口にする男だったろうか。本気で言っているのか、からかっているだけなのか。耐性のない彼女は、それだけで慌ててしまう。
ここに来た当初は、嫌な注目を浴びたものだ。
事情がどうであれ、どこでも婚約を一方的に破棄されたいわくつきの娘などそんなもの。だからしばらくは大人しく、静かに過ごすつもりでいたのに。
ほとぼりが冷めるまで、と言い含められ客人として滞在していたクロムの離宮で、お世話になっているのだから何かすることはないかと訊ねたら、ヒーザー王子の身の回りのお世話に始まり、政務の手伝いまでする羽目になった。
しばらくすると、王子の留守を狙ってなぜか彼の両親、つまりクロム国王やら王妃やらが頻繁に訪ねて来るようになる。城から距離があるのに、公務やら警備やらは大丈夫だったのだろうか。
ヒーザー王子がそのことに憤り、やがて諦めた頃。
調子に乗った彼らによって、今度は夜会やお茶会に引っ張り出されるようになった。
でかでかとクロム王家の家紋が入った招待状を断われるわけがない。
ましてお世話になっている王子の名に傷がつくのはもってのほか、という事で不本意な噂を払拭すべく社交を頑張った結果。
いつの間にか、フロスティはヒーザーの婚約者のような位置付けをされていた。
ちなみに父オーキッドは一向に彼女を迎えに来ず、婚約が決まったときに生温かい視線でぽんと肩を叩かれただけだ。
婚約や結婚はこりごり、と引きこもる気満々だった彼女は、見事に引きずり出され外堀を埋められてしまったのだった。
「我儘を通せるだけの働きはしているつもりだ。というより、うちの家族は誰も反対していないんだが。むしろ逃がすなと言われている」
「に、逃げたりはしないけど」
もう婚約し世間に公表してしまったのだ。
取り消しでもしない限り、どうせフロスティは逃げられない。
不思議なことに、嫌だとも思わなかったのだ。
クロムに連れて来られ離宮に滞在した、その日から。
いつまでも熱が引かない顔をぱたぱたと手のひらで仰げば、嬉しそうな声が降ってくる。
「大丈夫。悪女だろうと何だろうと、あなたを手放すことだけは絶対にしないから」
そこにあったのは、どこまでも優しく微笑む婚約者の精悍な顔。
今度の婚約者様は、甘すぎる。
フロスティはこっそりとため息をついた。