表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

図書館から異世界へ

作者: えりー

「もうすぐ迎えに行くから、待っていて」

(またこの声。いつも突然聞こえる声にもう驚くことができないくらい慣れている)

(もうすぐっていつ?迎えに来るって・・・なぜ?あなたは誰?)

待っていた藤野綾香ふじのあやかは期待にも似た気持ちでー・・・


「おはよう、綾香」

突然声をかけられ綾香は驚いた。

「お、おはよう」

戸惑いながらも返事を返すことができた。彼女は同じクラスの河原実樹かわはらみき

「どうしたの?ぼんやりして、大丈夫?」

実樹は心配そうに綾香の顔を覗き込んできた。どうやら長い間ぼんやりしていたようだ。

「うん、大丈夫。何でもないよ。」

自分を呼ぶ不思議な声を聴いているなんておかしをなこと言ってしまったら妄想癖があると思われかねない。

今は登校途中。急がないと遅刻してしまう。

「急ごう」

心配そうな実樹の肩をポンとたたいて足早に歩みを進めた。

何とかホームルームには間に合った。

「はぁ、ぎりぎりセーフ」

ため息をつきながら間に合ったことに安堵した。

(今日の最初の授業は自由授業だったな。図書館に行かなくちゃ。)

(うれしいな、一時間だけだけど朝から好きな本が読める。)

綾香の学校には週に一度だけ自由授業というものがある。体育、家庭科、図書、美術の4つから好きな授業を選べる選択授業が取り入れられていた。

もともと読書が好きな綾香は迷うことなく図書を選んだ。

図書館に入ると本独特の香りが広がっている。この香りをかぐと気持ちが高揚してくる。

「今日は何の本にしようかな。心理学、宗教、神話、この辺は大体読んでしまったし」

どの本を読むか真剣に悩んでいるとバサッと本が落ちる音がした。

「ひゃ!」

辺りを見回してみるが人はいない。

「どこかで本が落ちたのかな?」

綾香は本を探すことにした。

「ないなぁ・・・」

しかし床をどんなに探してもどこにも本は落ちていない。

「おかしいなぁ」

書庫を出て本が落ちた音がしたほうへ綾香は歩き出した。

「ここの図書館はこんなに廊下が長かったかな?」

綾香の通っている学校は特別広い図書館を所有している。でもほとんど本で埋まってしまっているからこんなに長い廊下というのは存在しないはず。

不思議に思いながらも長い廊下を進み続けると見たことのない扉が現れた。

昔の蔵に用いられてたような頑丈で立派な鉄の開き戸。

「何、この扉」

(おかしい、絶対におかしい。こんな扉今まで一度も見たことがない。

綾香は読書が好きなので休み時間も図書館で過ごすことが多かった。

立ち入り禁止になっている持ち出し禁止の本がある部屋はどこにでもある平凡なドアでいつも司書の先生が管理している。

立ち入り禁止になっている部屋には入ったことはないが今自分がいるところとは無関係だろう。

綾香は恐る恐るその戸を押してみた。鉄製なので重いと思っていたが簡単に開いてしまった。

「!」

その瞬間強い光に体が包まれ、ふわり浮いた。そうして扉の中に吸い込まれてしまった。

「きゃぁ!なにこれ、どういうこと!?」

ぎゃあぎゃあ騒いでいると”声”がした。

「そんなに騒がなくても大丈夫だ」

聞きなれた声ー・・・そう、あの声だ。綾香を呼んでいた声。

その声を聴いて少し冷静になった綾香は声の主を確認した。

「だれ?」

綾香の瞳に映ったのはとてもきれいな青年だった。

「迎えに来た」

長身で黒髪、美しい青い瞳を持つそのひとは言った。

身につけているものは着物・・・だろうか?

和装にも中国の衣装にも似ていた。初めて見る衣装だった。

「なんだ?じっと見て」

観察するように見ていた綾香に気づき彼は話しかけてきた。その声で綾香は我に返ることができた。

「あなた、誰なの?ここは何?それに迎えに来たってどういうこと?」

聞きたいことがあふれてくる。まばゆい光の洪水の中にいるのだ。誰だってパニック状態になるというものだ。

「とりあえず落ち着いてから説明する」

めんどくさそうにそう言い綾香を抱きかかえてきた。いわゆるお姫様抱っこという奴だ。

「何!?降ろしてよ!」

慌てる綾香を面白そうに見下ろして彼は低く嗤った。

「降ろしてもいいが、俺とはぐれたら一生この空間を彷徨うことになるぞ?」

「この空間というのはこのまばゆい光の空間のことだ。」

(冗談じゃない!)

そう思い綾香は青年の服をつかんだ。決してお姫様だっこという恥ずかしい状態を許したわけではない。

「それでいい」

彼は笑いをこらえている。何がそんなにおかしいのか。

(嫌な奴・・・)

やがて光の中に景色が見えてきた。肥沃な大地が広がっている。都や集落らしきものが見える。

「ここは?」

「俺の治める国だ」

青年は短く答えた。その表情はどこか悲しげだった。

何が何だかわからないでぼんやりしてる間に広い部屋に連れてこられた。促されるままに椅子に腰を下ろした。

ふぅーっと深呼吸してなるべく冷静に話ができるように綾香は頭の中を整理した。

(愁宋はこの国の王様で、私を正妃として迎えたいと・・・)

「ねぇ、どうして私なの?他にもそういう相手がいるんじゃないの?」

綾香が読んできた小説は王族は一夫多妻制だったり、皇族、貴族や身分の高い家の娘を妃にするストーリーが多かった。

「ずっと好きだったんだ。お前に一目ぼれしたんだ」

愁宋は淡々とした口調で答えたがだんだん顔が赤くなっていっている。照れているようだ。

「・・・」

綾香は呆然とした。今まで異性から告白なんてされたこともなく日々楽しく本を読んで過ごしてきたので恋愛方面は経験がないし興味もなかった。

「・・・」

何か言わなければと考えるが口がパクパク動いてしまうだけだった。

いきなり現れた美青年が自分に一目ぼれしてずっと盗み見ていたうえ、正妃にしたいので迎えに来たのだという。

(ストーカーが自分を拉致したとも考えていいかもしれない)

こんなこと現実にあるはずない。

これは夢を見ているのではないのだろうか。

そう思い目の前にいる愁宋に背を向けながら

「わかった!これは夢なのよ。最近ファンタジー小説にはまっていたから、こんなおかしな夢をみているのよ。・・・そうとしか思えない!」

そう一息に言うと綾香は自分の頬をぎゅうぅぅとつねった。

「あれ!いたっ、痛い」

夢だと思て思い切り力いっぱいつねったのでかなりの痛みを受けてしまった。

「何をやっているんだ?痛いだろうに」

いつの間にか愁宋は目の前にいた。きれいな黒髪が目の前で揺れ、青い瞳が綾香を捉えた。

「気でも違えたのか?」

そんなことを言いながら赤くなった綾香の頬にそっと口づけした。

綾香はドンッと愁宋を押して勢いよく後ずさった。

「正気よ!正気だから現実に戻ろうとしたんじゃない!」

口づけされたところをごしごし拭いながら綾香は愁宋に怒鳴っていた。

静かな室内に結構響いた。

「?言っていることがよくわからないんだが、これは現実だぞ?」

愁宋は小首をかしげながら心底不思議そうに綾香に言った。

「だって、おかしいわよ。私はさっきまで学校の図書館にいたのよ?それとも何?ここが異世界だとでもいうの?」

「ああ、お前からすると異世界だろうな。」

愁宋は軽くうなずいて見せた。

確かに綾香のいた世界とは違う。それはわかっている。

だけどそれを簡単に認めるのは難しい。

「本当にここは異世界なの?」

愁宋の言っていることが本当ならわたしは大変なことに巻き込まれている。

こうしている間にも元の世界の時間も進んでいるに違いない。当然クラスメイトも先生も自分のことを探しているはずだ。

「はやく帰らなくちゃ・・・」

綾香は部屋の入口のほうへ足を向けた。

綾香の後ろから怖いくらい優しい声がした。

「どうやって?」

愁宋は綾香の腕をつかみ自分のほうへと引き寄せた。

「どうやって帰るつもりなんだ?もうあの道は閉じた。あれを開けることができるのは俺だけだ」

自然と後ろから抱きしめられる形になった。

綾香は振り返り愁宋を見上げた。彼の表情は笑っているがどこか寂しそうにも見える。

(この表情・・・さっきも見たわ。)

「やっと迎えに行けたのにどうして帰るなんて言うんだ?」

「わ、私の居場所はここじゃないわ」

愁宋の迫力に押されながらも綾香は反論した。

背筋がひんやりして冷たい汗が流れていくのを感じた。

綾香は自分がおびえていることに気がついた。

しかしこのまま流されるのだけは避けなくてはいけない。

流されてしまえばもう二度と元の世界には帰れない。

「さっきから聞いていれば勝手なことばかり言って!私の気持ちなんてどうでもいいのね!?」

綾香は愁宋を睨み付けた。

「どうでもいいなんて思っていない。婚礼だってすぐにあげるつもりはない」

「じゃあ何だっていうのよ。それに私はあなたのこと好きじゃないし、結婚なんてする気はないわ!」

ギリっと愁宋の腕に力が入った。

「っ!」

痛さで顔が歪んだ。でも綾香はひるまなかった。しばらく愁宋と綾香は睨み合った。

先に目をそらしたのは愁宋だった。

腕に込めた力を緩め、愁宋はこう言った。

「いいだろう。では、俺と取引しよう」

「取引?」

「ああ、一か月ここに滞在してもって俺のことを好きになってもらう、もし好きになれなかった場合俺はお前のことを諦めて元の世界に帰そう。どうだ?」

一か月・・・。

おそらく、彼にとって一番の妥協案だろう。

雰囲気から察するところこれを承諾しなかったら綾香を閉じ込めて、無理やり婚礼を行いかねない。

「いいわ、取引しましょう」

綾香はしぶしぶ承諾した。

「では、取引成立だな。」

言いながら愁宋は綾香の頬に再度口づけを落とした。

「なっ、いきなり何するのよ!びっくりするじゃない」

心臓の高鳴りを悟られないように愁宋の腕を振り払った。

「頬に口づけしただけなんだが・・・?」

「私の世界ではこんなことは親密な人にだけするものよ!気軽にするものじゃないの!」

心臓の音は隠せても綾香の顔は真っ赤になっていた。動揺しているのがどうしても伝わってしまった。

「この国でもそうだ。好きになってもらうためにこのくらいはさせてもらわないと意識してもらえないだろう?」

綾香は顔をふいっとそらした。恥ずかしくて愁宋を直視できなくなった。

「意識したからって必ずしも好きになるってわけじゃないと思うけど」

愁宋は腕を組んで考えてから不穏な笑みを浮かべた。

「では、色々試させてもらうとしようか」

会話が終わったのを見計らってか使用人の一人が愁宋のもとへやってきた。

「愁宋様」

そういうと愁宋の足元に跪き顔を伏せる姿勢をとった。

「何だ、入室を許した覚えはないが・・・?」

急に凛とした空気が張り詰めた。愁宋は王としての威厳を持っているようだ。

今日、初めて会った綾香にもわかるほど強い何かを感じる。

「申し訳ありません。北地区で少々怪しい動きがあると通達がありましたので早急にお知らせに上がりました。」

はぁっと愁宋がため息をつき口を開いた。

「軍事責任者を呼んで来い、すぐ執務室へ向かう」

「はっ、仰せのままに」

その人物は慌てた様子で部屋から出ていった。

「綾香、俺は今から仕事に行かなければならない。この部屋はお前の為に用意した部屋だ。好きに使うといい」

「えっ、はい」

あっけにとられ、使用人とのやり取りをみていた綾香は我に返った。

「何か不自由なことがあればこれを使って人を呼ぶといい」

愁宋は綾香の手を取りそっと掌に乗るほどの鈴を渡した。

その鈴は凝った細工でとてもきれいな音色だった。

「これは?」

「呼び鈴だ、鳴らせば使用人が来てくれる。俺はもう行く」

そういうと踵をかえし部屋から出て行ってしまった。

あとに残されたのは立ち尽した綾香と、小さく心細げに”ちりん”となる鈴だけだった。


そんな経緯で綾香は一か月このよくわからない世界に留まらなくてはならなくなった。

(なるべく元の世界のことは考えないようにしよう)

考えれば考えるほど不安になるから。

とりあえず愁宋のことを好きにならないようにしよう。

(今の私にできることはそれくらいだから)

テーブルに突っ伏しため息をついていると扉越しに人の気配を感じた。

「誰かいるの?」

顔を上げて扉のほうに向かい声をかけた。

「あっあの失礼します!」

ぎいっと扉が開き12歳くらいの女の子が入ってきた。

不安そうな表情で綾香のほうをじっと見ている。

「あの、わたし沙希さきといいます。綾香様のお世話をするように命じられてきました」

かしこまった口調ではあるが幼さが残る話し方だ。

(か、可愛い)

子供が好きな綾香は自分の状況を忘れて沙希と名乗った少女に釘付けになってしまった。

沙希は色の白い小柄な女の子だった。髪を両方に分けて結んでいる。

身につけているものは中国の女官を思わせるような衣装だった。民族衣装なのだろうか。愁宋も同じような衣装だった。

「沙希ちゃんって呼んでもいい?かわいい名前ね」

名前を誉められた沙希は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしている。

「私の世話って・・・愁宋が沙希ちゃんに命じたの?」

「はい、愁宋様が綾香様は呼び鈴を使わないと思うからお側についておいてくれっと」

確かに綾香は呼び鈴を使う気になれなかった。自分のことは自分でして育ったのだから誰かに頼むのはいやだった。

(どうしてわかったのかしら)

複雑な気分だった。好きになってはいけない相手からの心配り。

綾香は自分に再度言い聞かせた

(好きになんてならないんだから)

綾香は気持ちを切り替えて頭を左右に振った。

愁宋には聞きにくいから色々沙希ちゃんに聞いてみよう。

「沙希ちゃん、ここはどんな国?私はほかの国から来たの。だから色々教えてくれないかな?」

「はい!私にできることなら喜んで。何でも聞いてください!」

使命感に燃える沙希を見て心が温かくなった。

(まず聞きたいことはー・・・)

「沙希ちゃん、お手洗いはどこにあるのかな?」

これだけはきちんと聞いておかないといけない。どんな環境でも生理的な現象は起こるのだから。

お手洗いから戻ってきた綾香は驚いた。ベッドの上に広げられている衣装と美しい宝石の数に。

「沙希ちゃん!これは?」

「愁宋様からの贈り物です」

沙希は次から次へと荷物を運びこんでいた。

綾香が部屋を出てそんなに時間は経っていないはずなのに・・・。結構仕事ができるこのようだ。

愁宋からの贈り物はどの品も高級品だと綾香にも分かった。

綾香はため息をついて簪を手に取った。その簪もきらきらと光り輝いていた。

「困るわ」

「え?なぜです?」

綾香が喜ぶと思っていた沙希は戸惑った。女性なら美しい装いをして高価な宝石でその身を飾りたいと思っていたからだ。もちろん、王からの贈り物なのだから絶対に喜ぶと確信していた。それなのに、綾香はこんなものいらないとでもいうような表情を浮かべていた。

綾香も女だ。

これが元の世界なら珍しい衣装にきれいな宝石を見たら喜んだかもしれない。

しかし、今はとても喜べる状態ではなかった。

なぜなら、取引の最中なのだから。

(甘い誘惑、これはきっと罠だ)

「ねぇ、沙希ちゃんお願いがあるんだけどいいかな?」

「はい、何なりとお申し付けください」

罠にはまらないように綾香も考えて動かなくてはならない。

綾香の”お願い”に沙希は一瞬躊躇ったが了承してくれた。


あたりが暗くなりはじめ鈴虫が泣き始めるころ愁宋が綾香の部屋を訪ねてきた。

綾香を見るなり笑い始めた。

「何がおかしいのよ?」

愁宋はくっくっくっと笑いをかみ殺している。

遠くから沙希がその様子を不安そうに見ている。

「いや、簡単にはいかないようだと思ってな。何が気に入らなかった?どれも高級品ばかりだったのに」

「いいえ、気に入らなかったわけじゃないわ。ただ受け取れないのよ」

「しかし、その恰好は・・・」

「私はこの服を気に入ったの。大事な友達に借りているの」

愁宋が言いたいことは分かってる。先に借りたこの服のサイズが綾香に合っていないことだ。

綾香は愁宋の贈り物を身につけなかった。でもずっと制服のままというわけにもいかず沙希に服を借りたのだ。

綾香が身につけているのは沙希の服だった。

少し丈が短い。例えるなら子供用の浴衣を着ているような感じで下からスカートをはいているような状態だ。

面白そうに愁宋が綾香を見つめている。

「誘惑しているのかと思った。そんなに短い丈の衣を着て」

はっとして綾香は両手で足を隠した。

「なっ、どこを見ているのよ!変態」

今までそんなことを意識していなかった分、恥ずかしさが増す。

「今回は贈り物をするのを諦めるとしよう。その姿が見られた分だけ良しとしよう」

あっさり引き下がられて綾香は戸惑った。

「え?」

「だが」

愁宋は綾香に自分がまっとていた服を着せた。すっぽりと覆われ、腰に飾り紐が素早く巻かれた。

「素肌を人前で晒されるのは面白くない。」

だぼだぼのその服からふわりと甘い香の香りがした。

不覚にもドキッとさせられてしまった。

仕返しをしたしたつもりが倍返しで戻ってきた感覚だ。

(ときめいてしまうなんて・・・)

一人で落ち込んでいると愁宋が沙希に声をかけた。

「沙希、もう下がっていいぞ。ご苦労だったな」

そうして、愁宋と二人きりになってしまった。

時間帯は夜の8時から9時頃だろうか。この部屋には時計がない。

なので正確な時間を把握することはできない。なんとなくでしか時間の流れがわからない。

「どうした」

不思議そうに綾香に問いかけてきた。綾香はそっけなく返した。

「何でもない」

特にすることもないのでとりあえず、椅子に腰かけ窓の外を眺めていると愁宋は綾香の部屋にあるベッドにゴロンと横たわった。

(疲れてる・・・?)

仕事のほうは片付いたのだろうか、きっと今まで仕事をしていたのだろう。

「ご苦労だったのはあなたのほうじゃない。問題は解決したの?」

「どうだろうな、まだしばらく様子を見ていかないと何とも言えない」

ぼそりと呟き、青い瞳を閉じた。

そんな様子を見ていた綾香から自然と言葉が漏れた。

「王様も大変ね」

「ああ、王なんて進んでやりたいとは思わないな」

何かを嘲笑うように吐き捨てた。

「不思議な力があるんだからそれを使ってぱぱっと片付けられないの?」

愁宋に不思議な力が備わっていることを綾香は思い出した。

(光の空間を開いたり、変な珠で盗み見たり、異界とつなげる力があるのにどうしてその力を使わないのだろう)

「俺の持つ力は異界とつなげることと、田畑を潤したり、水害から国を守ったりできるくらいだ。人間相手に使える力じゃない。」

「ふーん・・・?それって魔法なの?」

「魔法か、まぁ、そのようなものだ」

愁宋は特に詳しく説明するつもりはないらしい。

「力のせいで王族でもない俺は玉座に縛られる」

「え?」

(どういうことだろう)

「生まれながらの王族じゃないの?」

綾香は彼の表情が見たくて、愁宋の横たわっているベッドまでいき隣に腰かけた。

愁宋はずっと瞳を閉じている。

「この国では青い瞳をし、水を操れる者が王位を継ぐことになっている」

「水を操る?」

(そういえばさっき、田畑を潤すとか、水害から守るっていっていたわ)

「じゃあ、水を操ることができるってだけで王にされているの?」

愁宋は瞳を開き、起き上がり綾香の隣へ座った。

「綾香・・・今から昔話でもしようか・・・」


「昔話?」

「そう、俺の昔話をしよう」

「俺はもともとは貧しい農村部の生まれだったんだ。この国、藍司あいしは国王が崩御すると能力が他者へ移る。それも幼い子供に。神官たちは国を守るため、能力が移った子供を探す。子供が見つかると親から多額の金でその子供を買う。

青い瞳は目印だ。俺の瞳ははじめ・・・黒かった」

愁宋もそうやって連れてこられた子供だった。だが、愁宋の場合、悲劇が生まれた。

「俺は母と二人暮らしをしていた。父はすでに他界していた。母は俺をとても大事にしてくれていた。母は神官たちの申し出を拒んだんだ。金も受け取らず、俺を渡そうとしなかった。貧しい農村部だったから周囲の人はそんな母を非難した」

綾香はうつむきながら話す愁宋の顔を覗き込んだ。愁宋は悲しそうな表情を浮かべている。

「それでなにがあったの?」

「村人は母を殺し、俺を国に売った」

あまりにも悲しい話に綾香は息が詰まった。

「嘘・・・そんなことって」

「この世界では稀にあることだ。それだけ水が大切なんだ。今は肥沃な大地が広がっているが、藍司は砂漠の真ん中にある国だ。とても人が生きていける環境じゃなかった。初代の王がなぜここに国を作ったのかは誰も知らないし記述も残ってはいない。

「じゃあ、愁宋がいなくなって次の王が現れなかったらここはー・・・」

「そう、また砂漠に戻り、民は行くあてもなく彷徨うだろう」

この時初めて今までの愁宋の言葉が一つにつながった。

なぜ悲しそうなのか、自嘲気味に笑うのか、なぜ王座に縛られているのか。

愁宋は両手で顔を覆ったまま言った。

「母も馬鹿だ。おとなしく俺を渡していれば死なずに済んだものを」

綾香はぎゅうっと愁宋を抱きしめた。

「そんな言い方しないで!愁宋のお母さんはあなたを愛していたから国に売ったりできなかったのよ」

しまったと思った時には遅かった。しっかりと両腕で愁宋を抱きしめていた。

「ご、ごめんなさい」

ぱっと手を放し離れようとしたが、いつの間にか腰を捉えられて、抱きしめられていた。

居心地が悪くてもぞもぞしていると頭の上で声がした。

「すまない、もう少しこのままでいさせてくれないか?」

いつも強くてはならない人の弱い部分を見てしまい綾香は戸惑った。

本人の意思とは関係なく、周囲に求められているものと自分が持った能力がつり合ったというだけで彼は王座に縛られている。

「愁宋が死なないと次の能力者は現れないの?」

「今までがそうだったようだ。生きてるうちに王が変わったという話は聞いたことがない。死ぬまで俺は、王であり続けなくてはならないのだろうな」

愁宋の瞳は青く澄んでいて美しかった。今はその瞳は天井を仰ぎ見ている。

そうやって王になった愁宋だけど彼は民を見放したりしないだろう。根拠はないが綾香はそう思った。

「綾香、何もしないから今日はこのまま眠ってもいいか?」

そういうと綾香に抱きついたままベッドへ横たわった。

「わっ」

当然綾香も一緒に転がるようにしてベッドに倒れこんだ。

豪華な天蓋が視界に入ってきた。

それと同時に安らかな寝息が聞こえてきた。どうやら愁宋は眠りについてしまったらしい。

「何なのよ、もう」

やるせない気持ちで胸がいっぱいになった。

(聞きたいこと、言いたいことがたくさんあったのに。それなのに。こんな話聞いてしまったら・・・)

「腕を振り払うこともできないじゃない」

また明日話を聞こう。

綾香も瞳を閉じ眠りについた

翌朝目が覚めると愁宋の姿はなかった。

「・・・本当に勝手な人ね」

(仕事があるのかしら。一体いつベッドを出て行ったのだろう)

綾香がそんなことをぼんやり考えていると扉をたたく音がした。

「は、はい。どうぞ」

「綾香様おはようございます。」

扉が開き沙希が入ってきた。

「朝食をお持ちしました」

(いい香り)

「お口にあえばいいのですが」

テーブルには野菜をふんだんに使った料理がたくさんのっていた。

日本料理とあまり変わらない見た目だ。

次の瞬間、綾香のお腹がぐぅぅぅっとなった。

(そういえば昨日は色々あって二食も食事をとり損ねたわね)

「やっぱりおなかがすいていたのですね。すみません。昨夜は気がつきませんでした」

本当に申し訳なさそうに沙希が頭を下げて謝っている。

「ううん、気にしないで、昨日はおなか空いてなかったの。本当に気にしないで」

(こんな小さい子に気を使わせちゃってわたし、情けないなぁ)

沙希はてきぱきとテーブルのセッティングを進めていく。

「沙希ちゃんはもうご飯食べた?」

沙希はきょとんとした顔で綾香を見た。

「いいえ、まだです。なぜですか?」

「一人で食べるのは寂しいから一緒に食べてくれない?」

沙希はガチャンっと食器をとり落としそうになった。

「いけません!駄目です!」

「えぇ!?どうして?」

「綾香様は未来の正妃様です。そのような方と一緒に食事なんてとんでもないです」

この城で綾香はすでに未来の正妃様として扱われてるらしい。綾香はくらりとめまいがした。

「沙希ちゃん、私は愁宋と結婚するつもりはないのよ」

「え?そうなんですか?あれ、おかしいですね聞いていた話と違うようです」

「うん。だって、わたしは自分の国に帰るつもりなんだもの。長くはここに居れないの」

「でも愁宋様は綾香様と婚礼をあげるおつもりだとおっしゃっていたそうです」

(城の皆に婚約者として紹介しているのね)

「おなかが空いたし食べましょう。せっかくの料理が冷めてしまうわ」

そう促し沙希に食事を勧めた。

渋々ながらも一緒に食べてくれる沙希に感謝しつつ少し冷めた朝食を口にした。

食事もとり終わり特にすることがないので椅子に腰かけ昨夜のように外を眺めた。

城の中庭が見えた。手入れが行きとどいている美しい庭園が広がっていた。

日本庭園を思わせる中庭で小さな橋を架けた池もある。

思わず自分の世界のことを思い出してしまった。

「綾香様?どうかなさいましたか?」

「ん?なんだかあの庭を見ていると懐かしくなってしまって」

「綾香様、さっき言ってらっしゃったことって本当なんですか?ご自分の国に帰るって」

沙希のその言葉にすぐに返事ができなかった。何とか声に出して伝えた。

「帰るわ」

「そうですか、残念です」

昨日の綾香なら間違えなくきっぱり帰るといえただろう。元の世界に帰りたいのは今も変わっていないが、愁宋のことを考えると言葉が濁ってしまった。

「そういえば、愁宋はどこにいるの?」

「愁宋様なら執務室にいらっしゃると思います」

”無理やり玉座に据えられた孤独な王様”

昨夜聞いた話が忘れられない。今彼はどんな気持ちで母を殺した国を守っているのだろう。

「会いに行ってくるわ」

愁宋の顔を思い出しながら綾香は部屋から出ようとした。

「綾香様!お待ちください」

沙希がすごい勢いで綾香のところにやってきた。

「えっと、会えない決まりがあるとか・・・?」

「いいえ、そのようなことはありません。あの、申し上げにくいのですが、そのお姿のまま城内をお歩きになるのはよろしくありません」

「あっ」

綾香は自分の姿を確認すると納得した。

この姿を見た人は綾香が愁宋にとってどういう人物か一目でわかるはずだ。

昨夜愁宋に着せてもらった服をそのまま身にまとっていた。

「着替えたほうがいいよね」

「はい」

沙希は嬉しそうに綾香の服を用意している。

結局綾香は愁宋の贈り物を着ることになった。

「はぁ」

たくさんの書簡と役人に囲まれた愁宋はため息をついた。

しかしそのため息は仕事疲れのものではなく自己嫌悪によるものだった。

(昨夜は綾香に弱いところを見せてしまった。一体綾香はどう思っただろうか)

珠を通して綾香のことを知っていたといっても初対面の人間になぜあんなに気を許してしまったのだろうか。

今朝、目が覚めたとき、昨夜の失態を思い出して綾香が目覚める前に身支度を整え急いで執務室に来てしまった。

「愁宋様、いかがいたしました?」

軍事責任者の加賀かがという男が声をかけてきた。加賀は40歳前後の体格のいい男だ。軍の総大将なので武勇に優れている。

その功績も周囲に認められており、実力で今の地位を手に入れた人物である。

加賀は愁宋が幼いころからの教育係も務めており、愁宋にとって兄のような存在だ。

「いいや、何でもない」

長年一緒に過ごしてきた加賀は愁宋が珍しく落ち着きを失っていることに気がついていた。だが、あえてそのことには触れなかった。

「お疲れのご様子ですね、少々休憩にいたしましょう」

そういうと片手をあげ、部下たちに合図を送った。

加賀の部下たちと役人たちは執務室を後にした。

「加賀、すまない。気を使わせてしまって・・・」

「いいえ、また昼過ぎにここへ参りますので会議はその時に行いましょう」

仕事に身の入らない愁宋を怒るわけでもなく、加賀は部下たちに続いて退出した。

静まり返った部屋に一人残された愁宋はぎしっと椅子に背を預けた。

加賀のおかげで一息つくことができた。

愁宋は目を瞑り自分が初めて珠を作ることができると気がついた日のことを思い出していた。初めて異世界をのぞき見した時のことをー・・・

それは8年前。国王になって5年目の秋。愁宋が12歳の時の出来事だ。

愁宋は母の死後、神官たちに城へ連れてこられた。

はじめは反発していた愁宋だが考えを変えた。

(母のような人を出さないために法を変え、強い王様になろう)

立派な国王になるために幼いながらも色々なことを率先して学んだ。

ある日書庫で探し物をしているときほこりにまみれた1つの巻物が目についた。

一番下の棚に収められているそれはたくさんある書物のなかでもかなり古いものだった。

(汚い巻物だな、何が書かれてあるんだ?)

屈んでその巻物を手にして、ほんの些細な好奇心からそのまま読み進めた。

その巻物には珠の作り方や、色々な呪法の説明が記されていた。

(異世界を見る?運命の相手を探す方法?光の道の開き方・・・?)

初めはこんなことできるはずないと思い小馬鹿にしながら読んでいた。しかし、読んでいるうちに実践してみたくなった。

愁宋は立ち上り巻物に記されている泉へと向かった。

加賀や使用人たちの目を盗み何とか城から脱出することができた。

胸が高鳴る。

(なんだろう、楽しいと感じている)

それは忘れていた感覚だった。母の死を目の当たりにし、それ以来愁宋は感情をなくしていた。感情を抑え込んでいたといったほうが正しいかもしれない。

自分を守るために命を落とした母。だから、愁宋は守られなくてもいい人間になろうとした。

帝王学や、自国や他国との関係。歴史を学んで誰にも負けない強い王になろうとした。

肉体的にも強くなるために加賀に体術や剣術、馬術も習った。

前王から受け継いだ力も前例がないといわれるほど使いこなせるようになった。

こうしてわずか12歳にして最強と謳われる国王となった。

自分が理想としてきた人間になった。

しかし、愁宋は気づいていた。自分の心の隙間に。どんなに強くなっても、どんなに学を積んでも、手に入れられないものがあると。

「この泉で間違いないな」

記されていた場所は城外にある小さな泉だった。愁宋は用意していた竹筒に泉の水を汲んだ。

その竹筒を大切に城へもって帰った。

自室の扉を開けようとしたとき後ろから大きな声がした。

「愁宋様!」

加賀は愁宋の両肩に手を置き揺さぶった。

「どちらにいらしていたんですか!?資料を探しに行ったきりお戻りにならないので心配いたしました」

「わっ」

振動で竹筒の水がこぼれないよう必死に手で蓋をした。

「すまなかった、すぐに戻るつもりだったんだが・・・その、資料が見つからなくて」

(忘れていた。学問の途中だった)

「そうですか、無事ならよいのです」

心底安心したように言ったあと、加賀は急いで両手を愁宋の肩から外した。

「どうかご無礼をお許しください」

加賀が愁宋に触れることは珍しいことだった。幼いながらも王位についているので本来はかるがるしくふれてはいけない。

しきたりの一つだ。

それさえなければ加賀は愁宋の頭をなでかねない。

今までもうっかり加賀は愁宋に触れてしまっている。勢い余ってというやつだ。

「日も暮れましたし、剣術の稽古は明日にいたしましょう」

「ああそうだな」

そうして加賀は愁宋の部屋を後にした。

加賀こそ本来王にふさわしい人物ではないだろうか。

明るく快活で人を思いやる心を常に持っている。知識、経験、武術すべてを兼ねそろえている男。

(きっとこの力も加賀のような男にこそ相応しい)

机の上に竹筒をおき、窓から差し込む夕日を見ながらそう思った。

「まあ、そんなこと考えても仕方がないか」

楸宋は誰にも聞こえない声で自分を励ました。

 初めて珠を創るには他にも条件をそろえなくてはいけない。

満月であること、誰にも見られてはいけない、部屋の明かりは全て消すこと。

(確か今日が満月だったな)

愁宋は満月か確かめるため窓を開けて身を乗り出し確認した。

思った通り今夜は満月だった。夜空には美しく弧を描いた月が昇っている。

(珠は一度創ってしまえば、いつでも好きな時に手元に出せる・・・か)

書簡を手に取りもう一度創り方と使用方法を読み返した。

書簡には珠に映りし者汝の伴侶となるだろうと書かれている。

一体どんな人間が映し出されるのだう。

(光の道は迎えに行く時と送るときの二回しか開くことができないのか)

愁宋は覚えた手順通り行った。人気がないことを確認して部屋の明かりを消した。

次に泉で汲んできた水を掌に3滴落とし、これを月明かりにあてながら呪文を唱えた。

「我が名は愁宋。水を司る者。今この時より汝の主となる」

掌の水滴が丸く珠のようになる姿を思い浮かべた。

すると水滴は愁宋が思い描いたとおりきれいな珠になった。

愁宋の周りに3つの珠が浮かんでいる。それは淡い光を放ちとても美しく輝いていた。そのうちの一つを手に浮かべさらに唱えた。

「我の求めるものの姿を異界より映し出せ」

ぱぁっと光が強くなり珠は一人の少女を映し出した。

映し出された少女は愁宋より年下の幼い子供だった。

愁宋は少女をじっと観察した。

名前は何というのだろう。どんな声で話すのだろう。愁宋は少女に夢中になっていった。特別美しいわけでも賢そうでもない。しかし、自然と目が追ってしまうのだ。

(不思議な気持ちだこの気持ちは・・・しらない)

胸がぎゅうと締め付けられ、心臓の鼓動は早くなる。

(会いたい)

会って彼女に触れてみたい。そばに置いて守りたい。そんな感情がわいてくる。

「知識では知っているがこれが愛おしいということなのか?」

初めて知る感情に戸惑いながらもうっすらと自分の気持ちを認めていた。

(そうだ、今すぐにでもこっちの世界に連れてきてはどうだろう)

「・・・駄目だ」

愁宋は気がついた。

(そんなことをすればこの子は両親や友人から引き離されてしまう・・・あの時の俺のように)

つらい過去の記憶がよぎった。

手の上の珠を見つめながらため息をついた。会いたいがまだ今はその時じゃない。

「まだはやいな」

そう自分に言い聞かせた。それまでは見守っていよう。

この子が自分で決断できるようになる時まで待とう。

「早く、大きくなってくれ。そうしたら必ず迎えに行くから、待っていて」

祈るように囁くように愁宋はひとり呟いた。

やがてその時は来た。

愁宋は20歳になり立派な青年へと成長した。権力もあり、財もたくさん持っていた。王である愁宋は当然女性にもてた。

しかし愁宋は綾香への思いを貫いた。その結果どの女性とも関係を持っていない。

そしてやっと成長した綾香を迎えに行くことができた。ほかの女性たちと同じように権力や財に目がくらんで嫁いでくるものかと思っていたが彼女はそんなものに興味を示さなかった。愁宋の人柄だけ重視していた。

愁宋は初めて”自分”を見てくれる人に出会えてうれしかった。

(綾香の前では王を演じなくてもいい。綾香は王としての俺ではなく本当の俺を見てくれている。)

だが、ずっと思いを寄せていた女性に好きじゃないと断言されてしまいショックを受けた。正直、腹が立った。綾香にではなく自分自身に。

(どうして簡単にいくと思ったのだろう。綾香をどうしても手に入れたい。体を奪うことは簡単にできるだろう。でも、心がなければ意味がない。こんなことにも気づかなかった)そんなことを思いながら手つかずの書簡を手に取り視線を落とした。

(午後からの為に、少しでも目を通しておこう)

愁宋は仕事を再開した。

見慣れない建物の中を綾香は沙希と歩いていた。

建物の内装も中国の城をイメージさせるものだった。石畳の廊下。手すりは木製で美しい細工が施されている。おいてある調度品も高級そうなものばかり。

(すれ違う人たちの視線が痛い)

皆、綾香が正妃候補であることに気づきひれ伏している。そのうちの何人かは品定めをするかのような視線を綾香に向けてくる。

心の中でため息をつき、沙希に連れられて愁宋のいる執務室へと向かった。

「綾香様、どうしました?」

そんな綾香の様子に気がついた沙希が声をかけてきた。

「何か注目されていて落ち着かないの」

視線を避けるため、うつむきながら歩く。

「そうですね。皆、綾香様にご興味を持たれています」

「興味?」

綾香は訝しむように聞いた。

「はい、愁宋様は今まで、女性に関心を示さなかったので。そんな方がいきなり正妃にすると宣言して綾香様を連れてこられたのです。それで皆おどろいて、興味を持たれたのです」

「そうなの?」

「はい。何でも心に決めた女性がいるからって縁談、求婚すべて断っていました。言い寄ってくる女性も追い払われていました」

「それじゃあ、今まで恋人もいなかったってこと?」

「はい」

沙希は振り返り綾香を見て微笑んだ。

「心に決めた女性って、綾香様のことだったんですね」

綾香はかぁっと真っ赤になった。

”ずっと好きだったんだ、一目ぼれなんだ”昨夜聞いた愁宋の告白を思い出した。

(そうだ。私、告白とプロポーズ一気に受けたんだったわ)

今この時まで意識していなかった。(どきどきしてきた)

こんな心境で愁宋にあって誘惑されたら流されてしまうかもしれない。

「沙希ちゃん」綾香は足を止めた。

「綾香様?」

「やっぱり、会いに行くのやめておくわ」

そういうと綾香は来た道を戻ろうと踵をかえした。次の瞬間ドンっと強い衝撃を受けてしりもちをついてしまった。

「きゃ」

「わっ」

ぶつかったのは体格の良い男だった。

「すまない、大丈夫か?」

彼は心配そうに綾香に手を差し伸べた。

綾香はためらいながらも男の手を取り立ち上がった。

「大丈夫です。すみません。ちょっとぼんやりしていて・・・」

すぐに沙希が駆け寄ってきた。

「綾香様、お怪我はありませんか?」

「うん、びっくりしたけど大丈夫よ」

そう言って沙希に笑顔を見せた。

「加賀様。お疲れ様です」

沙希が恭しく頭を下げた。敬称で呼んでいるところを見ると加賀という男は身分の高い人物なのだろうか?

「ああ、見ての通りお疲れだ」

加賀と呼ばれた男はにかっと冗談めかして笑っている。

「沙希、その方は?」

加賀は視線を綾香へ向けた。

「愁宋様の正妃になられる方です」

沙希はきっぱりと答えた。

(違う!)

綾香は心の中で突っ込みを入れた。

「愁宋様の?」

加賀は驚いて目を見開き、改めて綾香をじっと見た。だが決して品定めをしているような嫌な視線ではなく穏やかな目で見ている。

「あの私、綾香といいます」

自己紹介したものの、異世界から来たことや愁宋と取引していること、元の世界に帰るので愁宋の正妃にはならないこと。色々考えて言葉を選ぼうとするが考えがまとまらなかった。

(沙希の言葉を否定したかったのに・・・)

加賀はその場に跪いて綾香に挨拶をした。

「とんだご無礼を。お初にお目にかかります。私はこの国の軍事責任者、加賀と申します。以後お見知りおきください」

「か、加賀様ですね。こちらこそよろしくお願いします。」

礼には礼を示さねば。そう思い綾香は深々とお辞儀をした。

「加賀様、愁宋様は執務室ですか?」

沙希が愁宋の居場所を確認した。

「ああ、今少し休憩していらっしゃる。会いに行くのか?沙希?」

「はい、綾香様がお会いしたいとおっしゃるので」

「ちょうどよかったです。愁宋様は何か落ち込んでいらっしゃるご様子だからきっとお喜びになると思います。」

「愁宋様を宜しくお願いいたします綾香様」

そう一言残し、加賀は去っていった。

「今の人は愁宋と親しいの?」

加賀の後姿を見送ってから沙希に声をかけた。

「はい。加賀様は愁宋様の一番の側近です。加賀様は愁宋さんさの教育係もしておいででした」

「そうなんだ」愁宋の話す加賀はとても優しい目をしていた。

「綾香様、愁宋様のところへ行きましょう?」

「・・・そうね。何かあったのかもしれないし・・・行きましょう」

気を取り直し愁宋に会いに行くことにした。

「ここが執務室です、私は外で待っていますから」

「うん、ありがとう」

綾香は戸をたたいた。

「愁宋?」

そっと戸を開き中へ入った。

「綾香?」

書簡にサインをしていた愁宋はいきなりの訪問に驚いたらしく手にしていた筆を床に落とした。

「ごめん、邪魔だった?」

その反応を見てやはり来るべきではなかったのかと思い、少し寂しくなった。

「いや、どっちにしても仕事になっていなかったから平気だ」

愁宋は床に転がり落ちた筆を拾いながらそう言った。

「それより、贈り物は受け取ってくれたのか?」

綾香が自分が見立てた衣装を身につけている。愁宋は少しうれしくなった。

「まだ受けとった訳じゃないわ。借りているだけよ」

「それでもいい。よく似合っている。着てくれてありがとう」

愁宋は綾香に微笑みかけた。不覚にもまたときめいてしまった。

会った時は強引で身勝手な奴だと思ったが、今は違う。

あの偉そうな態度は演技だったのではないだろうか。だって、今目の前にいる彼はとても穏やかな表情を浮かべている。

きっと今目の前にい愁宋が本当の愁宋なのだろう。

「私のほうこそ、こんなに素敵な衣装をありがとう」

自然と素直な言葉がするりと口からもれた。

「だが、借りてるだけで受け取ってくれないんだな」

少しがっかりしている愁宋をかわいいと思ってしまう。

「そうね」

いずれは元の世界に帰らねばならない。向こうには家族、友人、学校。綾香にとっての”現実は”あちらの世界なのだから。

「まぁいい、こっちに来てよく見せてくれ」

愁宋は綾香に手を差し伸べた。綾香は戸惑いながらも彼の手を取った。彼のぬくもりが手から伝わると胸が高鳴ってしまう。どうしてこうなってしまったのだろう。

愁宋は椅子から立ち上がり、綾香の手を握りダンスをしているかのようにくるりと綾香を回した。

愁宋が見立てた服は着物にも似ていたが、中国の衣装にちかかった。

ゆったりとした袖に長い裾、腰より少し高い位置で帯を止める。そして、帯飾りなどを付けていく。 色は白を基調とし、帯には花柄の模様が入っている。

沙希が髪飾りもつけてくれた。金色の髪飾りは耳元で涼やかにシャランと音が鳴る。

「うん。本当によく似合っているな」

愁宋は満面の笑みを浮かべた。

(やめて、これ以上私の心を乱さないで)

(綾香は愁宋に惹かれている自覚がある。だから、こんなにも苦しくなる。もし好きになってしまったらわたしは帰れなくなる)

変な意地を張っている自分が恥ずかしい。でも素直に受け取ることができたらどんなにいいだろう。

「それより何かあったの?」

綾香は慌てて話題を逸らした。

「いや、特に何もないが、どうっしてそんなことを言うんだ?」

愁宋は訝しんで綾香に問うた。

「さっき、加賀さんに会ったの。そしたら、愁宋が落ち込んでいるって言っていたからそれで心配で様子を見に来たの」

「心配してきてくれたのか?」

「うん」

愁宋は片手で口元を押さえている。顔がみるみる赤くなっていく。

(わたし、そんなに変なこと言ったかな?)

「加賀と会ったのか・・・他には何か言っていなかったか」

「特に何も」

はー、と愁宋は息を吐いた。

「やはり付き合いが長いとごまかせなくて色々都合が悪いな」

「やっぱり落ち込んでいたの?」

綾香は愁宋を見上げ訊ねた。

すると愁宋はばつが悪そうな表情を浮かべた。

「仕事のこと?」

「綾香のことだ」

間髪入れずに帰ってきた答えに綾香は驚いた。

「私のこと?」

一体どういうことなのだろう。

「落ち込んでいたわけじゃない、それは本当だ。ただ初めて綾香を見つけたときのことを思い出していたんだ。」

「?」

愁宋の言っていることはいつもよくわからない。一体何が言いたいのだろう。

綾香は愁宋の青い瞳をじっと見つめて話の続きを促した。

「俺が綾香にしていることは、この国が俺たち親子にしたことと変わらないのかもしれない」

「どういうこと?」

机に腰を下ろし愁宋は話し出した。

「綾香をどうしても俺の正妃にしたいからといって、綾香の世界から切り離して連れてきてしまった。」

(愁宋は母親を殺され引き離されて今ここに居る、でも私とは状況が違う。私の両親は健在だし、友人も元気に過ごしているだろう)

「違う!愁宋は無理やり私を正妃にしようとしているわけじゃないわ。愁宋は私の意思に任せてくれているじゃない。ここに残るのも、帰るのも私の意思で決めていいって・・・」

愁宋は首を振り抑揚のない声で言った。

「だが、今の状況は無理やり作られたものだ。本来の場所から綾香を連れ去ったことにはかわりない」

「愁宋・・・」

(確かに私も最初はそう思った。理不尽だとでも今更愁宋にそんなこと言われても困るわ)

愁宋は顔を上げてじっと綾香を見つめて言葉をつづける。

「でも、俺には綾香が必要なんだ。そばにいてほしいと思っているし離したくない」

ぎゅっと綾香の左手を握った。

「困らせていることは分かっている。だけど、せめて・・・もうしばらく付き合ってもらえないだろうか?」

綾香は右手で愁宋の手を握り返した。

「昨日言ったじゃない。一か月はここに滞在するって」

なるべく明るい声で綾香は愁宋を元気づけるようとした。

その効果があったのか愁宋の顔に少し笑みが戻ってきた。

「これから、仕事をしなくてはいけないんだ。終わったら綾香の部屋を訪ねてもいいか?」

(ずるい、またそんなすがるような顔して。・・・そんな顔されたら断れないじゃない)

「いいわよ。でも、今日は一緒のベッドで眠らないわ」

気持ちを悟られないように軽口をたたいた。

私は、帰らなくてはいけない。好きになってしまったら帰ることができなくなる。

でも、もう手遅れかもしれないだって私は、この人をまた孤独の中に叩き落すことなんてできない。

愁宋しゅうそうは毎日夜になると綾香の元へ訪れるのが日課になっていた。

綾香が愁宋の国#藍司__あいし__#に来て半月が過ぎた。

いつものように日が暮れると愁宋は花を抱えて綾香の部屋にばーんっと入ってくる。

「綾香、好きになってくれたか?」

開口一番こんな言葉を言ってくる。

「・・・まだよ」

(懐かれているのだろうか、最初に会った時とまるでほかの人のようだわ)

「そうか」

そういうと沙希に花を渡し花瓶に生けさせた。

綾香が高価なものが苦手なことを知っているので愁宋はきらびやかな衣装や、宝石などではなく庭に咲いている花を自ら摘んで持ってくるようになった。

普通の王様なら使用人に命じて摘ませてくるものだと思うが、それでは意味がないと思って毎日摘んで持ってきてくれる。

綾香はそんな愁宋に好意を抱いていた。

期限はあと半月。

(本当にどうしよう)

「綾香」

唐突に名前を呼ばれ綾香は驚いた。

「は、はい」

「俺は南地区で日照りが続いていると報告を受けたので視察に行かなければならない。ここから馬を使って丸二日はかかる場所だ」

綾香をまっすぐ見つめて愁宋は続けた。

「一緒についてきてくれないか?」

(視察・・・?)

「それってお仕事でしょう?私なんかが一緒に行ったら足手まといになるんじゃないの?馬にも乗れないし」

当然綾香には乗馬の経験はない。

「輿を用意させるから心配しなくてもいい」

うーんと綾香はうなりながら考えた。そんな様子を見ていた愁宋は不思議そうに綾香に尋ねた。

「嫌なのか?」

「・・・この国に来て城から出たことがまだないから少し不安で・・・」

そう正直に答えると愁宋は綾香を抱きしめた。

「大丈夫だ、何があてもお前だけは必ず守るから」

愁宋の腕の中は暖かくて心地よかった。

綾香は少し安心できた。

それでも、愁宋を拒絶しなくてはいけなかった。

「離して、私は・・・まだあなたのこと好きになっていないの」

それを聞いた愁宋は怒るでもなく悲しむでもなくただ、寂しそうに笑うだけだった。

「抱きしめたりして悪かった」

そういうとゆっくり綾香を解放してくれた。

それから二人は椅子に腰かけ南地区がどういう場所か、どのくらいの人数で視察に行くのか、細かい日程、日時の話をした。

「出発は3日後の早朝、服装はなるべくシンプルなものが動きやすくていいと思う。

服は沙希に用意させるから心配しなくていい」

「はい」

(少し不安も残るけど愁宋と一緒なら大丈夫よね)


それから三日後の朝が来た。

予定通り#加賀__かが__#さんと#沙希__さき__#ちゃんとその他軍部の人5人だけの小規模な視察団だった。皆、動きやすそうな恰好をしている。

綾香も沙希が用意してくれた飾り袖のなく色もおとなしめの淡い桃色の衣装だった。

沙希は色違いの緑色の衣装を着ていた。お揃いみたいで綾香は嬉しかった。

王である愁宋は黒色の衣装で地味なものを身に纏っているのになぜか高貴な人なのだとわかってしまう。

男性は皆馬に乗り、私と沙希ちゃんは輿に乗った。

「さぁ、出発だ!」

愁宋が合図をすると、一斉に皆進み始めた。

初めて乗る馬の引っ張る輿は正直乗り心地が良いとは言い難かった。がたがた揺れて乗り物酔いをしそうになりそうだった。

「綾香様?大丈夫ですか?こういう乗り物は初めてですか?」

「うん。実は初めてなの。結構揺れるのね」

口元を手で押さえて今朝の朝食を吐き出さないよう気を付けた。

「少し待っていてください」

沙希は馬を操っていた人に何か話している。

綾香は気分が悪くてその会話を聞く余裕すらなくなていた。

暫くすると輿が止まった。

ほっとしているといきなり愁宋に抱きかかえられた。

「どうした!?気分が悪いのか?」

両手で口元を押さえとりあえず頷く。なぜならしゃべることができないからだ。

(今しゃべったら吐いてしまう!)

そのままおとなしく愁宋に抱きかかえられたまま水辺へと連れてこられた。

愁宋は草の上にじかに座り、その両足の上に綾香を横抱きにしている。

「これは、酔い止めの薬草だ。飲めそうか?」

愁宋が懐から出した緑いろの液体を見て正直無理だと思った。見るからに苦そうで、まるで青汁のような匂いがした。

体調がいいときは難なく飲めるだろうが今は最悪のコンディションだ。

「・・・」

綾香は首を左右に振って飲めないということを伝えた。

すると愁宋は薬の入った小瓶を開け、自分の口に含んだ。

綾香はぼーっとする頭でそれを見ていた。

次の瞬間綾香の唇に愁宋の唇が重なり、苦い味の液体が口腔に入ってきた。

少しずつ綾香がむせないように飲ませてくれているようだった。

最後の液体を嚥下し終るとやっと愁宋の唇から解放された。

「・・・」

「・・・」

気まずい空気が流れる。

愁宋を下から見上げてみると耳まで真っ赤になっていた。

(沙希ちゃんが言っていたっけ。女性とこういう経験がないって)

(いや、私もそうだし!)

「・・・ファーストキスだったのに」

「え?ファース・・・ト?なんだって?」

よく聞き取れなかったようで愁宋は綾香に尋ねてきた。

綾香は両手を伸ばし仕返しとばかりに愁宋の両頬をぎゅううっとつねった。

「何をするんだ?」

「・・・」

愁宋の処置は的確なものなので、ファーストキスを奪われた云々は言ってはいけないことだろう。でも悔しい。初めてはもっとロマンチックにキスしたかった。女の子なら多少シチュエーションを思い描くものではないだろうか。

何もこんなに状態の時じゃなくったっていいじゃないかと思ってしまう。

「何でもない」

そっけなく綾香は答え愁宋の頬を放した。急に恥ずかしくなってきた。でもまだ具合が悪いのでじっとしていたい。

(あれ?そういえばみんなの姿が見えない)

「愁宋みんなはどうしたの?」

「ああ、ここのほかにも小さな泉があるからそっちに行っている。要は人払いをしている。こうでもしないとなかなか二人きりになれないしな」

少し照れたように愁宋は言った。

(良かった・・・みんなに今の見られたら恥ずかしくて死んでしまいそうだもの)

綾香はほっとした。

「具合はよくなってきたか?」

薬を飲んでから少し頭がすっきりしてきたような気がする。

「うん、会話ができるくらいにはよくなってきていると思う」

愁宋は綾香の頭をなでながら言った。

「無理させてしまってわるいな。あと2日はかかるけど何とか頑張ってくれ」

(あー・・・そうだった)

 2日、3日かかるってという話を思い出した。

(大丈夫かな、私)

本気でそう思った。

(車酔いや船、飛行機は酔ったことないのにどうしてこの乗り物だけ合わないのだろう。考えても答えはないんだけど、みんなに迷惑をかけて足を引っ張るのはいやだな・・・)

(でも一度行くって決めたんだから!)

綾香は愁宋の顔を見上げながら言った。

「何とか頑張るわ」

「具合が悪くなったらまた口移しで薬を飲ませてやろう。心配するな。いつでも具合が悪くなってもいいぞ」

愁宋は意地の悪い顔を綾香に向けた。

「・・・愁宋だって女性に口づけしたの初めてだったんじゃないの?」

「そうだが?」

「私でよかったの?」

「お前以外の女とこんなことしたいだなんて思わない。俺はお前だけが欲しい。

経験はないが本能で何とかなるだろう」

青い瞳で見つめられなぜか筋がぞわっとした。

(今不穏なこと言われたような・・・)

綾香は重たい体を引きずって愁宋から距離をっとった。

足元には草原が広がり目の前には小さめの泉がある。愁宋の瞳のように青く澄んでいる。不思議な色だった。

「そんなに警戒しなくても今はまだ何もしない」

「今だろうと後だろうとしなくて結構です!」

綾香は真っ赤になりながら叫んだ。

それから綾香は輿に揺られるときは事前に酔い止めを飲むようにした。


夜は野宿で加賀さんたちが簡易の幕屋を作ってくれた。夜風と雨がしのげるだけすごいなぁと感心してしまった。そもそも文化が違うので驚くことばかりだ。

食事は干し肉と乾燥させた薬草を湯に戻して作った塩味のスープ。そして硬いパンのようなものだった。味あまりよくないが贅沢は言っていられない。

せっかく沙希ちゃんや加賀さんが用意してくれたものなのだからおいしく食べなくては罰が当たる。

食事のときは皆ほとんど会話をしなかった。

(それほど疲れているのね。そういえば沙希ちゃん顔色が悪い)

「沙希ちゃん?大丈夫?」

「綾香様、大丈夫ですよ!少し疲れちゃって・・・」

大の大人の男でもきつい旅なのだ。子供で女の子である沙希には相当のものかもしれない。綾香は沙希を気遣って沙希に休むように促した。

後の仕事は洗い物だけなのだから自分にもできるだろうと思い、やり方を聞きいて実践してみた。

やってみると意外と大変で、食器や鍋は重く数も多い。

それを泉のそばまでもっていって洗うのだ。汚れの落ちやすい石鹸や洗剤などない世界。汚れもなかなか落ちてくれない。

悪戦苦闘していると愁宋がやってきた。

「何をやっているんだ?」

「見ての通り洗い物をしているの。でもなかな汚れが落ちてくれなくて」

泉の前に座りこんでごしごしと皿の汚れを取ろうと頑張っている綾香を見下ろしている。

「かしてみろ」

「えっ?」

そういうやいなや愁宋は綾香から皿を取り上げた。

「こうやるんだ」

どうやら洗い方のコツを教えてくれているらしい。

「あ、ありがとう」

綾香は素直にお礼を言った。

「でも、王がこんなことしちゃいけないんじゃ・・・」

「大丈夫だ、人払いはしているし。それに俺は元は庶民だったんだからこれくらいできる。」

そういう問題じゃないような気もするが、沙希が心配で早く#幕屋__まくや__#に戻りたい綾香はそのまま手伝ってもらうことにした。

「沙希は心配しなくても大丈夫だ。加賀がついているから。」

「えっそうなの?でも男性と二人っきりって大丈夫かしら。」

愁宋は声を立ててわらった。

「あははは、沙希と加賀はいくつ離れていると思っているんだ?間違いなんて起きないだろう」

「だ、だって・・・。」

綾香は変な心配したことを恥ずかしく思った。

愁宋が綾香の手に手を伸ばした。グイッと引っ張られ草むらに倒れこんだ。

「なにするのよ」

「綾香、お前だって男と二人きりじゃないか。そういう心配はしなくていいのか」

仰向けにされ、自分の上に覆いかぶさってきた愁宋の瞳は欲望をたたえていた。青い瞳は蒼く煌いている。まるで野生の狼のような感じだ。

「愁宋?ふざけていないでどいて・・・」

「ふざけてなどいないさ。こうでもしないと全く意識されている気がしないんだ。前から聞きたかった。どうしてお前は俺を期待させる態度をとるんだ?それがどういうことかわかっているのか?」

「期待させる態度って・・・?」

そんなものとった覚えはない。普通に接してきたにすぎない。

「その気もない男を入れたり、笑顔を向けたり、他にもあいまいな態度をとる。やっと好意を寄せてもらえたのかと思えばお前から出てくる言葉はいつも拒絶するような言葉だ。お前の本心を俺は聞きたい。先に言っておく・・・教えてくれるまでやめるつもりはないからな」

愁宋は綾香の上に覆いかぶさり片手で綾香の両腕を封じた。

「やっ」

「嫌がっても・・・やめない。やめてほしいのなら本心を言え」

綾香の首筋に愁宋の唇が触れる。強弱をつけて吸われる。時に痛みも感じた。

愁宋は空いている手で着物のあわせに手を滑り込ませてきた。そのまま一気に胸元を開き露出した肌にも唇を落としてくる。

今まで水を触っていたせいもあり愁宋の手はかなり冷たい。

「ひゃっ、お願いもうやめて」

月明かりに照らされて夜風が吹き抜ける草原でこんなことするなんて・・・愁宋はいつも優しくてこんなことしてくるそぶりがなかった。だから綾香は安心していたのだ。

綾香の乳房に唇がすーっと移動するのを感じた。これ以上はもう・・・無理。

「言うわ!言うからお願いやめて」

両手を拘束されたまま綾香は叫んだ。

それを聞いた愁宋は意地悪く嗤った。彼はきっとこれ以上の行為はするつもりなかったのだろう。やけにあっさり引き下がった。そして綾香の両手を解放した。

「それじゃあ、答えてもらおうか?」

綾香は衣服の乱れを直しながら考えながらポツリポツリと話し始めた。

「私は、帰りたいと思っている。でも・・・」

(悔しい今酷い事された相手にこんなこと言わなきゃいけないなんて)

「でも、愁宋のこと好きになりかけている。このままいけばもっともっと好きになっしまう。だから好きかと問われたときもそっけない態度をとってきた。そんなあいまいな私が真剣に告白してくれている愁宋の告白を受けるわけにはいかなくてあなたからの告白は全部はぐらかしてきたの」

(ああ、だからなのか愁宋がこんなことをしたのは私の態度が煮え切らないから少し脅かしただけだったんだ。こうでもしないと私が”言えない”ということに気がついていたんだ)

「愁宋、ごめんなさい。気持ちを聞いてくれてありがとう」

「ああ、俺も今の答えで満足できた」

愁宋は少しうれしそうにしている。綾香は腹が立った。

「でも」

ぱぁんっと小気味のいい音が響いた。

「こんなことしないで、本当にこのまま・・・されてしまう思ってしまったじゃないの」

愁宋はひっぱたかれた頬を押さえて真顔で言った。

「俺は無理強いは好みではない。思いが通じ合った相手としかしない」

「じゃあ今もし私が”あなたのこと好きで好きでたまらない”とか言ったらどうしたの?」

「もちろん抱いた」

「・・・最低ー」

恐ろしい。男って怖いと綾香は真剣に思った。

色々あったけど何とか南地区と呼ばれるところへたどり着いた。

酷い日照りで作物があまり育っていない。何とか存在している植物たちも枯れて言っていた。

「綾香様、熱いですが大丈夫ですか?」

沙希が気を使ってくれる。

「沙希ちゃんのほうこそ体は大丈夫?熱いのは平気?」

38℃くらいありそうな気温だ。蒸し暑さはなくカラッと熱い。

「ふふ、この南地区は何回か来たことがあるのでこのくらいの暑さなら平気です。」

日本でもこの気温は真夏日だ。日本みたいに湿気がないぶんまだましだろう。

かっかっかと蹄の音がした。

外を見てみると愁宋がいた。輿を止めて、愁宋の馬へ乗るよう促された。

「綾香、ここからは輿で行くのは危ない。道がガタガタしているんだ。俺の馬へ一緒に乗ってくれ」

愁宋とはあれから少しきまづい空気が流れる程度でとくにお互い何もこの間のことは話さない。

「ええ、わかったわ、じゃあ、沙希ちゃんはどうするの?」

「加賀と一緒に乗ってもらう」

「それじゃあ安心ね」


こうして南地区に入ることになったが、愁宋の体温を背中に感じ少しどきりとしてしまう。あの夜のことを思い出してしまう。

(この人わざとああいう風なことしたりするからたちが悪いわ)

馬の手綱を持つ彼の手を見ると触られていた感触までも思い出してしまった。

「俺、あのことは謝らないからな。はっきりしない綾香が悪い」

彼を見上げ、顔を見る。

無表情でよく感情の読めない顔をしていた。

「そのことは・・・もういいわ」

済んでしまったことはしょうがないし、それなりに報復もした。

「それよりこの村、本当に日照りが続いているのね。土がカラカラに乾いているし、農作物もほぼ全滅といっていいほど枯れはてているわ」

そんな綾香の言葉を聞いて愁宋は少し険しい顔をした。

「ああ、ここまでなるまでなぜ南地区の話が俺の耳に入ってこなかったんだ」

「くそっ!」

心底悔しそうに低い声で愁宋は言った。

「でも、まだ間に合うんでしょう?何か雨乞いの儀式をするって聞いたんだけど」

「雨乞い、というよりは俺が雨を降らせるんだ。」

「水を司っているって言ったけどそんなことができるの?」

「・・・できる。俺しかできるものがいないしな。このまま放っておくわけにはいかない」

また愁宋は悲しそうに見える。

こんなときなんて声をかければいいのか綾香には分らなかった。

とてもじゃないが気さくに頑張って、なんて言葉をかけるの不適切のような気がした。

馬に揺られて連れてこられたのは南地区にある大泉だった。大きな泉があった場所は枯れはて、土にひび割れができている。

南地区の住人はほかの地区へ避難し今は無人の村と化していた。

儀式をするときは危険を避けるため人を非難させてからするらしい。

(全部沙希ちゃんに教えてもらったことだけど本当なのかな)

「愁宋、儀式って危険なことなの?」

愁宋は少し間をあけ答えた。

「・・・稀に力が暴走することがあって、神官たちが危険だと判断したんだ。それから住人は避難させるようになったんだ。」

「暴走するとどうなるの?」

「わからない。俺は覚えていないんだ。ただ、水を呼びすぎて辺り一面海のようになってしまう。しばらく人が住めない状態になる。」

「危険ね」

「ああ」


「綾香手を」

「うん」

馬から降りるとき綾香は愁宋の手を借り下りた。

加賀と沙希がこちらにやってきた。

「愁宋様、儀式のご準備をいたしますのでこちらへお願いいたします」

加賀が恭しく愁宋に声をかけた。

「綾香、行ってくるからなるべく高いところに登って避難しておいてくれ。何が起こるかわからないからな」

「・・・気を付けてね?」

愁宋は綾香の唇に軽く口づけをした。

加賀と沙希は見ていないふりをしている。

「なっ」

「そんな顔をしてかわいい事を言う綾香が悪い。言っただろう期待してしまうと」

それから愁宋は綾香と沙希に背を向け片手を振りながら儀式の準備をしに行ってしまった。

「綾香様、本当に愁宋様の正妃様にはならないんですか?」

がっつり今のを見られてしまっていては説得力がないかもしれないが否定しておこう。

「ならないわ。私はー・・・」

(あれ、帰るからと続けようとしたのにどうして言えなかったの?)

愁宋は綾香を気に入っている。ああやって心配してくれるところや気が強くて優しいところもすべて愛おしいと思っている。

このまま元の世界に帰らずに自分の元に残ると言ってほしい。

だが、それはそんなに容易でないことくらい愁宋にも分かっている。昔のがそうだったように。両親や、友人と引き離されることは身を切られるようにつらいことだ。

それを彼女に強要してはいけないと頭ではわかっている。

しかし、彼女が欲しいと強く願う自分がいる。

一体どうしたら彼女の心は自分のものになるのだろう。

最近考えるのはそのことばかりだった。


「はぁ、本当にうまくいかないことばかりだな」

(今はとりあえず南地区のことに集中しよう)


愁宋は手に杖を持った。柄長い杖で、中心となる棒に取っ手とその上部に3段に分けて、小さな鈴を15つけている。

そして柄には緑、黄、赤、白、紫の細い布がついている。

綾香の国で言うと、巫女舞の時に使うものに近い。


綾香は加賀と沙希に連れられ高台へと上がっていた。遠目に愁宋がみえる。

「沙希ちゃん、愁宋は・・・大丈夫かな?」

「はい、きっと大丈夫ですよ!」

「・・・」

加賀は黙ったままだった。

「加賀さん?どうしたんですか?」

「あっ、いや、なんでもありません」

(?)

「ほらそれより始まりますよ」

愁宋のほうを指さしてそう言った。

そう言われ綾香は愁宋の無事を祈りながら、彼を見た。

愁宋は宙に浮いていた。あの光の道の時のようにふわりと浮かんで杖を振っている。

まるで巫女舞でも舞うかのように。

シャランシャランと鈴を鳴らし、華麗に舞い続ける。

すると空が曇りはじめ、辺りは暗くなり冷たく湿った風が吹きだした。

(なんて綺麗なのかしら)

暗くなり始めても愁宋の周りは淡い光で包まれているように見える。

愁宋の舞は20分くらい続いた。

愁宋はひび割れた大泉の土に杖を突きさした。

すると空から雨が降ってきた。

雨だけではなく風も強い。まるで台風の中にいるようになった。

愁宋は杖を突き立てたまま動かなくなった。

(愁宋?)

「沙希ちゃん、私、愁宋のところに行ってくる」

沙希の返事も聞かず心配のあまり駆け出していた。

後ろから沙希の声が少し聞こえたが、そんなことを気にしている余裕もなかった。

(愁宋の様子がおかしい。あれから全然ピクリとも動かない)

慌てて高台を駆け下りたせいで足が痛んだ。それでも綾香は愁宋の元へ頑張って走った。

「愁宋!!」

「・・・」

「どうしたの?」

そう問いかけながら彼の肩に触れた。その瞬間愁宋の体は地面に崩れ落ちた。

愁宋の体はまるで氷のように冷たくなっていた。

(気を失っている!)

「加賀さん!沙希ちゃん!助けて!愁宋が・・・!」

そう言うと綾香を追ってきていた加賀が愁宋の体を担ぎ上げた。

「やっぱりこうなったか・・・」

彼はひとり呟いて愁宋を安全な幕屋に連れて行った。

綾香は加賀の独り言が妙に気になった。


(どうしようこのまま目を覚まさないなんてことないわよね?)


ここは加賀さんがつくった幕屋の中。愁宋が雨を呼びいまだに台風のような感じで外は吹き荒れている。

(なるほど、危険ってこのことだったのね)

意識の戻らない愁宋の手を握り綾香は加賀に話しかけた。

「加賀さんは愁宋が力を使えばこうなること知っていたんですか?」

「・・・ああ、知っていた。」

「じゃあどうして力を使わせたりするんですかこれじゃあまるで愁宋は命を削りながら雨を降らせているみたいじゃない」

愁宋の手からは冷たさだけしか感じない。暖かさがまったくなくまるで死んでいるかのようだ。顔色も真っ青で、本当にもう一度目が覚めるのか不安になる。

「その通りだ。愁宋様は力を使うとき命を削りながら・・・使っている」

綾香は頭に血が上った。

「どうしてよ!愁宋だけこんなになるまで力を酷使させられてそのうえ命まで削っているなんて・・・そんなの、ひどいわ」

「これが愁宋様にしかできないし、ご自身が望まれてしていることだ。俺が口をでして良い問題じゃないのさ」

(それじゃぁ、一体だれが愁宋を守ってくれるの?かばってくれる相手もいない中で一人生きていかなくちゃいけないの?)

綾香はこの時愁宋がなぜ自分を強く求めているのかストンと胸に落ちた気がした。

(寂しいだけじゃなく愁宋は支えてくれる人を欲していたんだ。それも事情をあまり知らないで王として見ず、自分自身を見てくれる相手を。それがたまたま珠を通して好きになった相手・・・私だったんだ。

それなのに私は愁宋の思いから逃げて、きっと彼を傷つけていたに違いない。

悔しさと後悔で涙が出る。

「愁宋・・・ごめんなさい」


それから2日経ち、愁宋の顔色もだいぶ良くなってきた。綾香は愁宋の手と顔に触れた。手も顔もぬくもりが戻ってきている。

「よかった・・・」

そんな綾香に加賀が声をかけた。

「この調子だと今晩にでも目を覚ますはずだ。俺は薬草でも摘んでくるよ」

「あっ、加賀様私も行きます」

加賀と、沙希は二人それろって幕屋から出て行った。

(気を使わせてしまったのかな・・・)

嵐はおさまり、今は穏やかに晴れている。ただ南地区全体が水没してしまっているため、ここでの生活の復旧には時間がかかりそうだった。

(愁宋の力が強すぎるのね)

これだけのことをやってのければ命だってすり減ってしまうのは当然のことだろう。

しかも、愁宋ひとりで担っている。

愁宋の手を握ったままでいるとぎゅっと握り返された。

「あ、やか」

愁宋が目を覚ました。

「愁宋!愁宋、目が覚めたのね。よかった」

綾香は横たわっている愁宋に抱きついた。

「うっ」

ぎゅうと愁宋に抱きついていると小さく呻く彼の声が聞こえた。

「ごめん!力が強かった!?」

「いや、大丈夫だ」

綾香は愁宋が目覚めたことに安堵した。

「私、加賀さんと沙希ちゃん呼んでくるね。何か欲しいものはない?お水汲んでこようか?」

愁宋は綾香に尋ねた。

「水があるってことは術式が成功したってことか?」

綾香は言いにくそうに答えた。

「雨を降らせるのは成功したんだけど・・・しばらく嵐がやまなくて。南地区のほとんどが水に沈んでしまったの」

愁宋は目を閉じた。

「また失敗したんだな。力が暴走してしまうとどうしてもそうなるのか。国民の住む土地をそんな風にしてしまうなんて俺はやっぱり駄目な王様だな」

「駄目なんかじゃないよ!一生懸命術を使って民の為に水を呼んだだけじゃない。流された家や田畑は南地区に人員を派遣して再度作り直せばいいじゃない!」

綾香は感情的に怒鳴ってしまった。

「綾香?どうした?」

(”どうした?”ですって?)

「加賀さんに聞いたの!雨を降らせたりする術は命を削るって・・・。私そんなこと聞いていなかったわ。どうして何も言ってくれないの?」

綾香は涙を流しながら言った。

「私が部外者だから?」

愁宋はそれを聞き首を横に振った。

「違う、そうじゃない。綾香はいずれ帰るといっていたじゃないか。だから言わなかった。無駄に心配をかけたくなかったんだ。」

愁宋の言っていることは正しい。いずれ帰る人にそんなことを言っても無駄なだけだ。

(でも私は・・・)

(私は、知っておきたかった!)

「愁宋、お水を汲んでくるわ。少し待っていてね。すぐ戻るから」

そういうと綾香は幕屋を飛び出していた。

綾香あやかは大泉がある場所までやってきて竹筒に水をいれた。

水はとても澄んでいて日の光に反射してきらきら輝いていた。

(これも全部#愁宋__しゅうそう__#の力なのね)

綾香は愁宋の力を目の当たりにして以来彼が心配で仕方がなかった。

普通国のためだからといって命を削りながらここまでするものだろうか。

もし私が愁宋の立場なら逃げ出しているかもしれない。

(愁宋はどう思っているのだろう)

そう考えていると後ろから愁宋がこちらに向かってくるのが見えた。

綾香は慌てて、愁宋に駆け寄った。

「戻りが遅いから迎えに来た」

「愁宋、幕屋に居なきゃダメじゃない!加賀さんたち心配してしまうから早く戻ろう」

そう促しても愁宋は一歩も動かず大泉に目を向けていた。

南地区全体が膝のあたりまで水が浸水してしまっている。初日より水が引いたとはいえ、まだ生活できるレベルまで回復していない。

「愁宋、水に浸かっているとまた体が冷えてしまうから」

そう言う綾香を横抱きにすると愁宋はそのまま宙に浮いた。

「体を冷やしているのはお前のほうじゃないか」

(力を使うと命を削る・・・)

綾香はハッとして愁宋の腕の中でジタバタした。

「何だ?いきなり暴れたら危ないだろう?」

「だって、この力も使うと命が削れてしまうんじゃないの!?」

愁宋は笑っている。

「この力は大丈夫だ。心配するな」

どうやら寿命を削る術は雨を降らせることだけのようだ。

「愁宋」

「ん?」

「王様をやめて逃げたくなったことないの?」

愁宋は目を見開いた。どうやら綾香の言葉に動揺したようだ。

それでも気を取り直して答えてくれた。

「あるさ。今だって本当は逃げ出したいと思っている」

「それならどうしてこんなことを続けるの?」

愁宋は自分の目を指さした。

「この瞳の色が蒼い限りどこへも逃げられない。逃げても追ってきて捕らえられてしまうだけだ」

「きれいな色なのに。残酷な瞳ね。愁宋から自由を奪うなんて」

「そうだな。でも、悪い事ばかりじゃないぞ」

愁宋が艶を含んだ笑みで答えた。

「この瞳を持っていて力があったから綾香に会うことができたんだ」

どきん胸が鳴る。駄目だとわかっていながら私はこの人に堕ちていく。

ふと愁宋の顔を触ってみた。

「あたたかい・・・よかった。わたし、あのまま死んじゃうんじゃないのかと思った」

「そう簡単には死なないさ」

愁宋は綾香の唇に自分の唇を重ねた。

「お前を置いて死にはしない」

唇が軽く離れてはまた押し付けられる。

「だから、元の世界より俺を選んでくれないか?」

「っ」

拒む間もなくまた唇が重ねられた。

今までも何度か愁宋から口づけをされたことはあったけど綾香は目を閉じなかった。

彼に流されたくなかったし。意地でも元の世界に帰るんだと意地を張っていた。

それなのにー・・・今の自分は目を閉じ彼を受け入れてしまっている。

唇を柔らかくすりあわされ、啄まれ、そっと食まれる。

されるがまま受け止めていると、やがて薄く開いた唇の隙間から舌がぬるりと忍び込んできた。

口づけが瞬く間に濃密さを増していく。

唇の角度が変わる。口内をなでる舌が私のそれを捉えた。

肉厚な熱がねっとりと絡み合う。与えられる感触にめまいがした。

その瞬間愁宋と目が合い、腰にぞくりとした何かが走った。

「も、や・めて」

息も絶え絶えに訴えてみると愁宋はあっけなくやめてくれた。

「せかして悪い。もう何もしないでそばにいること何でできない。それほど俺はお前に惹かれている。・・・今ならまだ手放してやることができる」

「それって・・・」

「お前の全部が欲しくてたまらない」

「!」

「明日、ここを発つ前にお前の答えを聞かせてくれないか?」

(あんなキスしておいて今なら手放せるなんて、よく言えるわね・・・)

頭の中で少し呆れてしまった。

「明日の朝、またここで会おう。お前はそれまで俺に近づくな。本当に奪ってしまいそうになるから」

「わかった。明日の朝までに答えを出すわ」

「今日は沙希と一緒に休んでおけ。馬と輿は体にこたえるだろう」

「はい」

そう返事をすると愁宋は高台の幕屋まで綾香を連れて飛んだ。

そっと降ろすと名残惜しそうに髪をひと房手に取り口づけた。

その様子が切なくて、寂しくて、悲しくて自分の感情がごちゃ混ぜになった。

ー明日の朝ー

私は、答えを出す。

急ではあるがこれはもう決定事項なのだからよく考えなくてはならない。

幕屋に入ると沙希が出迎えてくれた。

水でぬれた服を見て急いで新しい衣装を出してくれた。

「何かあったんですか?」

「沙希ちゃん、私、元いた国に帰りたいって思っていたの。でも、その気持ちと同じくらいこの世界に残って愁宋のそばに居たいって思ってしまっていて・・・」

沙希は唐突に話し出した綾香の言葉に耳を傾けてくれている。

「綾香様、詳しい話はお茶でも飲みながら話しませんか?おいしい茶葉をも持ってきているんです。きっと心も落ち着きますよ。ご用意いたしますのでもうしばらくお待ちください」

そう言って綾香に床に座るよう促した。

沙希は湯を沸かし慣れた手つきでお茶を入れてくれている。

(気持ちが落ち着く香りがする)

ふわっと湯気が立ち上る茶器を受け取り綾香はゆっくりそれを口に含み飲み込んだ。

甘くて少しスーッとするようなはっかが入っている感じのお茶だった。

「おいしい」

「あっ、お菓子もあるんですよ。食べると元気が出ますよ」

沙希はいそいそと茶菓子を用意してくれた。

お菓子は月餅に似たお菓子だた。饅頭の中にあんこが入っていて餡の中には砕いた木の実が入っていた。

「沙希ちゃんありがとう。すこし元気が出てきたみたい」

「そうですか。よかったです。ところで・・・さっきの話の続きを伺ってもよろしいですか?」

「うん。簡単に言うと元いた国に帰るか、このまま愁宋のそばにいるか悩んでるの。

たぶん帰ったら二度と沙希ちゃんとも愁宋とも会えなくなるわ」

「・・・綾香様はどうして愁宋様のそばにいたいのですか?」

「なんだか、放っておけなくて。彼は頼れる人がいなくてひどい孤独感を抱えている人なの。一緒にいて彼がどういう人なのかよくわかってしまって、離れがたくなって。気がついたときには好きになっていたの」

沙希は小首をかしげ、綾香に質問した。

「好きな人のそばにいることが綾香様の幸せなのではないでしょうか?」

「でも、元のいた国には両親や友人がいて。私がここに居ることも知らず探しまわっているかもしれないの」

「・・・難しい問題ですね・・・せめてこの国にいることをご両親にお伝えできればいいのですが・・・お手紙をかくとか・・・」

「私の国は遠すぎて手紙は送っても届かないと思うの」

(光の道から手紙を両親に送ることってできるのかしら)

今まで考えたことのなかったことが頭に浮かんだ。そして今、私が異世界にいるって証明できる何かがあれば家族も安心するんじゃないのだろうか。

「私は、綾香様にこの国に留まって頂き愁宋様の正妃様になってほしいです」

「沙希ちゃん・・・」

「もしこの国に残ってくれるのなら私のすべてをかけてお守りいたします」

沙希のその言葉はとても心強いものだった。

「でも、最終的に答えを出すのは綾香様自身です。よく考えて答えを出してください。どんな答えを出そうと私は綾香様の味方です」

「ありがとう。沙希ちゃん」



ーわたし、決めたわ。これからどうするかー

それが最善か否かはわからないが後悔はしたくない

でもやってみなくては何も始まらない。

次の日の朝綾香は愁宋と待ち合わせをしていた大泉にやってきた。

昨日は膝まで水に浸かっていたが、今朝は足のくるぶし付近まで水位が下がっていた。

(愁宋、まだかな)

一度心を決めてしまうとそれを相手に伝えることが待ち遠しくなってくる。

「綾香!」

愁宋が綾香の後ろからやってきて声をかけた。

「愁宋、おはよう」

「ああ、綾香。おはよう」

「・・・」

それからしばし沈黙が流れた。

(愁宋、今何考えてるのかな)

そう思い綾香は愁宋を見上げた。

愁宋はそんな綾香を見下ろして何か言おうとしているが、言葉となって聞こえてこない。

「愁宋、お願いがあるんだけど」

最初に切り出したのは綾香だった。

「お願い?」

愁宋は訝しみながら答えた。

「私の家族に手紙を送ることってできるかな?あとこの携帯電話で愁宋と一緒のところ映してもいいかな。」

ずっと忘れていた携帯電話を懐から取り出した。電波が届かないからあきらめていてずっと大切にしまっていたのだが、沙希が大切なものだろうと思い荷造りの際入れてくれたようだ。

「携帯?なんだそれは?どうやって使う?」

「こうやって・・・」

そう言いながら愁宋をカメラに入るように入れて自撮りをして見せた。

かしゃっと独特の音がし、愁宋は固まってしまった。

(これで証拠写真は撮れた。)

「この携帯電話と一緒にこの手紙を光の道に乗せて、両親に届けてほしいの。もしそれが不可能なら私は元の世界へ帰るわ」

(手紙は両親へ無事を知らせる内容のもの。悪い人たちと一緒にいるわけでなく好きになった人と一緒にいるという証明写真。これさえ送ればはじめは動転するかもしれないが時間がたつにつれ、きっと受け入れてくれるだろう)

綾香はそう思った。

「・・・それが何だかよくわからないが、両親のもとに送ればお前はここに残ってくれるんだな?」

「うん。・・・私、愁宋のそばにいたい」

愁宋はその言葉を聞いてとてもうれしそうな表情を浮かべた。

「わかった。でも本当にいいのか?光の道はあと一度しか開けないぞ。それを両親に届けるときに使ってしまったらもう本当に戻れなくなるぞ」

綾香はまっすぐ愁宋を見つめた。そして口を開いた。

「いいの。もう決めたの」

「そうか、じゃあそれを俺に渡してくれ」

震える手を押さえながら綾香は愁宋に携帯電話と手紙を渡した。

愁宋はそんな綾香の手に自分の手を置き慰めてくれた。

「では、今から光の道を作る。少し離れておいてくれ」

その言葉に綾香は黙って頷いた。

携帯電話と手紙が愁宋の創った珠の中へと吸い込まれた。そして目の前に光の道が現れ珠がその中へ吸い込まれていった。

あっという間に光の道が消えあたりは何事もなかったような静寂に包まれた。

「これであれは両親の元へ届いたはずだ。これで心残りはないのか?」

愁宋が気遣うように声をかけてきた。

(もうこれで私は向こうの世界には帰れないんだ・・・)

そう思うと寂しさで涙があふれてきた。

愁宋はそんな綾香を抱きしめ泣き止むのを静かに待った。

どれくらいそうしていただろう。だいぶ落ち着いてきた。

愁宋はまだ綾香の背中をさすっている。

綾香は愁宋に抱きつき寂しさを紛らわした。

「綾香、この世界に残ったということは俺の妻になってくれるのか?」

「・・・念のために聞くけど正妃ってことはほかにも奥さんを持つつもりなの?側室とかそういうの」

「いいや、お前以外何もいらないし、他の側室も必要ない」

(やっぱり王様は一夫多妻制か・・・)

「それでお前の答えは?」

「私、まだそういうのはちょっと早いんじゃないかと思って・・・正直に言うと当分の間はこのままがいい」

「そうか、それでどこまでなら手を出していいんだ?」

(えー・・・?)

「く、口づけまでなら」

なんて馬鹿げた質問をしてくる男なのだろうか。普通はもっとオブラートに包んで訊ねてくるものじゃないのだろうか。

でも律儀に確認してくるところが愁宋のいいところなのかもしれない。


ーわたしはこの世界で生きていくことを決めたのだからこの世界についてこれからたくさん学ばなくてはいけないだろう。

そうしなくては愁宋の足手まといになってしまう。彼の負担になることは避けたい。

今はまだ好きだと思い切り言えないけどいつか心の整理がついたとき彼に言おうと思っている。あなたの正妃にしてくださいっとー


愁宋の術が届いたころ綾香の家には大量の光の渦が押し寄せていた。

その渦の中から光る珠が一つ父親の手の平へと落ちてきた。その珠の中には綾香の携帯と手紙が入っていた。珠はすぐに割れ、難なく携帯と手紙をとることができた。その携帯には娘と見知らぬ男が写っていた。


娘からもらった手紙にはこう記されてあった。

ー親愛なるお父さん、お母さんへー

私はあの日図書館で本を探していたら異世界へ迷い込んでしまったの。

そして、その世界の人を好きになってしまって。こっちの世界に残ることを決めたの。勝手に一人で決めてごめんなさい。もうそっちの世界に帰ることができなくなったの。

携帯の写真に一緒に映っている人が私の好きな人。この人と一緒に生きていこうと思います。

今まで育ててくれてありがとう。

お父さん、お母さん。私のことは心配しないで。必ず幸せになるから。二人ともお体に気を付けてお元気で・・・。

綾香の両親はその手紙を読んで泣き崩れた。

しかし時間がたち気持ちが落ち着いたころ、両親は娘の幸せを写真の男に託すことに決めた。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ