其の九
「ふふ──ようやく完成したわ」
菖蒲は不敵な笑みを浮かべて鏡を見る。そこにはニンゲンが造られていく過程が映し出されていた。その数は多く、鏡一面にそれらが映し出されている。
「数も質も、これなら申し分ない──術の使い方もきちんと覚えているし、身体も耐えられる。あたくしが望んだのはこれよ──長かったわ」
歓喜に酔う菖蒲の表情は狂喜を宿し、見る者によってはその表情こそが最も美しいと形容するだろう。
「早急に邪魔者を排除しましょう──」
しかしすぐに菖蒲の表情は変わる。妖しい笑みから醸し出される妖艶な美貌から、覚悟を決めて強さを兼ね備えた美貌になった。
◆
「これは……」
入浴を終えた杏理は部屋の惨状に言葉を失った。
死体は飛沫に片付けられたものの、散らばった窓ガラスや飛び散った血痕、そして無数の足跡──今のリビングは人間が生活空間として利用できる代物ではなくなっていた。
「1人で全部片付けられるかな……」
はっきり言って、それは無理だった。手が足りない。
「お姉ちゃーん!」
2階の自室に居た杏を呼んだ杏理は、再び絶句することになった。実の姉が血塗れの姿で登場したら、いくら事情を把握していたとしても驚かずにはいられないだろう。
「……早くそれ全部落としてきて……服、は……血が落ちなそうだから諦めて……」
杏は素直に従った。
(すごい物音がしてたから、ある程度のことは覚悟してたけど……流石にここまで酷いとは思ってなかったよ……。
まさか、家まで入ってくるなんて……そろそろわたしも本気で守りを固めないといけない時が来たってことかな)
杏理は自室で手早く忍装束に着替えると、リビングの掃除に取り掛かった。
(硝子は……捨てられないな)
土や血痕は後回しにして、杏理は土足でリビングの片付けを始めた。
(結界を構築するなら、血みたいな穢れは極力ない方がいいんだけど──仕方ないか、時間もないし)
箒で部屋中の硝子を一ヶ所に掃き集めた杏理は、帯の中からいくつかの道具を取り出した。
(これだけ硝子があるのはありがたいな。正直、これだけじゃ心許なかったし)
杏理の手の中にあるのは、諏訪だとなかなか手に入らないものだった。蝸牛の殻、月桂樹の葉、水銀、鳴き砂──そして足元に集めた硝子。どれも一般人や忍からすると無価値なものだが、あることに携わる者達からするとそれらは貴重な物で、かなりの高値で取引される。
杏理はそれらを部屋の四隅に配置し、硝子を部屋の中央に盛る。そして、杏理は蝋を使って床に複数の記号と文字を組み合わせた『何か』を描く。
(よし、出来た──準備完了)
杏理がちょうど何らかの準備を整え終えた時、身体中にこびりついた血を落とした杏が戻って来た。その表情は決して明るいとは言えないものだった。
杏はいくつかのことに気が付いてしまった。それらが仮説であったなら、杏はここまで暗い顔をしてはいないだろう。ただの仮説が真実味を帯びるほどの出来事が起こり、杏はどうしていいか分からなくなった。
自分は生きていて良いのか、生きていたとしても忍であり続けて良いものか──杏にとって、人生を左右する大きな決断が目の前に迫っていた。
忍の世界において、血統というのは重ねた努力よりも高く評価される。つまり、家柄によって差別されるのが忍の世界の常なのだ。しかし杏だけは例外になる。いくら忍の名家に生まれてきたとしても、忍術の使えない者など忍とは認められない。だから杏は致命的な欠陥を抱えているどころか、それが致命的と言われる位置にすら立たせてもらえないのだ。
忍の子は平均して5歳頃からその子特有の忍術を発現させ、行使するようになる。しかし杏は14歳を目前にしてなお、忍術が使えたことがない。その上、それを補うほどの体術が使えるわけでもない為、杏は忍としての適性や資格を持っていないことになる。学園に通えているのだって、所詮はコネに頼っているからだ。仮に今の杏の状態とこれからの生き方について誰かに相談したならば、誰もが口を揃えて言うだろう。他の道を探す方が懸命だ、と。
(でも、あたしは忍以外の生き方を知らない──それに、他の道を選んだ自分なんて、想像もできない)
杏には忍であり続けたいという強い意思があるわけではない。ただ、幼い頃から飛沫を始めとする忍以外の大人にまともに接したことがなく、それ故に他の生き方を知らない──要するに視野が狭いだけなのだ。
「ねえ、杏理──術を使うって、どんな感覚?」
杏は恥を忍んで妹に尋ねる。杏理は悲しそうに目を伏せ、迷ったような表情をした。しかしすぐに答えを切り出し始めた。
「身体を動かすのと、あまり変わらないよ……それこそ、手足を動かすように、言葉を紡ぐように、とても自然に、思った通りに使うことができる」
杏理は手のひらを上に向け、そこで自分の能力を披露した。その動作は髪の毛を撫でるように自然なものだった。
「息を吐き出すと空気が動くでしょ? それとだいたい一緒なんだ。何かをした時に、ついでに起こる現象──って言えばいいのかな」
杏は理解に努めたが、やはりその感覚は解らなかった。だから、杏理の言うことに疑念を抱かずにはいられなかった。
「杏理は……すごいね」
その一言には、どんな感情が込められていたのだろう──杏理はあまりにも淡々と告げられた言葉に込められた思いを想像することが出来なかった。
「お姉ちゃん……やっぱり、まだ……?」
「うん。まだ、使えないよ。でもね、そろそろ使えるようにならないといけない気がするんだ。術が使えないっていう今の状態に、甘えていられない時が来たのかも、ってね」
(お姉ちゃん……まさかもう気付いて……?)
それだけのやり取りでは杏理は真偽を見極めることが出来なかった。
「──お姉ちゃんに現れる術は、きっとわたしやお父さんと同じ『雷』属性の術だと思うよ。紫苑家って、代々その属性が現れやすいみたいだし。雷ってね、扱いがすっごく難しいから、お姉ちゃんは今まで通りに体術を主に使っていった方がいいと思う」
杏理は杏と違って、日本に渡ってきた本当の理由を飛沫から聞かされている。自分に出来ることも、自分がすべきことも、杏理はきちんと理解しているつもりだ。けれど、杏が背負わされた過酷な運命に揺れる心はどうしても隠せなかった。強固な理性で感情を抑えることが多い杏理ですら動揺を隠しきれなかったのだから、当事者の杏にそれを告げてしまえば杏の心は容易く壊れてしまうと杏理は思った。
杏が悪いわけではないのに。生まれた時からその命を他人の為に燃やさなくてはいけないなんて、そんな残酷なことを告げる覚悟は杏理には無かった。
(誰かが悪いわけじゃなくて、むしろ誰も悪いわけじゃないから、許せないのかもね。全員が幸せになる道は、無いの──?)
杏理は未だに複雑すぎる感情のやり場に困っている。
「お姉ちゃん」
リビングを──家を後にする杏を、杏理は呼び止めた。杏は何も言わずに振り向き、杏理が告げる二言目を待っている。
「修行に行くんだよね。頑張って。わたしにできることがあったら、何でも協力するから。あと、それから──えっと、家のことは、全部任せて」
杏理の口からはそれしか言えなかった。下手なことを口走って、杏が本当のことを知ってしまったなら──目の前で精神を病んで、人間として再起不能になってしまうかも知れない。杏理はそのもしもを容易く想像出来た。ふとした瞬間に脳裏を過るくらいに違和感なく。
(もしわたしがお姉ちゃんの立場だったら、耐えきれずに自分の命を絶ってしまうかも知れない。──それくらい、現実は残酷だから)
どうか、杏が何も知らないまま、全て上手くいきますように──杏理は胸中で祈りを重ねるしかなかった。
「うん」
杏は微笑む。
「ちょっと、行ってくる。全部押し付けちゃってごめんね、杏理」
「行ってらっしゃい。気を付けてね。鍵は開けておくから」
「ありがとう──1人にして、ごめんね。──行ってきます」
飛沫は死体処理の為に家を離れている。風吹も何らかの用事でまだ帰っていない──大方修行だろうと杏理は推測する。そして杏も行ってしまった。杏理は一晩、この家に1人だ。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。みんなが帰ってくる場所はちゃんと守るから──って言い切れなくてごめん。でも、自分の命くらいは、ちゃんと守り通してみせるから」
玄関の扉が閉まる音を聞いた杏理は独り言を漏らした。
「さて、望まないお客さんの為に一頑張りしますか」
杏理が描いたものの正体は結界だ。紫苑家全体を守る程度の規模の結界を、杏理は構築したのだ。しかし杏理は結界を自在に扱えるほどの経験を積んでいない。その構成式は拙く、少し結界術に詳しい人間がその場に居れば簡単に破られてしまう。
杏理の不足した実力を補う為に使ったのが『触媒』と呼ばれる物だ。
触媒とは、結界の構成式を複雑にする為の消耗品である。構成式を瞬時に大量複製して結界の密度を高めるものもあれば、結界と術者の感覚を繋いで感知機能を付加するものなど、使う触媒によって様々な効果が結界に現れる。
これらは術を使って生計を立てる術師達の間では、当然のように使われるが、諏訪だとなかなか見付からない高価なものが多い。杏理は何とかそれらをかき集め、今こうして使っている。諏訪で高価な物であっても、日本では安価な場合が多く、割れた硝子のように簡単に手に入ることだってある。
(少ないけど、用意しておいて良かった)
杏理の力はまだ拙く、全力で張った結界も簡単に破られてしまう。けれども諏訪で手に入れた触媒があれば、それなりの強さを保てるのだ。
(何も来ないでくれるなら、それが一番いいんだけど)
それは叶わないだろう、という予感が杏理にはあった。
(お母さんが巫女だったなら、わたしにだってできないことはないはず)
杏と違って、杏理は飛沫から母親のことを聞いている。だから自分も巫女になれる可能性があることを知っていた。
杏理は自分の結界の構成式の弱点を熟知している。母親の血が濃いからか、そういった術を扱うのに長けているのだ。
(もし、結界が通用しなくても、わたしにはコレがある──)
杏理は首に下げた透明な5つの鈴に触れる。音もしない空っぽのそれは、一見すると頼りない。けれども杏理にとって、その頼りない鈴こそが切り札となる。
(たった5つしかないけれど──力で圧倒するだけが戦いってわけではないもんね)
杏理は先程部屋の中心に描いた、結界の構成式に力を流し込む。力が行き渡ると杏理を始めとする術師以外には理解出来ない構成式が、淡い光となって家全体を包み込んだ。展開を完了した結界は、硝子を触媒として使うことが出来た為、限りなく透明になっている。油断は出来ないが、これで少しは家を守ることが出来る。
(……家のお掃除、しちゃおうかな。穢れは少ない方が安心だしね)
杏理は洗剤と水を用意して、床にこびりついた泥と血液を落としにかかった。