其の八
(これで、3度目──狙われているのは、あたしで間違いなさそう)
杏は入浴後の濡れた髪の毛を拭きながら思考を巡らせる。
(でも、その理由にあたしは心当たりがない。知ってる人は誰も教えてくれないし──)
長い髪の毛を念入りに拭き、水滴が落ちて来なくなったのを確認した杏はドライヤーの熱風を髪の毛に当てる。
(あたしが死ななきゃいけない理由って何? あたしが生きてて困る人って誰?)
根元から毛先へ。丁寧に風を当てる杏の手付きは慣れたものへと変わっていた。
(あたしが理由を知ったら誰かが困る。だから誰も話してくれないんだと思ってた。でも、さっき聞こえてきた声は──知って傷つくのはあたしだって言ってた)
「……絶対、どこかで聞いたことあると思うんだけどな……」
小さな呟きはドライヤーの轟音に掻き消された。
杏は帰り道で突然聞こえた声に覚えがあった。それをどこで聞いたのかは思い出せなかったが。
(あの声を信じるなら、みんなはあたしの為に黙ってる。でも、みんなの様子を見てると、あたしが事情を知って困るのはみんななんじゃないかって思える)
「……もうっ。わけ分かんない……どうしてこんなことになっちゃったのよ」
髪の毛が乾くと、杏はドライヤーの電源を切った。
(少し、頭を冷やさなきゃ)
普段では考えられないほどたくさん考えていた杏の頭は、疲れてしまっていた。
杏はブラシで数回髪の毛をとかすと脱衣場を後にした。
「杏理、終わったよ」
リビングで宿題をしていた杏理に一言掛けると、杏は冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐ。
「今日は少し、長かったんだね」
広げていたノートや教科書を片付けながら杏理は呟く。
「うん、ちょっとね……考えごとしてたから」
「そう」
杏理はノート類を纏め終えるとリビングを出ていった。
杏はそれを見届けると窓際に移動した。諏訪に居た時、杏は考え事をする時には必ず縁側に出て月を眺めていた。しかし杏が今住んでいる日本の一軒家には縁側なんてない。代わりのようにあるのは、壁全体に埋め込まれた大きな窓。杏は窓際に腰掛けて考え事の続きをした。
(そういえば、こっちに来てからよく見るようになった夢でも、こうして月を見上げていたっけ)
杏は日本に来てから似たような夢を何度も見るようになった。
(知らない人ばっかりだし、あたしもあたしじゃないみたいなんだけど、でも……あそこにいた男の人って、お父さん……だよね?)
少女2人と自分、そして少年1人──夢に出てくるのは決まってその4人で、そこに居る少年は若い頃の飛沫であるということが杏には分かった。
(誰かの夢に入ったみたいっていつも思うんだよね。お父さんの若い頃──あの人たちは、昔の、術が使えた頃のお父さんを知ってるんだよね──)
夢の中の飛沫の年齢は今の杏とあまり変わらない。そして、飛沫を取り巻く少女達の年齢も。13から15歳、彼らはそれくらいの年頃に見えた。
(……あっ、そっか! さっき聞いた声、どこかで聞いたことあると思ってたけど、あれって夢の中でのあたしの声だったんだ! 毎日見てるのに……聞いてるのに忘れちゃうなんて、あたしもバカだな……)
杏は苦笑する。
夢の中での杏は、飛沫たちと談笑しているか、飛沫と2人で月を見上げている。どの場面の夢であっても杏と飛沫は必ず一緒に居て、いつも現実の杏が見たことのない表情をしていた。
(お父さん、夢の中ではとても楽しそうだった。あたし、あんな顔見たことない。……ってことは、あの人たちは相当お父さんと親しかったんだよね)
杏には今の飛沫があの少女達と関わっているところを想像出来なかった。というよりは、純粋に飛沫に親しい友人が居ることが信じられなかった。
(お父さん、今よりも生き生きしてた。それに、幸せそうだった。あの人たちのことが、本当に好きだったんだろうな。──もしかしてお父さん、あの頃に戻りたいって思ってるのかな? あの人たちも、お父さんのことが大好きみたいだったし……)
2人の少女は、恋する乙女の表情をしていた。杏自身にそんな経験がない為、詳しいことは分からないが、夢の中の杏はその感覚を知っていた。
(あの人たちの誰かは──ううん、みんなは、お父さんと結ばれることを願ってた? あたしがいなければ、それは──)
杏は急に虚無感に苛まれた。彼女達が飛沫と同じ年頃であったなら、今は完成された強い力を操れる大人になっていると考えるのが妥当だ。
(あの人たちの誰かがあたしの命を狙っている? みんなお父さんのことが好きで、でもお父さんと結ばれることはできなくて──他の女が産んだ子であるあたしは、邪魔なもの──?)
杏は胸にチクリと刺さるような痛みを感じた。
(娘のあたしがいると──忘れることなんてできないもんね……)
悪い方向に流れていく思考を打ち止める為に、杏はグラスの麦茶に口をつけて一気に煽る。冷たい麦茶が喉を通過すると、杏の考えも少しだけ落ち着いた。
(自分の身は、自分で守らなきゃ──)
自分に迫る危機を自覚したことで、杏の修行に対する意識が変わった。
(夢の中でのあたしは強力な術を使うことができた──ということは、あの人たちもそれはきっと同じで、術が使えるってことは忍の可能性が高いよね。諏訪で強力な術を使える家っていったら、封和先輩の家と弥勒先輩の家、それからあたしの家、あとは土萌家と風廟家──でもあの人たちは大和人と倭人──結局、誰なの?)
杏は飛沫の交遊関係がますます分からなくなった。そもそも飛沫の子供の頃は戦争をしている時代であり、他国の人間と関わることは危険極まりない行為だった。それを平然と行っている飛沫が何を考えていたのか、それは杏には推測することも出来なかった。
(お父さんが敵か味方か──今はどっちとも言えない──真実を知るのはお父さんだけ。ううん、もしかしたらみんなも知ってるかもしれない。でも、お父さんに口止めされてしまえば、誰も逆らえないよね──となると、聞き出すのは難しい……けれど、直接お父さんに訊くのは危険──もうっ、一体どうしたらいいのよっ!)
空になったグラスを片付けて軽く水洗いしている時、杏はふと顔を上げた。リビング全体を見渡せる対面式キッチンからは、当然先ほど杏が座っていた窓際も見える。レースカーテンすら開けている窓からは、庭と道路を隔てる垣根も見える。
そして──垣根の隙間からこちらを覗く──複数の目も──。
「ひっ……」
杏の手からはグラスが滑り落ちた。
紫苑家を覗き込む不気味な瞳は、杏を襲った忍と同じものだった。
(お……お父さんに、知らせない、と……)
1人の時に襲われたなら、杏は5分と保たずに命を落とすだろう。だからといって今この場に背を向けて飛沫を呼びに行けば、その大きすぎる隙に敵は瞬時に反応して杏の命を奪いに来るだろう。
(戦わない、と……でも……お父さんも、呼ばなきゃ……)
杏はどこからともなく取り出したクナイを構えて臨戦態勢をとる。すると垣根の向こうの忍達にも動きが見られた。
(お父さんは、自分の部屋──杏理はお風呂──。風吹は、まだ帰ってきてない──どうやって2人に危険を伝えれば……)
杏はクナイを強く握り締める。もし、杏が取るべき挙動の1つでも間違えば、その時が絶命の瞬間となってしまうだろう。
(──今っ!)
杏は手にしていたクナイを投げて窓を割った。大きな音が立つ様に、ありったけの力を込めて、広い面を使って。
(これで気付かなかったら、諦めるしかない──)
それは一種の賭けだった。割れた窓ガラスが床には散らばり、裸足の杏の行動範囲は限られる。後ろを塞がれれば、退路が絶たれてしまう。
「来るんじゃ、ないわよ……」
杏は敵を睨み付ける。封和の様に殺気を放ちたいところだが、杏がやってもそれはただ拙いだけで、笑い者になるだけだ。
「あなたたちは──」
杏が何か言いかけた時、敵は動き始めた。割れた窓ガラスの残りを踏み倒して、忍たちは紫苑家に押し入る。その数は7人──やはり、杏には手に負えない人数だった。
(何をどうしたって、絶体絶命じゃない──)
命を落とす恐怖、命を奪う恐怖──今まで体験した究極の2つの恐怖を通り越して、杏は今の状況を笑い飛ばしてしまえそうだった。
杏は1人ずつ次々に襲い掛かって来る忍の動きをよく見ては避ける。しかし、今までのものとは異なり、敵の動きは洗練されているようだった。その為、杏は攻撃の1つ1つを完全に避けきることが出来ず、小さな傷を身体中に負ってしまっている。不幸中の幸いは、1対多の戦いであっても、同時に攻撃をしてはいけない──戦闘の基礎理論であるそれを、目の前の忍達は忠実に守っていることだろう。お陰で杏は致命的な傷を負わずに済んでいるのだ。
(このままじゃ、いずれ殺られる──)
杏はすぐに動けなくなることを理解していた。身体には小さな痛みが蓄積していく。
(避けるので精一杯よ……!)
杏には攻撃に打って出る余裕は無い。
「しまっ──!」
戦いに意識を集中させてしまった所為で、杏は自分の立っている場所に気付かなかった。フローリングに敷かれたカーペットに脚をとられ、杏はバランスを崩した。その瞬間を待っていたと言わんばかりに、忍の1人がクナイを降り下ろした──。
(あたし──死ぬの──?)
眼前に黒光りする死が迫る──。
キンッ!
金属音と共に、杏の目の前にあったクナイは何かによって弾き飛ばされた。忍達は一斉にその何かが飛んできた方向を見る。
「──いい加減にしろ。いつまでこんな茶番を続けるつもりだ?」
「……遅いわよ……お父さん……」
杏は文句を言いながらも、安心したような表情を見せる。
「──杏、お前は何人ならば相手取れる」
「1人ずつなら、何とか」
「ならば、俺から敵を横取ってみせろ」
杏は無言で首肯すると、立ち上がって再び臨戦態勢を作る。
飛沫は杏を待たずに戦闘を開始し、目にも止まらぬ速さで敵を無力化していく。中には息の根を止められた者も居たが、飛沫は無駄に命を奪いはしなかった。
杏も負けじとクナイを振るう。術も使わずにあれだけ戦っている飛沫を見て、杏も負けてはいられないと思った。
「──っ、いい加減にしろっ! こんな事をして、一体誰の得になる! 少なくとも、俺は喜びはしないぞ!」
飛沫は最後の1人と対峙した時にそのようなことを言った。
「子供の命を狙ったところで、得られるものなどありはしないだろうっ!」
飛沫は敵に向かって叫ぶように言った。
(お父さん──一体、誰に向かって言ってるの──?)
飛沫の言葉は、敵の忍を操っている誰かに向けられているようだった。
(でもこれで──お父さんが敵じゃないことは分かった)
飛沫は忍がどんな問にも答えないことを理解すると、命を絶った。腹部を刺されて鮮血を散らしながら、最後の1人は倒れた。杏の恐怖心は、麻痺する寸前だった。
「──死体の後始末は任せて、もう寝なさい」
飛沫は何事も無かったかのようにそう言った。
「血を洗い流してからにする」
杏は飛沫が倒した忍の返り血をべっとりとその身体につけていた。乾いている部分もあり、拭いただけでは落ちそうに無かった。
『飛沫──邪魔をしないで──』
(!)
再びあの声が杏には聞こえた。その声には憎しみや怒りのような感情なんて無かったが、代わりに哀しそうで苦しそうな感情が感じられた。
(あなたは一体──誰なの?)
恐らく飛沫にその声は聞こえていない。杏は自分にしか知覚出来ない声であると思った。
声は杏の問い掛けには答えない。届いていないか、一方通行か──どちらかは分からないが、杏から接触することは出来ないようだった。