其の七
その日の修行は、封和と弥勒の都合により、夕食を摂った後で構わないと言われた。故に杏と風吹は下校を共にしていた。
「こうして一緒に帰るのも久し振りだね」
「毎日放課後はお互いすぐに修行に行ってるからね」
「どう? 日本に来てから、何か成果はあった?」
「うーん……まあ色々、かな。弥勒先輩の動きって全然予測出来ないし、良い勉強になるよ。空中戦も、少しだけどさせてもらえるし」
「へぇ……空中戦か。弥勒先輩、面白いこと考えるね」
「杏の方はどうなの?」
「あたしは──まだ、体術しか出来てないかな。それも防戦一方。でも、昨日は初めて先輩が道具と術を使ったよ。これって成長してるってことだよね?」
「すごいじゃない。封和先輩が杏を認めてくれたってことでしょ?」
「やっぱり、そうなのかな!?」
杏の表情は一気に明るくなる。今まで苦戦していた分、伸びがあったことが杏にはとても嬉しかった。
「僕もそろそろ刀を使ってみたいな」
「まだ使わせてもらってないの?」
「うん。弥勒先輩が『未熟なまま刀を抜いたら、大切なものまで斬っちゃうよ』って。僕、刀を使ったことがないから、その言葉の意味がよく解らなくて」
「弥勒先輩、風吹にそんな難しいこと言ってるんだ……封和先輩は解りやすく、簡潔に教えてくれるのに」
「性格の違いもあるのかもね」
「そっか──ねえ、風吹。夕食までまだ時間があるじゃない?」
「? うん」
「だからそれまでにさ、その……中間報告、みたいなことしない?」
「中間報告? ……ああ、組み手か。久し振りだね。いいよ、どこでやる?」
「あたしが修行で使ってる場所に行こ。あそこなら術を使っても大丈夫って封和先輩も言ってたし」
「うん、じゃあ早く着替えて行こう」
2人は紫苑家に戻るや否や、すぐに忍装束と必要な道具をトートバッグに入れて家を出た。台所で夕飯の支度をしていた杏理は不思議そうに首を傾げていたが、2人に言葉を掛けはしなかった。
「飛んで行っちゃおうか」
「まだ明るいよ?」
「人目の無い場所からなら、大丈夫じゃないかな」
風吹がこんなことを言い出すのは珍しかった。風吹はいつも慎重で、忍としての規範や掟を重んじる。相当嬉しいんだろうな、と杏は思った。
「じゃあ、行くよ」
風吹は左手を杏に差し出す。杏もその手を取り、しっかりと握った。
風吹はそれを確認すると、足元から吹き上げる突風を生み出す。その風に乗った杏は、より強く風吹の手を握った。
(やっぱり怖いや)
高所恐怖症──というわけではないが、杏は術によって巻き起こる現象に馴染みがなく、それ故に恐怖を感じる。
(絶対に、離さないでよ──)
繋いでいる手が、空中での杏の唯一の拠り所だった。もし離されたら、杏は恐怖のあまり気を失うかも知れない。
「あっ、見えた。あそこ」
しばらく飛ぶと、木が生い茂る山の一角に、開けた場所があるのを杏は見付ける。そこがいつも杏の修行している場所だ。
風吹は杏に指差された場所を確認すると、器用に風を操ってゆっくりと着地した。
「……やっぱり、ちょっと怖いね」
「ごめんね。でも時間がないから」
到着するとすぐに2人はトートバッグから忍装束を取り出し、互いに背を向けて手早く着替えた。
「──じゃあ、始めようか」
◆
1時間──その間、杏と風吹は絶えず激しい攻防を続けていた。2人とも武器の類いは手にしていない。諏訪の学園で行っていたような、修行向けの組み手を2人はしていた。
「へぇ、いい動きになったじゃない、杏」
「風吹こそ。でもこんなものじゃないんでしょ? 術も使っていいのに」
「それは不平等じゃない?」
「全然ッ! それじゃあ中間報告の意味がないじゃないッ!」
「──それじゃあ、行くよっ!」
風吹は風の刃を作り出す。といっても、殺傷力は低く、命中しても打撲する程度の精度の悪いものだが。
「見えない──」
数回手足に風の刃を受けた杏は体勢を崩す。でも──と、杏は鋭い視線を風吹に向ける。
「見えないなら、見える様にすればいいんでしょ──先輩」
杏は足元の砂を一握り撒き散らす。すると歪みが生じているのが明らかとなった。
「考えたね──」
「修行ってのは、技を盗んでこそ、でしょ」
杏はにやっと笑むと風をすり抜けて風吹に接近する。自分の間合いに入られた風吹は、術を使うのを止めて接近戦に切り替える。
(先輩より、全然遅い──これならっ!!)
封和の動きに目が慣れた杏にとって、同い年の風吹の動きはゆっくりだった。
「遅いッッ!」
杏は繰り出される攻撃を避けながら、その合間に攻撃を繰り出す。その全てが風吹の身体に吸い込まれる様に決まっていく。
「うっ……ぐっ……」
優勢だったはずの風吹はいつの間にか後手に回り、防戦を強いられることになった。
「強く……なったね……」
「これが、成果だよ……」
中間報告は、どちらが言い出したわけでもなく終わった。
「──じゃあ、帰ろうか。そろそろ夕飯の支度も出来る頃だろうし」
「そうだね」
杏は再び風吹に背を向けた。その瞬間、強い風が吹き抜けた。
「──杏──まだ、帰るのは無理みたいだよ」
「え──?」
風吹からの意外な一言に、杏は再び振り返る。
「なっ──」
そこには、今まで2回も杏と封和を襲った黒い忍装束の忍たちが群がっていた。
「──杏が言ってたのって、こいつら?」
「……うん」
杏は再び恐怖する。自分が殺した感覚と死に直面した恐怖──方向性の異なる恐怖が、杏を支配した。
「杏──大丈夫だよ。杏は僕が守るから」
杏の感じている恐怖を感じ取った風吹は、忍たちから視線を逸らさずにそう告げた。
「大丈夫。杏は、体術だけなら僕よりも強いよ。自分を守ることだけ考えて」
杏が震えて声の出ない状態というのを知って、風吹はただ言葉を続ける。
「来たよ──」
風吹はクナイを構えて忍たちを相手取る。複数の忍を相手に戦ったことのない風吹は、杏の目の前で苦戦を強いられている。
(このままじゃ──)
杏は更なる恐怖を覚える。──大切な人が死ぬかも知れないという恐怖──それは今まで味わったものの中でも、一番大きなものだった。襲いかかってきた忍に応戦する杏は、今までと違って動けていた。死から逃れる為の動物的本能──それだけが杏を突き動かしていた。
(このままじゃ──弥勒先輩、すみません──)
風吹は背負った刀を──抜いた。光を反射する短めの刀身──風吹の為に作られたようなその刀は、手に馴染むようで風吹にはどこか懐かしく感じられた。
風吹は美しい輝きを返す刀を振り上げる。すると目の前に差し迫っていた忍の胴体が真っ二つに切れた。それによって返り血を大量に浴びた風吹は、忍装束も髪の毛もべっとりとした赤に染まった。
風吹は今目の前で起こったことを奇妙に思った。刀は先端しか触れていない。通常なら人体を真っ二つに切れるはずなどない。
(僕の術を、勝手に──!?)
風吹が先程組み手で使った風の刃、それが何倍もの切れ味を得て刃の先から放たれた。それによって忍の身体が半分になったのだ。しかし風吹は術を意図して使ったわけではない。刀を振った瞬間に、勝手に風の刃が作られた。
(弥勒先輩が厄介な刀って言ったのが分かる気がする──でも、今はこれしか──)
『力、欲しい?』
(え──?)
どこからともなく聞こえた声に、風吹は動揺した。
『あんたの大切なものをくれたら、もっと強い力、あげる』
(そんなの──いらないっ。何もしないで──!)
声が刀から聞こえたものだと風吹は直感的に思った。それでいて、その身に余る力を拒んだ。
忍がクナイを振り上げた瞬間、杏は以前の様に懐に飛び込んで、自身の右手に持つクナイで相手の喉を切り裂いた。そして念のために腹部にもクナイを挿入して飛び退いた。相手が倒れるのを確認するまでもなく、杏は風吹の元に走る。
「危ないっ!」
杏が風吹を視界に入れた時、風吹の背後には1人の忍が居た。杏は咄嗟に持っていたクナイをその忍目掛けて投げ、それは忍の首に見事命中する。外せば風吹が死ぬ──そんな思考は、杏の中には無かった。というより、絶対に外さないという根拠のない自信というか、不思議な確信が杏にはあった。
「──背中は任せたよ、杏」
杏が駆け寄る足音に気付いた風吹はそう告げた。
「死なないでよ……」
──杏も風吹も、それから日が沈むまで、死と隣り合わせの緊張感の中に居た。
「これで……終わり……?」
「……みたい、だね……」
敵の姿と気配を完全に感じなくなると、杏と風吹はその場にへたりこんだ。ずっと張っていた緊張の糸が切れて、脚に力が入らなくなった。
「まだ……生きてる……」
「……なんとか、ね……」
杏と風吹は互いの体重を背中ごしに相手に預けた。
「遅くなってすまない……何があった?」
目の前の荒れた光景に、後からやってきた封和は眉を潜めた。
「また、忍が襲ってきたんです」
杏は答えるのも億劫そうに封和に告げる。
「そうか──その様子だと、全員撃退できたようだな。無事で何よりだ」
封和は2人についた返り血を術で洗い流した。
「あー、いたいた。こんなところで何してるのさ、風吹クン。修行の時刻はとっくに過ぎてるよー?」
上空から紅い鳥に掴まって飛んできた弥勒は、風吹を見付けるなり飛び降りた。紅い鳥は着地した弥勒の肩に停まると燃えて消えてしまった。
「弥勒……そう言うな。風吹は今まで忍を相手に戦っていたらしい」
「あっ、そうなの? じゃあ仕方ないね。風吹クン、今日の修行はナシでいいよ。その様子じゃムリっぽいしね」
「……すみません」
事実、風吹は動けなかった。
「杏も今日は休め」
「はい……」
「今日は送ろう。立てるか?」
「何とか」
短い言葉のやり取りの末に、杏は封和と共に帰路についた。
「──どうして刀を抜いたの」
杏と封和の姿が完全に見えなくなると、弥勒は普段と異なる厳しい口調で風吹に問う。
「オレ、いいって言うまで絶対に抜くなってキミに言ったよね? どうしてそのいいつけを破ったの?」
「……抜かないと……杏を守れないと思ったから……です」
「ふぅん……それってさ、キミの実力不足だよね。自分勝手なことをしているって分かってる?」
「……はい」
「使ってみて分かったでしょ。この刀──『風車』は、危険な代物だって。もしかしたらキミは、杏ちゃんを守るどころか、殺してしまっていたかも知れないんだよ?」
「……後悔しています」
「選ばれた以上、キミはこの刀を死ぬまで使うことになるだろうね。でも使い手が未熟で、刀に振り回され続けるようなら、その刀──オレが壊すよ」
「それはっ──」
「使い続けたいなら、あんなこと二度としないで」
「すみませんでした」
弥勒が去った後、しばらく風吹はその場で頭を冷やしていた。
(どうして僕が、この刀に……)
鍛冶屋の店主は風吹が刀に選ばれたと言った。風吹にはその意味が今ようやく分かった。
(妖刀・風車──僕の術を勝手に使うなんて──でも、使いこなせるようになれば、確かに心強い)
風吹は刀に秘められた底知れぬ力に畏怖を覚えた。それは、弥勒に組伏せられた時とは質の違うもの。自分が呑まれるという、得体の知れない感覚。
(僕が使われちゃいけないんだ。僕は──これを使える様にならないといけないんだ)
決意を新たに、風吹は帰路についた。
◆
「……今日襲われて、分かったことが1つあります」
「何だ?」
「敵は先輩ではなく、あたしを狙ってきているってことです。先輩は今日、襲われましたか?」
「──ああ」
「それは……嘘ですね。先輩があたしに何か隠したいのは知ってます。先輩だけでなく、風吹も杏理も弥勒先輩もお父さんも。あたしが知ったら誰かが困るから、だからみんな隠してるんですよね」
封和は押し黙る。下手に嘘を重ねれば、事態が悪化するのではないかと思った。
「今日、あたしが知ることで誰かが傷つくなら、知らなくてもいいんじゃないかって思いました。でも、よく考え直せばそれっておかしいですよね。誰かも知らない相手の為にあたしが何も知らないまま傷つくことになるってことですよね」
『やめて──それ以上、何も言わないで。知って傷つくのは、あなた自身だから──』
「え?」
どこからともなく聞こえた声が杏の頭に響いた。
(今の……あたしの声……?)
聞こえた声は確かに杏の声そのものだった。しかし、杏はそんなことを自分の意思では言っていない。
「どうした?」
「今、声が……いえ、何でもありません」
(先輩には聞こえていない──一体、どういうことなの?)
「──疲れているんだろう。風呂に入って、今日はゆっくり休むといい。敵を倒せたのは、誇っていいことだ。今日のことを糧にして、明日からの修行にも励め」
「……おやすみなさい」
◆
「今度は脆すぎる……やっぱり、結界の力じゃ限界があるのね。最初から作り直さなくちゃ……」