其の五
杏は結局、あれから一睡も出来ないまま朝を迎えた。横たえた身体を起き上がらせようにも、身体は怠く重い。表情筋を動かすことすら億劫で、ぼうっとした表情を浮かべた杏は、腕を少しだけ持ち上げるが、すぐに重力に負けて落としてしまう。
(っ、どうしてあたしがあんな目に──)
ふとした瞬間に昨日の出来事を思い出して、杏は身震いする。
傷口から噴き出た血液、抉り出されたような内臓、深くつけられた傷から見える骨──目を閉じて思い出せるのはそんなものばかり。目蓋の裏に焼き付いているその光景は、杏が瞬きをする度に目の前をちらつく。目を閉じれば、なおさら鮮明に見えてしまう。
(おかしい──おかしいよ……どうしてあたしが、あんな目に……)
ただ、一人前になりたいだけなのに──杏は小さくそう呟いた。
「杏、起きてる?」
部屋の扉越しに声を掛けるのは、風吹。
(いつも、そうだよ……これが、あたしの日常……。あんなの、ありえない……)
いつも通りの風吹の様子に、杏はようやく安心した。
「──起きてるよ」
普通に会話を成立させることが、できるくらいに。
杏は寝転んだまま扉の向こうに返事をした。
「珍しく早起きだね。いつもこうだといいのに」
「そんなこと、あたしだっていつも思ってるよ」
他愛もない会話を向けてくる風吹に、杏は気の抜けた声で返す。
「よく眠れた? 悪い夢は見なかった?」
「──悪い夢、ばっかりに決まってるじゃない……目の前で人が惨たらしく死んでる──それのどこが良い夢だって言うのよ……」
「そっか……相当、怖かったんだよね……」
「当たり前、じゃない……」
杏は涙を零した。理解と感情がようやく追いついてきたのだ。
「何であたしが命を狙われなくちゃいけないのよ──! あたしはただっ──ただ、修行をしに来ただけなのに──!」
「杏──」
そんな杏に対して、風吹はどう言葉を掛けるべきか分からなかった。
「──朝ごはんが出来てるよ。温かい内に頂こう?」
「うん……」
杏は啜り泣きをしながら、返事をした。
扉越しの短い会話──それを終えると風吹は階段を降りていく。その足音を聞き届けると、杏は身体を起こす。先程まで感じていた気怠さは、涙と共にすっかり身体から抜けていた。
「おはよう、杏」
風吹はリビングのソファーに座り、ニュースを見て杏を待っていた。
「おはよ、風吹。杏理も」
杏はそんな風吹と、対面式キッチンで朝食の用意をしていた杏理に挨拶をした。
「おはよう、お姉ちゃ──」
そこまで言いかけて、杏理は食卓に運ぼうとしていた味噌汁をお盆ごと落としてしまいそうになった。
「おっと」
杏はお盆に手を添えて中身が零れるのを防いだ。
「あ……ごめん、お姉ちゃん」
「あたしだって、たまには1人で起きてくるわよ」
「……いつもこうだと良いんだけどね」
杏理はやれやれ、といった表情を浮かべた。
「お父さん、朝ごはんの用意が出来たよ」
杏理が一声掛けると、飛沫は読んでいた新聞を折り畳んで食卓に着いた。家族が揃って食事をするのが、紫苑家の習慣だった。
「──ねえ、お父さん」
食事の手を休めた杏が問う。静かに食事をするのもまた、紫苑家の習慣ではあるが、杏はその静けさを破った。
「あたしは昨日、どうして襲われたの」
「──お姉ちゃん、どうしてそんなことをお父さんに訊くの? そんなこと、お父さんが知ってるはずないと思うけど」
「杏理は少し黙ってて」
杏は目を飛沫から逸らさず、杏理に向かって言い放った。
「──どうして俺が知っていると思う?」
「お父さんは一人前の忍なんだから、2回目の襲撃を警戒しない程バカじゃないでしょ。その為に何か情報を掴んでなければ可怪しいじゃない」
飛沫は味噌汁を一口啜る。
「──それは、お前に話さなくてはならないことか?」
「──っ! 当っったり前でしょ! 襲われた張本人が何の知識もなく、フラフラ無防備にしてられるわけないじゃないっ!!」
「──教えたとして、お前に自衛が出来るのか?」
「──っ」
杏は無意識の内に奥歯を噛み締めた。
「無理──かもしれない。でも、知っているのと知らないのとじゃ、全然違う、でしょ──」
飛沫は白米を口に運び、数回咀嚼する。その余裕ある態度が、かなり杏の気に障った。
「──同じだ」
口に入れた物を呑み込んだ飛沫は、短く一言、そう告げた。
「──っ!!!!」
言いたいことが上手く言葉としてまとめられない杏は、箸を折れそうなくらい強く握り締めた。
「お姉ちゃん、お箸、折らないでね」
杏理に諭されるまでその事に気付かないほど、杏は気持ちを昂らせていた。
「──知っていようと、知るまいと、お前はまだ、守られる立場から脱していない。どちらでも同じことだ。昨夜の一件は、忘れなさい」
紫苑家の朝食は、その重苦しい雰囲気を残したまま終わった。
「本っっっっ当に何なのよ!!」
通学路で杏は露骨なほどに苛立ちを表に出した。
「杏、落ち着いてよ。感情に流される様だと、冷静な判断が出来なくなるよ」
「──分かってるわよ。あたしだって、色々分かってる。お父さんがあたしに興味ないことだって、ちゃんと知ってるのよ──」
杏は先ほどまでとは裏腹に肩を落とす。感情の起伏の激しさに見ている風吹は不安を覚えた。
「お姉ちゃん、そんなことないと思うよ。お父さんがお姉ちゃんに興味がないなら、お姉ちゃんを紫苑家から追い出していてもおかしくないと思うけれど」
「世間体の為でしょ。ウチは忍の名門、紫苑家。簡単に放り出したら家の名前に傷がつくから、だからお父さんは仕方なくあたしに時間を割いてるんでしょ」
忍の家から忍ではない者を輩出するというのは前代未聞であり、その子の親からすれば恥といっても過言ではない。国の為に望まれて生まれてきた子供が期待外れの凡人であったなど、誰であっても口外したいはずがない。
「そんなこと、ないと思うけどな」
杏の顔も見ずに杏理は呟く。
「──弥勒先輩、居るなら声を掛けてください。後ろからこっそり近付くのは失礼じゃないですか?」
話の途中で杏理は振り向いた。3人の真後ろ、それもかなり近い距離に居た弥勒は杏と風吹を驚かせた。
「おはようございます、弥勒先輩」
「おはよう、杏ちゃん。風吹くんも」
弥勒の存在に気付かなかった2人は慌てて挨拶をする。
「流石だね、杏理ちゃん。キミくらいの年齢だと、人混みに紛れてるオレの気配は感じ取れないと思ってたんだけどな」
「わたしはこっちに来てからも周囲の警戒を怠っていませんから。いつどんな危険が及ぶか、分かりませんし」
「心配性だなぁ。そんなに気を張らなくても平気だよ。日本は平和な国だからね、襲われるなんてことは起こらないよ」
──少なくとも、昼間はね──と、追い越し様に弥勒は杏理の耳元で囁いた。
「さ、教室に行こう? そろそろ怖い生徒会長さんが、正門を閉めに来ちゃう時間だからさ」
3人より前に出た弥勒は、振り向いていつもの胡散臭い笑顔を彼らに向けた。
◆
「お父さん、ちょっといい」
体育の授業が終わり、生徒達が教室に戻ろうとしている最中に、杏は飛沫を呼び止めた。
「──早く着替えて、次の授業の準備をしなさい」
「あたしが訊きたいこと、分かってるんでしょ」
「──風吹、杏を連れて行きなさい」
「はい、先生」
「ちょっと──何よ、風吹まで。どうして邪魔するのよ!」
「邪魔したいわけじゃないよ。先生の言う通り、次の授業に遅れるわけにはいかないでしょ。女子更衣室は教室から遠いんだし、早く着替えに行った方が良いよ」
杏はキッと風吹を睨む。しかし風吹はそんな視線をものともせず、真剣な眼差しを杏に向ける。
「──後で必ず詳しい話を聞かせてもらうから」
杏は渋々折れて更衣室へ向かった。
「──風吹、何か知ってるんじゃないの」
隣を歩く風吹を、杏は問い詰める。
「……何も、知らないよ」
「嘘。一瞬だけど答えるのが遅れた」
杏は歩みを止める。
「風吹は隠し事をする時、いつもそう」
「やだな、隠し事なんてしたことないよ」
やや遅れて足を止めた風吹は、杏を振り返ることになった。
「そんなはずない。あたし知ってるんだから。誰のことが好きかとか、家に来る前のことを何も覚えてないとか、他にも──」
「どうして杏が知ってるんだよ! 誰にも知られないように、話題にすら挙げないように気を付けてきたのに! それを、どうして……!」
風吹は耐えきれずに大きな声を出す。
「──やっぱり、言えないことがあるんじゃない……」
風吹の答えに、杏は悲しそうな表情を浮かべて目を伏せる。
「……当たり前でしょ。過去が無い、空っぽの人間だって知られるのがどれだけ怖いことか、杏は知らないよね」
風吹もまた、大きな声を出してしまった気まずさで視線を逸らす。
「──凄く怖いんだよ。自分が何者か分からないって。何も知らないから、近寄って来る人全員の悪意に敏感でなくちゃいけない。自分を悪用されないように守るだけの力がなくちゃいけない──何も無いから、必要なことが他人よりたくさんあるんだ……」
「──じゃあ風吹は、あたし達のことも信用出来ないって言うの……」
「違う。杏や先生、杏理ちゃんには感謝してる。こんな僕を拾ってくれて、力の使い方を教えてくれたみんなには、本当に感謝してるんだ」
「何それ。そう言っても結局、心のどこかで疑ってるんでしょ。あたし達が風吹に害を成す存在かも知れないって。本当は利用してるだけかもって」
「どうしてそんな風に捉えるの!? 今のは僕の本心なのに! 僕を疑ってるのは杏の方でしょ! 自分のことを棚に上げて、人のことを批判するのはやめてよ!!」
「──同じ班なのに隠し事する人のことなんか、信用できるわけ──ないじゃない──」
その一言で、風吹は杏の前から去った。次の授業はとっくに始まっていて、風吹は遅れて顔を出した。杏は──体調不良を理由に、欠課した。
「──この屋上でサボりとは、杏ちゃんも目のつけどころが良いね」
保健室では仮病が使えないと思った杏は、人目につかない図書館棟の屋上で腰を下ろした。
「──少し、1人になりたかったんです」
「それじゃ、邪魔しちゃったね。ゴメン。でも何だか、浮かない顔だね。風吹くんと何かあった?」
「──何で、風吹とケンカしたって知ってるんですか。先輩は一部始終を見ていたんですか」
「ううん、見てないよ。でもその様子から何となく分かっちゃった。センセーとケンカする時は、周りが分かるくらいはっきりと怒るじゃない」
弥勒は杏の隣に腰を下ろした。
「でも、今の杏ちゃんは、苦しそうな顔をしてる。杏ちゃんにそんな顔させられるのは、風吹くんだけでしょ?」
杏理ちゃんとケンカしたら、言い返せなくて負けそうだし──とは、口が裂けても言えなかった。
「──すごいですね。先輩は、色んなことをよく見てて」
「良ければ何があったのか、聞かせてくれる? モチロン、話したくなければ無理にとは言わないよ」
杏はぽつり、ぽつりとさっき起こった出来事を打ち明けていく。話を聞いている間、弥勒は相槌も打たずに黙って聞いていた。
「──そっか。そんなことがあったんだ……」
「風吹は結局、誰も信用出来ないんです。家に来てから4年も経ったのに、まだあたし達を疑ってるんです」
「オレは──そんなことないと思うよ」
「どうして、そんなことが分かるんですか?」
「だって、風吹くんの笑顔には嘘なんて無かったもん。口で何と言おうと、本心っていうのは結局行動に現れるからね。然り気無い瞬間を見ることが出来れば、隠し事なんて簡単にバレちゃうものだよ」
「あたしにはそんな観察力、ありません……」
「それはさ、きっと自分のことでいっぱいいっぱいだからじゃないかな? 観察力っていうより、これは気配りとか気遣いとか、そういう思いやりなんだよ」
「あたしには思いやりが足りてないってことですか」
「うん、でもそれは仕方ないんじゃないかな。キミはとにかく自分の実力を上げる為に必死でいなくちゃいけない。風吹くんも、キミに負けじと努力を重ねなくちゃいけない。どっちも自分のことで手一杯なんだ、そんな余裕ないよね」
(確かに、あたしには風吹を気遣う余裕が無かった……一方的に、傷付けちゃった……)
「オレもさ、封和とはよくケンカするんだ。でもそれって大抵、お互いに余裕がなくて、自分のことばっかり考えてる時なんだ。だから少し頭を冷やせばお互いのことを許せるし、自分の状態にも気付ける」
──常に冷静でいなさいって忍の教えは、そういうところからきてるんじゃないの?
弥勒に言われて杏は初めて気が付いた。忍の教えが、ただの掟のように存在しているわけではないということに。それを知ったことで、杏の世界は少しだけ広がりを見せた。
「先輩、大切なことを教えてくれてありがとうございます。あたし、風吹に謝って来ます」
「うん。風吹くんもそろそろ冷静になれた頃じゃないかな。ちょうど昼休みに入るところだし、行っておいで」
「はい!」
杏は階段を駆け降りる。その軽快な足音が遠ざかると物陰から封和が顔を出した。
「──隠し事が上手いのはお前の方なんじゃないか?」
「上手に騙せなきゃ、封和の背中は預けてもらえないでしょ」
「どういう関係があるんだ」
「ハハッ、騙すのも隠すのも、忍の必須スキルってこと」
呆れ顔の封和に、弥勒は笑ってみせた。
「さ、オレたちも昼ごはん食べようよ。朝からずっと掃除してたから、いい加減お腹すいたよ」
「そうだな。近くに敵の気配もないし、休憩するなら今の内だろう」
封和は弥勒の隣に腰を下ろし、持ってきた袋の中からいくつかのおにぎりを取り出した。
「ツナマヨ貰うよ」
「好きにしろ」
◆
「──どこ行ってたの」
どれだけ気まずくなったとしても、杏と風吹の席は隣り合っているため離れることができない。昼食を摂っている時も、2人は必ず顔を合わせることになる。
「屋上。弥勒先輩に会ったよ」
「そう……」
「風吹──ごめんなさい。あたし、ちょっと自分のことだけでいっぱいいっぱいになってた。風吹のこと、考える余裕がなかった。あんな酷いこと言って、ごめんなさい」
風吹の目をまっすぐ見て謝罪する杏に、風吹も何かを決断したような表情を浮かべた。
「僕こそ、ごめん。杏が怖がってるの、知ってたのに……あんなひどい言い方しちゃって、本当にごめん」
どうやら50分という時間は、2人が頭を冷やすにはちょうどよかったらしい。謝罪を述べた2人の表情は、今までよりもすっきりしていた。
(弥勒先輩、ありがとう──)