其の三
弥勒から説明された日本という国には、杏たちが全く触れたことのない文化で溢れている。建物の造りも、着ているものも、生活の在り方さえもが異なっていた。
「──じゃあ、あたしたちは日本で学生っていうのを営みながら修行をすることになるんですね?」
「ウン、そういうこと。杏ちゃんの実力が満足いくレベルまで達したら、この国での修業は終わりだよ。それまで頑張ってね。オレ達も可能な限りは力になるからね」
必要な事を弥勒が伝えきる頃には、日が暮れていた。説明にかなりの時間を要したにも関わらず、杏たちの好奇心は満ち足りなかった。
「今日は疲れただろう。お前たちがこれから拠点として使う家に案内する。今日はゆっくり休むといい」
封和は話を適当なところで切り上げた。このままでは夜が明けてしまうかもしれないと危惧したからだ。
「お姉ちゃん、夕飯はどうするの? こんな時間になったのに、わたし何も用意していないよ?」
「何か、食べに行こうか、杏理ちゃん。日本には美味しいものがいっぱいあるよ。注文したらすぐに食べられるものとかね」
「弥勒、ファストフードはよせ。お前1人の時にしろ」
「ちぇ──きっと気に入ると思ったのに」
「あんなものばかり食べていたら身体が作られない──ファミレスあたりでいいだろう」
「はいはい、分かりましたよーっと」
弥勒は渋々頷くと子供達を繁華街に案内した。
日本の食事は諏訪のものに比べて彩がよく味が濃い物が多い。見た目の華やかさと感じたことのないはっきりとした味わいに3人は少なからず驚いた。思う存分日本の食事を堪能した3人は、封和と弥勒に送られて日本での拠点となる貸家に向かった。
「先輩たちは、いつから日本で生活してるんですか?」
「13の、大戦が終わって間もない頃からここに住んでいる。大戦で自分の未熟さを思い知ったから、修行の為に」
「オレは、大戦で家を失っちゃったからね。まだ子供だったし、謀略に巻き込まれるのも御免だし、日本に逃げてきたんだ。封和とはその時から同じ班だよ」
「じゃあ、4年前からずっと日本に……」
「といっても、ちょくちょく帰ってはいたんだよね。一応、妹と祖母ちゃんを諏訪に残して来てるからさ。様子だけは見に行かないと」
「…………」
風吹は表情を曇らせた。周囲には何もなく、雪の様に降り積もる灰の中、自分1人が膝を抱えて蹲っていた記憶が呼び起こされたからだ。
「風吹──?」
そんな風吹を杏理は心配そうに見上げる。それに気付いた風吹は微笑みを作り、大丈夫だよ、と声をかけた。
「すまないが、今日はこれで失礼させてもらう。まだするべきことが残っているんだ。ここまで来てしまえば、もうすぐだ。後は先生が案内してくれるだろう」
「そういうわけで、オレも失礼させてもらうよ。それじゃみんな、また明日」
封和は飛沫に小さく一礼して背を向ける。弥勒は子供たちにヒラヒラと手を振って踵を返す。
人気が完全に無くなったところで、2人の表情は学生のものから本来の忍のものへと変わっていた。2人の周りには人型の和紙が飛び回っている。
「──全く、手が早い物だ」
「これで全部?」
2人の周りに漂っていた人型の和紙は、一瞬の内にその全てが焼け焦げた紙や煤となった。弥勒が自身の『火』属性の術を使って焼き払ったのだ。
「ああ。この近辺に残っている物はもう無いはずだ」
「菖蒲サマも何でこんな分かりやすい事するかなぁ」
「私達への宣戦布告だろう。何せここには──」
封和は言いかけた言葉を呑み込んだ。目の前に再び人型の和紙が舞い降りてきたからだ。封和はそれを片手で捕まえて握り潰すと弥勒に放る。弥勒は触りたくもないといった様子でそれを燃やした。
「悪い、まだ残っていたらしい」
人型の和紙は、術師がよく使う式神だった。攻撃性がないことからただの偵察だと封和は判断する。
「この分だと、朝まで掃除かねぇ……」
一つ燃やした後からその数は膨大に増え、気を抜けば羽虫の様に周囲に群がってきそうだ。
「迷惑な物だ」
口ではそう言うものの、封和は今やっていることを放棄するつもりは無い。自身の『水』属性の術で広大な水の膜を上空に作り出し、式神のそれ以上の接近を防ごうとする。これは封和が術師の真似事をして作り出した偽物の結界だ。
「まあ、気長にやりますか」
弥勒は電柱の上に飛び上がるとうんざりした様子でしゃがみこむ。そうして封和の張った偽の結界を越えて、一定範囲まで近付いてきた式神を全て燃やす。弥勒は派手に焼き尽くしてやりたいと思ったが、日本人の目がある。無関係な人を事態に巻き込みたいとは誰も思うまい。
そうして紫苑家の周囲の掃除は、人知れず朝まで続いた。
◆
諏訪でも、大和でも、倭でもない場所──彼女はそこに幼い頃から閉じ込められている。そんな意識はある時まで持ってはいなかったが、気付いてしまってからは閉塞感に潰されそうになる事もしばしばあった。
外出は許されていない。この城に入った者は、その命が尽きるまで敷地から出ることが許されていない。それを彼女は疎ましいと思った事はなかった。欲しい物も必要な物も、使用人に言えばすぐに手配できる。過不足ない生活──この城ではそれだけが約束されていた。
彼女の名は菖蒲。倭を護る結界を管理する巫女だ。彼女は今、自身で設けた祈り場の大きな鏡の前で精神を集中させている。
「日本に逃げるなんて、飛沫も考えたものね。あたくしの術ではまだ式神程度しか向こうへは飛ばす事が出来ないのを、どうして知っているのかしら」
菖蒲は自分の能力の限界を他人に話した事はない。誰であっても見下されるのは不愉快だが、菖蒲にとっては特に許しがたい事なのだ。
「早く方法を見つけないとね。時間はないもの、戻って来られる様にはしておかないと」
氷の様に冷たい瞳を鏡に映し、彼女は新しい術を試みた。
◆
翌朝、何事も無かったように紫苑家を訪れた弥勒と、昨夜の出来事を何も知らない3人は、学校への道を歩き出す。風吹と杏理は通学路を大体覚えているが、杏はまだ怪しい。杏は道を覚えるのが昔から大の苦手だった。よく迷子になっては風吹に見つけてもらっていたのだ。
「日本の学校は、見たら驚くくらい諏訪の学園と違うよ」
3人を先導する弥勒は楽しそうにそう言った。
敷地に入ると、杏たちは初等部から高等部までの様々な制服を纏った生徒が校舎に吸い込まれていくのに驚いた。弥勒の言うように、諏訪の学園ではお目にかかれない人数だ。
「凄い……」
「圧巻だよねぇ。オレも最初はビックリしたよ。まあそのうち慣れるから。それじゃ、職員室行こうか」
千秋学園では初等部から高等部まで、職員室は一つに統合されており、全ての校舎の中心に位置する。
「色々連絡があるだろうから、先生の言う事、ちゃんと聞いててね」
一言の忠告を残して弥勒は扉を開ける。
「失礼しまーす。転入生連れてきましたー」
「ご苦労だった、弥勒」
「センセー、スーツも似合ってるね」
弥勒の声に反応したのは飛沫だった。
「杏理、こちらに来なさい。こちらが担任の先生だ」
飛沫は先程まで話していた茶髪の教師と杏理を引き合わせる。
「初めまして紫苑さん。始業にはまだ早いですが、教室に行きましょうか」
「よろしくお願いします」
杏理は早々に職員室を後にした。
始業より少し早く教室に入った飛沫は、早々に自己紹介を済ませて杏と風吹を迎えた。同じ日に同姓の教師と生徒が同じ教室に入ってくるなんて珍しい。教室はその話題で持ちきりになり、同様に2人の転入生の整った容姿もまた、話題の中心になった。
忍の家系は顔立ちも身体も整った者が多い。中途半端な容姿をした者は居ない。それが諏訪では当たり前だったが、日本では違う。
クラスメイトの視線を一心に受けた2人は与えられた席に向かう。隣り合った、後ろの窓際の席だ。教壇から与えられた席までの短い距離を移動する間に、杏は他の子達とは雰囲気の違う少年に気付いた。
風吹以上に明るい髪の毛と瞳の色──興味なんて微塵もないと言う様に頬杖を付いてぼんやりとしている。
着席しても、杏の視線は自然と彼に向く。興味があるというより、吸い寄せられるのだ。
「ねえ、あの子って……」
「エルの事?」
休み時間、群がってきた男子の質問の合間に杏は尋ねてみた。
「エルって言うの?」
「エル・クレールド・リュンヌって言って、留学生だよ。出身はどこだっけ……」
「あ、ううん、そこまでは良いの。教えてくれてありがとう」
杏は愛想笑いを振りまく。元々そう言う事を積極的にする事はないけれども、情報料と少しばかりの誤魔化しを兼ねていた。
(何だろう、あの子──不思議な感じがする)
チラリと風吹を見ても気付いている様子はない。杏は勘違いだろうか、と首を傾げた。
「ねえ、風吹。教室に居たさ、風吹より明るい髪の色をした男の子、何か思わなかった?」
休み時間に廊下に風吹を連れ出した杏はそんな事を訊ねた。
「僕より明るい髪の男の子? 何となく覚えてはいるけど、特に何とも思わなかったよ。杏は何か感じたりしたの?」
「大した事じゃないんだけどね、何か引き寄せられる様な感覚がずっとあって。風吹も同じ事感じてないかなって思ったの」
「そっか。明日は気を付けてみるよ」
「あ、いいの。気にする程の違和感じゃないし」
「そう? でもまた何かあったら言ってよ」
「うん」
◆
「早速だが、今日から修行を始める」
昼休みに生徒会の仕事を上手く切り上げてきた封和が杏にそう告げた。
「修行って、具体的には何をするんですか? 諏訪に居た時の様に、術を使うことは出来ないんじゃないですか?」
「何も心配しなくていい。最適な場所は用意してある」
「わかりました。じゃあ、放課後に風吹と一緒に伺います」
「その必要はない。風吹には弥勒が指導することになっている。私が担当するのはお前ひとりだけだ。午後の授業が終わったら迎えに来るから教室で待っていなさい」
「はい」
(封和先輩が修行を見てくれるってことは、すぐにあたしも先輩みたいになれるかもしれないってこと……?)
単純な思考回路しか持ち合わせない杏の脳はそんな結論を出した。すると放課後が待ち切れず、胸が高鳴るのがはっきりと分かった。
その日の授業内容は一切杏の頭に入らないまま、時間だけが過ぎ去りあっという間に放課後を迎えた。
「さあ付いてこい」
そう告げると封和は黙って歩き出す。行き先も余計なことも一切告げない。杏も何も言わずに付いていく。
杏が連れてこられたのは、町はずれの小さな山だった。
「ここなら、術を使っても誰にも知られることはない」
「でもあたし……術が……」
「いずれ使えるようになるだろう。そうなったらここは最適な場所だ。早速始めるぞ」
「修行って、何をするんですか?」
「当面は体術の強化だ。術は体術が使えて初めて意味を成すものだ。動けない忍はすぐに命を落とす」
「諏訪での修行と同じってことですか?」
「そうだ。だが、学園で行っていたものよりも実践的に行う。私は術を使うし、お前も使えるなら使って構わない。無論道具も使って構わないし、何をしたっていい。自分が生き残る為に知恵を絞りながら、私を殺すつもりで取り組め」
「──わかりました。とにかく全力で、ってことですね」
「そういうことだ。──始めるぞ」
封和はその一言を境に纏う雰囲気をがらりと変えた。殺気を帯びて、杏はそれをまともに受けてしまった。封和の発した殺気は、杏の動きを縛り付けるように空気を凍らせた。
「どうした。戦場での恐怖はこんなものじゃないぞ。この程度で動けなくなってどうする。ほら、始めるぞ」
杏は封和の声でようやく我に返った。緊張を力づくで振り解いて、無理やり身体を動かす。最上級生の首席である封和に、落ちこぼれの杏が敵う筈もない。始めから分かりきっていることだから、杏はクナイを手にした。
自分からは動かない封和に向かって杏は駆け出す。闇雲にクナイを振り回して封和に傷を付けようとするが、傷一つ付かない。
「そんなんじゃいつまで経っても私に傷をつけることなんてできないぞ。闇雲に振り回しても当たるわけがないだろう。相手の動きを予測するんだ」
「はいっ!!」
杏は元気よく返事をするが、その動きは簡単に改善されない。それもそうだ。そんなにすぐに改善できるのであれば、杏は劣等生と呼ばれてはいない。
「何度言えば分かるんだ、それでは何も変わらない」
それから数時間、杏は封和に何度も挑んだが傷一つつけることはできなかった。
「──これでは相手を倒すなんて到底無理だな……まずは避ける事を最優先に考えろ。無理に攻撃に打って出る必要はない。とにかく避けて、相手の隙を見てできそうなら攻撃に出るんだ」
「ハァ、ハァ……はいっ……」
杏の呼吸はまだ整わない。激しい動きを数時間休むことなく続けていたのだから無理もない。それに対して封和は最初と何も変わらない。いつもの凛とした表情で、座り込む杏を眺めている。
「ハァ……先輩は、強いですね……あたしなんかとは、全然、違う……」
「……努力をすれば必ず結果はついてくる。私はかなりの時間を修業に充てた。お前も修業を積めば、必ず強くなれる」
「……先輩が、そう言うなら……そうなんですよね」
「術が使えなくても、飛沫先生はとても強い。お前は先生の娘なのだから、お前もああなれるはずだ」
「……本当に、そうでしょうか……」
「何故そんなことを?」
「お父さん、昔は術が使えたみたいなんです」
「……そのことを誰から聞いたんだ?」
「……あれ? ……どうしてあたし、こんなこと知ってるんだろ……?」
「先生は、そのことを誰にも明かしていないはずだ。先生が話していないのなら、弥勒か?」
「違いますっ! 弥勒先輩からは何も聞いていませんっ!」
「そうか」
(あたし、誰からもそんな話を聞いた覚えがないのにどうして……)
奇妙な感覚が胸に残った。
「今日はもう終わりだ」
「え? あたしまだ動けますっ!」
呆れられたと思った杏は必死に懇願した。
「今日はもう無理だ。第一、これ以上やったらお前は家に帰ることも出来なくなるぞ」
封和は杏の体力の限界を見抜いていた。杏もそれは否定出来なくて、素直に頷いた。
「ありがとう、ございました……」
「ああ。では、また明日の早朝──そうだな、5時位にまたここに来い。内容は今日と同じだ」
封和はそれだけ告げると去っていった。