弐の四
弥勒にとって葉月と共に過ごした日々は大切だった。何をするにしても、何処へ行くにしても、弥勒は葉月と一緒にいた。というのも、葉月が屋敷に来てしばらく経ってからも、葉月は一族の誰かから毎日嫌がらせを受けたり、陰口を叩かれたりしていたからだ。そんな葉月にもたらされる一族の害を、弥勒が寄せ付けないようにしていた。弥勒にとって、葉月が安心していられる場所があるということが、幸せなことだった。
葉月が不満を何ひとつ口にしなかったのは、弥勒が葉月への気遣いを絶やさなかったからだろう。
弥勒が葉月から目を離せなかったのは、葉月がそれらのすべてを甘んじて受け入れていたからだ。葉月は何を言われても、何をされても、仕返しなどしないから弥勒は常に目を光らせていなければならなかった。
「弥勒、今夜私の部屋に来なさい」
ある日の夕方、弥勒は父の永熾から短くそう告げられた。
「――無理。今は葉月から目を離せないから」
弥勒はそれを拒んだ。このとき、葉月が一族から受ける嫌がらせは最も酷い時期だった。弥勒が離れたら、葉月は何をされるか分かったものではない。
「葉月も連れてきなさい。お前だけに関わる話ではない」
それなら、と弥勒は渋々頷いた。
葉月は学園に通うことも許されていた。しかし通い始めると同時に葉月は屋敷と学園の両方で嫌がらせを受けるようになった。それを行ったのは弥勒の実父である永熾とて例外ではない。
(大人なんて、信用できない。他の家の子だって、おんなじだ。信用できるとしたら――封和だけ。封和は――封和だけは、葉月が信用してるから)
弥勒の味方は居ても、葉月の味方は居ない。葉月の敵になる人物を、弥勒は味方として認めはしなかった。だから弥勒は自ら孤立を選び取って葉月の盾になった。
弥勒は葉月とふたりきりの食事を済ませると武器を服の中に忍ばせた。
「葉月、ちょっといい?」
「はい。どうしましたか? 改まって……」
「父さんが部屋に来てほしいって。オレと、一緒に」
「……当主様が……私に?」
「うん。オレも理由は聞かされてないんだけど、心配しないで。葉月には絶対、傷を付けさせたりしないから」
そう告げると弥勒は葉月の手を取って永熾の部屋へ向かった。
長い廊下を歩く間にすれ違った使用人や一族の人間はふたりに快い視線を送りはしなかった。
「父さん、入るよ」
室内からの返事を待たずに弥勒は襖を開けた。
「失礼致します、当主様」
その後ろを葉月は遠慮がちに続く。
「座りなさい」
ふたりは促されるままに膝を折る。
「何の話か知らないけど――もし葉月に何かするようなら、絶対に許さないから」
弥勒は敵意をあらわにした眼差しを父親に向けた。
「話を急ぐな。だが、この件はお前の不安にも密接に関わる話になるだろう。弥勒、まずは武器を置きなさい」
弥勒は渋々クナイを置いた。
「葉月を取り巻く環境については十分に知っているつもりだ。お前から話を聞いた時には憂いていた」
「分かってて――心を痛める素振りを見せるくらいなら、早く改善してよ」
「無論、そのつもりだ。弥勒、よく聞きなさい。葉月を、お前の婚約者として据えることにした」
「――え?」
驚きの声を上げたのは勿論、弥勒だった。聞き間違いではないことを確かめるために、弥勒は少し後ろに控えた葉月を見る。
弥勒の瞳に映った葉月は、戸惑いの表情を浮かべていた。
「……当主様」
「何者であろうと、異論は認めない。話は以上だ。去れ」
最後の一言はまるで葉月に向けられたようだった。葉月は小さく震えていた。
「――行こ」
弥勒はそんな葉月の手を引いて退室した。
「大丈夫?」
「――ええ」
「オレもビックリしたよ。まさか父さんがここまで葉月のことを考えてくれてたなんて」
「そう、ですね……私も動揺しています。嬉しくない、と言えば嘘になってしまいます。でも、私はそんな立場を許されていいわけが――」
「葉月っ!」
弥勒は急に振り向くと、葉月を力一杯抱き締めた。
「そんなこと言わないで。葉月はここにいていいんだ。オレの隣に、封和のそばに居てもいいんだよ」
「弥勒……ごめんなさい、私――」
「何も言わなくていいよ。葉月のことはオレが守るから。今までも、これからも」
弥勒は葉月を離すと両肩に手を置いたまま続けた。
「オレにどうしようもないことは、封和が力になってくれる。だから葉月――自分を責めることなんて、ないんだよ」
葉月は少しの間、黙って俯いていた。終始葉月は震えていたが、その理由を弥勒は知る由もない。
「――少しだけ――ひとりにして。ゆっくりと、考えをまとめたいの……」
やがて葉月は弥勒の手を離れた。弥勒はそれを引き止めはしない。ゆっくりと遠ざかる小さな背中を、弥勒は見詰めるだけだった。
◆
「っ――!」
弥勒は飛び起きた。心臓は激しく鼓動し、額には嫌な汗が滲んでいる。
(夢――か――)
弥勒はあたりを見回して現実ではないことを確かめる。
(葉月は、何であんな表情してたんだろう……)
窓とカーテンの隙間からは僅かに光が漏れている。微かに見える壁掛け時計の文字盤からは、まだ夜明け前であることが伺えた。
弥勒は再び薄手の毛布に包まれた。するとふと美月の顔が脳裏を過った。
(美月――キミはもしかして、葉月の生まれ変わりなの? だとしたら――運命っていうのは、残酷すぎる)
弥勒は再び目蓋を閉じる。意識は簡単に落ちていった。
「――ロク。弥勒。――おい、起きろ」
封和の声で、弥勒はパチリと目を開けた。
「アレ? 封和?」
「いつまで寝ているつもりだ?」
弥勒は時計を見た。時刻は始発電車が動き始める頃だった。
「――珍しいね。こんな時間まで家にいるなんて」
「少し、余裕が出来た」
「そっか」
「お前の方こそ珍しいな。声を掛けるまで目を覚まさないなんて。夢でも見ていたのか?」
「夢……そうだね、見てたかも」
「覚えていないのか?」
「うん――一回目に見たのは、覚えてるんだけど」
「一度目覚めたのか」
「まあね。ずっと見ていたかったけど、叶わなかったよ」
「弥勒――夢は叶わないから夢と言うんだ」
封和には弥勒の見ていた夢の内容が簡単に想像できた。それは、弥勒の心を穿つほどの出来事がひとつを除いて存在していないと封和が知っていたからだった。
「早く身なりを整えろ。朝食は用意しておいた」
「え? 封和が作ったの?」
「……ああ」
「……わーい、ありがとー……」
「嬉しくなさそうだな。……私だって、少しくらい料理を覚えたさ」
「そ。で、メニューは?」
「来れば分かる」
封和は拗ねたような素振りで退室した。残された弥勒は起き上がって着替えると、簡単に身なりを整えて食卓へ向かった。
「まともなものが並んでる……」
食卓には、白米と味噌汁――そして、ふりかけがあった。料理と呼べるのは味噌汁くらいのものだが、それでも封和にしてみれば上出来だった。
(ま、全部インスタントだろうけどね)
封和の努力に弥勒は苦笑を漏らした。
「何か不満でも?」
「ナイよ。封和らしいなって思っただけ。さ、冷めないうちに食べよ」
ふたりは無言で箸を持った。
◆
封和は食事を済ませると早々に登校した。残された弥勒は後片付けをして顔を洗う。
ひとりになると、嫌でも弥勒は葉月のことを思い出してしまう。瞬きする度、葉月の顔が目蓋の裏に映った。
(もう……思い出しちゃダメだっていうのに)
頭の中から追い出そうとすればするほど、葉月の思い出が脳裏をちらつき、いつしかそれは美月の姿に変わっていた。
『弥勒』
頭の中に住み着いた美月が名を呼んだ。
「……ダメだ。それは出来ない」
弥勒は美月を否定してみる。
『……弥勒』
今度は葉月の声が響いた。
「……大丈夫。オレはどこにも行かない」
弥勒は葉月を肯定する。
(どこにも……行っちゃ、ダメなんだ。葉月を……ひとりには出来ないから)
弥勒は自分に言い聞かせる。
『手離してしまえよ。諏訪も、封和も。人は、自由だ。オマエは美月と一緒に幸せな時間を過ごしたって構わないんだぞ』
もうひとりの自分が甘美な言葉で弥勒を誘惑する。
「――っ、うるさい……!」
自分の内側から溢れるひとつの可能性――目を背けようとしても背けることなんて出来ない苦しみの種――そんなものが暴力的に弥勒の精神を侵した。
息をするのも儘ならないくらいの苦しみに、弥勒は胸元を押さえて踞った。
「――あれは、葉月じゃない」
なんとか一言そう発すると、胸を刺すような苦しみが和らいだ気がした。
(そうだ……葉月はもういない。あの娘は葉月じゃない。似ているだけの別人で……オレが守りたかった女の子じゃ、ない……)
違う、違う、と自分に言い聞かせているうちに、弥勒は落ち着いた。
そうして平常を取り戻した弥勒はいつものように学校へ向かう。登校時間がいつもより遅いだけあって、町はとっくに活動を始めていた。朝食の支度をする音、朝風呂による湯気の匂い、少しずつ熱を帯びる空気――長らく弥勒が触れていなかったものがそこにはあった。
(たまには悪くないね、こういうのも)
自然と口角が上がるのが分かった。
弥勒はこの町並みが嫌いではなかった。生まれ育った諏訪とは大きく異なるものの、人の営みそのものは変わらない。日本に来たばかりの頃にそれを知って、弥勒は救われていたのかも知れない。もし、異国の全く異なる生態を持つ人間と生活しなければならなかったとしたら、いくら適応力の高い弥勒といえども疲弊してしまっていただろう。まして、あんな状態で日本に来たのだ。もしそうであったなら、弥勒は二度と元には戻れなかっただろう。諏訪ほどではないが、弥勒はこの町に思い入れがあった。
「おはようございます」
油断していた所為で、弥勒は心臓がおかしな動きをしたような錯覚に陥った。家を出る前のような苦しみが再び弥勒を襲う。
弥勒が振り向けば、そこには美月が居た。
「……おはよ」
弥勒はどうにか声を絞り出す。
「弥勒も今、登校するところですか?」
(どうして美月がここに?)
「……うん、そうだね」
(だって家は反対方向でしょ?)
「ご一緒しても?」
(早く離れなきゃ……)
「構わないよ」
あろうことか、弥勒の思考と言葉は解離していた。
(なに……やってんだよ……)
弥勒はそんな自分に腹が立つのと同時に、喜んでいる自分が居ることに気付いていた。
「……どうして、こっちに? 家、駅向こうじゃないっけ」
美月と肩を並べて歩きながら弥勒は問う。
「お散歩です。誰にも妨げられない自由な時間の作り方を、私は他に知らないので」
「……朝は忙しいって、そういうこと?」
「ええ、そういうことです」
曰く、美月は常に人目に晒される生活をしているらしい。桜宮家の一人娘として恥ずかしくないように育てられ、常に誰かの視線がまとわりつく――そんな生活に十七歳の少女が耐えられるはずもなく、毎朝ひとりになる為に散歩をしていると言う。
「じゃあ、オレは邪魔だったかな」
「いいえ」
「どうして? オレがいたらキミはひとりになれないでしょ?」
「必ずしもひとりである必要なんてありません。だって弥勒は私を桜宮家の娘として見ていないでしょう?」
弥勒は呆気に取られた。確かに弥勒はそんな肩書きに興味はない。それを美月が理解してくれていると弥勒は思っていなかったが、そうではなかった。
「肩書きなんてさ、必要な人が押し付けるだけなんだよ」
「まるで体験してきたように言うのですね」
「うん、まあね。心当たりがないわけでもないから」
「弥勒も、私と同じですか?」
「そうかも。でも形は違うし、オレは比較的自由にさせてもらってたから美月みたいに息苦しくはないよ。きっとそれを感じてたのは封和だ」
「封和さん?」
「うん。封和の家はさ、そういうの厳しいんだよ。規則も厳しいし、家族にも厳しい。だから自分にも厳しくなる。苦しくてもそれが当たり前だし、オレみたいに自由も多くはない」
美月は言葉を呑み込んでいた。
「昨日話した美月そっくりの女の子、封和とも仲良かったんだ。封和って家の関係もあって近寄りがたくて、優秀だからついていける人もいなくて、いつも独りだったんだよ。そこにその子が来てくれた。封和にとってもあの子は大切な友人だったんだ」
「弥勒は、封和さんと一緒にその子に会いたいのですか?」
「どうだろ。封和が今、何を思ってるのか、オレには分からないから」
やがてふたりは川に差し掛かった。橋を渡れば聖園女学院、渡らなければ千秋学園。
「それでは、ここで」
美月は微笑むと弥勒に背を向けて橋を渡った。弥勒はその背を目に焼き付けるように見つめ続けた。
美月の背中は次第に小さくなっていく。
(行っちゃう……)
その姿が葉月との別れに重なった。
「美月!」
弥勒は思わず名を叫んだ。美月は既に橋を渡り終えていた。
美月は優雅に振り向く。
「夕方、また会いに行くよ!」
弥勒は無意識にそう言っていた。
「楽しみにしています」
美月の唇がそう言葉を紡いだのを弥勒は見た。
美月の姿が見えなくなるまで、弥勒はそこに立ち続けた。
(何……やってるのさ……)
弥勒は自分の意思の弱さにどうしようもなく苛立った。やり場のない感情を、弥勒は抱え続けた。