弐の三
「あの子、さ――」
入浴を済ませて髪の水滴を拭う封和に向かって弥勒は話しかける。
「あの子、聖園の二年生って言ってたよね」
「櫻宮――美月のことか」
「うん――なんであんなに似てるんだろ」
美月は葉月によく似ている。名前は偶然にしても、その容姿はまるで葉月を写し取ったかのようにそっくりだった。
「――葉月の身元は分からないのだから、調べようがないだろう」
「そう、だよね……もしかしたら双子か、姉妹なんじゃないかって思ってたんだけど」
「まさか。諏訪以外に日本を往来できる術を持つ國なんて聞いたことがない」
「諏訪でも最高機密じゃん? 知らなくて当然っちゃ当然だよ。もしかしたら他の國でも同じかも?」
「だとしても、考えにくいだろう。日本人は――」
「案外そうでもないかもよ。日本人の中にも術を使える人は居て、その人たちがそれを隠して生活しているんだとしたら――」
日本人は術の類を使えない。ふたりがそれを知ったのは、日本に来て間もない頃だった。
「弥勒、お前まさか葉月が日本から連れてこられたと考えているのか?」
「――ありえない話ではないって思ってるよ。親父が日本の存在を知ってたら――絶対にやると思う。……そういう人間だから」
「だが……確かめようがないだろう。直接尋ねるのは危険だ」
「うん――大丈夫、大和人の可能性が高いのは、ちゃんと分かってるよ」
「弥勒」
「何、封和」
「これ以上関わるべきではない」
「分かってる」
弥勒は冷めた声で言う。
(――うん、ちゃんと分かってるよ。封和の言いたいことは、ちゃんと分かってる。昔からオレに言ってるようで、自分に言い聞かせてるもんね……)
弥勒はちゃんと封和の言いたいことを理解している。これ以上日本人と関わるべきではない――それは、諏訪を捨ててでも守りたいものを作ってはいけないということだ。何度も言われてきたその教えを、弥勒はきちんと理解している。そして、その理由にも納得している。だが――それでも、弥勒は――。
(確かめるだけ――だから)
◆
翌朝、弥勒は封和と同じように起きた。そして珍しくきちんとした朝食を作って封和に摂らせると、後片付けと称して弥勒は封和より遅くに家を出た。
空は、まだ暗かった。
人気のない道を弥勒はひとり歩く。向かう先は駅向こうにある学校――聖園女学院。
聖園女学院はお金持ちや家柄の言いお嬢様たちが通う私立の高等学校だ。生徒たちは皆、家の使用人や親の運転する車で送迎をしてもらう。そのことは地元で有名で、近隣の高校に通う子も皆知っている。だから、用事があるからと言って正門前で待つ弥勒の行為ははっきり言って無駄なのだ。
それを分かっていても、弥勒はそうするしかなかった。女学院というだけあって、男が敷地内に足を踏み入れるのは難しい。身体能力が高い忍である弥勒ならば侵入も容易であろうが、そこまでの危険を冒す必要はない。
それに――弥勒には、迷う時間も必要だった。
やがて日が昇ると町は動き始める。車道を行き交う車は増え、町はざわめきだす。
(やっぱり、やめた方がいいのかも――)
学校と通学路を隔てる塀に寄り掛かって通る車に乗った人物を確認していた弥勒は、諦めて登校しようとした。数時間に渡って待っていても、待ち人はなかなか現れない。
(学校、行かなきゃ。また封和が無理してるだろうし……)
塀に預けていた体重を自分の脚だけで支えると、 弥勒は千秋学園に向かって歩き始める。
「あら? あなたは――」
すると背後から懐かしい声が聞こえた。弥勒が聞きたくて仕方なかった少女の声。弥勒はすぐに振り向いた。待ち人は弥勒を見付けると駆け寄ってきた。
「キミ――歩いて登校してるの?」
色々言いたいことがあったにも関わらず、弥勒は他愛もないことを口にしていた。
「ええ、朝の空気が好きなので。――あの、昨日はありがとうございました」
「気にしないで。オレもああいうの、嫌いだったから。でも、気をつけなよ?」
「肝に命じておきます。――お名前、訊いてもよろしいですか? 昨日、聞きそびれてしまったので」
「弥勒だよ。高炎寺弥勒。封和と同じ、千秋学園の二年生」
「では、あなたも生徒会に?」
「ううん。オレは入ってないよ。封和だけ。でも生徒会室にはよく行ってるけど」
「そうなんですか。仲がよろしいんですね」
「うん、まあ……昔から一緒にいるからね」
「それで、高炎寺さんはどのようなご用件でいらしたのですか?」
高炎寺さん――その声でそう呼ばれたことに、弥勒の胸が痛んだ。
(そっか……そうだよね……日本じゃ初対面の相手を名字で呼ぶもんね……)
弥勒は思わず泣きそうになった。しかし美月に涙を見せるわけにはいかないと弥勒は思った。
「うん……訊きたいことがあったんだ。今、ちょっとだけいい?」
「今、ですか……ごめんなさい、朝は色々と用事があって……」
「そっか。そうだよね。急に来てゴメンね」
弥勒は少しの安堵と共にその場を去ろうと踵を返した。
「でもっ」
美月は遠ざかろうとする弥勒に向かって声を張る。弥勒は脚を止めた。
「放課後でしたら、少しだけ時間が取れますよ」
弥勒が思わず振り向くと、美月は微笑んだ。
「――っ。じゃあ、授業が終わったらすぐに来るよ!」
弥勒は口角が上がるのを抑えきれなかった。
「お待ちしています」
同時に、弥勒の胸は高鳴った。
◆
「随分と遅かったな。まさかとは思うが、余計なことに首を突っ込んでいないだろうな」
弥勒が教室に滑り込んだのは、始業ギリギリの時刻だった。普段から封和に付きまとうようにしている弥勒が今朝は居なかった――封和はそのことに違和感を覚えた。
「何でそう思うワケ? オレだってたまには自由に出歩いてもいいでしょ? 封和だっていつもオレのこと疎ましそうにしてるし」
「美月のところか」
「――行くわけないじゃん。オレ、男だよ? 女子校なんて行ったら通報されかねないって」
「なら、何をしてたんだ? 言えないようなことか?」
「何で今日はそんなに辛く当たってくるの」
「分からないはずないだろう?」
「――分かった、言うよ。言いますって。――愛嬌のあるネコと遊んでたんだよ。――結構、キツかったからさ」
封和は弥勒の言い分に納得した。
そしてふたりの間に漂う空気は途端に重くなる。
「確かに、よく似ているからな……」
「うん……でも、少し落ち着いたから、心配しないで」
「私は心配なんて――だいたい、お前なら大丈夫だろう」
「――ありがと」
◆
終業のチャイムと共に弥勒は教室を飛び出した。
「おーいミロクー。ゲーセン行こーぜ」
「ごめん! 用事あるから!」
同級生のいつもの誘いを断り、弥勒は走って聖園女学院を目指した。今は時間が惜しかった。どれだけ速く走っても、弥勒は逸る気持ちを抑えられなかった。それは一秒でも長く美月と話したいが故だった。
(あの子は――よかった、まだ来てない)
正門のすぐ横で、朝と同じように塀に凭れかかって美月を待つ。
「お待たせしてすみません」
美月は弥勒が到着してから十分ほどで出てきた。パタパタと駆け寄ってくる小動物の様な動きが葉月によく似ていた。
「大丈夫だよ。今来たところだから」
「せっかく来ていただいて申し訳ないのですが、あまり時間が取れなくなってしまいました。父に用事を言い付けられてしまって……」
「うん、いいよ。オレも訊きたいことはそんなに多くないから」
「歩きながらでも構いませんか?」
「大丈夫だよ。じゃあ行こうか」
美月は申し訳なさそうに微笑むと、くるりと方向を変えて駅へと歩みを進めた。弥勒も美月に続く。
「答えられる範囲でお答えします」
「じゃあ早速。みづ――櫻宮さんは、姉妹っている? 例えばよく似たお姉さんとか、妹とか」
「いいえ。私には姉妹も兄弟もいません。でも、どうしてそんなことを?」
「あー、えっと……昔、キミによく似た子と仲良くなったんだけど、オレ、その子のことよく知らなくて。もしかしたら、繋がりとかないかなって」
「そうだったのですか。高炎寺さんは、その方にまた会いたいのですか?」
「うん――そうだね。ずいぶん時間が経っちゃったけど……それでもやっぱり、会いたいよ」
「――とても大切な方だったんですね」
「家族と――同じくらい、大事だったよ」
チクリ、と嘘を吐いた痛みが胸を刺した。
(本当は――家族なんかよりもずっと大事だったよ)
「ゴメンね。こんな話に付き合わせて。つまらないよね」
「いいえ。大切な人との思い出を、そんな風には思いません。だから、高炎寺さんもそんな言い方をしないでください」
「弥勒」
「え?」
「弥勒って……名前で呼んでくれないかな。学校のみんなにもそう呼ばれてるし……名字で呼ばれるのって、慣れなくて」
「でも……まだ知り合って間もないのに……」
「実はオレさ、自分の名字、あんまり好きじゃないんだ。だから……さ、名前で呼んでよ」
「――分かりました。弥勒――さん……」
美月は名前の後ろに小さく敬称をつけた。
「呼び捨てでいいよ。オレに敬語使うのなんて何人かの後輩くらいのもんだし」
「それは……その……」
「ん? 何か問題ある?」
「いえ……ただ、誰かを呼び捨てにしたことなんて、なかったものですから……慣れないです」
「その敬語も使わなくていいよ」
「いえ、これはもう習慣になってしまっていますから。いまさら使わずに話すなんて、難しいです」
「そっか」
弥勒は微笑んだ。
「――もう少し、聞かせていただいてもいいですか? 弥勒――の、大切な人のことを」
弥勒は心臓が引きつったように感じた。
「……どうして? そんなに面白くはないでしょ?」
「いいえ。私も弥勒――の、大切な人を探すお手伝いができるかもしれません」
弥勒の名を呼ぶ美月の声はぎこちなかった。それでも、弥勒が脳裏に葉月を思い起こすには十分だった。
「――優しいね、キミは」
弥勒は思わず目を伏せて笑う。とてもではないが、弥勒は美月を直視していられなかった。
「キミじゃありません。美月です。あなたは私の名前を一度も呼んでくれていません。それでは不平等です」
弥勒がもう一度視線を美月に戻すと、美月はむくれていた。
「クク――そうだね。不平等だよね。ごめん……美月」
弥勒は思わず笑い声を漏らす。しかしその目は笑ってなどいなかった。今にも泣きそうなのを悟らせまいと、弥勒は美月に背を向ける。
四年前とは同じようで異なる響き――それは弥勒を複雑にかき回した。だから感情表現もひどく歪なものになってしまった。
しかし美月はそんなことを知らない。
「どうか――したのですか?」
美月は弥勒の気持ちが揺れていることを察する。
「――何でもないよ。大丈夫、心配しないで」
弥勒は振り向くこともせずに答える。
「あの子はね、本当に美月にそっくりの姿だったんだ。十三歳の時にサヨナラだったから多少は違うんだろうけど、それを差し引いてもキミによく似てた」
美月は何も言わずに続きを待つ。
「親父が家に連れてきたんだけどね、記憶がないから、感情も無くて……。すぐに死んじゃうんじゃないか……って、くらい、弱々しく見えたんだ。だから……オレが、守ってあげなきゃって、ずっと――」
「……っ、もういいです……!」
美月は弥勒の言葉を遮った。それは弥勒の声が震えていたからだった。
「ごめんなさい。私、弥勒がそんなに苦しそうにするなんて思ってなくて……興味本位で尋ねてしまって、本当にごめんなさいっ!」
弥勒は振り向き美月を見た。美月は罪悪感に満ちた表情で謝罪を述べる。
「――美月が気にすることじゃないよ。確かに思い出すと苦しいけど、でもそれは、あの頃が楽しかったっていう証拠でもあるんだから」
弥勒は苦しさをぐっと呑み込む。しかしそれは大きすぎて呑み込みきれず、喉の奥に引っ掛かっていた。
「弥勒は……今、楽しくないのですか?」
「そうだね……つまらなくはないよ。でも、あの頃とは全然違う」
ふたりの間に沈黙が訪れる。しかしふたりは無言のまま数十メートルの距離を歩き続けた。歩幅はどちらが合わせたわけでもないのにぴったりと合っていて、どちらかが先行してしまうことなどなかった。
「失ったものは取り戻せないって、オレのセンセーは言うんだ。オレもそれは確かにそうだと思う。でもね、分かっていても、止められないのが感情なんだろうね」
弥勒は足を止めて空を仰ぐ。美月も歩みを止めて俯き地面を見詰めた。傾きかけた日は、ふたりの影をきっちり舗装された道路に映す。
「会えます」
美月は唐突にそう断言する。
「会いたいと強く望むなら、それはいつかきっと叶うものです。だから、弥勒はその方に会うことを諦めてはいけません」
美月は隣に立つ弥勒を見つめる。偶然ではあるが、そのタイミングは弥勒が美月を見たのと重なった。ふたりの視線は何にも遮られることはなく真っ直ぐに交わる。
(――本当、全部キミの言う通りだよ――美月――キミは何でも知ってるんだね)
弥勒は先ほどとは違う感情に包まれた。心臓が痙攣しているのかと思うくらい震えて揺れていた気持ちは、会話を経て穏やかで満たされていた。
(何か、夢みたい。この時間がずっと続けばいいのに……)
時間が有限だなんて、そんな当たり前のことを弥勒は決して忘れない。いや、忘れられない。一度失った時間を知っているからこそ、弥勒はその大切さを胸に刻みこんでいる。
ふたりはそのまま無言で歩き続けた。それでも弥勒は十分だった。隣に居られるというそれだけの小さな事実で、弥勒は満たされていた。
「弥勒、今日はありがとうございました。家まで送っていただいて」
「オレも楽しかったよ。でもオレの話ばっかりでゴメンね。良ければ今度は美月の話を聞かせてほしいな」
「ええ、分かりました。朝や休日は難しいので――また、夕方に」
美月の微笑みに悪戯っぽさを感じながら、弥勒は美月が家に入るまでを見送った。
(もっと一緒に居られたらよかったのに――)
楽しい時間が終わってしまうと、途端に欲が顔を出す。弥勒を満たしていたものがもうここには無いのだと、冷たい現実が弥勒の胸で悲しみとなって吹き荒れる。
(期待なんか、しちゃいけないのに――)