弐の一
杏たちが菖蒲を撃退してから一ヶ月が経過した。杏も風吹も杏理も飛沫も、杏の修行のために日本に残っている。封和と弥勒もまた、それぞれの理由で日本に残り、日本人として生活している。
杏と飛沫は菖蒲から受けた傷が相当酷く、全快まではまだまだ時間が掛かりそうだった。風吹と杏理は少しずつ動けるようになっており、封和の見立てではあと一週間もすれば登校出来るようになる。
封和と弥勒はというと、まだ身体中に腫れや傷が残っているものの、日常生活は問題なく送れる程度になっている。痛みという感覚は、このふたりにとっては生活の障害になり得ない。故にふたりは夏休みが明けると同時に登校している。
身体が動くのなら、どんな風にも動ける――それが過酷な戦場で精神を限界まで磨り減らしたことのある子供が見出だした生き方のひとつだった。
「今朝も早いねぇ……昨日もあんなに遅くまで起きてたのに、また日の出と同時に登校?」
町はまだ寝静まっている早朝、封和はそんな時間帯に既に登校していた。それを知っている弥勒もまた、封和の後を追い掛けるように登校した。
「弥勒か。悪いが今は忙しいんだ。急ぎの用事でないなら、後にしてくれないか。動けなかった間に書類が溜まってしまったんだ」
生徒会室の扉に凭れかかった弥勒を一瞥することもなく、封和は手元の書類に目を通す。
「というか、九月は忙しいことくらい、お前も知っているだろう。学園祭に定期試験、高等部の二年は修学旅行と模試も控えている」
「知ってるよ。オレは模試なんて受けないけどね。修学旅行の班長くらい、誰かに代わってもらえばよかったじゃん」
部屋の電気は点けずに、封和は小さな電気スタンドの明かりだけで仕事を進めている。弥勒が数日前に部屋の電気を点けた時には封和が怒ったため、弥勒はもうそんなことはしない。早朝のまだ鍵も開いていない時間帯から生徒が居るのは、学園側からしてもあまりよろしいことではない。部屋の電気を点ければ封和は咎められる。だから封和はいつもこうしてこっそり仕事を片付けている。
「そんなに無理して、封和に何かメリットある? 最近まともに寝てないじゃない。また倒れちゃうよ?」
「平気だ。少しは寝ている。それに、四年前に比べればこんなのは大したことない」
どんな言葉を掛けても手を止めない封和を弥勒は怪訝そうに見るが、顔を上げない封和はそんなことを知る由もない。
「確かにそうだろうけどさ――ていうか、封和は進学するつもりなんてないんでしょ? なら模試とか受ける意味ないじゃん。卒業したら諏訪に戻るんじゃなかったの?」
「杏の修行を受け持つ間は戻るつもりなんてない」
「――封和の成績ならそこまで無理しなくても十分上位のままでいられるでしょ。どうしてそこまで――」
「手を抜くのは好きではない。知っているだろう? それに、任されたからには私でなければならないんだ」
「それにしたって――」
「自分で決めたんだ」
そう言われてしまうと、それ以上弥勒に口出しは出来なかった。
封和は与えられた仕事や役割を放棄することが出来ない。それは清水家の教育方針故であり、封和以外の一族の大人も皆、同様の教育を受けている。義務を果たさない者に自由など与えられるわけがない、と清水家の人間は代々教えられているし、封和もそれを受け入れて今まで生きている。
けれども弥勒はそうではない。家宝を操る適性に恵まれた子としてのびのびと育てられてきた。家の人間は誰も口煩く弥勒の行動を制限しなかったし、叱る時にも怒鳴り声を上げることもなかった。封和と違った形で、弥勒は大切にされてきた。だから弥勒には封和の生き方を不器用としか思えない。弥勒の目には封和が自ら死のうとしているようにすら映る。
「――ご飯くらい、ちゃんと食べなよ」
弥勒はそう言って封和の作業する机に近寄り、コンビニで購入した食料の入ったビニール袋を置いて、生徒会室を出た。最初から最後まで、封和が顔を上げることは一度もなかった。
(まったく……無理しすぎ。頭固いにも程があるでしょ。日本じゃオレたちなんて、必要ないってのに)
弥勒は募る苛立ちを鎮めるように廊下を歩く。
(今は誰にも会いたくない)
こうして校舎中を歩き回っていると、そのうち教師か生徒のいずれかとすれ違うだろう。弥勒は学年を越えて名前が知れているほどの有名人であり、すれ違った相手が話し掛けてこないことなど稀だ。弥勒はそれを自覚している。いや、せざるをえなかった。弥勒は封和という厳しい生徒会長と行動を共にする変わり者、と高等部では言われている。弥勒は個人的な人脈が広く、その手の話題は嫌でも耳に入るのだ。
弥勒は歩く方向を変えて階段を降りる。向かう先は図書館棟の屋上。
校舎の屋上に生徒が立ち入ることは禁じられているが、図書館棟の屋上にはこれといった立ち入り制限はない。それを知る者はあまり居らず、弥勒はひとりになりたい時によく利用している。何度もその場所に立ち入っては物思いに耽っている弥勒であるが、今まで一度として他人と遭遇したことはなかった。
校舎を一度出て弥勒は図書館棟を目指した。図書館棟は高等部の校舎から少し離れており、校舎内から向かうとかなり遠回りになってしまう。その上、棟内には屋上に続く階段はなく、必ず外から行かなくてはならなかった。
弥勒は図書館棟前に着くとそのまま階段を上がった。
(バカ封和――)
弥勒は毎晩、封和が寝るのを見届けてから自分も眠りに就く。そして封和が目覚めるより先に起きている。弥勒は封和以上に睡眠時間が少ないのだ。けれども封和と違って弥勒は授業中に眠ることもあるし、こういった隙間時間を利用して睡眠を取る。だから一日を通して6時間は眠っていることになる。
(封和も少しは誰かに仕事を割り振ればいいのに。何のための組織だよ)
内心で毒突いてベンチに横になる。
(信用、してないんだろうねぇ……)
忍は日本人より能力が高い。それは身体能力に限った話ではなく、思考能力や記憶力に関しても言えることだ。弥勒や封和は、日本人とは違う――それに気付いてから、封和は仕事を割り振るより自分で片付ける方が効率がよく、間違いなくこなせると思ったのだろう。
(あーあ、何か嫌だなぁ……)
弥勒は上着のポケットから、携帯音楽プレイヤーに繋がった白いイヤホンを引っ張り出して耳を塞いだ。
弥勒は人の気配に敏感だ。眠っていても人が一定範囲内に近寄れば目を覚ましてしまう。だから少しでも気を逸らすために耳元で音楽を流す。
(家で寝てろって話なんだけどね)
封和が起きているのにのうのうと寝ているというのは、弥勒には出来なかった。というのも、封和は弥勒の目が届かない場所で無理をしがちだからだ。諏訪に居る時も封和はそうして修行で無理をして死にかけたことが何度かある。弥勒が目を離すと封和は自分の命を蔑ろにする。それは封和の悪癖でしかないと弥勒は思っているけれども、封和はそれを止めるつもりがないらしく、いつも弥勒を心配させたり苛つかせたりする。今回もまた、同じだった。
「はぁー……」
盛大な溜め息を吐いて、弥勒は目を閉じた。
弥勒が目覚めたのは、完全に日が昇りきった頃だった。二時間は眠れただろうか、と弥勒は携帯音楽プレイヤーのホーム画面を見る。時間は一時間半程しか経過していなかった。それだけ時間が経っても、まだ生徒たちが登校してくる時間ではない。
弥勒は枕にしていた鞄からペットボトルを取り出して水を口に含む。すると弥勒のぼやけていた意識ははっきりと覚醒した。
(さて、封和はどうしたかな)
弥勒は立ち上がって鞄を肩に掛けると、再び生徒会室に足を運ぶことにした。
(どうせ何も口にしてないんだろうね)
弥勒が置いてきた食事に封和が手を付けないことは、付き合いの長い弥勒には簡単に想像出来た。だから弥勒も同じタイミングで食べなければならない。弥勒は封和と一緒に食事をすることを嫌だとは思わないが、身体を壊しそうな封和の生活を許せなかった。だから弥勒は無理やりにでも封和に食事を摂らせようとする。
「封――」
弥勒が生徒会室の扉を開けると、封和は机に伏していた。
(ほーら、言わんこっちゃない)
封和は二週間以上、まともに寝ない生活をしていた。当然、蓄積した疲労は相当なものだろう。
(――でもまあ、流石に座ったまま寝てたら、身体痛くなっちゃうよねぇ……)
弥勒が隣に立っても封和は気付かない。封和も弥勒と同じように人の動きには敏感なはずなのに、目を覚ます気配がまるでない。それだけ弥勒が近付いても起きないということは、相当深い眠りに就いている証拠であり、もはや気絶しているといってもいいかもしれない。
「おーい封和ー、こんなところで寝ていいのー?」
つん、と弥勒は封和の頬をつつく。それでも封和は目を覚まさない。
(ありゃりゃ……全然起きないじゃないの)
目覚めない封和が珍しくて弥勒は同じことを何度か繰り返す。しかし弥勒はすぐにその手を引っ込める。
(あんまり遊ぶと後が怖いや)
弥勒はそっと封和を抱き上げると、人の目を確認して窓から図書館棟の屋上に飛んだ。忍である弥勒の身体能力をもってすれば、高等部三階にある生徒会室から距離がある二階建ての図書館棟に降り立つのは容易い。
(しっかし、本当に起きないなぁ……)
弥勒は諏訪に居る時から、ここまで疲れた封和を見たことはなかった。瀕死になることはあっても、封和は疲れを他人に見せなかったからだ。
弥勒は日陰のベンチに腰掛け、横に封和を寝かせる。すると膝より下がはみ出てしまった。弥勒は封和の頭を膝に乗せ、授業をそのままサボることにした。封和が起きるまでは寝ていていいだろう、と判断した弥勒は静かに目を閉じた。
膝の上に動きがあったのは日没後だった。
「ん……」
「――起きた?」
「弥勒……? 何故……」
状況が掴めていない封和はぼんやりとした表情で弥勒に問う。
「封和、生徒会室で寝ちゃっててさ。どれだけ起こしても起きないから、連れてきたんだよ。朝から今まで、本当によく眠ってたよ」
弥勒はニヤッと笑う。
「っ! 何故――ッ!」
短い説明で状況を把握した封和は勢いよく起き上がる。
「疲れが溜まってたんだよ。よかったじゃない、身体が完全に壊れなくて」
「そういう問題じゃ、ない……」
「――いいじゃん、別に。こっちでの学生なんて、オレらの本職じゃないんだから。少しくらい休んだって誰も咎めないよ」
「そういう問題じゃないと言っているだろ!! 今すぐにでも――」
「ああもう無理だよ。さっき守衛さんが全部の部屋の鍵を閉めちゃったから」
「何で――ッ」
「だって封和、いつ起きるか解んなかったし」
「――ッ、もういいっ」
「怒ることじゃないでしょ。身体壊したら何も出来なくなるんだよ。解ってんの?」
「そんなの解っている!」
「いやいや、解ってないでしょ。解ってるなら他の子にも仕事を振るはずじゃない? ……封和は余計なトコにまで手を出しすぎなんだよ」
封和は黙る。
「前から思ってたけどさ、どうしてそんなにひとりで抱え込むワケ? 全部が全部、封和である必要はないでしょ」
弥勒は封和が一番嫌う言葉を使って、封和をわざと傷付けた。そうでもしないと、今の封和は弥勒の言葉に耳を貸さないだろう。
「――皆が必要としているのは『優秀な清水封和』だ。努力を怠る私なんて――要らない」
封和は一呼吸置いてから再び話し始める。
封和は必要とされたくて努力を重ねている。それが褒めて欲しいという欲求からくるものではなく、見放さないで欲しいという強迫観念からくるものだということを弥勒は知っていた。
「他人を信用できないのは――封和の弱さだよ」
「うるさい。ひとりじゃ何も出来ない人間の方が、よっぽど弱いだろう」
ふたりが日本で生活するきっかけとなった出来事――そこでふたりは互いの弱さを初めて知った。それがすべてではなかったけれども、それを知ったことでふたりの距離は初めて近付いた。それ以来、ふたりが心を通わせるにはどちらかの傷を再び刺激するしかなかった。
封和も弥勒も不器用だ。互いの傷を抉ることでしか歩み寄れない。
ふたりの関係には名前なんてない。その形はひどく歪なものになってしまったが、その拗れた関係こそがふたりの歩んできた時間を刻んだ思い出でもあった。