表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忍と刀と戻らぬ簪  作者: 秋田友
壱の章-愛護の簪-
15/20

其の十五

 飛沫たちを襲った何か──それは爆音を響かせ、杏の視界全体に白い閃光をもたらした。視覚と聴覚に多大な刺激を受けた杏は反射的に耳を塞いで目を閉じてその場に(うずくま)った。音の余韻で身体は震え、閃光によって頭が痛む。とてもじゃないが、杏はすぐに動けそうになかった。しかしそれらは数分で治まった。

(一体何が……起こったっていうの……?)

 杏が目を開け辺りを見回してまず最初に気付いたのは、地形が大きく変わってしまったことだった。山の一部は削り取られ、すぐ近くが切り立った崖に変わった。次いで、地面に倒れ伏した封和、弥勒、風吹、杏理、そして飛沫の姿があった。

 目の前で杏にその強さを見せ付けてくれた人たちが呆気なく意識を失っている──それを目の当たりにしてしまった杏は、本能的に襲い来る恐怖に取り乱しそうになった。思考は固まり、杏は声を出すことすら儘ならない。

「っ──やり方は、昔と変わらないな……」

「あら飛沫。やっぱりまだ動けたのね。忍術が使えなくなってもそれだけのことが出来るなんて、あなたはやはり素晴らしい才能の持ち主だわ」

(菖蒲様は──何を言ってるの? どうしてお父さんだけがまだ動けるの?)

「でも──他は耐えられなかったみたいね。それを恥じることなんて、ないのだけれど。だって当然だもの。半人前の忍と巫女の真似事すらまともに出来ない娘、鈴を与えられても実戦経験の少ない2人──加えて忍術を失ったあなた──こんな欠陥だらけの人選で、よくあたくしに立ち向かおうだなんて思ったものだわ。敵わないことは、最初から分かっていたのに」

 飛沫は歯を食い縛り、痛みで遠退きそうな意識を必死に繋ぎ止めた。

「ぐ──確かに、まだまだ全員未熟だ──だが、ここに立った者は皆、杏を心の底から慕っている」

 全身をくまなく襲う鋭い痛みに、飛沫の意識は朦朧としてくる。

「俺も、忍術が使えない、致命的な欠陥を抱えている──忍としての未来はないし、忍を名乗ることすら烏滸(おこ)がましい。だが──」

 飛沫は限界を悟る。故に意識が途切れる前に最も伝えたいことを纏める。

「だが、子供たちの未来まで、何も知らないお前に決められたくなどないっ!!」

(お父、さん──)

 それは杏が初めて聞いた父の本音だった。普段から考えていることも思っていることも杏に明かさない飛沫が、初めて口にしさらけ出した本心。それを聞いた杏は、初めて飛沫が自分の父親であると実感した。

「飛沫──あなた、まだ諦めていないの? まさか、これだけの実力差を思い知らされてなお、椿姫の目覚めを阻止出来るなんて夢物語を信じているの? 希望が残されているなんて、本気で思っているの?」

 菖蒲は飛沫の気持ちを蔑む。

「本当にあの頃から変わっていないのね。他人に興味がないように見せかけて、その実最も他人に依存して。傷付ける言動を繰り返す癖に、他人の裏切りには人一倍敏感で盛大に傷付いて──飛沫、あなた、不器用を通り越して不気味よ? そのままでは誰も幸せに出来ないと、あなたが一番よく理解しているんじゃなくて? ──あなたが変わらないまま周りを幸せにしたいのなら、あの頃に戻るしかないの。だから──ねえ? 戻りましょう?」

 菖蒲の願いは──とても儚く、そして虚しいものだった。それに気付いた飛沫は、菖蒲から目を逸らした。菖蒲の願いにまともに向き合って、それに呑まれないという確かな自信が飛沫にはなかった。忍が感情に呑まれるなど──言語道断だ。

「戻れるわけ……ないだろう……時間は、戻せない。俺たちは、進み続けるしか──ない」

 飛沫は自分を踏み留めるように言った。

「いいえ、可能よ」

 飛沫の努力を菖蒲は真っ向から否定する。

「あたくしが命を削るつもりで本気を出せば、飛沫、あなたの失った忍術も取り戻すことが出来るわ」

「そんなもの……まやかしだ……失ったものは、取り戻せない……大切なら、なおさら……」

「──何が何でもあたくしに賛同しないつもりね。いいわ、それでも。でもあなたは後に認めることになるわ。あたくしが築き上げた夢の中で、あたくしたちの望む永遠を認めざるをえなくなるの。だから飛沫──今は眠りなさい。こんなどうしようもない現実からは目を背け、ゆっくりと休みなさい」

 穏やかに語りかける口調とは裏腹に、菖蒲の手には暗号のように複雑な記号の羅列で作られた術式が握られている。しかし杏にはそれが白い光にしか見えなかった。

「おやすみなさい、飛沫──夢の中でまた会いましょう」

 菖蒲は手の中にある式に力を込める。すると先ほどよりも小規模な爆発が起こり、飛沫は完全に意識を失った。

「お父さんっ!!」

 杏は飛沫に駆け寄る。

 飛沫の外傷は大したことがなかった。身体の所々が腫れ上がったり、多少の出血が見られるものの、意識を失うほどの外傷は見当たらない。

(何をされたって、いうの──?)

 杏は怖くなった。

「さて──残るはあなただけね。最期を迎えるにあたって、全員を眠らせてしまったことは謝るわ。ごめんなさい。

 行きましょうか。日付が変わると共に椿姫は目覚めるわ。これでようやく、あの頃に戻れる──」

「い……いや……」

「──何ですって?」

「あ……たし……消えたくない……椿姫様に、なりたくない……」

「それは叶わないわ。諦めなさい。飛沫と撫子の娘なんて仮初めの立ち位置よ。あなたは諏訪の巫女、椿姫。それ以外の在り方なんて、誰も認めないわ」

「でもっ……あたしは……!!」

「自分で決めたのではなかったの? 自分で選んで、大切な人を全て突き放したのでしょう? 今さら戻れるはずないじゃない。甘えるのもいい加減になさい。もう変えられないの。今が(つら)いと言うなら、すぐにでもその魂を椿姫に返して消えてしまいなさい」

 菖蒲は冷たい視線で杏を射抜く。

「やめて……椿姫様は亡くなったのに……どうして静かに眠らせてあげないんですか……そんなの……」

「生命に対する冒涜? 摂理に対する暴力? いいえ、そんなことにはならないわ。だって椿姫は死んでいないもの。身体を移っただけ。そんなの、死んだとは言わないわ」

「そんなのっ──!」

「煩いわね。あなたと飛沫を殺して、あたくしも死ぬという方法だってあるのよ。あたくしたちは天上で再び幸せになれるだろうけれど、残された者はどうなるかしらね? 結界がなければ人々は生きていられない。そして、結界を維持出来る巫女はあたくし以外に居ない。この2つが意味することを、理解出来ないはずないでしょう。いいのね、多くの命を摘み取ることになっても」

(そんなの、横暴じゃない)

「何、その目は。椿姫が目覚めれば誰も命を落とさずに済むわ」

(あたしは、何だっていうのよ)

「──気に入らないわね。自分の選択を蔑ろにする人、あたくしは嫌いだわ。日付が変わるのなんて、もう待っていられない。今すぐ椿姫を起こすわ。──最初からこうすればよかった」

 そう吐き捨てると、菖蒲は自身の左手に意識を集中した。手の平に現れた薄い紫色の光は、杏に逃れられない恐怖を与えた。

(嫌っ──嫌だよッ──死ぬなんて、もうみんなに会えなくなるなんて、絶対に嫌ッッッッ!)

 杏は考える。普通に逃げたとしても菖蒲の術は簡単に杏を捕らえてしまうだろう。術に対抗するには杏も術を使うしかないが、それは出来ない。それどころか、菖蒲に抗ったところでもう椿姫を封じる(すべ)が杏には残されていない。


 ──絶望が、杏を手招いていた。


 有効な手立ては何一つない。最初から実力差は圧倒的で、勝ち目なんてなかった。

 三國の結界を同時に維持し続ける巫女を相手に、たった数名の、しかも半人前の忍が立ち塞がったところで抗いきれるはずもない。

 それでも──無茶苦茶でも支離滅裂でも絶体絶命でも、杏は抗わなくてはならない。諦めるなと弥勒は言った。前世がどうであれ、今の杏には杏自身を慕う友人も家族も居ると分かった。だから、杏は諦めるわけにはいかない。

「菖蒲様──さっきあたしに、自分の選択に責任を持てとおっしゃいましたよね。あたしバカなので、教えていただくまで気付きませんでした。でもちゃんと、責任取ります」

「あら、分かればいいのよ。あなた、本当は撫子に似て聡明だったのね」

 菖蒲は手の中の術式を収める。それを見届けた杏はクナイを取り出すとすぐにそれを自分の首元に当てた。

「何をッ──!」

「椿姫様が生まれ変わるには、魂を納める器が必要になりますよね。だから」

 杏はクナイを押し付ける。しかしその手は震えていた。先端が皮膚を薄く切り、細い血管から少しの血液が流れ出る。

「あたしが死ねば、椿姫様の魂はこの身体から離れますよね。そうすれば、菖蒲様の陰謀もこれで終わりますよね。──安心してください。椿姫様は、あたしがちゃんと天上に連れて行きますから」

 杏は、杏として終わることを選択した。

(みんな、あたしを助けようとしてくれた。でもそれは裏を返せば椿姫様の復活を阻むことでもある。──両方同時に叶えるのは、もう難しいけれど──)

「望んでもいないことはやめなさい。身体を傷付けたところで、絶命前に椿姫は甦るわ」

 杏はそれでもクナイに込めた力を抜くつもはない。これが杏の心からの望みでないことは、頬を伝う涙が証明していた。

「あなたは仲間が守ろうとしていた命を、そんな風に投げ出すというの? それは手酷い裏切りではなくて?」

「裏切りなんかじゃ、ありませんよ。みんなの願いを、少し違う形で叶えるだけ、ですから──」

 杏は口角を上げて無理矢理笑顔を作る。

「あたし、気付いたんです。自分の好きなように生きたって構わないって。反発しながらも結局従ういい子はもういらないんだって。気付かせてくれてありがとうございます、菖蒲様」

「させないわ」

 一気に喉を裂こうとした杏の手に向かって、菖蒲は一瞬で右手に展開した術式を投じる。杏の反応速度を越える速度で投射された術式は、寸分の狂いもなく杏の手に命中した。

 カラン──クナイが地面に落ちた。

「ッ──」

「何度もやめろと言ったでしょう。聞き分けのない愚かさは飛沫そっくりね」

 杏の右手は火傷を負ったように爛れていた。一瞬の内に何が起こったのか杏には理解出来なかった。

「っ──まだ──」

 右手が使えずとも左手がある。杏は傷を庇うようにしていた左手でクナイを拾い上げると、再び首に近付ける。

「ッッッッ──!!」

 しかしそれも同じ方法で菖蒲に邪魔された。

「──出来るなら身体を傷付けたくはなかったのだけれど、仕方無いわね。椿姫なら一瞬で治せるでしょう」

 激しい痛みに杏の意識は遠退きかけた。あまりの痛みに杏は立っているのも儘ならなくなる。でも杏は諦めるわけにはいかない。

 痛みに強張る身体を奮い立たせて杏は立ち上がる。両手はもう使えないが、それでも命を絶つ方法などいくらでもある。

「何をするつもりっ!?」

 杏は菖蒲に背を向け、フラフラと歩き出す。行く先は菖蒲の起こした爆発によって出来た、切り立った崖。そこから身を投げれば、いくら丈夫な身体を持つ忍といえど命を落とすのは必至だ。

「器を壊されるわけにはいかないのよ!!」

 菖蒲も後を追う為に空間移動の術式を組み上げる。しかし正確な位置を指定する必要のあるその術式は完成までに僅かではあるが時間を要する。その時間に菖蒲は焦りを募らせ、呼吸が荒くなる。

「ッ、ハァ……待てって、言ってるでしょ……」

 ようやく繋がった穴を通り、菖蒲は杏の背後に迫る。しかし歩みを止めない杏は移動した菖蒲のもとからも離れていく。菖蒲は手を伸ばすが、掴むことが出来たのは杏の結い上げた髪の毛の先端だけだった。

「うっ──」

 ブチリ、と嫌な音を立てて杏の髪の毛が数本抜ける。杏は苦悶の表情を浮かべるも、それは両腕の痛みに比べれば大したものではない。杏はそのまま歩き続ける。

「やっと捕まえた──椿姫、早く起きなさい。お寝坊さんは昔から変わらないのね」

 菖蒲は恍惚の表情を浮かべる。

 2人の足元には半径5メートルにも及ぼうかという巨大な術式を象った薄い紫色の光が広がる。

(もう──無理だよ──。お父さん、杏理、封和先輩、弥勒先輩、それから──風吹──いっぱい傷付けて、ごめんなさい──)

 足元の光が強さを増す度に杏の意識は遠退く。声にならない懺悔は誰にも届かない。

「さあ、悪い夢が終わるわ──」

 光が完全に杏の視界を覆い尽くした。

(さよ──なら──)


『願って──貴女の本当の望みを、言って──』


 どこからともなく、優しい響きを持った声が聞こえた。


「────」


 声にもならないその願いを聞き届けた何者かが、微笑んだように杏は感じた。

(ああそっか──死ぬってこういうことなんだね──)

 視界が暗転した時、杏は生き物にとっての未知である死を垣間見た気がした。自分もその深い虚無の中へ落ちていくのだと杏が思ったその時──。

「え? 何よコレ……何なのよッッッッ!?」

 まだ杏の耳には菖蒲の声が届いている。何が起こっているのかは分からなかったが、杏はどうやらまだ自分が生きているということだけは理解出来た。

 杏の見えないところでは、菖蒲の術式を凌駕するほどの光が杏の胸元から出ていた。その光は菖蒲の術式をみるみるうちに無力化していく。術全般が使えない杏にそんな芸当が出来るはずない。故に菖蒲は困惑していた。

「椿姫? あなたまさか──」

 思い浮かべた仮説の1つが間違いであるとすぐに気付いた菖蒲は言葉を切る。そしてその光から感じた懐かしさに、菖蒲は新たな仮説を打ち出す。

「まさか、撫子──!!」

 菖蒲は杏の着物の襟元を引っ張り、着物の中を覗く。大量の優しい光の源は、杏が首から下げていた簪だった。

「どうして──どうして邪魔をするのよッ!! 撫子ッッッッ!!」

 菖蒲の術式を完全に破壊した撫子の術は、次に菖蒲を襲った。

「嫌ッ、嫌ァァァァ!!!! 何故……何故なのよ……どうしてあたくしまで──!」

 菖蒲は結界を幾重にも複製して術が及ぶのを防ごうとするが、それは気休めにすらならずに菖蒲は光に呑まれた。

 杏を拘束していた力は急に消え去り、既に意識朦朧としていた杏は地面に倒れ、そのまま気を失った。


 ◆


「──あたし、死んだの?」

 杏は気付けば辺りには何もない、真っ白な空間に1人で立っていた。身体にあったはずの痛みも今はなく、菖蒲と対峙していた時の苦しさも嘘のようになくなっていた。腕も、自由に動かすことが出来た。

「いいえ、大丈夫よ。貴女はまだ生きているわ」

 どこからともなく声がした。それは杏に望みを告げろと言った優しい声と同一だった。聞いたことはないはずなのに、杏は何故か懐かしさを感じていた。

「あなたは──」

「久し振りね、杏。あなたが産まれて以来だから、14年ぶりかしら? といっても、もう死んでいる私にはそういう時間の感覚がないのだけれど」

 声は次第に明瞭になり、気配を帯びる。声のする方へ杏が振り向くと、そこには1人の女性が立っていた。

「もしかして──お母さん?」

 杏は直感的にそう思った。

「──ええ。会いたかったわ、杏」

 愛娘を慈しむ優しい眼差しに、杏は安心した。

「お母さん…お母さんっ!!」

 杏は初めて目にした母に駆け寄り、すがりつく。大和人特有の茶色くて柔らかい髪の毛、杏理と同じ色の瞳、忍装束とは異なる素材で出来た着物──杏の知らない温もりが、杏を包み込んだ。

「あらあら、随分と泣き虫になったのね?」

 泣いている姿ですら、撫子は愛しそうに抱き締める。

 杏は声も出さずに泣いた。もう何が何だか分からなかったが、杏の中では色々な感情がぐちゃぐちゃに渦巻いていた。

「お母、さん……あたし……あたし……!」

「無理に話さなくても大丈夫よ。菖蒲とのことは、すべて見ていたから。よく頑張ったわね」

 撫子は杏の頭を撫でる。

「杏……こんなことになってしまって、ごめんなさい。お母さんが椿姫の生まれ変わりを止められなかったばっかりに、貴女にはつらい人生を強いてしまった……本当にごめんなさい。貴女が忍術を使えない忍になってしまったのは、お母さんの所為なの」

「それ……どういうこと?」

「椿姫が杏の中で眠っている所為で、杏は術が使えないの。術を使う為の力を、椿姫が手放していないから──」

「そう、だったんだ……」

 杏は撫子の着物を強く握る。

「あたし、自分が忍の家の子じゃないんだと思ってた。お父さんは昔ちゃんと術が使えて──杏理も優秀で──こんな落ちこぼれ、生まれるはずがないって思ってた」

「そんな悲しいことを言わないで。貴女は確かに、お母さんとお父さんが愛し合って生まれてきた、かけがえのない宝物なの」

 杏は再び涙を流した。撫子はその背中を擦る。

「杏──菖蒲のこと、恨んでも構わないから、どうか憎まないであげて──。人の願いは、どれも儚く虚しく、そして独り善がりなものだから──。許すのは難しいかも知れないけれど、それでもいつか、菖蒲の気持ちも慮ってあげられるようになって──独り善がりではあるけれど、お母さんからのお願いよ」

「お母さんからのお願いなら、聞かないわけにはいかないよ。だって──もう、会えないかも知れないんだから」

「杏……無理を言って、本当にごめんね。代わりにお母さんは、椿姫をずっと眠らせておくから。だからその為に、お母さんの簪を肌身離さず持っていて」

「うん、分かった」

「ありがとう。素直ないい子に育ってくれたのね。本当に嬉しいわ」

 撫子は改めて杏をぎゅっと抱き締めると、その身体を離した。

「お母さん?」

「さあ、そろそろお戻りなさい。向こうで貴女を待っている人は、たくさんいるでしょう?」

「……嫌。もう少し、お母さんと一緒に居たい」

「杏、ここは本来、生きている人が来ていい場所ではないの。あまり長く留まっては、戻れなくなってしまうわ。折角菖蒲から守って、椿姫を眠らせておいても、それでは意味がないの」

「……もう、会えないの?」

「そうね。お母さんはもう死んでいるから──本当なら、こうして会うことも出来なかったのよ」

「そっか……そうだよね……。規則を破っているのが今なんだもんね……」

「解ってくれてありがとう。さあ──」

「お母さんっ!!」

「何かしら?」

「あたし、杏理と一緒にお父さんを支えて、ちゃんと生きていくよ。それに、今は信頼できる相棒もいるんだ。風吹って言ってね、お父さんが昔戦場で助けた子なの。それに、とても強い先輩とも仲良くなって──だから、だから──」

「風吹──そう──」

 撫子はその名を聞いて、嬉しそうに笑った。

「だから、安心して! あたし、術が使えなくても立派な忍になるから! なってみせるから!!」

「杏ならきっとなれるわ。さあ、もうお行きなさい。こちらを振り向かず、まっすぐに──」

 杏は首肯すると撫子に背を向けて歩き出した。


 ◆


 最初に入ってきたのは、匂いだった。次いで音、光、そして痛み──五感が次第に覚醒していく。

「…………」

「やっと起きた。自分がどうなったのか覚えてる?」

 最初に目にしたのは橙の髪をした少女──いや、少年だった。杏はこの少年を知っている。クラスメイトのエル・クレールド・リュンヌ──転入初日に目を奪われた子だ。

「どう、して……」

 身体を起こす事もなく尋ねる。

「オマエが菖蒲に狙われてるのは知ってた。手当ては菖蒲を動けなくしてくれた礼だよ」

 素っ気なく、まるで興味が無さそうだった。

「どうしてあなたが、菖蒲様の事を?」

「オイオイ、ボクを本当にこっちの世界の人間だと思ってたのか? 忍の目は濁ったなぁ。ボクは倭人の神祇官(かんなぎ)だ」

「かん……なぎ?」

「撫子の娘なのに本当に無知なんだな。いいか、神祇官ってのは、次期巫女候補の事だ」

「そんな……でもあなたは……」

「男だよ。菖蒲の一族で生まれた異端な神祇官、それがボク。一族のジジイ共の小言が煩くて日本に逃げてきただけだ」

 尋ねたい事はまだ沢山あった。それなのに、頭が上手く働かない。

「その簪」

 エルが自ら話題を切り出す。

「それ、撫子の魂が入ってる。その簪が椿姫の覚醒を抑えてるから、肌身離さず持ってろ。でないと呑まれる。オマエには神祇官の能力はゼロだからな。1人じゃ抗いきれない」

(お母さん……)

「今は眠れ。動ける様になるまではボクが紫苑家全員の面倒を見てやる」

 ありがとう──声に出せなかったが、杏は唇の動きでエルにそう伝えた。

「勘違いするな。これはボクからの礼だ」

 杏は再び目を閉じる。本当は瞼が重くて仕方なかったのだ。

 安堵して意識を手放せる。それがどれだけ幸せかを、杏は薄れ行く意識の中で知った。

第壱章-愛護の簪-はこれにて終了となります。

第弐章-追想の明星-もお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ