其の十二
「おかえりなさい、お姉ちゃん、風吹」
「ただいま。遅くなってごめんね、杏理ちゃん」
あれから風吹は、感情に呑まれそうになった杏を宥めていた。杏が落ち着くまでには時間がかかり、すっかり日は暮れて普段修行を終えるような時間帯の帰宅となってしまった。
「お姉ちゃん。風吹も。封和先輩からの伝言だよ。帰宅したら忍装束に着替えなさい、だって」
部屋に戻ろうと階段を上がる2人に杏理はそれを伝える。
「うん、分かった」
杏は振り替えって階下の杏理の顔を見ると、自室に戻っていった。
(どうか──成功しますように)
杏理は泣き晴らした杏の目元を見て思わず、普段は信じてすらいない何かに向かってそう祈った。
杏たちが部屋に入ったのを見届けた杏理も、同様に自室に戻って忍装束に着替える。杏理の好んでいる装いは、着物を羽織って帯を締めるだけの簡単なものだ。だから2人より早く着替えを終えることが出来る。
(よし、頑張らなくちゃ)
着替えを終えた杏理は紫苑家全体に張った結界の具合を確かめた。昨夜杏理が紫苑家に張った結界は、未だに破られることなく家を守っている。しかし紫苑家で暮らす者たちは、結界を構成した杏理を除いて誰一人として結界の存在に気付きはしない。これは触媒として用いた大量の硝子による恩恵だった。
「お姉ちゃん、着替えは終わった?」
杏理は結界の調子を確かめ終えると、杏の部屋の扉を叩いた。するとすぐに杏は扉を開けた。
「終わったよ」
「そっか。お姉ちゃんにお父さんから伝言を預かってるんだ。お母さんの片身を今夜は離さず持っていなさい、だって」
「お母さんの片身って……あの簪を? ダメだよ。もし身に付けたままで敵に襲われたら、壊れちゃう。あたしは壊さずに自分の身を守る自信なんてないよ?」
「いいから。何も説明はしてくれなかったけど、お父さんにも何か策があるんだよきっと」
「そう言われても……髪に差してたら落としそうだし、どうすれば……」
「……もう、貸して!」
うだうだ悩む杏を見ているのがもどかしくなった杏理は、杏の手から簪を取って、袖口から取り出した革紐で器用にそれを括り、杏の首に掛けた。
「これでちゃんと持ち歩けるでしょ」
「杏理──頭良い」
「褒めなくていいから下に来て。一応儀式の準備は整ってるけど、お姉ちゃんが居ないと何の意味もないんだから」
(儀式なんて、そんな大掛かりなこと──あたしのためなんかに──)
杏の胸中には複雑な感情が渦巻いていた。
「どうしたの? 早く来て」
数歩先を行く杏理に急かされ、杏も階段を降りる。
「お姉ちゃんはここに居て。どんな体勢でも構わないけど、そこから絶対に動いちゃだめだからね」
杏理が強気でものを言う時、杏はいつも逆らえずにいた。今だって、素直に頷かざるをえなかった。
杏の足元には何やら光を反射するものがある。それが杏理の描いた結界の構成式であるということは、無知な杏にも察しがついた。
「封和先輩たちが来たら、始めることになってるから。それまで待っててね」
「分かった」
それっきり、姉妹の間に会話は無かった。いつの間にか風吹も降りてきていたが、その沈黙は破られなかった。
「っ!」
少し時間が経った頃、杏理が顔を歪めた。
「どうしたの、杏理ちゃん?」
「っ……結界に……触れたものがいる……っ」
「結界って……」
「前に敵に襲われた時に、張っておいたの……これ以上、家を荒らされないように──」
「……全然気付かなかった」
「でも、今──数えきれないほど、たくさんの攻撃を受けてる──っ。このままじゃ、保たない──」
杏理は苦悶の表情を浮かべている。
「杏! 風吹! 居るか!」
「……遅い、ですよ……先輩……早くっ、お姉ちゃんを……」
「急いで外へ出ろ! 弥勒が食い止めているが、それも時間の問題だ! このままでは結界が──!」
「先輩……お姉ちゃんを頼みます……」
杏理はそう言うと封和の肩を軽く叩いた。しかし封和はそのことに触れずに杏の手を引き、紫苑家を飛び出した。風吹もそれに続き、玄関先で大量の忍を相手にする弥勒と合流する。
「遅かったじゃない」
「これでも急いだ方だ。──急いでここから離れる。弥勒、道を作るぞ」
「りょーかい。杏ちゃんも風吹クンも、遅れずに付いてきなよ」
「は、はいっ!」
「行くぞ──」
合図と共に封和の纏う雰囲気が変わる。首もとに下げている封和の鈴が、以前の様に光を帯びて封和に助力する。
「おいで──暁」
弥勒の呼び掛けと共に、頭上には尾羽の長い赤い鳥が現れる。
「焼き尽くせ」
弥勒の放った無情な一言を、暁と呼ばれた鳥は実行に移す。
封和は火の海となりかけた道を、炎の合間を縫うように駆ける。杏も風吹も後に続く。
(すごい──)
羽虫のように群がっていた黒衣の忍たちは弥勒の炎に焼かれ、封和の降らせた雨に鎮められる。杏にはおおよそ再現出来ないその光景を容易く作り出す2人の圧倒的な実力に、杏は言葉を失った。
(でも、これだけ大規模に術を使ったら、日本人の目につかないわけが──)
作り出された戦場に圧倒される杏とは裏腹に、風吹はそんなことに気を配る。徐々に住宅街から離れてはいるものの、それでもまだ町が寝静まる時間ではない。諏訪では小さな戦場でしかなくとも、日本人にとってこの光景が異常である。そんなことは日本という国を訪れれば誰にでも理解出来る。
「一体どれだけ居るって言うのよ……」
住宅街を抜け、郊外の無人駅に差し掛かってもなお、刺客の数は減らない。その攻撃の勢いは何もしていないにも関わらず杏がそう呟きたくなるほどだった。
「ちっ……これほどの数を用意してくるとはな……」
さすがの封和も、多すぎる人数に対して煩わしさを感じ始めていた。
「──どうすんの? どっか一ヶ所に集めて焼き払っちゃうのが手っ取り早いと思うけど?」
「解っている。行き先は決まっているから、そこで一気に消し去れ」
「おっけー。任せて」
弥勒はニヤリと笑った。
◆
三國ではない場所で、菖蒲は際限無く式神を作り出していた。
「まだ椿姫の魂を持つ者は捕らえられないの──」
作業の手を休めずに祷り場で苛立ちを露にする。
「日本に居るのは判っているのよ──どうして捕らえられないの」
煩わしさに荒れる菖蒲の声は、相当殺気立っていた。
「早く捕らえなさい。飛沫のもう1人の娘が何やら企てているようだけれど──絶対に椿姫の転生を止めさせはしないわ──」
菖蒲は鏡を通して日本の様子を確かめる。
「諏訪の忍ね──何があろうとも消しなさい。その為ならどんな手を使っても構わないわ。どれだけ優秀であろうとも、あたくしの幸福を邪魔する者は容赦なく消し去りなさい。いいわね」
菖蒲は異国に放った式神に冷たく言い捨てると、用意していたもう1つの式を手元に用意した。
◆
同じ頃──杏理の張った結界は侵食を受けようとしていた。
「やっぱりまだ、わたしの力じゃ防ぎきれないよね……足止めが精一杯だよ」
結界の中──つまり部屋の中では、クナイを構えた杏理が侵入者に備えていた。じりじりと削られていく結界の構造式を杏理は痛覚として受け取っていた。しかしその表情は先ほどよりも余裕がある。
「お姉ちゃん、風吹、早く帰ってきてよ……このままじゃ、結界が壊れちゃうからね……」
杏理はまだ学園に入学して3年しか経っていない。忍の玉子と称されて当たり前の経験しかない未熟者だ。それが完成した強さを持つ忍を相手に戦うなんて、無茶もいいところだ。格が違いすぎる。その上相手は3人で、1人は結界術に理解のある者だと杏理は悟る。結界を破られたら最後、杏理の命はない。
「触媒もそろそろ限界みたいだね」
杏理は部屋を見回して四隅に置いた触媒の状態を確かめる。外からの衝撃を受けて、構成式はどんどん消耗していく。しかし結界が崩壊しないのは、一重に触媒が消耗した式を補修しているからだ。触媒は消耗品であり、使われるだけ削られる。限界は存在している。
杏理は胸元に下げた透明な鈴を晒した。
これは1人前の忍が術を強化する為の忍具の模倣品で、消耗品だ。術に対して一度使えば壊れてしまうが、本物よりも強化できる割合は無茶苦茶高い、いわば諸刃の剣だ。
飛沫が杏理に託したのは5つ──たった5つで、最悪相手の命を奪ってでも無力化しなくてはならない。
「命を奪う程の術はまだ習ってないけど、どんな術も使い方次第──でしょ、お父さんっ」
杏理の忍術はまだ拙い。だからそれを補う為に杏理は知識をつけた。人間の急所から生体の仕組みまで、可能な限りを頭に叩き込んだ。時間が無いから全ては無理だったけれども、日本には医学や生物学に関する書が多く、杏理は効率よく知識を吸収することができた。
生き物は電気に弱い。杏理に使える術の属性は雷で、日本で得られた知識は杏理と非常に相性が良かった。
そうして杏理が痛みに耐えている間にも、結界は侵食されていく。結界が破られると家はめちゃくちゃにされてしまうだろう。杏理も役目は家を護ること──椿姫を封じる為の結界を護ることなのだ。それを遂行して、その上杏理は生き延びなくてはならない。幼い杏理には難易度が高すぎることを周りは要求している。
(今飛び出せば、確実に1人は無力化出来る──でも、人数を減らしたところで、わたし程度の実力じゃ殺されるのがオチだよね。だからといってここでこうしていても、きっとすぐに結界が破られてしまう──椿姫様を封じるにはわたしの力が必要不可欠だから、子供だからって理由で生き延びることは出来ないだろうね。少しでも生存確率の高い方を選択するのが、今のわたしにできる最善──)
杏理は刹那の熟考の末に結論を弾き出した。そして同時に、身体も動き出した。
術も駆使して結界の外に瞬時に移動した杏理は、最初に目についた忍の背後に回り、空の鈴を利用してありったけの雷を首元に叩き込んだ。閃光が走ると同時に、使用した鈴は弾けて砂になり消えてしまった。しかしそれがこの鈴本来の在り方だ。使えば、減る──それがこの鈴が諸刃の剣と呼ばれる所以だった。
(これで──1人──)
白目を剥いて泡を吐きながらビクビクと地面で痙攣する皮膚の爛れた忍は、見た者に恐怖を与える代物になり果ててしまった。
残りの忍たちは、倒された忍の方を見て、一瞬ではあるが動揺する素振りを見せた。杏理はその隙を見逃さず、クナイを取り出して残った1人の首元にそれを突き立てる。骨まで到達するほど深く刺さったのを確認すると、杏理は死体を盾にもう1人に戦意を向ける。
「忍として質が良いだけの式神だと思っていましたけれど、ヒトとしての質も高いみたいですね。でも──その完成度の高さが、命取りですよ」
杏理は目の前の忍を通して様子を伺っているであろう菖蒲に向かって喋る。
残された忍はその言葉を菖蒲に届けたのか、今までとは雰囲気を変えた。最後の1人は、杏理の結界をじりじり削っていった結界術の心得を埋め込まれた者だ。杏理にとっては最悪の敵だ。
(術は見破られるし、わたしの体術はお姉ちゃんほど優れてない……逃げ出すことができれば生き延びることもできるけど、そうすると結界はめちゃくちゃ……)
杏理は限界まで思考速度を上げ、生き残る為に知恵を絞る。下手な一挙一動で命を落としかねないのは、忍を志す者なら誰でも知っている。
杏理が迷っている間に、敵の忍は動き出す。クナイを手に杏理に接近した忍は、急所を目掛けてそれを振るう。大人と子供の力の差は歴然としていて、少しでもクナイに触れれば杏理は簡単に致命傷を負ってしまい、死を辿ることになる。
杏理は間一髪のところでその攻撃を避ける。クナイと杏理の距離は髪の毛一本分。それを杏理は脊髄反射だけで避ける。杏であれば動きを見てから動き出しても避けることが出来るのかも知れないが、杏理は敵の動きをとにかく先読みしなければクナイの刃先に簡単に皮膚を切り裂かれる。
(ただ接触したところで、きっとわたしの術は無効化されてしまう。クナイがわたしに接触した瞬間──そこで雷を流すしか、わたしに勝機はない。でもそんなことをすれば、わたしもただでは済まない……どうすればいいの)
こうして避け続けるのも杏理の体力では長く続かない。すぐに杏理は消耗してしまうだろう。しかし杏理には現状を打開出来る一手が無い。
杏理はいつの間にか狭い路地に追い込まれる。背中は既に塀──もはや杏理に逃げ道などない。
突き出されたクナイは杏理の首を狙っていた。しかし杏理はそれを今までのように紙一重で避ける。狙いの逸れたクナイは石塀に刺さり亀裂を作り出す。一瞬にも満たない時間ではあるが、忍の動きが止まったのを杏理は見逃さず、手刀で首もとを狙う。
杏理が活路を見出だしたかに見えたが、敵はその手を掴み引き上げる。身体が浮いた拍子に杏理は回し蹴りを繰り出すがそれも避けられる。杏理はバランスを崩し、そのまま石塀に叩き付けられる。
「ッ!」
その衝撃に杏理は呼吸も儘ならなくなり、意識が遠退きかける。
(このままじゃ……!)
杏理は身体の自由が利かなくなった刹那の間に死を予見した。
「まだ死ぬには早すぎるだろう──杏理」
杏理の予見したものは、杏理には訪れなかった代わりに、杏理を追い込んだ忍に訪れた。
「っ……遅すぎるよ……お父さん」
杏理はズキズキと痛む箇所を庇いながら立ち上がり、忍の息の根を止めた人物に声を掛けた。
「結界は無事か」
「うん、今のところはね。みんなお姉ちゃんを直接狙ってくれたおかげで、どうにか」
「時間がない。杏理、構成式を写すことは出来るか」
「……やってみる」
「ならば、行くぞ」