其の十一
気が付くと杏は自室のベッドの上に居た。もう陽は高く昇っており、家の中に人の気配はない。
(──今日は、誰も起こしてくれなかったんだ……学校、もう授業始まってる……)
時刻は9時23分。既に1つ目の授業は始まっている。
(あれ……あたし、どうして服のまま……)
杏は昨夜就寝した時のことを思い出せなかった。起こした身体は重く、まるで石になったようだと杏は思った。
杏は着替えることもなく、1階のリビングに降りて行った。食卓の上には杏理の作った朝食が置いてあった。焼き鮭、卵焼き、数種類の野菜を盛り合わせたもの──どれも杏が好きな、いつも通りの朝食だった。そして、それらの皿の横には手紙もあった。杏はそれに目を通した。
『お姉ちゃんへ
昨日はあんな風になっちゃってたから、食べられるか分からないけれど、一応朝ごはんは作っておいたよ。食べられそうなら食べてね。
あんなことになって、わたしもお父さんもかなり心配したんだよ。今日はゆっくり休んで、自分のために時間を使ってね。』
その字は杏理のものだった。
(あんな風? あんなこと?)
手紙の節々には杏の理解出来ない内容が書かれていた。その部分が杏の思い出せない昨夜の出来事に関連しているのは明白で、杏は空白の時間に思考を及ばせた。
(昨日の夜──確か、家であたしは襲われて──その後──)
杏はそこで思い出す。弥勒から告げられた衝撃的な真実の数々を。
(ああ──。そっか、あたし、明日にはもう死んじゃうんだ──。だから杏理は自分のために時間を使え、って──)
杏は昨夜の取り乱し方からは一転して、とても冷静だった。
その落ち着きは現状を受け入れたからなのか、それとも諦めたからなのかは杏本人にすら判別できなかった。
(自分のために時間を使えって言われても……)
諏訪に居た頃から趣味というものを持ち合わせていない杏は、時間の潰し方を知らなかった。たとえ上手く時間を潰せたとしても、それは偶然の結果である。杏は出来てしまった空き時間の全てを修行や勉強のために使っていたわけではないし、友人と共に過ごすということもなかった。そもそも、学園で疎まれている杏には友人なんていない。
(どうせ死んじゃうなら──何をしたって意味なんてないのに)
何も残らない──何も残せない──杏という無益な存在が、椿姫という有益な存在に成り替わる。
昨夜までの死から逃れたいという本能が杏の中からは姿を消していた。
(そもそも、あたしは死ぬわけじゃないんだよね。元々この魂は椿姫様のものなんだし、間借りしていたあたしが出ていくだけ──あたしが、いらなかっただけ──)
杏は昨日から着ていた衣服を脱ぎ、湯を浴びることにした。それは椿姫を迎える為の準備ともとれたし、居なくなる杏の清算ともとれた。
髪を濡らし、シャンプーを泡立て、泡を流し──ボディーソープを手に取り、泡立て、体中に伸ばし、洗い流す──それだけの作業に大した時間は掛からなかった。熱い湯を浴びて汗も汚れも全てを流した杏は誰も居ない静寂の中に戻る。音を立てるのは自分だけ──その感覚が杏に幼少期の孤独を思い出させた。
杏が学園に入って4年が経った頃、飛沫は激化した戦場に赴き何日も帰ってこなかった。その時、既に母は絶命しており、そうでなくても家には居なかった。杏は4歳も下の杏理と共に飛沫の帰りを待ちながら空腹と孤独に耐えていた。2人の世話をしてくれる大人など居なかった。広い屋敷の中で自分たち2人しか居ない恐怖──いつ他国の忍が襲ってくるかも分からない状況で、2人はただ怯えるばかりだった。杏理と身体を寄せ合い無事と平穏を祈り続けた杏は、2人で居たにも関わらず孤独だった。そして、それは今も杏の心のどこかに居座っているようだった。
(結局、あたしは生まれてからずっとひとりぼっちで……誰にも必要となんかされていなくて……そんなあたしよりも、結界を展開できる椿姫様の方が望まれている……)
寂しい──。
ぽつりと杏の頭をその一言が掠めた。
(……ああ、そっか……あたし、寂しいんだ……)
杏は涙を零して静かに泣く。
次から次へと眼から溢れる雫を拭うこともせずに、杏は自室に戻って机に向かう。用意したのは紙と筆──書くことは決まっていない。けれど、自分という存在を残すことが叶うならと、杏はその一縷の望みを数枚の紙と墨に託した。
遺書──死んだ者の残した言葉を記したもの。死者から生者への手紙。
杏はただただ思ったことを綴っていく。嬉しかった、楽しかった、寂しかった、悲しかった、辛かった、苦しかった──自分の短すぎる人生において、杏は思ったことを余すことなく書き記した。自分を理解して──その願いを紙に綴った。
気付けば、紙に余白は無くなっていた。杏は今まで書いてきた内容のすべてを見直した。どれも拙い言葉だった。あまりに子供っぽい内容のそれらは、とてもではないが人に見せられるものではない。
(……バカだな、あたし。こんなことしたって、どうせみんなあたしを忘れちゃうのに)
死者の記憶が薄れ行くのは必然だ。それなのに、忘れられることを哀しいと思うのは、杏が子供と大人の境目に生きているからなのだろうか。
杏は紙を破いた。
(こんなの……意味、ないじゃないっ)
再び感情が溢れそうになった。
「ただいま」
そんな時、玄関を開ける音がした。その声は風吹のものだった。
「杏、いる?」
階段下からの呼び掛けに、杏も部屋の扉を開けて答える。
「……いるよ」
杏は時計に目をやる。まだ中等部の授業が終わる時間ではない。ましてや今日は普段と変わらない平日。午前で授業が終わるわけがない。
「……まだ、お昼だけど……」
階段を降りながら、杏は風吹に疑問を投げ掛ける。
「うん、早退してきた」
「……どうして」
「杏、1人だとご飯作れないでしょ。だから、買ってきたんだよ。一緒に食べよう」
風吹は靴を脱ぎながら手にしたビニール袋を見せる。
「うん……」
食卓に袋を置くと、風吹は自室に戻って私服に着替えた。その短い時間に、杏は袋の中から惣菜を取り出して食事の支度を整えた。
「いただきます」
風吹はいつも通りに食事を始める。
「いただき……ます……」
杏も遅れて手を合わせる。とてもじゃないが、食欲はなかった。
「食べないの? 嫌いだった?」
杏に好き嫌いがないのを一緒に暮らしている風吹はよく知っている。だからその質問にあまり意味は無かった。
「そんなこと、ないけど……」
杏は無理やり食事を口に運んで咀嚼し呑み込んだ。しかし味がよく分からなかった。
「杏、食べ終わったら出掛けない?」
「え……」
「せっかくだしさ、少し遊びに行こうよ」
「…………」
「……どうしたの?」
「風吹の口から、そんなこと言われるなんて思わなかった」
「だって杏、昨日倒れたんでしょ? ちょっと心配だったんだよ。だから少しくらい休んでも良いんじゃない?」
「……まあ、家にいてもすることないし、いいけど……」
「じゃあ、決まりだね。どこに行こうか?」
「……風吹に任せるよ」
杏は力なくそう言って、食事を再開した。
◆
食事の後片付けをすると、待っていたと言わんばかりに風吹は家を出た。杏は気乗りしない様子でその後に続き、風吹の向かう先を目指した。
「どこ、行くつもり?」
浮かない表情の杏とは対称的に、風吹はどこか楽しそうだった。
「特に宛てはないよ。駅前のお店を色々見てるのって楽しそうじゃない?」
千秋学園の学区には、比較的大きな駅がある。人通りも少なくない。故に様々な店が建ち並んでいる。
「杏はさ、どの店に行きたい?」
駅前のロータリーに着くとすぐに、風吹は杏の意見を求めた。
(ここで昨日、あたしは真実を知った。夜とは様子が違うけど、それでもやっぱり、思い出さずにはいられない……)
杏は苦悶の表情を浮かべた。
「どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「……平気。ちょっと嫌なこと思い出しただけ。……あっち、行ってみたい」
風吹は杏の向かう先に文句1つ言わずについていく。雑貨屋、服屋、飲食街、ゲームセンター──どれも今の杏にとっては興味を持てない場所ばかりだったが、それでも2人は歩き回った。
いくつもの店を見て回った末に、2人は一度訪れた和雑貨屋に再び入った。店の外観は周囲の建物と然程変わらない造りをしていたが、そこに置いてある品々は諏訪の小物屋を連想させた。故郷の雰囲気を少しだけでも味わえるおかげで、杏の気分は少しだけ落ち着いた。
商品をじっくり見ていた杏は、その中の1つである貝殻と鈴を使った飾りに目を留めた。二枚貝を布で包んで合わせたものを紐に通し、さらに小さな鈴を2つ通したもの──それを杏は可愛らしいと思った。
「それが気に入ったの?」
手に取ってまじまじと眺めていた杏に、風吹は声をかけた。
「こういうの、嫌いじゃないから」
手の中で少し転がせばリン、と鳴る鈴を杏は気に入っていた。
「じゃあ、それ買おうよ」
「え……でもあたし、お金持ってない」
「飛沫さんから少し貰ってるから大丈夫だよ。杏、明日誕生日でしょ? 僕から贈らせてよ」
「でも……」
「いいから!」
杏は風吹に負けて、それを買って貰うことになった。
「風吹……ありがと」
「どういたしまして。大事にしてくれると嬉しいな」
「大切にする」
杏は愛しいと言わんばかりに胸元でそれを優しく握り締めた。その表情からは今までの暗さが消え綻んでいた。風吹もその様子を見て、嬉しそうな表情をしていた。
2人はそれで満足し、帰路についた。帰り道で2人の間に会話はなく、沈黙が続いていた。
河川敷をの並木の下を歩きながら、杏はふと足を止める。
「ねえ、風吹」
そのまま杏は沈黙を破った。
「人が死んだら、魂ってどうなると思う?」
その問いひとつで、風吹は察してしまった。杏を守る為に日本に来た全員が隠していたことを、誰かが杏本人に伝えてえしまったということを。そして杏が迷い、悩んでいることを。
「そう、だね……僕は死んだことがないから、はっきりとしたことは言えないけれど……。でもきっと、生まれ変わるんじゃないかな」
風吹も足を止めて杏の方を振り替える。
「そうなのかな……」
「……うん。必ずしも人間に生まれ変わるわけではないと思うけど、きっと形を変えて、またこの世界に生れ落ちると思うよ」
「じゃあさ──例えば、2人が1つの魂を共有してたとして、どちらかが消えなくちゃいけないとしたら、いなくなる方はどうなると思う? 同じように、生まれ変われると思う?」
「っ──それは──わからないよ。だって魂は──2つに分裂するわけではないんでしょ?」
風吹は答えに詰まった。下手な言葉を使えば、杏は傷つく。言葉を吟味していたら、答えを滑らかに伝えることが出来なかった。
「でも、そうだな──もし、生まれ変われることができたなら、それはきっと──とてもすごいことなんじゃないかな」
拙い言葉しか見付けられなくても、風吹はまっすぐ杏の目を見て、真剣な表情で答える。
「杏」
「なに?」
「僕には魂なんて曖昧なもののことはよく分からない。でも、曖昧だからこそ、希望はあるんじゃないかな」
「どういうこと?」
「必ずこうなる、っていう風に形が定まっているものではないからこそ、色んな形をとれるんじゃないかな」
「そっか……。
あたしはね、風吹──。消えちゃうだけだと思うんだ。次なんて与えられてない。だってそんな異常なこと、普通なら起こらないもん。生まれなくていいはずのものが生まれちゃったら、そっちは消えて──元々なかったことになると思うんだ」
杏は風吹から目を逸らして、夕暮れを迎える空を見上げる。
「杏……」
「風吹──あたしね、明日には消えちゃうんだって。元々あたしは椿姫様で、杏っていう人間は生まれちゃいけなかったんだって」
杏は笑う。涙を隠すように笑う。
「菖蒲様もね、何もできないあたしなんかより、椿姫様が居た方が嬉しいんだって。諏訪の人達も、忍失格のあたしより、優れた巫女に居てほしいんだよ」
「そんなことないっ!」
風吹は堪らずに叫んだ。
「僕は嫌だ。杏が消えるなんて、そんなの嫌だ。居なかったことになんてならない! 杏はずっと、僕の中に居る!」
杏は唇を噛んだ。
「僕に感情を教えてくれたのは杏だ。僕と一緒に過ごしてくれたのも杏だ。今まで僕の隣で歩き続けてくれたのは、全部杏だ! 椿姫様なんかじゃないっ! 思い出までっ、椿姫様に否定されたくなんかない──っ!」
風吹の呼吸は乱れる。
「無理、だよ……椿姫様が亡くなって……代わりに生まれたのが、術もまともに使えない忍の子なんて……誰も認めてくれないよ……きっとみんな、菖蒲様の言うことが正しいって言うよ……」
「正しくなくたっていい! 杏はずっと、ここにいればいい! 他の誰が何と言おうと、僕は椿姫様より杏に居てほしい! だいたい、今の魂を持ってるのは杏でしょ。どうして椿姫様に譲る必要があるって言うの!?」
「ごめんね、風吹──そう言ってくれて、すごく嬉しい。でも術の使えないあたしが、あんな大規模な結界を張れる椿姫様に敵うはずないよ……」
杏の目からは一筋の涙が流れる。
──こんなことになるならいっそ──生まれてこなければ、悲しまなくてもよかったのにね──。