其の十
「弥勒先輩」
「こんな時間に人気のない場所に呼び出したりして、一体どうしたっていうのかな、杏ちゃん。男を誘い出して夜遊びするには、まだ早いんじゃない?」
杏は家からそう遠くない公園に来ていた。もちろん、弥勒を呼び出して。
「教えてほしいことがあるんです」
弥勒の軽口を相手にもせず、杏は言う。
「どうしてオレのところに? 封和か、風吹クンに訊いたら?」
「あの2人は、知っていてもどうせ教えてはくれませんから。それに、封和先輩には一度誤魔化されていますし」
「ふうん? それでオレのところに? 悪いけど、簡単に口を割るつもりはないよ」
「そういう言い方をするってことは、先輩は知ってるってことでしょう? あたしが知りたいことを全部、余すことなく」
「キミこそ、おおよその見当はついてるってところでしょ? わざわざ人から聞く必要はないんじゃない?」
「でも、真実には辿り着いていないから」
杏の真剣な眼差しが、弥勒を捕まえた。
(いい眼だね──キミほど素直で純粋な心構えと劣等感を持っている子は、そうそう居ないだろうね。でも、本当にいいのかい? 知ってしまったら、もう戻ることはできないんだよ?)
「──本当に、それを知る覚悟がキミにはある? 生半可な気持ちで聞いてしまえば、キミはきっとおかしくなってしまうよ? この話はね、それほど複雑で残酷なものなんだ。だからもう一度訊くよ。全てを知る覚悟が、キミにはあるかい?」
「覚悟……その言葉で表せるほど、固まった気持ちをあたしは持っていません。でも、どんな話も漏らさず全て受け入れるつもりです。もし弥勒先輩がそれをあたしに伝えることで咎められると言うなら──どうしても言えないとおっしゃるなら、あたしは力付くでも聞き出そうと思っています」
(実力差は歴然としているのに、それでも挑もうとしてくる、か──)
「──いいよ。キミの気持ちは分かった。教えてあげるよ。日本に来た理由も、命を狙われている理由も、全部、キミが望む通りに教えてあげる」
弥勒は不敵に微笑んだ。
「最初に言っておくけれど、真実がどれだけ絶望的なものでも、諦めないでね。キミ1人を守る為に、多くの人が命懸けで関わっていることを忘れちゃいけないよ?」
「はい──分かりました」
杏の表情に宿る緊張感は解けない。
「場所を、変えようか。ここだと色々と厄介なものが多そうだからね。ほら、着いておいで」
弥勒は近所の民家の屋根に跳び上がった。そして杏を手招き、屋根伝いに駅の方へ移動した。杏も無言で後を追う。
移動している間、終始杏の視界の端には何かが燃えたような閃光が見えた気がしたが、それを直視出来なかった杏はすぐに気に留めるのをやめた。
「ここならそう邪魔も入らないよ。人は多いけど、この話を聞いたところで信じる人は誰もいない。日本人って、みんなそんな感じだから」
弥勒が足を止めたのは、駅前のロータリーだった。時刻はちょうど最終電車が到着する頃で、人の数もそれなりに多かった。
「どこから話すべきか迷ったんだけど、まずはキミのお母さんのことから話すのが分かりやすいかもね」
「母の、こと?」
杏は母親のことを何一つ知らなかった。物心ついた時から杏には母親が居らず、杏もそれを普通のことだと思っていた。学園に入学して初めて、母親という存在を知ったくらいだ。
「キミのお母さんはね、大和を護る結界を張ってる巫女だったんだ。名前は撫子っていってね、今では珍しい、生粋の大和人の優れた術師だったんだ」
「お母さんが……大和の巫女? でも、それって──」
「うん、本来あり得ない。巫女は穢れを知らない、純粋無垢な少女でなくてはならないと定められているからね」
「お父さん……どうしてそんな人と……」
「馴れ初めはセンセーから直接聞くといいよ。オレもそこまで深い話は知らないしね」
「はい。あの──まさか、お母さんはあたしと杏理を産んだから──」
「違うよ。撫子サマは呪いや穢れみたな視えないものに殺されたわけじゃない。大戦中、城に踏み入った忍の手に掛けられて命を奪われたんだ」
杏は僅かに安堵の表情を見せた。
「まあ、巫女が子を成すこと自体が禁じられていることに変わりはないんだけどね。本来城っていうのは、そういうことが起こらないようにする為の場所なんだし──って、ゴメンゴメン、話が逸れちゃったね。戻そうか」
弥勒はわざとらしく咳払いをした。
「とにかく、撫子サマは10年前の大戦中に亡くなった。杏理ちゃんが産まれて、ほんの間もない頃にね。ここまで大丈夫?」
「はい。でも、それが本当なら、今も大和の巫女は居ませんよね。それなのに、どうして大和の結界は──」
「今の大和の結界は、倭の巫女である菖蒲サマが管理している。彼女の持つ力は極めて強くてね、歴代の巫女の中では最強だという声もあるくらいだ。──そんな女性が敵に回ったら、一体どうなると思う?」
杏の背筋が凍った。力の強い者が糸を引いているというところまでは見当をつけていた杏だったが、まさかそこまで強い力の持ち主が敵だとは、思いもしなかった。
「それにね、杏ちゃん──菖蒲サマは、諏訪の結界も展開し続けているんだよ?」
「勝てるはずないっ!!」
杏は思わず叫んだ。道行く人は皆、杏に注目する。
「そんなすごい人に、あたしなんかが敵うはずないじゃないですか! あたしみたいな、落ちこぼれ、なんかが……」
「落ち着いて、杏ちゃん。こんなトコで取り乱さないでよ。話はまだ、本題にすら入っていないんだから」
弥勒は冷たい眼差しを杏に向ける。普段との明るさからは考えられないほど冷たい目をした弥勒に、杏は一瞬で呑まれた。
「諏訪の巫女ももう亡くなってるってことは、話の流れからキミはもう理解しているよね。じゃあ、諏訪の巫女──椿姫サマは、死後どうなったと思う?」
「どうって……天上でその魂を浄化されて、再びこの世に生を受けるんじゃ──」
「うん、本来ならそうだよね。でも、違うんだよ。椿姫サマの魂は、天上に昇っていなければ、浄化もされていない」
弥勒は複雑な感情の入り交じった笑みを浮かべる。その笑顔に、杏は果てのない不安を覚えた。そして弥勒はそのまま杏の耳元に顔を近付け、続きを紡いだ。
「彼女の魂はね、今、ココで──キミを犠牲に、目覚めるのを待っているんだよ──」
杏の全身の力が抜けた。立っていることも儘ならなくて、杏はその場に崩れ落ちる。
「椿姫サマは正式な手順を踏まずに、禁術に手を出して生まれ変わろうとした。どういうわけかは知らないけれど、その魂は撫子サマの胎内に居たキミ──杏ちゃんの身体に宿った。本当ならキミという存在は産まれず、記憶と力を引き継いだ椿姫サマが産まれるはずだったんだ。でもね、術が不完全なまま椿姫サマが事切れてしまった所為で、キミが生まれることになった」
話の内容は、全て杏の頭をすり抜けていく。理解に努めようとしても、真っ白になった杏の頭は話を受け付けない。
「彼女の転生は、不完全な状態で完成しようとしているよ。キミが14歳になるその瞬間──身体が生前の椿姫サマに追い付くその時に、キミは椿姫サマに食い潰される」
最も知りたくなかった事実が、杏の全身を貫いた。その事実がもたらす衝撃の大きさに、杏は心臓が止まってしまったような錯覚に陥った。
「そしてね、それを──椿姫サマが再びこの世に現れることを望んでいる人も居るんだ。椿姫サマを欲しがる人──もう分かってるよね。そう、菖蒲サマだよ」
一筋の涙が頬を伝った。言葉で形容することの出来ない感情が、雫の形となって頬を滑り落ちていった。
(あたしの誕生日、って──)
──明日。
日付は既に変わっている。帰宅する人々が行き交っていた駅前は、いつの間にか閑散としていた。
「……あたし、死んじゃうんだ……明日、何も出来ないまま、何も残せないまま、死んじゃうんだ……」
ぽつり、ぽつりと口から漏れる声は、感情の籠らない、乾いたものだった。
「あのね、杏ちゃん。まだ、希望が無くなったわけじゃ、ないんだよ」
杏を救える一言を繰り出す弥勒。しかしその希望は、負の感情に支配された杏の心には響かなかった。杏はただ、虚ろな瞳で弥勒を見詰めていた。
「椿姫サマの転生を止める方法は、1つだけあるよ。成功するかは分からないけれど、それでも今はこの方法に──杏理ちゃんに賭けるしかないんだ」
弥勒は目を閉じた。痛ましい表情で弥勒を見上げる杏の姿が、弥勒の視界から外れた。
「杏、理──? 何、を──」
「キミたちが撫子サマの娘だって話をしたでしょ? だから、その力は受け継いでいるんだ。杏ちゃんがどれくらいその素質を受け継いでいるかは分からないけれど、杏理ちゃんはとても強くその力を受け継いでいてね。あの歳で結界の構成式を読める子なんて、そうそう居るもんじゃないよ。あの子が居なければ、オレたちはキミを守る手立ても、助ける手立ても見出だすことが出来なかったくらいだ」
「杏、理──まだ──子供、なのに……」
「もし杏理ちゃんが失敗したとしても、あの子に危険はないよ。だから安心して、って言うのも変な話だけど、杏理ちゃんのことは心配しなくていいよ。
オレたちはね、杏理ちゃんに結界を築いてもらって、そこに椿姫サマを封じてしまおうと考えてるんだ」
「失敗、する──?」
杏の不安は増大した。
「巫女と子供の力比べになるからね。その可能性は十分にあるよ。というかむしろ、上手くいかない可能性の方が高いくらいだ。でも、杏理ちゃんに足りていない力は、ありったけの触媒で補うつもりだよ。それでも上手くいくかどうか──杏理ちゃんには、それくらい難しいことをしてもらうんだ」
「そん、な──荷が、重すぎる──!!」
「うん、そうだね。でも、やるしかないんだ。失敗した時は、オレと封和、そしてセンセーが責任を取る。それが、子供に無理をさせる大人の責任だ」
(嫌──嫌だよ──。お願い──違うって言ってよ。──今まで言ってたこと、全部嘘で──あたしは修行して、一人前になるために日本に来たって──そう、言って……)
杏は拳を握り締めた。
「本当に厳しくて残酷だけどね、これが現実なんだ。オレはね、杏ちゃんがこのこと知ったら、絶対そんな表情するって分かってた。オレだけじゃない。みんな、キミがその表情するって簡単に想像出来たからこそ、キミに伝えることを避けたんだ。……まさかオレが伝えることになるなんて、思ってもみなかったけど」
弥勒は閉じていた目蓋を再び開けた。視界には感情を失って空っぽになったような表情の杏が映る。
(誰も──キミのそんな姿を見たくなんてなかったんだよ。出来るなら、キミが何も知らずにすべてが終わってほしかった)
弥勒には、杏を哀れむことしか出来なかった。代わってあげたい、だなんて思えるほどに弥勒は杏のことをよく知らないし、そんなことを簡単に言い出せるほど事態は軽くない。
それに──誰だって、他人が自分に成り変わるなんて、想像したくもない──。
「──帰ろうか、杏ちゃん。流石にここで過ごすには、夜は長すぎるよ」
杏には弥勒の言葉に耳を貸す余裕は無かった。放心状態、というのが今の杏を表すのに最も相応しかった。
(……無理もないよね)
弥勒は微動だにしない杏を背負い上げた。そして人目につかないように細心の注意を払って、来た時と同じように電柱や屋根の上を移動する。これは万が一襲われた場合に備えた、弥勒の配慮だった。
「杏ちゃん──聞いてはいるよね。
確かにキミがそんな風になってしまうくらい、現実は惨い。でもキミは、知る前に言ったよね。どんな話だろうと、全部受け入れるって。その言葉を、嘘にはしないでね。そんな風に裏切られたら──オレも封和もセンセーも、もちろん風吹クンや杏理ちゃんも、みんなが今のキミみたいな気持ちになることを、忘れないで」
弥勒はどこか祈るように杏にいい聞かせた。