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事故、病院。大怪我……動かない体。
一気に、悪いイメージが広がる。
熱が出た時みたいに頭がぼんやりして働かない。世界がゆっくり回って見える。ベッテンドルフ先生が何かを言ってるのに聞こえない。
「……何があったんですか」
顔を上げればヘイリーがいる。なんで彼がここに居るのかよく分からない。
「あ、ああ。君は彼女の友人かね。実は彼女のお母さんが事故に遭ったそうなんだが……」
校長先生が次の言葉を選んでいるうちにヘイリーは決断を下した。
「おれが送って行きます」
気がつくと、ヘイリーに手を引かれて歩いていた。校内を生徒たちが歩いていて、それぞれの放課後を満喫している姿が現実離れして見えた。
あたしの前をゆくヘイリーも、彼の引くあたしの腕さえも他人行儀で、あたしは一人置いてけぼりだった。
「前にも、あったの」
あたしは説明しなくちゃって思った。置いていかれないように。
「あたしがまだちっちゃい時、ママは足が悪いから、階段から落ちちゃって、頭を打って」
時々ふと思い出す事件でもあった。
学校から帰ったら、ママがいなくて不思議に思った。違う部屋にでもいるのかなと思ってあたしは階段をのぼって自分の部屋に行こうとした。そしたら、階段の半ばでママが倒れてた。まだ十歳くらいの子供だったあたしには、何が起きたのか全然分からなくて、なんにも出来なかった。その頃見たテレビか何かが影響したのか、あたしは強盗が来たのだと思って怯えた。
とにかくママの肩をゆさぶって、目を開けてくれるのを待った。起き上がるのを待った。でもママは目覚めない。動かない体が、こわかった。ママの右足が上手く動かないのはママが若い頃からの事で、それは今も変わらない。
またママがあんな風になるのはあり得ない話じゃない。
「でもあたしなんにも出来なくて、電話してパパを待ってて、それで」
あたしの腕をつかむ力が強くなった。
「覚えてる」
あの時はもうヘイリーと仲良くしてなかったけど、あたしとヘイリーのママ同士はつながりがあったし、近所に住んでいた。だから後日ヘイリーのところまで話がいくのもおかしくはない。
「あの時、一秒が一年みたいに感じた。なんにも出来なくて、ママが起きなくて、それで」
「大丈夫だから」
正面に、ヘイリーの顔があって、彼は無理して笑ってた。眼差しは痛ましいものを見る目。でも、ふしぎと嫌じゃなかった。
「あのあと結局、お前のお母さんは元気になった。だから今度も大丈夫だ」
両手を彼の手で包まれて、絹のようにやわらかくて優しい声が耳になじむ。かすかに感じる人の体温に、氷が溶かされたように涙が出そうだった。あたしはうつむいて、それをごまかした。
「……うん」
またヘイリーが先頭にたって歩き、あたしたちは車に乗った。
病院の場所はヘイリーがベッテンドルフ校長に聞いていたらしく、あたしたちは迷う事なく病院に着いた。ヘイリーが窓口で話を聞いて、病室に向かう事になった。
病院の空気は好きじゃない。雰囲気も、風の届かないこもった気体も。
廊下を歩くうちに、聞き覚えのある声が聞こえてきた。パパの声だ。病室のドアが開いたままになっている。
足が止まりそうになのに、ヘイリーが先に立ち止まってしまった。あたしは思わず彼を見上げる。ヘイリーは何も言わずにあたしの背中を押す。まるで家族じゃない自分には面会が許可されていないとでも思っているみたいに、彼は動かない。
背中を押された勢いで、あたしはその病室の中に入る事になった。少し薄暗い廊下から、明るい病室へ。一人の患者用の個室で、まず目に入ったのはパパの姿だった。パパは十歳くらい老け込んだような顔をしてあたしに手を伸ばしてきた。
「ああコニー、心配かけちゃったわね」
パパに抱きしめられたあたしに、ママの声がかかる。ママはベッドの中におさまって座っていたけど、案外元気そうだった。頬にガーゼをあて、髪が少し乱れているものの布団から出てる体には目立った外傷はない。
「……大丈夫なの?」
正直、げっそりしたパパより怪我人らしくない。あたしはパパの抱擁から抜け出して、ママの隣に立った。
ママがあたしに手を伸ばしてきたので、軽くハグをする。怪我人相手だから、すぐにママから体を離したけど、あっちの力は弱くなかった。
「大丈夫よ。動く方の足の骨にヒビが入っちゃったからしばらく歩けないだけ。それ以外はなんともないの」
あたしは、長い長い息を吐き出した。全身から力が抜けた。
もっと、ひどい姿を想像していたから、それと比べるといつもとさほど変わらないきれいなママがいる。学校に電話が来るくらいだから、大きな事故に巻き込まれたのかと思った。ママのしゃべってる姿が見られて、本当によかった。
ママの右足は若い頃から長時間行使する事が出来ない。普通にしていても右足を少し引きずって歩いてしまう。それなのに大事な左足まで調子が悪くなってしまうなんて。ママがベッドの上にいるのも、両足が上手く動かないからなのだ。あたしはパパを見た。
「ヒビも骨折のうちだ。痛みもあるし熱も上がるかもしれない。念のため少なくとも明後日まで入院する。今日はパパも病院に泊まるつもりだが……コニーまでそうする必要はないよ。正直なところ、この病室にはベッドがひとつしかないから過ごしやすい環境とは言えないし……コニーは明日も学校だろう?」
パパは疲れた顔をやめられず、何回かあたしを見たもののママばかり気にしている。対するママはほとんどパパに注意を払わない。ママの事に関しては必要以上に心配性になるパパの事だから、散々心配したアピールをしまくってママにうんざりされたあとなのだろう。こんな時なのに相変わらずパパはママが大好きで、ママはパパにそっけない。いつも通りの事がひとつでもあると、なんだかほっとする。
「明日は、休みだけど……」
あたしだってママが心配だ。でも、正直一緒に病院に残る気にはなれない。病院はあんまり好きじゃないし、どうせあたしがいたって邪魔なだけだ。いろんな手続きからママの世話までパパがぜんぶやろうとするだろうし、あたしがパパの仕事を奪うと今度はパパの方が心配性をこじらせて倒れそうだ。
「ああ、そうか……」
思っていたよりも、ママが軽傷そうなのもあたしを病院に泊まる気にさせなかった。昔ママが倒れた時は最初の数日はほとんど意識がなかったし、入院はもっと長い間になった。あの時よりは心配ないはずだ。薄情かもしれないけど。
今回はさほどの怪我じゃないとはいえ、あたしはもっと献身的になるべきなんだろうか。病院に来るまではかなり動揺していたはずが、パパのひどい狼狽を見ると、あたしはかえって冷静になってしまった。
病院に残るべきか迷っていると、ママと目が合った。ママは自分の事は気にしなくていいのよ、とでもいうように目元をやわらげた。やっぱりあたしは薄情な娘なのかもしれない。ママが心配なのに間違いはないのに、病院には居たくないなんて、おかしいだろうか。
「そういえばコニーはどうやってここまで来たんだ?」
「ヘイリーに送ってもらったの」
パパにたずねられて、あたしが病室のドアを振り向くと、廊下でずっと忘れられていたヘイリーが気まずげに室内をうかがった。ドアは開いたままだったからヘイリーも話は聞いていたはずだ。
「ええと、こんにちは」
部屋を間違えたみたいに気まずげな顔のヘイリー。あたしは両親の顔色を盗み見て、彼が招かれざる客ではないと知り、ヘイリーに入って来るように視線を送る。
「ご無事で何よりです、ミセス・フェアフィールド。ぼくも心配してたんです」
まだ出入口に近いがヘイリーは病室内に入ってきた。少し緊張した様子だけど、気遣いの分かる表情と声をしていた。
ママは、この間ヘイリーを見かけた時と比べてかなり穏やかな顔をしている。ちなみにパパはヘイリーの事をそこまで気にしていない。というより、まだまだママの事故のショックから抜け出せていないから、自分で問いかけておいてヘイリーへの興味はあまりなさそうだった。
「あら、ありがとう。たぶんあなたが思っているより具合は悪くないのよ」
そうヘイリーに向けて言ったあと、ママは辺りを見回しはじめた。何かを探しているといち早くパパが気づいて駆け寄る。ママが「二人になにかお菓子か飲み物を買ってきてあげて」とパパに頼み、パパは不安げにあたしたちを眺めた。それから自分の財布を取り出して、すぐに戻るからと言ってママの頬にキスをして、病室を出た。
ちょっと売店に行くだけで心細そうなあのパパの顔。なんとなく、ママはパパを追い払いたかっただけのような気がしてしまった。
「ちょうどよかった。あなたに話があるの、ヘイリー」
「……えっ……」
間抜けな声をあげたのはヘイリーだ。あたしもまさか彼が話題に上がるとは思ってもいなかった。目を丸くするヘイリーと、微笑のにじむママ。
ママは、その微笑を消して少し真剣な顔つきになる。
「昔、コニーが音楽には色が見えるって言ってたでしょう」
「ママ?!」
我が家でも、もうしなくなった話題だ。タブーに近く、誰も口にしないのが決まりみたいになってる。そんな話題を、他でもないヘイリーの前で口にするなんて。
「今はもう違うから……あれは、小さい子供の勘違いで」
あたしは、いつも自分と他者についてきた嘘を舌に載せた。ヘイリーの顔が見れない。また変な事を言うやつって思われる。変な家族だって。
ママは痛みをこらえるような、しかし慈愛に満ちた眼差しであたしの手をとった。
「コニー、隠さなくていいの。うちでピアノを弾かなくなったのも、まだ色が聞こえるからなんでしょう?」
あたしは眉を寄せた。ママの言い分は当たっている。ピアノが弾きたくなったら学校のピアノを使うのも、家のピアノを使いたくないからだ。我が家のピアノの蓋を開けたら、ママが気づかないはずがない。そしたらママは、また以前の事を思い出すだろう。自分の娘がおかしな事を言い出した、昔を。そしてあたしは、色が聞こえなくなった訳じゃないのだ。
「ママ、あれから図書館や昔の知り合いに聞いたりなんかしていろいろ調べたの。音楽に色が見える人は、あなた以外にもいるの、コニー。大勢はいないみたいだけど」
「……うそ……」
ママの言葉が、あたしの脳に行き渡るのには時間がかかった。にわかには信じがたい事だった。
自分にしか理解出来ないものだと、この世にあたし一人しか見えないものを見てると、思ってきた。だってあの時、ヘイリーも、ママもパパも、当時仲良くしていた他の友達も、バッハやベートーヴェンに色はついてないってあたしの見えるものを否定し続けた。
「有名な作曲家の中にも何人か、そうなんじゃないかって人もいたようよ。それに、他には文字に色が見える人もいるそうよ。やっぱり、少数派ではあるのだけど……」
ママはしばらく、自分の両手で包みこんだ娘の左手を見ていた。
「どうして世界がそういう風に見えるのか、まだちゃんと分かっていないらしいのだけど、でも、作曲家として大成した人がいるように、あなたの感覚はなんらおかしな事ではないのよ。むしろ、芸術肌って事なんじゃないかしら」
一度小さく微笑むと、ママが顔を上げる。その、我が子を慈しみの目で見る母親の顔は、申し訳なさそうでもあった。
「ママは昔、あなたの感覚を否定してしまったわ。あなただけが持ってるものだと思って、他人に変に思われたらかわいそうだからって。実際ヘイリーには奇妙に見えたみたいだし」
ママが目だけでヘイリーを一瞥する。それを受けてヘイリーは、慌てたように息を吸う。
「その、おれも、あれから調べたんです。だから、今ではコニーの事をおかしいなんて、思ってない……。むしろ……」
言葉尻で、どこかすがるようなヘイリーの目があたしを射抜く。自分の罪を自覚し、悔いているような眼差しが揺れて、痛みをこらえているようだった。
その瞳が、あまりにもまっすぐ、熱さえ帯びてあたしを見つめるものだから、あたしは段々と居心地が悪くなって――胸の奥まで引きつれそうだった。
あたしはヘイリーから視線を外す必要があった。あのままだと、目がはなせなくなりそうだったから。
「ま、待って待って。もう、二人してあたしをかわいそうな目で見ないでよ。どっちにしろあたしはもう、気にしていないし……そんなに、悪いことしたみたいに思わないでよ……」
心臓のあたりが落ち着かないのを、ごまかすようにあたしは片手を振った。
「それでもママは、謝りたいとずっと思っていたの。ヘイリーにも、コニーだけが見える世界じゃないって、分かってほしかった。もう知ってたみたいだけど……。あの時、あなたを信じてやれなくてごめんなさいね、コニー」
あたしは、ママの謝罪に虚を突かれた。
確かにあの頃、ママはあたしの言う事を疑った。幼い子供は母親という大きな存在に否定され傷ついた。でも、長く母親と暮らしていると、裏切られたと思うような事なんて一度や二度ならず、何回も起こるものだと知っている。大きくなるにつれ、くだらない事からそれなりに重要な事まで、母親と子供は反目するようになる。たぶん、それが普通の事なんだ。経験を重ねるうちに、あれはそのうちのひとつで、なんて事ないものだと思えるようにもなった。ちょっと偉そうな事を言えば、ママを許せるようになったのだ。
「おれも……」
「と、とにかく。分かったけど、今はママの怪我の方が大変でしょ。何かあたしに出来る事はない? なんでもするわ」
またヘイリーが口を開いたので、あたしはその続きを遮った。なんとなく、彼にしゃべらせちゃいけない気がした。
ママに話が戻ったその時、ママはあたしの左手を解放した。
「……それじゃあ、ママは……久しぶりにコニーのピアノが聞きたいわ」
顔を上げて笑うママの顔は、まだ少し罪悪感が消えてなくて、かえってあたしの方が申し訳なく思った。