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 その後の授業では、ヘイリーが一緒のクラスはなかったものの、何故だかあたしは小さな苛立ちが止まらなかった。国語の授業で隣の席の男子が貧乏ゆすりをしているのがあたしをイラつかせたし、歴史の授業の先生がその日話すべき大統領の名前を間違えたのも腹が立った。別に普段は近くの生徒の行動なんて少しも気にならないし、大統領の名前なんてどうだっていいのに。

 放課後、あたしの唯一といっていい友人、サンドラは用事があるとかで即行で帰っちゃうし。サンドラにはヘイリーの事をたいして話していない。幼い頃はよく遊んでいたけど今では関わりがない、という話をしただけ。サンドラはかわいいけどすっごくお人好しで遠慮がちなせいか、ヘイリーを遠巻きにしてる女子の一人だ。だからこれまであたしの話も聞き流してけど、今の状態を聞いたらなんて言うんだろうな。

 あたしはむしゃくしゃした気分のまま家に帰る気分にはなれなかった。このまま家に帰れば、一人娘が内向的なのを心配する母親と対決しなければならない。あんまり早くに家に帰るといじめられて早退してきたのだと思われかねない。ちょっと、言いすぎかもしれないけど、とにかくママは自分のたった一人しかいない子供を心配している。こんな時、兄弟でもいれば違ったのかもしれないけど。

 思っても仕方のない事。化学の授業の事が思い浮かぶと、自然とため息が出た。幼い頃の一件から、更には大きくなってからは鼻もちならない嫌なやつと思ってきたけど、ヘイリー・ニューマンはかつてあたしの親友だった。気が合うし話は弾むし、時々ぜんぶ言わなくても言いたい事が通じたし、一緒にいて楽しかった。お前みたいに音楽に色なんて聞こえない、と言われたあの日まで、あたしは――。

 考えまいと、あたしは首をぶるぶると振った。顔をあげると、足が自然と音楽室に来ていた事を知る。今は誰も使っていない時間のようだ。人気がないのをいい事に、あたしは音楽室の中に入った。

 昔、あたしのママは有名なピアニストだった。パパとの出会いもママがピアノを演奏しているところをパパが見染めて、というものだった。今では生徒も減ったが、ママはピアノ教室を開いていて、娘のあたしもピアノを習った。あたしはピアノが弾けるけど、ママのようにピアニストを目指すほど才能にも恵まれず、情熱もなかった。

 とはいえ、時々ピアノを弾きたくなって、こっそり音楽室にしのびこむ。最近、家ではピアノは弾いていない。理由は特になくてなんとなくだけど。

 グランドピアノの蓋を開ける。きれいな白と黒の鍵盤がならぶ。あたしは軽く腕まくりをして背筋を伸ばす。両手を鍵盤の上に載せ、息を吸った。

 最初は、ショパンの別れの曲を弾いていた。時々淡い水色のにじむ、なめらかなクリーム色の曲。それなりに好きな曲だけど、別れるには盛り上がりすぎな部分がある気がしてならない。あたしの別れのイメージがしんみりとして尻切れトンボなところがあるからだろうか。

 世界の音楽には色がついている。けれど自分の弾く曲は、他人のものとは違って色が薄いような気がする。いつかママが言っていた、“自分だけの表現の仕方”がわたしにはないからだろうか。まだママにピアノを習っていた頃、ママはもしこのままピアノを弾き続けたいと思うのなら、自分だけの表現の仕方を見つけた方がいい、と教えてくれた。もしプロになるならそれを求められるし、何より自分が楽しくなるからだと。

 けれどあたしはそれを見つけられなかった。だから、ピアノを習うのをやめた。時々こうして鍵盤をいじる程度の、趣味のようなものにして。あたしは、あたしの色を見つけられないから。それを見つけたいような気もするけど、追いかけた時、どこまで行っても見つけられなかった時の事を想像すると――こわい。

 ショパンを終えて、右手だけで鍵盤をもてあそんでいた頃、あたしはやっと人の気配に気づいた。前かがみになっていた上半身を起こすと、周囲を見回す。目に入ってきた光景に、軽く目を見張る。

「……なんでいるの」

「今の、何て曲?」

 ヘイリー・ニューマンは人の話を聞いていなかった。

「なんでもない。適当に鍵盤をいじっていただけ」

 また何かを言われる前に、とあたしは急いでピアノの蓋を閉じた。椅子から立ち上がって身支度を整える。もちろんヘイリーの前からいなくなる支度だ。

「は? 誰の曲でもないのか?」

「別にショパンでもベートーベンでもなんでもないわよ。ただ子供がやる手遊びみたいなもの……」

 時々、無意識のうちに手がなんでもない音を作っている事がある。でもそれは作曲なんていう大仰な作業なんかじゃない。ただ鍵盤を押して遊んでいるだけ。

「コンスタンス、お前、曲も作れるのか」

 だからヘイリーの意外そうな――楽しそうでさえある――様子が面倒くさかった。あたしは自分の荷物を手に音楽室を出た。

「おい、無視するなって」

 廊下を進むと、いくらか人気が出てきたのに追いかけてくる声は遠くならない。こんなところ、誰かに見られたら問題だ。わたしは早足になって下校を決意した。

 けれどこの時、恐ろしい事が起こった。

 まさかの、クイーン登場、だ。

 ゴージャスなブロンド、手抜きなどないメイク、磨き抜かれたボディ、身に付けるものはティーンにはもったいない高級品、自分に足りないものなど何ひとつないと知る自信たっぷりの表情。一種の様式美を備えた人物、リンジー・ファーガソンのお出ましだ。

「ヘイリー!」

 あなたに会えてすっごくうれしい、っていう感情を隠しもしない媚びた甘い声。ちなみに毎日会ってるのに毎日これだ。

 あたしは当然彼女をものすごい勢いで通り過ぎた。リンジーは狙っている男しか目に入っていない。けれどちょっと顔を動かせばリンジーはあたしの姿を見つける事も出来る。嫌な予感しかしない。

 やばい、ダッシュで逃げても間に合わないかもしれない。

「ねえ今度の週末、トッドのうち、両親がいないらしいのよ。それでパーティを開くっていうからヘイリーも……ちょっと、ヘイリー!」

 あたしは全力で逃げているから状況が分からないんだけど、あのリンジーの甲高い声からするとヘイリーが彼女を無視している……らしい。ちょっとちょっと、人当たりのいいキングはどこに行ったの?

「なによう、何をそんなに急いでるの? あたしの話よりも大事なことっ?!」

 怒っていますアピールをしつつもかわいらしさを失わない声。それでもリンジーの声は遠くなる。

「ごめんリンジー、また今度!」

 こっちはあたしに近いところから聞こえる。

 ああもう、最悪。


 もっと最悪な事は、校門を出てから起こった。ヘイリーが自分の車に乗り込んであたしの後をつけてきた。車の窓から顔を出して、あたしに「送ってく」と言い出した。

 絶対にいや、と思ったし言葉にしたが、彼の「ずっとこのままでいるとみんなの噂になるだろうな」という暴言によってあたしは慌てて彼の車に乗り込むしかなかった。その後のあたしは、車のウィンドウから自分の姿が見えないように座席の下へ体の半分をずりおろした。

 ヘイリーの車の中は、余所の家のにおいのようなものがした。香水だか煙草だかの残り香のようなものは、他人のインナースペースにいる居心地の悪さを思わせた。ヘイリーにピアノを弾いているところを見られてから、ずっと決まりの悪いような思いをしていて、あたしはどこか気が動転していたのかもしれない。今更になってから、敵地に乗り込んだ事を知った。

 ヘイリーの車の助手席で、あたしは一体、何をしているんだろう。

「……何やってんだ」

「うるさい」

 本来座るべきところにほとんど仰向けになっている姿を怪訝に思われているんだろうが、なんとなく癪に障った。結局、あたしは彼のペースに巻き込まれている真っ最中なんだから、ヘイリーのどんな言葉でもイラつく。

 そろそろ顔を上げてもよい頃かと、あたしは窓の外を窺った。学校からは離れた通りに来ていて、時々お店の前にいる数人の若者を通り過ぎて行く。

 改めて、ヘイリーの車になんか乗るんじゃなかったと思った。彼の年齢から考えて車の免許は取り立てだろう。熟練者よりは経験不足、なんとなく不安に思ってヘイリーを盗み見る。

 その横顔が、灰色の瞳が、想像以上に真剣だったから、びっくりした。車を運転している最中なんだから、真面目にしてくれないと困るんだけど。がっちりした肩から伸びる筋肉のついた腕が車のハンドルを掴んでいる。彼と親しくしていたのは幼い頃だけ。ひょろひょろで男とも女ともつかない腕や足をしていた時とは違う。まるで、ヘイリーが知らないひとのように思えた。

 もっと居心地が悪くなった。あたしは顔を元に戻す。さりげない調子を装って、窓の外に視線をうつす。あたしたちの家は郊外の住宅地にある。まだ少し、到着には時間がかかる。早く家に着いてほしい。

「車内では行儀よくしろ」

 口うるさい父親みたいな口調でヘイリーが言うから、あたしは苛立ちを思い出した。立ちあがっているよりマシだと思うけど、自分が変な格好をしているのは確かだったので、渋々という素振りで体を起こした。

「で、あたしに何か用事があったの?」

 何も用がないのにあたしを追いまわした挙句車に連れ込んだなんて、ぜったいに許さない。そういう思いを言葉にのせた。それが分かってか、ヘイリーは軽口を叩くような事はしなかった。

 自動車の運転は、必ずしもずっと前を向いている必要はないらしい。ヘイリーはちらっとあたしの方を見た。

「は、話がしたかった」

 フランス語の課題がどうのこうのと言った時よりも信じられない返事で、あたしは「はあ?」と唸り声にも似た声を上げるしかなかった。

 その時信号が赤になって、車が一時停車をした。そうなるとヘイリーは、顔を右側に動かせた。信号が気になるのか視線はあたしと信号の間でさまよっているけど。

「さっきの、作曲できるんだな」

 一瞬、目が合った時に言われた。またその話かと、あたしは白目を剥く。ため息さえつきたいくらいだ。

「だから、そんなんじゃないって……鍵盤を意味もなく押してただけ」

 信号が青に変わった。ヘイリーがまた正面を向いて車を動かす。

「なんでお前はそんなに自分を過小評価するんだ?」

 どこか怒ったような声だった。見なくてもヘイリーが不機嫌オーラをまき散らしているのが分かった。ほんとに、一度機嫌を損ねると不機嫌さをちっとも隠そうとはしない。でも、そんなのはあたしにだって言える事だ。彼が自分の罪を自覚していないのなら、思い出させてやりたい。あたしは少し彼を向いて、息を吸った。

「誰のせいだと思ってんの? 子供の時、あんたがあんなこと言うから……」

 途端に、ヘイリーはきゅっと眉を寄せた。まるで、崖から突き落とされたみたいな顔。

 なんでそんな顔するのか、ちっとも分からない。分かりたくもない。もう彼を見ないようにした。

「あたしはあれで、自分が変なヤツってようく分かったんだから。おかしな事をしないように日々気を張って生きてるワケ」

 だから自分の事を過大評価なんてしない。そういうつもりで付け加えたけど、ちょっと卑屈過ぎたかもしれない。確かにあれはきっかけの一つだったけど、元々自分に自信満々なタイプじゃないし、友達百人出来るタイプでもない。

 そう、あたしがぱっとしないのは誰のせいでもない、自分のせいだ。行動的にならないコンスタンス・フェアフィールドが悪い。そんなのは分かりきっている。これ以上ここにいると途方もない自己憐憫がはじまりそうな気がして、あたしは荷物を引き寄せた。

「……もう降ろして」

 ヘイリーが何か言おうとして口を開いた気配がする。でも運転があるからかまた前を向いたような気がする。それでだろうか、彼はあたしの指示に従って道路の端に車を停めた。

 一応ドアの外の様子を窺ってから、あたしはドアを開けようとした。

「コニー、おれ、あの時は――」

 言い訳も、謝罪も聞きたくない。そんなもの出てこないかもしれない。ヘイリーがこちらに近づいてきているのが分かったが、あたしは車から飛び出した。

 今は何故か、ヘイリーのどんな言葉も受け入れられそうになかった。

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