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学校の音楽会は、もう何十年も前ならクラシック音楽を演奏する者ばかりだったそうだ。でも時代が変わって、今ではロックミュージシャンもどきの集いになってしまったようだ。
あたしは自分の格好と演奏する曲が場違いだと気づいて、今すぐ帰りたくなった。緊張で心臓がずっとバクバクいってる。
この音楽会は、生徒に全員参加を強制するようなものではないはずなのに、なんだかんだそれなりの観客数が集まった。父兄も鑑賞可能なイベントなので父兄の数も少なくない。
一組目の演奏――当然ロックバンドだ――の最中、あたしは舞台袖から観客席を眺めた事を後悔した。この学校の生徒や保護者はよっぽど娯楽がなくて暇なのか、観客席を満席にする勢いでひしめいている。
あたしは、かなり前の座席に自分の両親を発見した。ママは騒がしい現代音楽に敬意を払えない顔をしているし、パパはあたしを探しているのかきょろきょろしている。それから、両親からは離れた場所に、ジェドと話すサンドラの姿も見つけた。
最近ではサンドラに相談出来ない事が増えたり、練習で忙しくてあまり彼女と話せていない。でもやっぱりサンドラは来てくれた。この音楽会が終わったら、音楽の色の事や、ヘイリーの事には触れないで、またいっぱい話がしたい。
一組目のバンドが終わって、あたしは眼鏡のブリッジを押し上げた。
ヘイリーが、観客席のどこにも居なかった。
拍手が巻き起こる中、あたしはもう一度会場を見回した。見知った顔は四つしかなくて、あたしは観客席を覗くのをやめた。
思えば、ヘイリーは音楽会を見に行くとは言ってなかった。
緊張による気分の高まりが、ゆっくりと冷えていく。
これでよかったのかもしれない。変なミスをして、下手な演奏を聴かれる心配もなくなる。どうせ練習したって元々あたしの弾くものなんて、たいしたものではない。色だってきれいなものにはならないはずだ。それにこの音楽会には、ママのために参加を決めたのだ。ヘイリーなんて関係ない。
二組目の演奏がはじまり――今度はカントリーミュージック――あたしは最後にまた会場を眺め回した。
もう眺める必要はなかった。
最後にほど近いあたしの出番がやって来た時、あたしは眼鏡を外した。近視のあたしがこの場で眼鏡をしない理由はふたつある。
まず、ママに今の格好に眼鏡は似合わないと言われたからだ。あたしは今、普段の司書みたいなお堅い服や流行りにのらない服ではなく、ちょっとした他所行きのワンピースを着ている。一応、身なりを整えたのだ。ママはもっとフォーマルな、それこそ大人の夜会にでも出れそうな服を用意したがったけどあたしは拒否した。
その代わりあたしは小綺麗でシンプルなワンピースを選んだ。胸の下に切り替えのラインがある、薄いピンクの半袖ワンピースだ。膝が少し出る丈のワンピースで、普段穿くスカートより短いからなんだか変な感じだ。靴は淡いクリーム色のローヒールパンプス。
長くてちりちりの髪は、ママにまとめてもらった。ママが卓越した技術を使って、あちこちに跳ね回るあたしの髪を編んだり頭に固定したりして、かなりすっきりした髪型になった。髪の毛が顔に落ちてこないので演奏の邪魔にならずに済む。
すっかり支度の出来たあたしを見て、ママは眼鏡を取り上げた。最初抵抗したあたしも、ママの次の言葉で説得された。
それがふたつ目の、観客席がよく見えない方が緊張がやわらぐのでは、という理由になった。確かに、大勢いると思うと余計に緊張が増す。でも近視にしてみれば眼鏡を外せば世界はぼやける。人の顔など認識できず、彼らがどこを向いているのか、そもそも一人なのか二人なのか三人なのかさえも分からなくなる。後ろの座席にいたっては人間が座っているのかも判断出来ないだろう。近くは見えるんだから、鍵盤が認識出来なくて困る事はない。ママの妙案にあたしは従う事にした。
それであたしは、ステージの上にグランドピアノが用意される作業もぼんやりとしか見えなくて、少し目を細めた。バンドの時も楽器の用意にいくらか手間取っていたが、ギターやなんかよりグランドピアノは重いし大きい。ピアノに遅れて、椅子が運ばれているらしい。
司会役のベッテンドルフ先生があたしの名前を紹介して、あたしは合図を受けてステージの真ん中へ歩き出した。
裸眼のあたしは、舞台袖に避けた校長先生の顔もよく見えなくて、歩きながら見た観客たちの事も個別に認識出来なかった。それなのに、心臓のうるささはやまない。見えない顔の中にヘイリーがいないだろう事だけが、心臓をぎゅっと萎縮させた。
ピアノの前にたどり着いたあたしは、お尻の下のワンピースを押さえながら、ゆっくりと椅子に腰かける。腰かけた時、何か違和感があった。
なんだろうと思いながらも両手を鍵盤前まで持ってくると、ぎょっとして肩が跳ねた。その拍子にぶつかった鍵盤がポーンと間抜けな音を出す。
手が黒く、汚れている。何かの塗料で指や手の甲の上のあたりがべっとりと黒い。ついさっきまではなかったものだ。
突然の事に、あたしは何も考えられなくなった。
これは何?
一体何が起きてるの?
手の平を上に向けると、そちらはきれいなままだった。訳が分からない。手の甲をこすると、黒い色がきれいな方の指にまでついてしまい、塗料が落ちるどころじゃなかった。
あたしは思わず原因を探すように、あるいは救いを求めるように、辺りを見回した。
でも、なんにも見えない。それどころか会場はささやき声で静けさを失いつつあった。ショーがなかなか始まらないのを訝しく思う声だ。
あたしはとにかく自分の役割を思い出す事にした。弾くのはラヴェル、ピアノで亡き王女のためのパヴァーヌを演奏する。
とにかく曲をはじめなきゃ、とあたしは黒くなった手の甲を見ながらも、鍵盤に両手を置いた。
最初は、ひどい演奏だった。まるでピアノをはじめたばかりの素人のように、たどたどしかった。焦りと緊張で、体が上手く動かなくて、半分自分が何を弾いているのか分からなくなる。
一度指を置く場を間違えたせいか、くすくす笑いが聞こえてきて、余計に焦燥がつのる。
指についた黒い色が、ただでさえ薄く見えるあたしの演奏する色の邪魔をする。
笑い声も、やまない。
体が上手く動かせない。
やめて、あたしを、かき乱さないで。
それでも何度も練習を繰り返した指は、ミスをしても弾く曲を間違えたりはしなかった。
オレンジの曲がほとんど黄金に輝く場所にさしかかった頃、あたしはなんとか自分を取り戻した。
そうだ、あたしが今弾いているのは、ラヴェルが作曲当時はあんまり気に入ってなかったらしい、亡き王女のためのパヴァーヌだ。ラヴェル本人の思いとは別に、一世紀近くたった今でも世間で人気の曲のうちのひとつだ。
パパやママや、あたしも大好きな曲だ。ママがこの曲を弾いている時に、初めてパパはママを見つけた。とても美しい旋律に、パパは自分でも思いもしなかったほどに感動した。そして、それを生み出したママに惹かれるようになった。
ママがこの曲を弾くと、とてもとてもきれいな色が見えた。まるで豊作の年の稲穂の波のように。まるで夜空に輝く満月のように。まるで穏やかな午後の日差しのように。心の奥底をつかむような、はっとするほどきれいな淡いオレンジに近い黄金の色をしていた。
みんなにそれが見えると思っていた。当たり前だったから幼い頃はあえて大勢の前で言ったり何度も口にしたりしなかった。でも、親友だった近所の男の子には、あたしのママは本当にすごいんだって教えたくて――言葉にした。
ママは娘の見えるものを拒絶した事を、ずっと気がかりに思っていたのだと、最近になって知った。怪我をした時にあたしのピアノを聞きたいと言い出したのもそのせいだ。あたしに、自分の気持ちを封じる事なくピアノを弾いてほしいと言いたかったのだろう。
あたしの傷はだいぶ癒えていたから、どうしたらもう気をつかわなくていいと伝わるのか考えた。
だからママのお願いにもこたえるし、成り行きとはいえ家でのこじんまりした演奏会じゃなく学校での大舞台にも挑む決意もした。
あたしはもう、家族や友人との違いに怯える小さな子供じゃないって、証明したくてここにいる。
だから、あたしはもう訳の分からない黒い塗料なんて気にしてられない。
自分の曲は色が薄いのも今はどうだっていい。
ママの事も、もちろんあるけどひとまずは関係ない。
もちろん観客席にいない誰かさんの事だって今は考える必要はない。ほんのちょっと、胸が痛むけど――
今のあたしには、この白と黒だけの鍵盤が生み出す無限の色の一部をとらえる事だけがすべて。
曲が終盤にさしかかり、あたしの意識はほとんどピアノだけに注がれていた。
最後の音を終え、鍵盤から指を浮かせたその時に、あたしには風が吹いたように思えた。
会場は、しんとしていた。
最初に聞こえたのはふたつの拍手の音。たぶん、あたしのパパとママだ。次からはサンドラやジェドあたりを含んだ何人かの拍手が混ざる。それから会場のたいていの人がお義理もあってか拍手に加わった。どうやらあたしの後半の演奏はなんとか聴くに堪えうるものになれたらしい。
あたしの亡き王女のためのパヴァーヌは、最後の辺りから、薄くはない、きれいな黄金の色に見えた気がした。身内以外からも拍手がもらえたのはそのせいもあるだろう。たとえあたし以外のほとんどの人には見えない色でも、少しは何か違ったたずだ。
あたしは達成感でいっぱいになって、うれしいくらいだった。少し息を整えてから立ち上がろうとした。
異変に気づいたのはその時だ。腰をあげる事が、出来ない。
まさかと思いあたしは椅子に手をついた。手の平に触れた感覚が、何かおかしかった。自分の手の甲と椅子の上は何かの塗料で塗りたくったかのように濃い黒をしていた。ワンピースのお尻の部分にも手を伸ばす。何かとくっついて、その布は硬くなっていた。演奏中体が上手く動かなかったのもこれのせいだ。
ベッテンドルフ校長が、退場を促すためにあたしに「素晴らしい演奏をありがとうございました」と告げる。次の出番を待つ生徒がいるのだ、あたしだって立ってこの場から離れたかった。でも、それが難しいのだ。
誰もこの状況を分かっていない。あたしと、ステージの椅子に塗り立ての塗料を仕掛けた犯人以外は。
ベッテンドルフ先生がしきりにあたしの名前を呼びありがとうを繰り返す。
またもや観客席がざわめきはじめる。
ああもう、こんな事って、ある?
うつむきながら、あたしはなんとかこの椅子から逃れようとした。
何度かはずみをつけて、勢いよく立ち上がる。
びりびりっと何かの裂ける音がした。気が遠くなるような、いやな音だった。
お尻のあたりが涼しいので、そちらを見なくても自分に何が起きたのかを正確に理解した。会場中の目があたしを見ているのも、眼鏡がなくても分かった。
顔から血の気が引いた。目の奥が痛い。
下着は無事みたいだけど、そんな事はなんの解決にもならない。
観客席から、ガタンと音がした。あたしはそれに背中を押されたようにステージ上を歩き出した。観客たちに体の正面を向けた不自然な格好で。
袖には次のバンドのメンバーたちが待機していて、近づくにつれ彼らの顔があたしのどこを向いているのかが分かって、あたしは歩く事が出来なくなった。
彼らは今、あたしの穴の開いたワンピースのお尻を見ている!
頭に一気に熱が戻ってきた。
あとちょっとで、涙が目の縁からあふれそうだった。
その時あたしの頭上に影が落ちて、突然腰回りに何かを巻き付けられた。
動けないあたしの体を、ヘイリーが持ち上げる。
あたしは間近で彼の息を吸う音を聞いた。
「次にこんな事したら、今度は本気で怒るからな」
講堂にはっきりとした声が響いた。まるで誰か特定の相手に向けた声。権力者のように高圧的で、自分の持つ力を疑わない口調。
観客のざわざわいう声が大きくなる。来た時と同じように、ヘイリーはさっとステージからおり、あたしを抱き上げたまま会場を横切った。
ヘイリーが押して講堂のドアが開くと、屋外のまばゆい光にあたしは包まれた。