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結局音楽会で演奏するのは、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌに決定した。パパとママが初めて出会った時の思い出の曲だからだ。
本当に、音楽会があってよかった。もちろん本番で失敗しないか不安だし、今更キャンセル出来ないかって思う事もある。当日逃げ出しても学校の誰にも――当然両親は除く――文句を言われる事はないはずだ。
けれども、しばらくの間目標がある事で、あたしは他の物思いから解放される。
ピアノ練習に没頭する事で、ヘイリーの上着をまだ借りたままになっている事や、病院でヘイリーが何かを言いかけた時の事なんかを考えずに済むのが、これほど楽だとは思いもしなかった。
ヘイリーは時々音楽室に顔を出すけど、練習初日のように長居はしなかった。あたしの方が練習に夢中で彼の存在に気づかない事もある。そしていつも、なんて事ない話をして去ってゆく。まるで、普通の友達みたいに。まるで、幼い頃のあたしたちみたいに。表面上の会話しかしなかった、パーティ直後のぎこちない知人同士のやり取りとは違った。
音楽会用の曲が決まった時も、相談した手前ヘイリーに報告をしておいた。まあ、あたしが練習してる曲を聞けばすぐに分かる事なんだけど。
ヘイリーは、音楽室以外では挨拶程度の声をかけてこないせいかリンジーが何か勘付く事もなかった。
幼い頃の、一番仲がよかった頃のあたしたちのようにはいかないけれど、なんの苛立ちも不満もなく話が出来る事が、不思議だった。ほんのちょっとだけ、落ち着かなかった。
だからあたしはすぐに練習に戻らなきゃって言ったりした。そうすると、ヘイリーはすぐには音楽室を出て行かないで、あたしの練習を見張ったりするから困った。見られていると、緊張する。
でも、よく考えたら全校生徒の前で発表するのだから人の目に慣れなくちゃならない。まあ、演奏に夢中になればすぐに周りの事なんて忘れるんだけど。
そんな風にして、いつの間にかヘイリーがいなくなっているっていうのがいつもの事だった。
この日は、珍しくヘイリーが帰り道にいた。いつもはあたしの方が帰る時間が早くて、あたしはスクールバスで帰宅していた。ヘイリーはバスケの特訓を遅くまでやっているはずだったから、早退でもしたのかと疑問になった。
「……明日は、練習試合があるから練習が早く終わったんだ」
あたしが何か言う前にヘイリーは言い訳のように口にした。
人気の少ない校舎出入り口で、あたしたちは連れ立って歩く。誰かに見られるのを恐れて、あたしはある程度の距離を保ったまま、偶然隣あって歩いているかのように装った。
「そっか、試合がんばってね」
ヘイリーが車の駐車場のある方向へと向かっていったから、あたしは別れの挨拶をしようとした。
「乗ってくか?」
初めてヘイリーの車に乗った時と違って、脅すような事を言ってこなかったのが決め手だった。
また、他人のスペースのかおりがする車内に入って、あたしは少しそわそわした。
今日はあんまり煙草くさくはない。そういえば、ヘイリーは煙草を吸っているのかな。
車内の沈黙がしばらく続いたので、ヘイリーは気まずく思ったのかラジオをつけた。何回かチャンネルを変え、流行りの曲が流れる局に固定した。あたしはあまり流行りの曲には詳しくないので、知らない曲だ。赤みがかったオレンジの曲だった。
外でも夕暮れがオレンジの空を作り出していて、薄暗くなっていた。
音楽があるとはいえ、互いに何も言わないのが不自然な気がしてあたしは話題を探した。ピアノ練習に関する事は、既に語りつくした気がするので、言う事はない。あとは学校の話とか、授業で出た課題の話ぐらい。
それから、家で何度も見返すのが嫌なのでタンスの中にしまってある、ヘイリーの茶色いジャケットの話なんかがある。
「この前の夏休み」
借り物の話をしかけたあたしと同時に、ヘイリーが口を開いた。それに気づいてヘイリーは「そっちが先に」と譲ったけど、あたしは辞退した。
それなのにヘイリーはちょっと言いづらそうに一度口をつぐんだ。ラジオの曲が、またあたしの知らない別の曲に変わったのもあって、あたしは後部座席からヘイリーの方を見た。
「……コニーは、この前の夏休みに、その……」
今年の夏休みの事を聞きたいらしいヘイリーは、バックミラー越しにちらりとあたしを見た。
「なに?」
「い、いやなんでもない。それよりそっちはさっき何を言いかけたんだ?」
ミラー越しに目が合うと、ヘイリーはさっと視線をそらした。なんだかはっきりしない態度だ。
「うん、その話なんだけど、ちょうどいいからうちに少し寄ってかない?」
あたしが言うなり、ヘイリーは軽く目を見張った。
中まで入るつもりがないらしいヘイリーを玄関前で待たせて、あたしは借り物のジャケットをタンスから取り出した。
この上着を借りた時の事が、もう大昔のように感じられる。あの時はすぐに気づかなかったけど、ヘイリーはあたしをプールから連れ出すために自分もプールに飛び込んだ。自分だってずぶ濡れだったはずなのに、乾いた服を貸してくれた。ちなみに上着は脱いでから飛び込んだんだろう。完全に乾いていたし。最初からあたしに貸す事を考えていたからかもしれない。
あの事件を思うと、あたしは何故か顔が熱くなる。恥ずかしさからだったらいいのだけど、そうではないみたいだから、困る。
きっと、この上着を返す事でそれはなくなるだろう。プール事件に関する事を思い出す回数は減る。
「早く返さなきゃ」
自分の部屋を出て階段をおりると、ママに見つかってしまったヘイリーを発見した。ヘイリーがママと何か話している。ママの怪我は順調に回復していて、車椅子で過ごす事はなくなった。だが新たに現れたのは杖だった。
「ああコニーが来た」
ヘイリーはまだママに対して後ろめたく思っているのか、あの場から逃げ出せるきっかけの到来によろこんでいるようだった。
「じゃあママ、あたしヘイリーを見送るから」
あたしもなんとなく、このメンバーでの会話を楽しめそうになかったので、さっさと逃げ出した。
玄関のドアを閉めて、いつかのように立ち止まる。
「ママに何か言われた?」
玄関の明かりの下でヘイリーの顔を見た。あたしは、ママがヘイリーを完全に許したのではない、と推測している。パーティの翌日やって来た時よりはましだろうけど。
「いや、挨拶してただけ」
空はすっかり夜の色になっていた。あたしたちはヘイリーの車が停めてあるところまで歩いた。
「そうだこれ、ありがとう。返すね」
あたしはヘイリーをうちに寄らせた理由を思い出した。上着をヘイリーの前に突き出すと、何故か彼はすぐに受け取らずにあたしを眺めた。
灰色の瞳が、あたしを見ている。
それだけであたしの心臓は騒がしくなる。
ヘイリーは表情の分かりにくい、どこか堅い、あるいは真剣そうな顔になっていた。このひとの眼差しから、あたしは目が離せなくなる――。
「コニー、おれ、おれは……」
彼が何か言いかけた時、突然クラクションが鳴った。あたしたちは顔を上げて、それを鳴らした車を探した。
「コニー、パパだよ。ただいま。何してるんだ、こんな時間に外で」
クラクションを鳴らした車から顔を出したのは、あたしのパパだった。
結局ヘイリーはうちのパパに話しかけられるのを恐れるかのように、あたしから上着を奪うと「じゃあこれで」と踵を返した。
あの時、ヘイリーは何を言いかけたんだろうか。夏休みの事を聞きたがっていたから、その続きだろうか。その日から数日の間、ピアノの練習が少しおろそかになってしまったのは、なんでだろうか。
それでも、とにかく音楽会が間近に迫っていた。ママは娘の晴れ舞台のために衣装にもこだわろうと言い出したし、パパはビデオカメラを用意しはじめた。あたしはそのどちらも必要ないと主張した。彼らはあたしを一体なんだと思っているんだろう。まだよちよち歩きを始めたばかりの子供が立つ初めての舞台じゃないんだからね。
あたしが演奏する予定の曲は、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ。黄金に近いオレンジ色をしている曲だ。
音楽についている色は、同じ曲でも常に一定ではない。曲調や演奏者が変われば色合いがいくらか変わってくる。あまりに下手な弾き手だと、色さえ見えない事もある。
それから、あたし自身の演奏だと、なんていうか、色が遠い。薄い気がするのだ。それは何日も同じ曲を特訓している今も変わらなくて、音楽会の前日になっても薄い色のままだった。
大勢の前でのピアノ発表も不安だが、今のままの状態で演奏しなきゃならないのも気がかりだった。かすんだ色のままママに曲を捧げるなんて。せめて誰かに話したかった。でも、当日まで演奏する曲も秘密にしている両親には話せない。他にあたしの音楽が聞こえる体質を知るのは――ヘイリーだけ。彼にも話せそうになかった。
だって、もう家にいるし、ヘイリーに電話なんて仲違いしてから一度もしてない。それなのにわざわざ電話なんて出来るはずもない。近所に住んでるからって、ヘイリーの家に行く事も考えられない。
結局あたしは早めに寝る事にして物思いを遠ざけた。でも落ち着かなくてなかなか寝つけなかった。
そしてついに、音楽会の日がやってきた。