10
授業の終わったあとの音楽室で、あたしはピアノの蓋の上につっぷしていた。窓の外から運動部の掛け声が聞こえる。
「……何してんだ?」
その声が突然聞こえる事に、あたしはもう驚かなくなっていた。
「ぐったりしてる」
ヘイリーに会うのは二日ぶりだ。ママの病院に一緒に行った金曜日以来。
あの後、パパが戻ってきて話はおしまいとなった。あたしが病院には残らないと告げると、パパが自分の荷物を取りに行きがてらあたしを家に送ると言ったから、あたしはヘイリーとたいした話もせずに別れた。
あの日は、あたしが家に一人になってしまうからパパが誰か他の大人を呼ぶと言い出したけど、サンドラが泊まりに来てくれたので余計な大人が来る事はなかった。もうベビーシッターが必要な年じゃないし一日や二日くらいあたし一人でも生活出来る。そう主張したのとサンドラが来たのもあって、パパはあたしたち二人を残して病院に戻った。
サンドラの訪れはとても心強かった。親友の彼女と夜通し話した。
それからママは今朝、我が家に戻ってきた。車椅子にのって。
問題はそのあとに起こった。今あたしがこうして音楽室でうなだれる事になった原因が。
「今日はリンジーはもう帰ったから気にしなくていいと思うな」
あたしが、ピアノの上にうなだれながらも音楽室のドアを気にしていたのを、ヘイリーは見逃さなかった。
その事も気がかりだったんだけど、今はもっと考える事が増えてしまった。
「どうした」
あたしの反応がイマイチなので、ヘイリーはピアノのそばまでやってきた。
「……今度の学校の音楽会に出ることになった」
顔を見なくても、ヘイリーが驚いているのは分かっていた。だって、ハイスクールでのあたしは人前に立って何かをするようなタイプじゃなかったから。ママのもとでピアノを習っていた時は、何回かピアノの発表会に出た事があったけど、あれはピアノ教室の生徒ならみんな経験してきた事。つまり強制行事だ。でも、今度あたしが参加しようとしている音楽会はやりたい生徒が自主的にエントリーするものだ。これまでのあたしだったらあり得ない行為だ。
「この間ママが、あたしのピアノをまた聞きたいって言ってたじゃない、あれを聞いてパパが……」
さも当然といったような顔で、“演奏会の日にちは調整させてくれ。あまり大勢は呼ばないから、さほど時間をかけずに決まると思うが”などと言い出した。あたしは最初、パパが何を言おうとしているのか、ちっとも分からなかった。
「招待客を、用意しようとしたのよ……。せいぜいパパとママと、まあサンドラくらいのお客の前で、あたしはちょっとした曲を披露するだけのつもりだったのに、パパは他所から人を呼ぼうとして」
「それは……」
ヘイリーも、まさかそうくるとは思わなかったのだろう、言いよどむ。
実は、一部の人の間でママの名前は未だに有名で、今でもママのピアノを聞きたがる人がいるらしい。表舞台から姿を消し、一時は死亡説まで出た高名なピアニストが生きていたと知って、よろこんだ者がいた。更にそれなりに顔の広いパパとのコネクションからママにたどり着いたファンがわずかながらいる。そんなファンにはパパから一家の情報がだだ漏れなので娘もピアノを弾けると知っている。そして娘が弾くなら母親も、とママのピアノ演奏を期待してしまうらしい。
とにかくママのファンがパパに会うたび演奏が聞きたいとほのめかすので、パパもついそれに近い場を作ろうとしたのだ。
「あたし、見知らぬ大人の前でピアノを弾くくらいなら、学校の音楽会でピアノを弾くわよ、ってつい言っちゃって……」
「なるほど」
「両親はそれもいいね、とか言い出しちゃって。いつまでたっても幼い娘のお遊戯会が楽しみな親から成長してないのよ」
あたしは体を起こして、ため息をついた。パパとママのよろこびようといったら、まるであたしが映画の主役にでも選ばれたかのようだった。あたしは言わなきゃよかったと後悔した。でも、パパの知り合いのママのファンたちの前で演奏をするのもいやだ。
「なんで、家族だけの演奏会にしてくれなかったんだろう」
それでも、今はいろんな事を棚上げして、音楽会の事だけを考えていればいいのも、悪くはなかった。
あたしは開けてもいないピアノの蓋を眺めた。
先週の金曜日、たくさんの事があった。ママが事故に遭って、軽傷とはいえしばらく車椅子生活になった。病室でママは、あたしには音楽に色が見える事をおかしくないって言い出した。それにヘイリーも同意した。この事はまだあたしの中でうまく消化しきれてなかった。サンドラには色が聞こえる事は話した事なかったし、彼女にその事は相談出来なかった。
でも、あたし以外にもそういう人がいるって言われたのは、いやな気分じゃなかった。救われたとは思わない。本人に会った事もないからまだ疑いは消えない。ただ、あたしはあの感覚をそんなに重荷に感じる事はないのかなって思った。
音楽に色がついている事は、きれいだと思っていたし、旋律の美しさと同じくらい必要不可欠だと思っていた。でも、同時に心のどこかで重荷だった。
だから少しだけ、心が軽くなった気がした。
「でも、やるしかないんだろ」
それから――それから。ヘイリーのこと。
ほんとは彼と、金曜日の事を話したかった。ヘイリーもあたしの感覚をおかしくないと言った。ママのように他にも似た例がないか探したみたいにも言って。
あれから、って、いつなんだろう。一体、ヘイリーはいつからあたしの感覚の事を、調べて――おかしな事ではないと結論づけたのだろう。
つい最近? 幼い頃自分で否定したそのすぐあと? それとも、ママの言葉にただ頷いただけ?
そもそもヘイリーは、病院に着くまであたしと一緒にいてくれた。動揺するあたしを励ますような事も言って、すごく優しかった。身内の事故にうろたえる人間がいたら、誰でも少しはいたわりの言葉をかけたくなるものかもしれないけど――あの時ヘイリーの言葉が素直に信じられたのは、なんでだろう?
疑問がたくさんあふれてくる。
でもほんとは、分かってる。ヘイリーのこと、知りたいなんて思っちゃだめ。
彼の顔もまともに見られそうにない。だって見つめたら、ヘイリーの瞳の中に何かを、探したくなってしまいそうだから――。
「どうせやるならカンペキに仕上げたいんだろ。だから特訓に来てんだろ。違うか?」
そろそろ返事をしないと、ヘイリーが自分一人でしゃべってるのに気づいてしまう。あたしは、またため息をつきそうになるのをこらえながら、彼のいる方角を向いた。
「まあ、そういうこと。でもやっぱり、のり気になれなくて……」
「じゃあおれが練習見張っててやるよ」
言いながらヘイリーは音楽室の椅子を引っ張ってきて、ピアノの脇に置いて腰かけた。
「って、あんたバスケは?」
放課後の運動部は普通、自分たちのクラブの練習をするはずじゃないのか。今日だってそうだ。
「毎週月曜と金曜はコーチが来るのが遅いんだ。だからちょっとぐらい遅れても平気だ」
道理で時々クラブそっちのけでヘイリーがふらふらしている訳だ。そんな不真面目な態度でもヘイリーはスタメンなのだというから才能のあるやつっていうのは小憎たらしい。
「いいよ、見張らなくても。一人でもちゃんとやる。あんまりサボってるとコーチにスタメンから外されるよ」
あたしはあきれたように言ったはずなのに、ちらりと見たヘイリーは笑顔だった。
ヘイリーに「曲は何にするんだ?」と聞かれて、あたしはつい相談をしてしまった。まだ決めかねていたのも、練習にやる気になれない理由のひとつだったから、早く決めたかった。
ママの好きな曲にしようとは思っていたものの、実際その数は多すぎた。だからあたしも好きな曲で、なおかつ難しすぎないものを選び、数を絞ったのだけど、なんとなくしっくりこなかった。
「自分の曲にしたらいいんじゃないのか?」
ヘイリーは、どうしてそうしないのか、と思っているのかふしぎそうに言った。
「は?」
「だから、お前が自分の作った曲を演奏するんなら悩む必要もなくなる」
最近の目まぐるしい日々の中で自分でも忘れそうになっていたことを、突きつけられた。そうだ、ヘイリーにはあたしが作曲もどきをするって知られていたんだった。
「あれはそんなんじゃないって……!」
あたしは思わずヘイリーを振り向いたけど、いたたまれなくてうつむいた。
本当はあんなもの、他人に聞かせられるような代物じゃない。曲として形になっているものもほとんどない。だからまだ色も定まってないし、それにきっと、完成したところで不恰好にしかならないだろう。なにしろ生み出したのがこのあたしなんだから、素敵なものになるとはとても思えない。
「選曲に悩むのは他人の借り物だからなんか違うって思うんだろ。おばさんに聞かせる曲なんだから、自分の気持ちをそのままこめた曲の方がいいんじゃないか」
随分簡単に言ってくれる。素人で、まともに曲を作り上げた事もないあたしだけど、手を出してみれば分かる。ものを作るっていうのは、簡単な事じゃない。そう単純にはいかないのだ。
「おれはピアノをほんのちょっとかじっただけだけど、誰に聞いてほしいか、っていうのも、必要だと思う」
その時あたしは、ヘイリーと目を合わせてしまった。
ヘイリーは、自分がピアノを弾いていた過去を思い出しているのか、懐かしむような、いつくしむような、優しげな眼差しをしていた。彼にも、自分の演奏を聞いてほしいと思う人がいたんだろうか。
彼と今話しているのはあたしだから、その誰かとあたしを重ねているんだろうけど――あたしにその眼差しが向けられているように感じて、胸の奥が騒がしくなった。やわらかな視線にからめとられ、体が、動かなくなりそう。
このまま、あの眼差しを受けていてはいけない。
あたしは拳をぎゅっと握って視線をそらした。
「……で、でも、音楽会までには間に合わないよ。まともな形の曲はないから、いちから作るのと変わらないし」
「……そうか。それは残念」
誰かのために。
これまで何の目的もなく、ただこういう曲があればいいのにという気持ちでなんとなく鍵盤を叩いていたが、誰かのために曲を作るっていうのも、悪くないのかもしれない。
いつか、曲を完成させられる日が来るだろうか。
それに、誰かを思ってピアノを弾く事も、出来るだろうか。
音楽室の外から、一際大きな音を立ててホイッスルが鳴った。アメフトか何かの練習中の音だろう。あたしは、それをきっかけに背筋を伸ばして、ちゃんとピアノに向き直った。
「とにかく、早く弾く曲を決めなきゃ」
ピアノの発表会なんて、もう五年くらい前にやったきりだ。大勢の前での演奏なんて、練習なくしてあり得ない。あまり時間を無駄にしていられない。
「おれも、そろそろ行くわ」
椅子から立ち上がって、ヘイリーは言った。案外あっさりクラブに戻るようなので、練習が嫌な訳じゃなかったらしい。
ガタガタいわせて椅子を片付けるヘイリーに、がんばってねとでも言うべきか迷ったが、「じゃあまたね」とだけ口にした。目は合わせないで彼の方向を見ていたら、ヘイリーはひとつ頷くだけで挨拶にした。
そのまま背を向けて去っていくかと思いきや、ヘイリーはドアの間近で立ち止まった。
「コニー」
穏やかな声でヘイリーにそう呼ばれるのは、久しぶりだった。あたしは彼の後頭部を眺める。
「おれは、お前とこうやって普通に話せて、うれしい」
一度こちらを振り返りかけたヘイリーだけど、横顔を見せただけだった。「じゃあな」と言い逃げするように足早に立ち去る。
あたしは相手の顔をまともに見てなかったけど、それでもここ最近では会話らしい会話を続けられた方だろう。確かに普通の会話だ。
でも、それを望んだヘイリーの気持ちが、よく分からない。また友達になろうと言った時には不満そうだったくせに、普通の会話が出来る友達みたいな距離感が、うれしいのだろうか?
やっぱり友達同士に戻れてよかったと思っている?
少し前まで避けようとさえしていたのに、あたしは今のヘイリーの言葉じゃ、何かが納得いかなかった。何かが、物足りないような――
余計な考えを振り払うため首を振ると、あたしはピアノの縁に頭を押しつけた。
違う。そんなんじゃない。深く考えてもだめだし、知りたがってもいけない。
今はとにかく、半月後に迫っている音楽会の事だけを考えるべきだ。
頭を、ごんと音を立ててピアノにぶつけると、自分を戒めた。これからは、音楽会で恥をかかないために出来る限りの事をしないと。もう一度姿勢を正して、あたしはピアノの鍵盤の蓋を開けた。