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この物語は『七つの音をあなたに』という短編の続編といえる次世代編です。
話はつながっていないので、前作を読まなくてもまったく問題はありませんが、そちらも合わせてご覧いただけたら幸いです。
ヘイリー・ニューマンが鬱陶しく感じるようになったのは、いつからだろう。
昔はとても仲良く遊んでいた。ヘイリーはママの開く小さなピアノ教室の生徒の一人だった。幼い頃に出会ったから、仲良くなったきっかけが何だったかはもう覚えていない。気が合ったのか、あたしとヘイリーはピアノ教室の時間が終わっても遊ぶようになった。あの頃はよかった。
一度嫌いになったのは、十歳になる少し前の頃だった。あたしはヘイリーを親友だと思っていたから、なんでも話した。例えばママに内緒でご飯前におやつを食べた事、パパの大事にしていたスノードームを壊してしまった事や、女の子の友達に仲良くしたいランキングをこっそりつけている事、なんかを。
それからドビュッシーの夢想は透き通る晴れた空のような水色で、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌは黄金色にほど近いオレンジ色、パッヘルベルのカノンは若木の萌えいずるような黄緑色、そう聞こえる――あるいはそう見える、そんな事まで話した。
音楽に色が聞こえる事は口にしてはいけなかったようで、あたしのパパとママはその事で何度か口論をした。パパはあたしに肯定的だったけど、ママは違った。「他の子と違う事が攻撃の対象になる」とか「あなたには経験がないから分からない」だとか言って、パパを責めてさえいた。パパは「子供の感性は大事にすべき」だとか、「君は大げさに受け取り過ぎる」だとか言っていた。
パパはあたしの言葉を信じてくれた。パパも、一つの曲にあるイメージを抱いたそうだ。パパの好きな、亡き王女のためのパヴァーヌ。パパがママに弾いてとせがむから、あたしはその曲を子守唄に育った。だからあたしもラヴェルのあの曲が大好き。パパと同じ感覚を共有出来たのだと思ったけど、ママはいい顔をしなかった。彼らの口げんかは続いた。その一因を作ったのも、ヘイリーといえる。
あたしの感覚をおかしいと一番に言い出したのは、ヘイリーだった。自分には分からない、音楽に色は見えない、どうして普通じゃない事を言うんだと突き放された。
ヘイリーなんか嫌い。子供じみた単純さだけど、拒絶されれば好きなままではいられない。あたしはヘイリーと話すのをやめた。両親のけんかも続くから、音楽に色が聞こえる事は口にしない事にした。そうするといつしか両親は音楽の色の事で喧嘩をする事はなくなった。あたしはそれを封印したのだ。
それでも世界の音楽には、色であふれている。色とりどりの、宝石みたいに。
あたしは一人だけでそれを楽しむ事にした。
ベートーヴェンの交響曲第七番の第二楽章は紅茶の色に似た琥珀色。
サティのジムノペディは淡いレモン色。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は結婚指輪のような黄金の色。
それでも――あたしはもう子供の頃のままじゃない。
色が聞こえても誰にも言わない。ヘイリーの事なんてどうだっていいし、趣味でピアノを弾いても将来ピアニストになりたい訳じゃない。今は勉学に励んでいい大学を目指す、学生の本分が大事。ヘイリーとの関わりもなくなって、元友人だった事も忘れかけていた。
それなのに何故か、ヘイリー・ニューマンはハイスクールに進んでから、あたしに構ってくるようになった。
彼はいわゆる“学園の人気者”。モデル並みに顔がよくて、人当たりもよくて、運動が出来て、背も高く腹筋も割れてる。これだけの条件がそろえば年頃の女子たちは彼の姿を見るたびにうっとりしてお近づきになりたがる。しかもヘイリーは別に頭が悪い訳ではない。どれだけ才能を独り占めすれば気が済むんだと言いたくなるような、とにかく派手な人。
昔のヘイリーはあたしのママのピアノ教室に通っていたけど、バスケをはじめてからは辞めてしまった。そもそもあたしと気まずくなってから教室に来ない日が増えていた。
そのままフェードアウトしてくれればよかったのに、最近になってから学校でもヘイリーはあたしに話しかけてくるようになった。相手は何しろ学園のキングみたいなもの。誰と話していたって噂になるような目立つ男、学園のクイーンのリンジーが“何あの壁の色と同化してるみたいな影の薄いオンナ、なんでヘイリーに話しかけられてるワケ?”って顔して睨んでくるに違いない。
あたしはヘイリーの最初の呼びかけを無視した。するとヘイリーはいたく機嫌を損ねたようで、しつこく話しかけてくるようになった。きっと今まで自分の話を聞かない人間なんて周りにいなかったのだろう。
お互いママの元でピアノのレッスンも受けていないし、学校が一緒なだけで共通の友人もいない。それなのになんで、ヘイリーはあたしに構ってくるの?
「聞・い・て・ん・の・か・よ」
ヘイリーのその、悪ガキじみた不満そうな目つき、子供の頃から変わってない。今は身長が百八十以上あって、精悍な顔つきだけなら大人に近いくせに、子供みたいな顔をする。昔からそうだった。気さくで人好きのするヘイリー少年は、楽しく遊んでいる時は無邪気に笑えるくせに、一度機嫌を損ねると不機嫌さをちっとも隠そうとはしない。
学校では話しかけないでほしい。親友のサンドラが一緒にいなくて、よかったのか悪かったのか。親しくもない人の目が多いロッカー前やカフェテリアでもない、中庭にいるのが不幸中の幸い。
当然あたしはヘイリーを無視した。
「待てって」
突然腕を掴まれて、わたしはびくりと身をふるわせた。反射的に振り返るしかなく、そこには勝ち誇ったようなヘイリー・ニューマンの顔。
「放してよ」
「嫌だね。お前は声だけじゃ立ち止まらない」
つい最近まではあたしに声をかけようとなんてしなかったのに、どういう心境の変化だろう。あたしは子供の頃に比べて大分引っ込み思案になったし、見た目も地味で、ださい眼鏡がおたくっぽいって言われた事だって一度や二度じゃない。目立つ事なんてしてないし、人の目を引く行動もとってない。
ため息をつきたくなった。でもそんな事このヘイリー・ニューマンの前でしようものなら、更に彼の機嫌を損ねてしまう。
「それで、何の用」
短く問うと、あたしのうんざりした様子が伝わって、ヘイリーは眉を寄せた。それでも彼はあたしの腕を放しもしないし、離れてもいかない。少し背筋を伸ばして、顎をあげると彼は取り直すように口を開く。
「今日出たフランス語の課題、一緒にやらないか」
どんな嫌がらせが出るかと警戒していたから、その申し出の平凡さにあっけにとられた。まさか、お勉強の話だなんて。ヘイリーは頭は悪くないはずなのに、外国の言葉は苦手なのかしら。なんて思うとでも? 何かをたくらんでるんじゃないかって疑ってしまう。
「お前、授業だけは真面目に受けてるし。役に立つかと思って」
役に立つ、って。あたしなんて勉強の肩代わりをさせる目的でしか見てないって訳ね。
「やだ」
あたしは、下を向いて相手を嫌っているとはっきり分かるような声を出した。
「なんでだよ」
拗ねたようなヘイリーの声。
「別にフランス語得意じゃないもの」
嘘だ。大得意というほどじゃないけど、それなりの成績を取った事がある。ただヘイリーと一緒に課題なんて、やりたくなかった。
さすがにあたしを当てにしていたのに、使えないと分かったのか、ヘイリーは何も言えないでいる。あたしが自分の腕を取り戻そうと身をよじると、意外にもするりとそれは抜きとれた。
「じゃあね」
用事がそれだけなら、逃げるに限る。まだ「まてよ」とか言っていたけど、あたしは小走りで、本格的な逃亡に出た。
幸運な事に追っ手はなかった。
フランス語の課題の一件以来、ヘイリーの不審な行動はおさまったかのように思えた。でもそれは見せかけのものだった。あの話をした後のフランス語の授業の時、ヘイリーはコメディ映画みたいなバレバレの盗み見をしてくる。まさかとは思うけど、あたしが本当にフランス語苦手かどうか、疑っているんじゃないでしょうね。
問題はその盗み見がフランス語以外の授業でも続いたっていう事にある。あたしは怖くて振り向く事が出来なかった。振り向いて万が一ヘイリーと目が合ったりなんかして、しかもそれをあのリンジーに目撃されたりなんかしたら、次の日にはあたしとヘイリーが密室でキスしてた事になってしまう。
閉鎖的空間における情報伝達の素早さはあまりにも高速、推測や創作による脚色は事実を壮大な映画のストーリーに変えてしまえる。あたしの場合、喜劇が悲劇に変わってしまうだろう。ヘイリーが透明人間のあたしを見つけてしまったっていう事だけでも、一度噂になってしまえば「二人はつきあっている」とか「ヘイリーが地味女につきまとわれている」というおかしな方向に話がねじれる可能性がある。それだけは絶対に避けなければならない。
これまで通りといえばそうなのだが、ヘイリーを見ないフリして過ごす日々を強化しなければいけなかった。
そう決意した矢先に――化学の授業で最悪な事が起こった。ペアで実験をしなければならなくなって、くじ引きでペアを決めた結果、あたしはヘイリーを組む事になってしまった。あたしは思わず、自分の誓いを忘れてヘイリーを振りむいてしまった。実験室の離れた場所に座るヘイリーは、あたしの驚愕と嫌悪感を剥きだしにした表情を見ても、小揺るぎもしなかった。むしろ、楽しそうに笑ってみせた。彼の幼い頃の、悪戯を思いついた時の顔と一緒だ。あたしの頬は引きつった。
身動きのとれないあたしに代わって、ヘイリーの方からやって来る。あたしの隣の椅子を引くと、こちらを向いた。あたしは反射的に顔を逸らす。
「よおコンスタンス。ガリ勉らしく、おれに優秀な成績を運んでくれよな」
お前一人で頑張って、ついでにおれの成績もAプラスにしてくれと言わんばかりの声。ぜったいに、彼は今自信に満ちた顔でにやにや笑っているに違いない。なんていまいましい男!
当然あたしは、よろしくなんて言わなかった。せめてもの救いは、リンジーはこの時間の授業をとっていないために非難の目を向けられる事がなかったという点だ。というか、それだけだった。
勉強は好きだ。がんばればがんばった分、結果が出る。分かりやすくてとてもいい。元々本を読むのも好きだし、遊びたい盛りの年のわりに、あたしは知識欲が旺盛な方だ。
だからといってあたしは天才じゃなく、努力家なだけ。苦手な科目だってある。実際、理数系や運動は少し苦手だった。特に、言われている事は分かるのに自らの手で実験するとなると上手くいかないような化学は、出来ればやりたくない。
「どうしたんだ、コンスタンス。今日は煙を出すような実験じゃないぞ」
嫌味ったらしいヘイリーの声。うるさい、分かってるわよ。
実験の成功例と失敗例があるなら、あたしは今、失敗例を実演して見せているところだ。
ヘイリーはガリ勉女に任せるつもりなのか、実験に関してはあまり手を出してこなかった。そのくせ文句ばっかり。
「どうでもいいけど、名前で呼ばないで」
「ああん? なんでだよ」
妙に機嫌の悪い声を出すヘイリー。昔のようにコニーと愛称で呼んでこないだけましか。
あたしの指は眼鏡のブリッジを押し上げようとして、違うものにぶつかった。今は眼鏡をかけていないんだった。薬品を扱う実験をする場合は安全のためにゴーグルをつける決まりになっている。眼鏡をかけているあたしはその上にゴーグルを装着出来なくて、眼鏡なしで実験に挑む事になったのだ。
そうだ、実験が上手くいかないのは、眼鏡がない状態なのがいけないんだ。裸眼で世界がぼやけていようとも、近視なんだから近くぐらい見えると思ったのがいけなかった。
ちらりとヘイリーを窺うように見ると、彼の顔もぼやけて見えた。目を凝らして見てもちっともヘイリーらしく思えない。その事があたしの口を軽くしたのか、普段言わないような事が口をつく。
「文句を言えるくらいなら、あなたは煙の出ない実験の成功例を知っていのね?」
もともと実技は苦手だった。だから、本を読む以外の勉強では降参するのも遅くはなかった。それを、あのヘイリーに言わなきゃならない、っていうのが癪だけど、このままの状態で授業が進まないのもいやだ。
返事のやけに遅いヘイリーがどんな顔をしているか、眼鏡のないあたしには分からない。
「なんでお前はいちいちそういう言い方をするんだ……」
ため息のようなものが聞こえた。言い返そうと思って口を開いたのに、ヘイリーは実験器具をがちゃがちゃといじり始めた。なんだかんだ言いつつも、あたしの言葉に従うみたいだ。ペアを組んでいるのだから、当然なのかもしれないけど。
「一からやり直す。こっちの分量は?」
たずねられて、あたしはすぐに反応出来なかった。もしかして、自分一人でやろうとしているのではない? あたしと協力して実験を成功させようとしている? そんな事がヘイリー・ニューマンに出来るとは思ってもおらず、あたしは対応が遅れた。
ヘイリーは持っていた試験管を振って返事を催促してくる。あたしは慌てて机の上のプリントを手にとった。眼鏡をかけていないので、かなり目の近くにプリントを持ってこなければならなかった。すぐに分量を教えると、お礼どころか鼻で笑ったような音が聞こえた。
「何?」
笑われた、と思ったからそれなりに苛立った声を出したはずなのに、ヘイリーは何も言わなかった。
相変わらず嫌な男だ。思いながらも、あたしたちのグループ作業は予想以上に上手くいった。ビーカーや試験管は吹きこぼれる事なく終わったし、化学の先生にもそれでいいと太鼓判をもらった。
「おいヘイリー、今日の放課後買い物行こうぜ」
近くでヘイリーのものではない男の声がした。もうすぐ授業が終わるというのに、最後の最後でヘイリーの友人に見つかってしまった。学園の人気者と一緒にいる、という事はたとえこれまで日陰に居た透明人間でも、人の目に見えるようになってしまうという事。
「どこにだ?」
幸いな事にヘイリーの友人はまだあたしの存在に気づいていないみたいだ。それでもあたしは、平穏に化学の授業を終えるためにコソコソと移動をはじめた。けれど目が見えづらいせいか、物との距離がはかれなくて、机の上のものを床に落としてしまう。
「あっ」
かしゃん、と音がしてやっと割れ物を落とした事に気づいた。目を細めてみても何が散らばったのかよく見えない。あたしはゴーグルを取って眼鏡をかける。
床にはガラスの破片が飛び散っていた。早く片付けなきゃと思い、あたしはガラスの破片に手をのばす。
「コニー」
少し強めの声に、久しぶりの呼び方に、声の主に、あたしは驚いて動きを止める。
「何やってんだ、馬鹿。どんくさいお前がいると被害がもっと広がる。どいてろ馬鹿」
あたしはわざとゆっくりとヘイリーを振りかえった。なんて失礼な事を言うのだ、信じられない、という意味をこめた顔をしたのに、ヘイリーはこっちを見ていなかった。
「眼鏡が、なかったから」
ヘイリーはもごもご言うあたしを無視して、掃除用具でガラスの片付けをはじめた。手伝おうと近寄るのに、ヘイリーの手で制された。まるで、役立たずだと言われた気がした。
他者と共同で作業が出来る姿を目にした事で、ほんのちょっと、彼を見なおしたのに。
その時、あたしはヘイリーの友人があたしを珍しいものを見るように眺めていたのを知らなかった。あたしは先生が騒ぎを聞きつけてどうしたのかと問いかけてきて、やっと我に返れた。