第三話 夜会
異邦者たち全員が聖水を飲み終わるまで、それほどの時間はかからなかった。
その結果、聖痕を得たのは純平だけだったが、魂に紋章を持っている者と持っていない者はほぼ同数だった。その紋章も様々な形や色があり、人によって特性なども違うらしく、これからの訓練によってその使い方を学ぶとエレンシアは言っていた。
そして――黒い刺青が左腕に入った者は、菊花や菫を入れて七人にも上った。
貴族たちの敵意は黒い刺青を持った者達にそそられるが、それによって異邦者たちの間にも不穏な空気が流れていた。
全員が聖水を飲むと、城の横に建てられた異邦人専用の建物に一人一つ用意された部屋を教えてもらった後に、エレンシアが会食まで案内してくれた。どうやら国王も含めた王族が異邦者たちと共に夕食を取ることによって、ミルドヘイムという世界に慣れることが目的らしい。
食事は豪華だった。
地球という場所で、発展した経済により日々様々な美食を味わっている異邦者達にとっても。出てきた白いパンはまだ幼い菫でも噛み切れるほど柔らかく、オードブルとして出されたサラダは彩り豊かでかかっていたドレッシングは舌を擽る。メインのステーキは何の肉かは分からないが、中までほどよく火が通っていて唇で噛み切れるほどの柔らかさと口の中で弾ける油の旨味があった。
だが、そんな食事であっても、晩餐会は無言の中粛々と行われた。会話など事務的なものだけだった。
もちろん普段は箸を使っているので、ナイフやフォークに使い慣れていないから箸が進まないという理由もあるだろうが、そんなのは些細な事だ。
問題は、居心地の悪さだった。
夕食を食べた場所は食事をとっている者こそ異邦者と王族だけだったが、貴族や騎士たちも当然部屋の壁に背を向けて囲むようにいる。彼らは異邦者たちを未だ値踏みするような目で見ているのだ。
また異邦者たちも慣れない環境と、口の中に押し込められるような情報量にまいってしまって、顔色がいいものなど一人もいない。
全員が食べ終わると、すぐに会食はお開きになった。
国王も「今日は色々あってメシアさまたちも疲れているだろう。今日はゆっくりと休んでくれ。お付きの者も送るから、好きなように用事を頼んでくれたまえ」という言葉だけを残して消えた。
菊花たちは全員が纏まって、用意された建物に戻って行った。
菊花は建物の中に入って、これから友達と集まろうとした時に一人の男に話しかけられた。
「ちょっといいかな?」
あの、バスの運転手だった。
既に服は着替えており、この世界の洋服を着ていた。きつめのシャツの上に蝶ネクタイと燕尾服のように長いジャケットを着て、ジャケットと同じ色のズボンはタイトに引き締まっている。色は白色。男子は菊花も含めて、ほぼ全員がこのような格好をしていた。
反対に女性は鮮やかな彩色がなされた綿製の非常に軽いドレスを着ていた。コルセットは付けていなく、それはドレスというよりもワンピースに近いだろうか。一つ一つ手作業で編み込まれた色とりどりの模様と、白のものによってアップに仕立てあげた髪が彼女たちを美しく仕上げていた。
「何でしょうか?」
菊花は一緒に帰っていた秀達に菫を預けて、その運転手と屋敷の入口で相対する。
既にその玄関には様々な女中や執事が忙しく駆け回っていた。だが、菊花とバスの運転手しゃべりだすと、何人かが注目しだす。
「いや、私も君たちと話がしたいと思ってね」
「話、とは?」
菊花は彼のことを警戒していた。
いくら同じ異邦者と言っても、少しも接点のない他人だ。それは同じ学校である生徒会メンバーやその他の学生にも言えること。例えこのミルドヘイムにいるものと比べて信用ができるとしても、それは誤差の範囲しか変わらない。菫や秀などの友人などと比べるどころか、疎遠だった瑠奈と比べても今日や明日で信頼できるかどうかは微妙である。
「うーん。ちょっと、情報交換、いや、意見交換をしたいと思ってね」
「何故、俺と?」
既に異邦者達の中でもグループはできているとはいえ、生徒会を中心にしたグループなどと比べると人数も少なく、ほぼ最弱に等しいグループに所属している自分と意見交換をしたところで、メリットはそれほど感じられなかった。
むしろ、大人という利点を利用して、自分たちを支配しようと邪知しているのではないか、ということも思いついた。
「君も、これを持っているだろ?」
彼は自分の左腕を指差した。
「はい」
「これがどういう意味を持つのか私は知らない。でもね、君たちは最低でも、これを持っているものが二人いる。それだけで私にとっては意見を交わせるだけで嬉しい。これを持っている者には、これを持っているものしか感じない意見があると思うんだ」
菊花は真摯に語るバスの運転手の瞳を見つめた。
嘘を言っている感じはしない。
だからと言って、無条件で彼を信じる理由にもならない。
だが――大人の視点というのは、菊花たちには無い。話をしておくのもいいと思えた。
「分かりました。俺の部屋に集まっていると思いますので、そこでもいいですか?」
「ああ。構わない。私の名前は両崎茂だ。これから仲良くしよう」
バスの運転手――両崎は菊花に右手を差し出した。
「はい。よろしくお願いします」
菊花は頷くように握手をした。
それから二人は共に入り口から消えていった。
その様子を、執事や女中の何人かは、聞き漏らさないよう聞いていたのだった。
◆◆◆
菊花が自分の部屋に戻ると、三人がいた。
菫と、宗敦と、秀だ。
その中でも菫は菊花のベッドで猫のように静かに眠っており、他の二人はどこからか持っていた木製の椅子に座っていた。異邦者たちに与えられた部屋はワンルームで、ベッドと小さな机、それに一つの椅子しか用意されていない。トイレや風呂はこの屋敷にはあるのだが、共同になっているのだ。
「お、やっと帰ってきたか。おかえ……り?」
部屋に入るとすぐに、宗敦が声をかけてきたが、菊花が連れてきた両崎を見て目を点にしていた。
「そちらは?」
秀がメガネの奥で目を鋭くさせて、両崎を見極めようとする。
「両崎茂さんだ。なんでも俺達と話がしたいんだとよ」
「はじめまして。両崎茂です。私はちょっと君たちと意見交換がしたくてね、菊花くんに頼んだんだ」
両崎が片手を差し出して、
「鬼瓦宗敦です」
「よろしく」
まずは宗敦と固い握手をしてから
「佐竹秀です」
「こちらこそよろしく」
秀とも固い握手をした。
「話す場所を変えるか?」
菊花はベッドに腰掛けて、上から覗き見てから菫の頭を優しく撫でて他の三人に提案した。誰もが反対していないところを見ると、そうしようかと思った時、菫が菊花の服の端を握った。
「……やだ」
「何だよ。起きていたのかよ」
菊花は菫の頭を撫でると、彼女は猫のように目を細める。その姿を見ていた両崎は特に目が優しくなった。その様子に菫以外の三人が注目していたので、両崎はゆっくりと話しだした。
「いや、私はこれでも妻子がいてね。息子でまだ三歳ととても小さいのだが……その子を見ていると、自分の子供を思い出してね」
「そうですか」
菊花は親近感を覚えながら頷いた。
そして一瞬だけだが、部屋の中の会話は無くなって気まずくなった。秀はそれに敏感に反応して立ち上がり「僕の部屋から椅子を持ってくるので、両崎さんはこちらへどうぞ」と両崎に座っていた椅子を譲って、二個開けた場所にある秀の部屋から椅子を一つ持ってきて座った。ちなみに菊花は菫が服を離さないのでベッドに腰かけている。
「両崎さん、今日、あなたはどうして僕達のところへ?」
最初に会話を切り出したのは秀だった。
もちろん、それは部屋に鍵をかけてから行った。
「私が話をしたかったからだよ」
「そうなんですか」
秀が頷くと、両崎は慌てて否定した。
「ただ君や鬼瓦くんと喋りたいんじゃなくて、等々力くんと喋りたかったから話しかけたんだ。ほら、等々力くんは“これ”を持っている。君たちも感じたはずだよ。あの刺青を見た時の周りの反応……あれは、聖痕を手にした彼とは、明らかに違う。どうやら私達は――歓迎されていないみたいだ」
両崎の話に三人は頷いていた。
もちろんそれは小声で行われている。
「だから、俺と?」
菊花の質問に両崎も頷いた。
「ああ。そうだ。どうやらあのバスは登下校の途中にあるから、呼び出された者も学生たちが多いだろう? 私の見た様子によると、既にグループは幾つかできているようだ。そこの間に入るのは簡単じゃないが……どうせ零から対人関係を作るなら、刺青を持った者が二人いるここがいいと思ったんだ」
両崎の話に三人は納得した。
反論など無かった。
左腕に入った一本の刺青。それがどんな意味を持つのか、まだ菊花も分かっていないが、“罪人”と呼ばれるほどの代物がいいものじゃないというのは分かる。
「それで、君たち三人はこの刺青についてどう思う? 私としてあの貴族らしい“罪人”と吐き捨てられるものだ。きっと碌なものじゃない」
両崎の意見に、最初に口を開いたのは秀だった。
「僕は……そうですね。それは……聖痕のようなものだと思います」
「聖痕のようなもの?」
菊花は反芻するように言う。
「そうだよ。要するに聖人が神から与えられたものが聖痕なら、“誰か”から罪人に与えられたものは聖痕と似たようなものかも知れない」
「逆の存在ってわけか」
秀の言葉に、宗敦が納得した。
「うん。それ以外は全く不明だけど、ね」
秀の言葉に三人は気分が楽になった。
その時に――菊花の部屋の鍵ががちゃがちゃと鳴った。
何度も鳴る。
扉もどんどんと叩かれた。
菊花には、まるでそれは死神がノックしているように聞こえた。
開けたら最後、魂が地獄まで持って行かれてしまうのではないかと思うほど。
四人が張り詰めた空気になる。わざわざ食事の終わった夜間にここまで訪ねてくる人は珍しいと思ったのだ。
ここは“罪人”が三人も集まった部屋だ。
もし国が“罪人”を始末するつもりなら、こんなに都合のいい時はない。
四人を代表して宗敦が扉までゆっくりと近づいて耳を傾けようとした時、扉の外から声が聞こえた。
「等々力さん、開けなさいよ。ここに菫ちゃんがいるんでしょ?」
瑠奈、だった。
彼女が部屋の前にいたのである。
死神が親しい人物だったため、両崎以外の三人はほっと胸を撫で下ろした。両崎もそんな三人の様子に感化されてか、安心したように一息をつく。
「他に誰もいないよな?」
念のため、宗敦が確認するように聞いた。
「ええ。私だけよ」
宗敦が他の皆に確認して、全員が頷いたのを見てから扉を開けた。
瑠奈の言ったとおり、そこにいたのは彼女だけで彼女は部屋に入ると「男臭い部屋ね」と吐き捨ててから菫の元に近づいた。もちろn、その間に菊花は横にずれている。そして起きてはいるが眠たげな目をしている菫へと顔を近づけて、微笑みながら何度も優しく撫でてから先ほどまでの菊花と同じく、ベッドに座りながら話をし始めた。
瑠奈の話では、先程まで別の集団にいたようだ。それは女友達から誘われた体育会系の部活で集まったグループらしい。生徒会メンバーとはまた違うようだ。リーダーが空手部の主将らしく、そこでも今後について話していたようだ。
そこで得られた情報によると、既に貴族の一人が空手部の主将と接触を図ったこと。向こうの目的までは分からなかったそうだが、簡単な挨拶とこの国の情勢について話したらしい。
「まあ、色々と水面下で動いているのは間違いないわよ。それにどうやら生徒会には修道服を着た人が入って行った、ということを言っていた人もいたわ。どうやらこの国も一枚岩じゃないようね」
瑠奈は簡単に向こうに仕入れた情報に語ってくれた。
こちらで離されたことといえば“刺青”のこと程度であったが、そのことについても真剣に耳を傾けている。おそらく菫に関係するからだろう。
「そっちでこれを持っている人はいましたか?」
宗敦の言葉に瑠奈は頷く。
「ええ。弓道部の子が一人、それを持っているわ。その事については……こっちでは禁則事項に近い扱いだったわね。今日の反応から見ても、それがいい方向に動くことはないでしょうから、その配慮、と言った感じかしら。ちなみに生徒会に刺青はいないらしいわね」
刺青について、どうやらこちらとは扱いが違うらしい。
向こうは触らぬものに祟りなしの方針なのだろう、と菊花は思った。
だが、それを否定することはない。
刺青を持っている本人ならいざ知らず、他の者にとっては事件の火種にしかなりえないように思えるのだ。こちらの仲良しグループが中心ではなく、向こうは運動部の集まりだ。彼女だけ外すのも、それはそれで嫌なわだかまりが残ると考えたのだろう。
「まあ、こっちは刺青が話の中心だしな」
菊花の言葉に誰もが頷いた。
そしてこの日は多少の意見だけ交わして、少しも話が分からないまま終わった。何よりも情報が少なすぎるからだろう。
このグループが解散する時、菫はずっとベッドに入ったままだった。どうやら菫は最初からこの部屋を出て自分の部屋で一人で眠る気などさらさらないようだ。彼女にも、色々な不安があるのだろうと菊花は踏んだ。
ただ菫をかわいがっている瑠奈だけはそれに反対した。一人で眠るのが嫌なら自分と一緒に寝ればいい、と言ったのである。だが、この部屋から動く気のない菫なので、瑠奈は悔しげに部屋から出て行った。菫と一緒に寝たくても、菊花と眠る気はないらしい。また、自分の部屋のベッドに菊花を眠らせるのも嫌なようだ。
菊花は明かりを消してから菫が寝ている布団に入って、一人、真っ暗な天井を見た。
新たなる世界には、絶望しか見えてこない。
だが、菊花は幾人かの同士が集まったことに、少しだけ心に安らぎを得ていた。流石にこの状況で一人なのは不安だった。
まだ、いい、とは思えた。
菊花は今後のことを考えながら静かに眠りについた。
そして次の日になると――両崎茂の姿はどこにも見えなかった。