第二話 紋章
様々な思いを抱えながらも、覇王を倒すことになった異邦者達はエレンシアの案内の元、石畳で整理された道を抜けて、教会から少し離れた場所にある聖なる泉に着ていた。
その間、新しい空気になれない菫はぐずっており、ずっと菊花に抱っこされたままだった。涙目になりながらその顔を菊花の胸元に押し付けて、背中に回した手は固く服を掴んでいた。瑠奈も菫に向かって「お姉ちゃんが抱っこしようか?」と提案したのだが、どうやら菫の母と同じ匂いのする菊花のほうが安心できるらしく、彼は菫を抱いたままその泉まで移動する。
国王は城に帰ったのだが、剣士や神官らは未だ残っていて、異邦者たちを囲むように観察していた。その胸中には疑心めいたものがあるのかもしれない。またこの剣士たちは王国を守護する騎士らしく、それなりの生まれだと異邦者達は聞いた。
泉は木々に囲まれた場所にあり、済んだ色をしていた。石で整理された泉は、底が見えるほど透明だった。それは僅か数メートルの幅しか無いのだが、下から絶えず湧き上がっていた。
「エレンシアさん」
純平が泉につくと発した。
他の異邦者達は泉のすぐ側で鎮座している。どうやらここまでの数十分の移動で疲れたらしい。
ちなみに異邦者たちがここまでやってきたバスだが、中にガソリンはなく、他の騎士たちが別の場所に保管するために移すらしい。それによって異邦者達は、自分の荷物を身に付けていた。この世界では鉛筆なども存在しないので価値のあるものらしく、あのままバスに保管していれば盗まれるとエレンシアから告げられたからだ。
「はい。何でしょうか?」
「ここで何をするんですか?」
純平は泉に来た理由が分からない。
「この水を飲んでもらうのです」
エレンシアは笑顔で告げた。
「これを……ですか?」
純平は頬が釣り上がったように動いた。
それもそのはず。何故なら異邦者達は現実世界ではペットボトルに入った水や、水道から流れてくる水しか飲まない。いくら綺麗とは言っても泉から湧き出る水を飲むことなど殆ど無いのだ。
「はい。この水を飲むことで、あなた方の魂に眠る紋章が目覚めます。おそらくこの中にいる聖人様は、その身に眠る聖痕も目覚めることでしょう」
「その魂に眠る紋章って、皆が持っているのですか?」
純平の質問にエレンシアは首を横に振った。
「いいえ。持っていない人もいます」
「その人はどうするんですか?」
「問題ありませんよ。あくまで聖痕を目覚めさせるだけで、持っていない人は汎用型の紋章を用いて、“紋章術”を行えばいいのです」
エレンシアは簡単に言った。
だが、その説明足らずのエレンシアの話では、異邦者の全員が中身を理解できない。
「あの、オレ達のいた世界では紋章や聖痕なんて存在しません。だからその説明を一からしてくれますか?」
純平の発言に、エレンシアや貴族、騎士たちは驚いたような顔をした。
どうやらこの世界では“紋章術”は、異邦者たちのいる世界では電気や科学並みに常識のことらしい。
エレンシアは最初、“紋章術”のことを知らない純平達に絶句して、言葉も出せなかったが、やがて咳をして場を仕切りなおして、異邦者達に“紋章術”について説明しだした。
それを見ていた菊花は、生徒会長に任せると楽に話が進むな、と感じながら菫の背中を優しく何度も何度もさすりながら慰めていた。
「紋章術とは、この世界では当たり前の技術であって――」
紋章術とは、その名の通り、紋章を使って火を生み出したり、風を起こしたり、または大地を揺れ動かしたりするなどの奇跡を起こすことを総称して紋章術というらしい。
その紋章術は属性や強さに大小様々な差異があれど、基本は変わらないらしい。
それが――紋章に“力”を流すこと。その力が人に備わっているエーテルと呼ばれるものらしい。
つまり、例えるならば人が持っているエーテルはガソリンなどの燃料であり、紋章はそのガソリンを使うエンジンのようなものらしい。そして魔法のような奇跡を生み出すことを車が進む、と菊花は簡単に理解した。
そんな紋章にも、どうやら二種類あるようだ。
剣や地面などにこれまで使われてきた紋章を何かに描いて術を使う方法と、もう一つは神などから与えられた紋章――例えば“聖痕”を利用して術を使う方法。
どうやらこの泉を飲むことで、後者の素質が分かるらしい。
というのも、太古にこの泉は神が血を流したことによって湧き上がったから、ここから出た水は全て聖水という特殊な水になるらしい。聖水は人の持つ潜在的な魂に刻まれた紋章を覚醒させて、その身に聖痕などを受けるものは身体に浮かび上がるようだ。
「それで、オレたちには――」
「はい。聖痕を持っているものを探しだして欲しいのです。また魂に刻まれた紋章を持つ人は聖痕以外にもいます。それらは技術者が描いた紋章よりも強力なので、使い方しだいではとても優秀な武器になると思うのです。もちろん――」
エレンシアは泉の水を両手で掬って、一気に飲み干した。
「――このように泉の水に害はありません」
また続くエレンシアの話では、この儀式はこの国に住む者なら生まれた時に受けるものらしい。お腹が大きくなってきた妊婦を持つ家族は、どれだけ遠い道のりであってもこの泉までわざわざ聖水を汲むためだけに来るらしい。そして生まれた赤ちゃんの体を聖水で洗って、少しだけ飲ませると、魂に眠る紋章が覚醒するようだ。もちろんそういった者は、普通のものより大成するらしい。
「まだ分からないことはありますか?」
エレンシアの説明に異邦者達は誰も意義を申し立てなかった。
もちろん菊花も含めて、話の内容にわからないことは多々あるのだが、この場で聞いてもあまり解決はしないと悟ったようだ。それにもう日も暮れてきている。もう少しすれば夜になるだろう。夜になっても、エレンシアから説明を聞くことだけは避けたかった異邦者達は、誰も質問をせず、また最初に泉の水を飲む者もいなかった。
皆が視線で牽制しあっていた。
例えエレンシアがデモンストレーションで水を飲んだとしても、魂の紋章が目覚める、などといった摩訶不思議な水を躊躇なく飲める勇者などこの場にはいない。
それが数十秒ほど経った頃、異邦者達に勇者が現れた。
「最初にオレが飲むよ――」
そう言って、覚悟を決めて泉に近づいたのは、大和純平ではなかった。当然ながら菊花でもない。
菊花の同級生の男だった。隣のクラスである。身長は平均よりやや低く、黒縁メガネをかけていてストレートの髪が目元まで長いのが特徴の男だ。菊花は彼と喋ったことがないので名前も知らないが、その存在だけは記憶している。彼の声の尻が上がっているのは、この世界に興奮しているからだろうか。少しだけ頬を吊り上げながら泉の水を両手で掬って、口まで運んだ。
うっ、とその男は水を飲んだ瞬間に唸った。
「どうかされましたか!」
心配するようなエレンシアの声。
「いえ……右手の甲が熱いのです……」
その男は右手の甲を左手で押さえていた。
エレンシアは優しくその男にかけよって、その右手の甲を見ると、何やら青色に輝く幾何学模様が描かれていた。
周りにいた貴族や騎士たちも、その姿には「おお」と感嘆の声を出す。
「これは――珍しい紋章です! 聖痕でこそありませんが、あなたなら立派な紋章師になれるでしょう!」
エレンシアは興奮が冷めないまま言った。
青い紋章が発現した男はほっとすると、その輝きは消えて、右手の甲に青い紋章が残った。どうやらもう身体に以上はないようで、もうぴんぴんとしていて、その右手に描かれた青い紋章を左手でなぞっていた。珍しいと言われる魂に刻まれた紋章に興奮しているのだろうか。
それをきっかけにして、一人、また一人と、異邦者達は水を飲んでいく。
ある者は何も置きなくて悔しそうにしていて、またある者は先程の男にように手の甲や額に紋章が現れる者がいた。
そして――大和純平の時に“それ”は起こった。
生徒会メンバーの中で最初に聖水を飲んだのは純平だが、彼が水を体内に入れた瞬間に両目を両手で押さえ出したのだ。その両手からは圧倒的な金色の光が溢れる。両手でも押さえきれないほどの。
「これは、もしかして――」
エレンシアが興奮したまま純平に近づいた。
優しく純平の手を取って、その顔を覗きこむと、彼の両目はこれまで黒色だったのに、虹彩が金色に変わっている。瞳孔は少し鮮やかな金色に変わって、その中心には二重丸が描かれていた。
「――聖痕!」
エレンシアがその言葉を言った瞬間に、周りがざわめき始めた。
特に貴族や騎士は憧れるような目で純平を見ていた。
そして純平の両目の熱が引いて、回復すると、彼の前にエレンシアが跪いた。
「お待ちしておりました。我らが救世主様――」
「め、メシアって……何かの間違いじゃないの?」
純平は謙遜するような態度を見せる。
「いいえ。間違っておりません。過去に現れた聖人とあなたは同じ瞳を持っています。その金色に輝く瞳こそ、神が選んだ救世主が持つ聖痕に間違いないのです!」
エレンシアは純平の両手を握ってその瞳を覗きこんだ。
絶世の美女であるエレンシアと顔が至近距離まで近くなり、また恋する乙女のように頬を赤らめている彼女を見て、純平はほんのりと照れたように顔を背けた。
そんな純平に生徒会メンバーは称賛の声を送った。「さすがね」や「お前なら聖痕に選ばれると分かっていたぜ!」など様々な声が送られる。
純平への賛辞の声が止まない中で、また一人の男が泉に近づいてその水を飲んだ。
バスの運転手だった。紺色のスーツに底の浅い帽子が特徴的な四十代ほどの痩せ気味の男性だった。
バスの運転手が水を飲むと、彼も魂に紋章が刻まれていたのか、呻きながら地面へと倒れる。だが他の異邦者たちと違ったのは、どこかが輝き出すこともなく、「熱い……熱い……」と叫ぶだけだったのだ。
そして――地面へと聖水を吐いた。胃に何も入っていなかったのか、吐いたのは聖水だけだった。
彼はすぐさま上のジャケットを脱いで、ワイシャツを捲るようにして、異常があった左肩を覗きこんだ。
するとそこには――左の上腕部を巻くように黒い刺青が入っていた。
それを見て、貴族や騎士たちの反応が変わった。
これまで異邦者たちを、特に純平を讃えているようだったのに、バスの運転手を汚れたもののように見たのだ。
「――罪人め。どうして聖人様と一緒に……」
そして忌々しく吐き捨てるように言った。
「ルシャル!」
そう言った者を取り締まるようにエレンシアが叫んだ。
すると、ルシャルと呼ばれた者は「非礼を申し訳ありません」と忌々しそうに呟いた。頭を下げて謝るのが嫌だったらしい。
エレンシアも表面上はルシャルに謝るよう言ったが、その目はバスの運転手を汚らわしいものを見るような目だった。
誰もバスの運転手を見ることはなくなり、エレンシアは場を取り繕うように言った。
「えっと、皆さん! 水は一舐めだけでも構いません。少しだけでも効果はありますから」
菊花はこれまで太陽が眩しかったので左手を帽子代わりに泉の様子を見ていたのだが、急に薄暗くなるのを感じた。視線を空へと上げてみると、太陽が雲に隠れていたのである。それだけではなく、空は厚い雲に覆われていて、一雨が来そうな雰囲気だった。
その次も次々と異邦者達は聖水を飲んだ。もちろん貞宗や秀、瑠奈でさえも。この三人の中で魂の紋章に目覚めたのは、貞宗と瑠奈だけだった。どうやら秀は身体に何の変化も無かったようだ。
そして、菊花の番がやって来た。
菊花は菫を抱いたまま泉へと近づいて、彼女を下ろした。
先に自分が飲むことにして、人差し指に水をつけて、聖水をひと舐めした。
すると――大きな嫌悪感が体を襲った。まるで体の内部を電気で焼かれるような意痛みが奔る。菫の手前、みっともない格好は出来ないので、その痛みを何とか耐えながら、近くの地面に口にたまった水を吐き出した。すると体が楽になる。異物が失われたからだ。
菊花は次に制服をめくって、燃えるように熱い左腕を覗きこんだ。
そこには――黒い刺青が描かれていた。
誰かが言った。
――二人目の罪人、と。
「痛い! 痛い! 菊花!」
そんな声を掻き消すようにして、菫が泣き叫んだ。どうやら彼女も菊花の真似をして水を舐めたらしい。
菊花は自分のことなどお構いもせず、すぐに菫を抱きかかえてあやした。
菫は大声を上げて苦しみながら、口から水を溢れだした。
「菊花……左手が熱い……」
菫は泣きながら言った。
菊花が菫の袖をめくって見ると、そこには菊花とバスの運転手と同じ刺青が入っていた。
その様子を見て、貴族の誰かが言った。
――三人目、と。