第十八話 逃走
菊花は目の前で温和に微笑むプリシラにどうして警戒心を抱くのかが分からない。
確かに彼女は美人だ。
自分がこれまでに出会ったどんな人より、学校にいたマドンナや学校一の美少女と言われた人よりも、テレビ越しで見た芸能人の輝きも、彼女の大地に咲く一輪の花のような美貌には敵わないと思う。
派手すぎず、地味すぎず。またスリム体型でもなく、むっちりとした体系でもない丁度いいバランスを彼女は持っている。男ならばきっと誰もが彼女を欲しがるだろうと思った。
何故ならスタイルや、容姿や、表情などだけでは図り得ない魅力が彼女にはあった。
空気、だと思った。
彼女の周りにある空気がより一層彼女を引きたてて、美しく見せている。
周りにいる全ての虫を惹きつけるような甘い空気を彼女は持っていた。菊花はこちらを儚げに微笑む姿を見るだけで、彼女という蜜を吸いに行きたくなるような欲求に襲われた。その飢餓感は、きっと麻薬や酒よりも強いものだと思った。
だが、菊花は酷く警鐘は鳴らすのを聞いている。
心が、ではない。
――左腕の刺青が心臓のように激しく脈を打つのだ。
咄嗟に菊花は右手で左腕を押さえた。
「どうかされたのですか?」
未だ警戒が解けず、むしろ脂汗が浮いてきた菊花を見て、プリシラは不思議そうな顔をする。
おそらく世の男はこの表情にくらっとするのだろうが、菊花はむしろその顔を鋭く睨みつけた。
何故か刺青がうずき、彼女を押し倒すよりもその身を引き裂きたい衝動に駆られるような気がする。
「……何でもない。それよりあんたは?」
その時、菊花は遠くで様々な音を聞いた。
声、だ
様々な人の声。
どの声もが殺気立っている。すぐに菊花はあの声の持ち主たちは自分の敵だと分かった。
それを聞いた瞬間、ここから逃げなければと焦るが、未だ菊花はプリシラに背中を見せる気にはならなかった。
「あんたは、とはどういう意味でしょうか?」
「あんたは俺の敵なのか? それとも――無関係の存在か、どっちだ?」
「私は誰の敵でもありませんよ。もちろん、あなたの敵でもありません。特にあなたにとっては私が味方で、それはあなたにとっても同じはずですよ?」
プリシラは口元を手で隠しながら穏やかに笑う。
その笑顔はとてもここが戦場とも思えないほど穏やかな顔であり、まるで世界を知らない深窓の令嬢が自宅の花園に囲まれている時のような。
先ほどまで大量の人に追われていたと思えないほどの笑みは、菊花に不信感を抱かせる。
この顔は彼女が追われているという恐怖を隠しているだけなのだろうか、または奴らに追われていると言うことなど些細なことなのだろうか、それとも――。
「分かった。じゃあな――」
菊花は自分が斃したニレイム関係者から即座に逃げるため、今度こそプリシラに背中を向けるがどうやら彼女の反応は違ったようだ。
「あら、私も連れて行ってはくれないのですか? 折角危険なところを助けていただいたあなた様は、神様から私へと使わされた神の使徒なのではないのですか?」
振り返った菊花はきょとんとしたプリシラの顔を目にした。
何かが、おかしい。
菊花とプリシラは、互いに話が通じあっていないことをここで悟った。
「……ところで聞きたいんだが、あんたは俺がニレイムの連中から追われているのに巻き込まれたわけじゃないんだな?」
「あら? あなた様こそ異教徒に追われている私を助けにくださいました方ではありませんの?」
ここで菊花は先ほど周りにいた人物は、自分を追っていたのではないことに気付いた。
どうやらそれは彼女も同じのようで、互いに驚いた顔をする。
菊花とプリシラは別々の組織から追われており、その過程で二人は“血吸の森”という場所で運命的な出会いをしたようだ。
「どうやらお互いに凄い思い違いをしていたみたいだな」
菊花はまた別の組織から追われることを避けたいため、脱兎のごとくプリシラから、または彼女を追っているという者達から逃げたい一心で置いてきた菫の元まで急ごうとするが――
「でも、おそらくですが今回のことであなた様も異教徒たちの標的になりましたよ。あなた様がどんな紋章を持っているのかは知りませんが、あの威力を鑑みるにおそらく生来の紋章士でしょう? そんな人が私の味方をしたのです。彼らの標的になる可能性は十分にあります。彼らはしつこいですよ?」
「つまり、あんたは何を言いたい?」
「彼らの情報を知りたければ、私も一緒に連れて行ってくれませんか?」
プリシラの提案に菊花は長い提案の後、仕方なく頷いた。
◆◆◆
菊花は菫を見つけた後、彼女を抱き抱えたままプリシラと一緒に早朝の森を駆ける。
菫はまだ眠たげな目を擦りながら菊花へと必死に抱きついていた。また、菫は菊花の肩越しから見える彼の三歩後ろを追いかけるように走る女性のことをとても不思議に思っていたが、木々たちがざわめく空気を察してか、聞くことは無く、口を閉じながらじっと長耳の女を見る。
嫌な予感がしたのは、菫の一緒だった。
彼女の刺青も菊花と同様うずいていたが、すぐにそれは治まった。
「それで、あんたはどこに向かっていたんだ?」
森の中を縫うように疾走する菊花は、プリシラを追いかけていたという異教徒、並びに自分たちを追いかけているだろうニレイムの騎士達から離れるように走る。
彼らから最も距離を稼ぐ方向に逃げるには、紋章都市クレステリアがある方向から若干右にずれるが、彼らから逃げ切った後、方向転換をすればいいので問題はないと菊花は思う。その際、食料や水が気になるが、これだけ深い森だと革や食料はあるだろうし、最悪、旅を続けるのが困難になれば一旦森から抜けだして、別の村などに行こうかなと菊花は思っていた。
最終手段としては、癪だがプリシラを利用しようとも思っている。
「私ですか? 血吸の森のすぐ横にある聖雷の山を超えた国――アリアトスから来て、目的地は――聖地ユグドラシルなのですが、それほど焦っていません。アリアトスからずっと、異教徒共に追いかけられているのですが、彼らを巻けるのなら私は世界の果てまで向かってもいいです。ですから、あなた様が生きたいところに向かわれて構いませんよ?」
プリシラは異教徒、という言葉にだけ憎しみを込めて言い放った。
よっぽど彼らのことが嫌いだと思える。
菊花は彼女の言葉に疑問が残った。異教徒にどうしてここまで追われているのか、またどうやってあの大人数の敵から逃げ通せたのか、他にも疑惑は沸々と湧いてくるが、一時は共同戦線を表明したため、落ち着いたら話しあおうと思う。
二人はそれから無言で声のする方角から必死で逃げていった。どうやらプリシラを追っている者達も仲間と合流するためにあの場から引いたので、距離が開けるのは小一時間とかからなかった。
その間には既に夜も開けて、薄っすらと空も青空に染まっていく。菊花は太陽が一つ上がるのを見て、それからもう一つが追いかけるように空を上がるのを見ると、ここが異世界なのだと思い知らされることになるので、忌々しく二つの太陽を睨んだ。
また、雷で身体能力を大幅にあげている菊花の動きに、プリシラは余裕で付いてきていた。
女性の身で付いてきているのを不思議に思うが、きっと素の身体能力ではないと思う。きっと何らかの紋章術で足の早さを上げているのだと。そういった紋章術は、異邦人たちが習っていたことを聞いたような気がするのだ。
三人はそれからある程度距離も離れて、二つの太陽が完全に上がった頃、やっと一息ついた。
菊花は当然ながら走り続けた上に昨日殆ど寝ていなかったため、目にくまが出来て非常にやつれた顔をしている。プリシラと菫に囲まれたまま一息着いて水筒の水を口に含むが、すぐに眠たい衝動が襲ってきた。
また菊花にしがみついていただけの菫も疲れがたまっているようだ。菊花から水筒を渡されるとゆっくりと水を飲んでいる。残念ながら菫も菊花と同じように、朝食を食べようという気力もなかった。菫も菊花と同じように十分な睡眠を取れていないのでうつらうつらとしながら水を飲み終わると、菊花のあぐらに頭を置いた。もう少しで寝そうだ。
「あら、お二人とも大丈夫ですか?」
一方で、プリシラには全く疲労感が見えなかった。
そもそもこの休憩を申し出たのも菊花だ。プリシラではない。彼女はまだ全然走れそうなほどの顔をしており、息が上がるどころか、汗をかいている様子もなかった。
またプリシラは横座りをしながら自分の持っていた小さな荷物から、水筒と干し肉を取り出して小さく噛みちぎりながら朝食を食べている。
「……何とか、な」
菊花はそう言うが、言葉だけの強がりなのはプリシラにも分かった。
「でも、どうやら彼らから逃げ切れたようで良かったです」
周りの様々な音を聞いて、まだ人が周りにいないことを感じながらプリシラは膝に手を置いて菊花に微笑みかける。
だが、膝においている手には“杖”が握られた。
「そうみたいだな――」
菊花も周りを見渡すが、プリシラへの警戒心は消えない。
初めて会った人を美人だから、襲われていたから、そんな理由で信用する気にはなれなかった。
今、一緒にいるのは利用するためだ。
その気持ちはおそらく相手も持っているだろうと菊花は感づいている。
お互い様だ、と自嘲気味に笑う。
「さて、それでは改めて自己紹介をしましょうか。私はプリシラと言います。七世神教のしがない修道女で、聖地ユグドラシルを目指して旅をしております。改めてお礼を申しますが、今回、危ない所を助けていただきありがとうございました」
プリシラは姿勢を正して深々と菊花へと頭を下げる。
「……俺の名前は菊花で、こっちが――」
菊花は膝の上で眠そうな菫へと目をやった。
「菫だよ」
菫は間延びした声で答えると、すぐにすーすーと眠りに入った。
その姿を見たプリシラは「可愛らしいですね」と菫を見ながら聖母のように微笑んだ。
「俺達は紋章都市クレステリアを目指して旅をしている。勘違いしてもらいたくないのが、実は俺達も追われていてな、あんたを――」
「プリシラと呼び捨てで構いません」
菊花は急に差し込まれた言葉に驚くが、彼女の提案に特にうろたえることもなく話を続けた。
「――分かった。プリシラが襲われている奴らには、俺が追われているんじゃないかと思ったから、先制して攻撃したんだ。まさかそれがきっかけで追われることは思っていなかったがな」
菊花はから笑いしながら言う。
「そうですか。あなたも追われて……似たもの同士ですね」
「そうだな」
「では、どちらが先に追われている敵の話をしましょうか? お互いに情報は必要でしょう? 人の踏み込まない血吸の森で、私達の他にどうやら二つの勢力がいるみたいですから、彼らが標的を私達だと思ってもおかしくありません」
「敵を知れば百戦危うからず、と古の言葉も言うからな」
「面白い言葉ですね」
プリシラは笑った。
「いい格言だと俺は思うぜ」
「私もそう思います。では、私の敵から話しましょうか?」
「頼んだ」
「彼らの組織の名は――七罪教団。簡単に言えば七代神教とは逆で、私達が神を信仰しているならば、彼らは“悪魔”を崇拝している邪悪な集団です」




