第十六話 聖女
ぬかるんだ大地の上に、革のブーツで足あとがつけられる。
森の中を一人の女性が歩いていた。
女性にしては身長が高い。百六十後半はあり、殆ど百七十に近かった。それを黒いコートで覆っている。膝上まであるコートだった。膝下からは足首まである長く白いスカートが見えた。
彼女は非常に美しい女性だった。
長い髪は金糸のように艷やかで、腰まで伸びている。コートからはみ出る手もそうだが、皮膚がとても白い。まるで陶磁器のようだ。それでいて目はアーモンドのように大きく、サファイアのように深い青色をしていた。鼻筋は通っており、薄い唇は一筋の赤い花が咲いたようだった。
だが、彼女は“一つ”だけ体のある部位が普通の人とは違った。
――耳だ。
彼女の耳は外に広がるように尖っていた。
それはまるで妖精のように。
だが、不思議とその耳は見る者に嫌悪感を抱かせない。むしろある種の妖精のようだった。
そんな美しい彼女は、重たい鞄を背負いながら一人で森を進む。護衛などはいない。武器も持っていない。
ただ、杖は持っていた。
長い杖だ。
それをもう一本の足代わりにして、ひたすら深い森の中を進んで行った。
長耳の女が森の中をひたすら歩いていると、うめき声が聞こえた。人のような声だった。女はその声に引き寄せられるように近づいて行くと、声は少しずつ大きくなり、その中身も懇願を求める声へと変わっていく。
女はうめき声の持ち主まで、深い森の中を苦労して進んだ。邪魔になる小枝は杖で避けて、転びそうにもなる大きな木の根は必死に越えていく。大きな木が立ち並んで、日の光もろくに届かず、鼠などの小動物が闊歩する中を女は進んで行った。
やがて、一人の男に出会った。
老人だった。
しゃがれた声と、白髪。
旅人だろうか。
女と似たような装備をしていた。
ザックと、杖。
ただ、この老人は腰に小刀をつけていた。
老人が呻いている原因はおそらく太腿に受けた大きな傷だろう。獣に噛まれたように、大きな牙の跡が残っていた。老人は太腿を両手で押さえて何とか血を止めようとするが、徐々にズボンに赤いシミが広がっていく。
せめてどこかの町に行ければいいのだが、この足ではそれも叶わない。
獣に襲われないことを祈りながら、けれども老人は助けを呼べなかった。自分の声が発端となって、人ならざる者が近づくのが怖かったのだ。だが、いくら待っても、助けが現れる様子はない。
老人は足の痛みと大量に血を無くしたので、徐々に意識が朦朧としていく。まともな至高判断ができなかった。
――そんな時、老人は女と出会った。
「あなた、は…………」
老人は、声を出しながら遠くから歩み寄ってくる長耳の女が、まるで女神の写し絵のように見えた。
誰も助けには現れず、このままこの地で朽ち果てると思っていたのに、まさか助けが来るなんて思わなかった。
まさに神の思し召しと思えた。
老人は感極まって、目から涙が溢れ出る。
「大丈夫ですか?」
老人はそれはそれは美しい女と出会った。
かけてもらった言葉は、天使の声のように聞こえた。
老人は女の長い耳から、ミルドヘイムに住む七つの人種の一つ――エルフ族だと判断した。
大陸で最も繁栄しているヒューマン族とアスラ族とは違い、エルフ族は森深くにひっそりと住んでいると言われている。その総人口はヒューマン族の十分の一とも二十分の一とも言われ、森に引きこもったまま表舞台に現れることもないため一般人が彼らと合うのは本当に稀だ。さらにエルフ族は皆が美貌の持ち主で有名だ。この森はエルフの住む村ではないのだが、この出会いは何の奇跡だろうと老人は感動を覚えていた。
なるほど、と老人は思った。
目の前にいるエルフ族には心を吸い込まれそうな魅力を感じていた。
「いえ、それが……」
老人は警戒もせずに自分の目の前へと膝をつき、心配そうに瞳を除くエルフの女に既に枯れた筈の“精”が反応するが、それよりも傷の具合が酷い。
女を襲おうとする気力も、老人には残されていなかった。
「これは――」
女の目が厳しく光る。
素人が見ても傷の具合は老人が思っていたよりも酷く、すぐに縫わなければいけないほどの大怪我だった。それに未だに止まらない血が、老人の命を風前の灯まで引き上げていた。
「女神様……」
「私は女神ではありませんよ」
「女神様、儂は助かるのじゃろか?」
だが、男は女神のように見えた彼女へと縋るように両手で服を掴んだ。
死にたくない。
死にたくない。
老人は自分の魂を引き止めるように、必死で女を引き止めようとする。
例え齢が六十を超えていようと、やり残したことは託さなる。それに今は領主から命じられた責を終えて故郷へと帰る途中なのだ。数カ月前には息子夫婦が妊娠したと、自分へと笑顔で告げていたことが思い出される。おそらくは自分の初孫となる子はもう生まれているはずだ。その子を一目見るまでは、老人はどうしても死んでも死にきれなかった。
「……大丈夫ですよ」
女は笑顔で言った。
これまで会ったどんなものよりも美しい笑顔だった。
「本当じゃろうか……?」
老人は女の言葉を何の疑いもなく信じて、掴んでいた手を緩める。
「はい。あなたは救われます」
「儂にはのう、やり残したことがまだまだたくさんあるのじゃ」
「誰だってありますよ」
「若いころはこの歳になると少しの憂いもなく逝ける、と思って折った。じゃが、生きれば生きるほどその執着心はより醜く、より望むようになっていくのじゃ。儂の命はここで生きられても、後十年と持たんというのは分かる。じゃが、孫を見ると、おそらく次はその孫の晴れ着を着るまではどうしても死のうと思えないじゃろう。生きたいのじゃ、儂は。死が近くなればなるほど、儂は……儂は……」
老人は目から涙を流しながら、女へと強く訴えた。
女はそれを聖母のように聞いていた。
「大丈夫ですよ。神は言いました。人は救われるべくして生まれてきます。誰もが救われるんです。私の“神”もそう言っています。あなたも、あなたのお子様も、またそのお子様もきっと救われます。神は慈悲深いのですから、きっと大丈夫です」
老人はその時に確かに見たのだ。
――奇跡が起こった瞬間を。
女のブロンドがまるで光の糸のように鮮やかに輝きだしたのだ。
老人も知識としては知っていた。
この世界には神の声を聞く存在がいる。彼女らは神の声を聞く時に鮮やかに髪が輝き出す。それは紋章を通さない奇跡だと言われており、世界で唯一彼女たちだけが起こす所業だ。
それを人は“聖女”と呼ぶ。
有名な聖女であれば、ニレイムの第二王女であるエレンシアだろう。その名は大陸に響き渡り、世界でも知られている聖女の一人だ。
老人は知った。
目の前の女性は女神の生まれ変わりなのではなく、世界に十人と存在しない真の聖女なのだと。自分では目にすることすら叶わないエレンシアと同じく、神の声を聞くことができる奇跡の存在なのだと。
その時、全ての邪な感情は消えて、魂が浄化されて赤子のように生まれ変わった気持ちへと老人はなっていた。
「あなた様は……もしかして……!」
老人は足が怪我をしていなかったら、目の前の女性にひれ伏す気でいた。
「私はあなたを――救わなければならない」
その瞬間、女が冷酷に笑ったのを老人は目にしていた。
そして女の手元を見ると、そこから白銀の刃が見えていた。それがまっすぐ自分の心臓へと伸びて、確かに自分は女によって貫かれていた。
「え、どう、あ、え……」
女が刃を老人から抜くと、彼は何の抵抗もなく地面へと横たわる。もはや女へと縋りつく力すら残されていなかった。
そんな老人は、女が刃を三回ほど振って、老人の血を払い落として、元の鞘へと戻すのを見ていた。その正体は女が持っていた杖だった。どうやら女が持っていた杖は仕込み刀――ケードケインと呼ばれるものらしい。
老人も貴族がそのような武器を持っているのを聞いたことがある。
「人は生という苦しみの中にいます。私はそれから全人類を救わなければなりません。神も言っています。死こそが最大の救いなのだと。あなたは苦しみから救われました」
「は、や、え……」
「大丈夫です。心配しなくても大丈夫です。いずれあなたのお子様も、お孫さんも、あなたと同様に救ってあげます。何の心配もいりません。あなたは救われることに喜びを感じていればいいのです――」
老人は薄れゆく意識の中で最後に思い出したことがあった。
それは、世界で最も有名な“聖女”について、だ。
彼女の名は――プリムラ。
エレンシアと同じ聖女でありながら、過去に大国ヘリファルテと小国シヴーチに内乱を起こさせて滅亡させた世界最高峰の犯罪者だ。教会も当然のことながら神罰者認定をしており、、大陸中から彼女の首に懸賞金をかけているが、未だ捕まっていないとされる。
そんな彼女の有名な一句は――生こそが苦しみ。そこから救うのが我ら神の使徒の最大の使命、と言ったとされている。
そんな彼女は――狂いの聖女と呼ばれているらしい。
老人は徐々にぼやけていく視界の中で、彼女の笑顔を見ながら、自分が会ったのは女神なのではなく、悪魔なのだと思いながら死んでいった。
ふふ、と女が嗤った声を老人は最後に聞いた。




