第十一話 夢
「き…………菊……」
菊花はまどろみの中にいた。
頭がはっきりとしない。
視界は瞼によって塞がれている。
声が聞こえる。女の声だ。それも舌足らずでまだ幼い。それが耳元で大きく叫んでいる。うるさい声だったが、どうもこの時に菊花はその声の主に怒鳴ろうとは思わなかった。
慣れ親しんだ声だからだ。
また少女は大きな声で起こしながら、菊花の体を揺すっていた。
菊花はそのせいで寝ているのが煩わしくなって、目を徐々に開けた。
「あ!やっと起きた! 菊花、もうちょっとでバス停だよ!」
すると、自分の姪である菫の大きな顔で、視界が埋められていた。
菊花はそれをすぐに右手で掴んで退けた。
「あ、菊花、酷い。せっかく私が起こしたのに!」
「……ああ。ありがとよ」
菊花は眠たげに目を半開きにしたまま辺りを見渡した。
するとバスの一番後ろの真ん中に自分は座っているのだ。
もちろん、近くには瑠奈、宗敦、秀の三人もいた。
「どうしたんだよ、等々力。降りるぞ」
宗敦は半ば放心状態でこちらを見つめてくる菊花を不思議に思った。
「え? ああ……そうだな……。あれ? ここは日本か? 紋章術? いや、咎人? 待て。俺がいるのは草原だったような……」
菊花は左腕の袖を捲ると咎人の証拠である黒い刺青がなかったので、思わず眉間を押さえ込んだ。
確か数時間前まで、紋章が彩る別世界にいた記憶があるのだ。そこでトルべという騎士によって雷撃を撃たれて記憶がなくなった後、目が覚めると紫電を操れるようになった。そして咎人である姪を助けに行くため、王都を目指した、筈だ。
「あら。もしかして頭が狂ったの? そろそろかとは思っていたけど、ずいぶん早かったのね」
座席に座って菊花は悩んでいると、横から瑠奈のきつい言葉が飛んだ。
いつもの彼女の対応に、菊花はあの世界の出来事を「夢か」と結論づけた。
「……狂ってねえよ。ただ、寝起きだからかな」
「じゃあ、早く降りてよ」
瑠奈は唇を尖らせた。
菊花が真ん中の席に座っているためか、その意見には宗敦と秀も賛成していた。
「分かっているよ」
菊花はすぐに鞄を手にとって、降りるよう前へと急いだ。ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、菫に小児料金を渡す。菊花たちは学生定期のため、お金を払うことはなかった。
降りた先は街道だ。八車線の広い街道で、ファミレスなどの食事処が沢山並んでいる。
バスを降りてすぐに現代っ子である菊花は、すぐにケータイを取り出してメールや電話などがないか確認した。すると、通話とメールが一件ずつあり、どちらも姉からで、「母さんも仕事が忙しくなったから夕食を食べてきて」と書かれてあった。
菊花はその文面をみて、溜息を一つついた。
「どうかしたのか?」
そう言ったのは些細な彼の変化を気付いて、後ろを三人並んで歩いていた中の一人である宗敦だった。
「晩飯を食べてこいって、姉ちゃんからのお達しだよ。菫、今から食べたいものはあるか?」
すぐに前にいる二人の足を止めた。
菫はこちらを振り返って、きらきらとした眼差しで「うーんとね。えーとね」とこれから何を食べるか悩んでいた。
「……等々力、それはオレも行っていいのか?」
宗敦はその提案をするのが恥ずかしかったのか、顔を少しだけ赤らめていた。
菊花はもちろん頷いた。
「いいぞ。どうせ俺と菫だけだからな。ちょっとは人が多いほうが華やかじゃねえか。佐竹も来るのか?」
「もちろん行くよ。当然ではないか。今日はわが校伝統の焚き火部として、交友を深めるのもまたいいな」
秀は冗談か本気か、どちらかわからないことをいうので、菊花はすぐに「止めろ」と秀の言葉を否定した。
秀とは違い、菊花は焚き火部に全く誇りを抱いていないのである。
「もちろん、私も行くんだからそんな気持ち悪い集まりの名前で呼ばないでよ」
前から菫と一緒にどこに行くか悩んでいる瑠奈がこちらを見て、冷たい目をしていた。
「……小泉も来るのか?」
「当然でしょ。なに、私だけのけ者にしようとしているのよ」
また瑠奈の言葉の刺が強くなった。
彼女の対応に慣れている菊花は、「はいはい」と軽く流す。その対応が気に入らなかったのか、「何なのよ、それ」と瑠奈は眉間に皺を寄せていっそう不機嫌になった。
「いやー、瑠奈ちゃんはのけ者にされて寂しかっただけだよな。まあ、分かっているから、俺は。そういえば、昔に姉ちゃんと三人で遊んでいた時も……」
菊花はわざと幼少の時の瑠奈の呼び方に戻した。
そうすると、菊花の過去の記憶が蘇った。今でこそ瑠奈が一方的に菊花を敵視しているが、昔は菊花の姉である蘭を緩衝材に置いてよく遊んでいたのだ。今も昔も菊花はあまり変わらないが、昔の瑠奈は内向的な子だった。それこそ、姉の蘭が連れださなければ家にずっといるぐらいの。
「あんたねえ!」
過去の恥ずかしい記憶を思い出されて、怒髪天を突かれた瑠奈は悔しそうに体をぷるぷると震え上がった。
「それで、等々力はどこに行く気なんだよ? 目ぼしいところは決めているのか?」
宗敦は嫌いな食べ物がなくどこに行ってもいいのだが、それは気になった。
「もちろん。それは菫次第だよ。なあ?」
菊花は瑠奈から攻撃を受けないために、すぐ近くにいた菫の顔を覗きこんだ。
宗敦は「やれやれ」と、それなら仕方がないと全く不満はないようだった。また秀や瑠奈も菫の意見には同様であった。
ちなみにその間、秀は家に今日の晩飯は友だちと食べに行くのでいらない、と家族へ向けて連絡していた。それを見た瑠奈も続いた。
「うん! 色々ね、食べたいものがあるの!」
「へえ。何が食べたいんだ?」
「えっとね、ハンバーグとか、パフェとか、後はね……えーとね」
頭に色々な食べもんが思いついては消える菫に、菊花は苦笑して周りを少し見渡した。
「なら……ファミレスにするか。ハンバーグとか、ピザとか、パフェとか、なんでもあるし。ファミレスでいいよな? お子様ランチにおもちゃがついているぞー」
菊花は膝をついて菫に目線を合わせて聞くと、彼女も不満はないのか頷いた。また菫もお腹が空いているらしく、菊花の手を引っ張ってお店へと急ごうとする。
その様子を見ていた他の三人は、前にいた菊花と菫を追うように走った。
そして、菊花が後ろを振り返った時――ぐにゃりと視界が曲がった。
目がさめると、そこは路地裏だった。
やっと、菊花はここにいる経緯を思い出した。
馬車の車輪跡を追って、ずっと草原を駆けていたのだ。もちろん体育部なんて入っておらず、体力があまりない菊花は足がすぐに止まりそうになった。そこを紋章術で体全体に電気を流して、強引に体を動かしながら菊花達異邦者が住んでいる屋敷や王城がある王都まで急いだのだ。あれから何日経ったかは分からない。まるで作業のように道を急いだのだから。飯も食べず、水も飲まず、ただひたすら走って、王都まで辿り着いた。
王都は街自体が高い壁で阻まれているのだが、入り口にいた騎士を不意打ちで電撃を流して沈めて、さらには腰の巾着まで盗んで中に入った。見張りが一人で、もう一人が近くの小屋にいるのが幸いだった。
それから路地裏に入って、気を失ったのだ。
「……夢かよ」
菊花は起き上がった。
久しぶりに幸せな夢を見た気がした。
だが、夢は夢だ。
厳しい現実は目の前まで迫っている。
先程の夢に感動を覚えている暇などない。
自嘲的に菊花は一人笑った。
周りから悲鳴が聞こえて、少しだけ菊花は傷ついた。
菊花はやっと意識が覚醒すると、まず路地裏の酷い匂いが鼻についた。ゴミや糞尿、もしくはその他の臭いが鼻について、吐きそうになる。
それを何とか堪えると、今度は人の目が気になる。
路地裏とはいえど、浮浪者らしきぼろぼろの服を着た者が辺りを忙しく駆け回っている。それは子供から老人まで。様々な者がいた。その全員がこちらを怪しむように見ては、隣を通り過ぎる。誰も何も言わないのが不気味だった。
だから菊花は自分の格好が気になった。
靴は動きやすい革のブーツ。下に履いているのはゆったりとした綿の分厚いズボン。ここまでは他の浮浪者とあまりかわりはしない。しいてあげるなら、菊花のズボンが破れていない事だろうか。汚れ自体は、土と血で酷い。
それに、上半身は裸だった。それも痛々しい肌だった。腹部は火傷で塞がれた刺傷が黒く変色し、首から腹にかけて龍が通ったような火傷が巻き付いている。さらにその上から泥や血、さらに草などで装飾され、左腕の黒い紋章は――存在感を放っていた。
これか、と菊花は判断する。
浮浪者の視線が刺青に吸い込まれていることに気付いた。
この刺青のせいで、自分は周りからじろじろと見られているのか、と。
「坊主ぅ――」
そんな菊花へ、一人の老人が近づいた。
小綺麗さは全くない。長いズボンと上野着たのはつぎはぎだらけで、その上にまたつぎはぎだらけの街灯を着ている。どれも穴は開いていた。さらに白い髪の毛は長年洗っていないのか、油で光っており、嗤った口から見える歯のうち何本かはない。さらに肌は黒く汚れていた。
「……何だよ?」
菊花はそんな老人に全く怯えていなかった。
「お前ぇ、よそ者だなぁ」
その口から漏れた吐息は臭かった。
だが、菊花はそれに顔も顰めなかった。
「ああ」
「その刺青、どんな罪を犯したんだぁ? それは罪人の中でもよっぽどな重犯罪をした者しか持っていないんだぞぉ」
老人は大犯罪者であろう菊花にも怯えず話していた。
「生きている事自体が罪らしいぞ」
菊花はニヒルな笑みを浮かべた。
「何だよ、そりゃあ……」
老人は菊花のことを訝しげに見た。
「――それより、爺さん。服をくれるところは知らねえか?」
菊花は老人の言葉を遮るようにして言った。
「お前さん、金はあるのかい? ここじゃあ、無償で奉仕してくれる聖女のような存在なんていねえんだぞ?」
老人は何も持っていない菊花を見た。
「ああ。ある。ほら」
菊花は巾着から銀貨を一枚取り出して、爺さんへと投げつけた。
「お、お前! これ銀貨じゃあ……!」
老人は菊花のから受け取った銀貨を見ると、久しぶりに見たそれの存在に驚いた。
それを見た他の浮浪者達は、菊花のほうへいい獲物を見つけたかのようにぞろりぞろりと近づいた。
その中で、一人の屈強な筋肉ダルマが歩み出た。
菊花は武器を何も持っておらず、さらに日本の若者にありがちな貧相な体つきから雑魚と判断したのだろう。男は刃が欠けた片手の両刃剣を抜いた。
「坊主! いいもん持っているじゃねえか! それを俺によこしやが……」
だが、菊花はその男に近づいて、腕を掴み、一気に電撃を流した。
男は叫びながら膝から崩れていった。
死んだかどうかは分からないが、そんなこと、菊花にとってはどうでもいいことだった。
あの時、トルべから最後に雷撃を受けて死んだと思った時を経たからだろうか。
菊花は死について、殺すことがとても希薄になっていた。
殺さなければ、殺される。
力がない者から死んでいく。
せっかくあの場で何故か生き残れて、偶然にも力を得たのに、菊花はそれを使うのを躊躇してもう一度死ぬなど、絶対に嫌だった。
「で、じいさん。いい服屋に案内してくれるか? それと飯屋と火傷なんかを治療してくれる所も紹介してほしい」
菊花の視線にいる老人も含めて、品証な少年の規格外な行動に誰もが絶句していた。
虎に睨まれたような老人は絞るような声で「ああ……」と言って、菊花を望む店へ案内した。
まず治療するところ。火傷や薬などを処方してもらった。もちろん国に認められていないところだ。それから路地裏で浮浪者たちがよく利用する古着を売っているところを紹介してもらい、上に着るスウェットのような服と、深いフードまである全身を隠す黒いマントを買った。
それから今度は飯も出せる飲み屋へと言って、腹いっぱいスープとパンを食べた。その間に何度か絡まれることがあったか、全て実力で黙らせた。
そしても今もパンをスープに浸しながらゆっくりとご飯を食べている。
目の前に座っている老人には酒を奢った。
すると、そんな菊花に一人の男が近づいてきた。
「隣、いいかな?」
まだ若い男だった。
服装は老人と同じようだが、少しだけ上等な物なのか穴が全くなかった。顔は優男のようだが、目は鷹のように鋭い。頭にはターバンのようなもので髪を隠しており、腰には剣を付けている。
「何だよ?」
菊花はスープを飲む手を止めた。
「君、優秀な紋章術師のようだね? 話は色々な人から聞いたよ」
どうやら菊花が絡まれる度に問題を起こしていたためか、目を付けられたらしい。
厄介なことになった、と菊花は舌打ちをした。
男は苛つく菊花を見て、愉快そうに口角を上げた。
「僕の名前は、ルードルフ。君と話がしたい」
ルードルフは怪しく笑った。




