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第十話 帰還

 もう太陽は殆ど沈んでいた。だが、それ以上に分厚い暗雲が空を塞ぐ。星の明かりを隠し、辺りが暗くなった。

 短い草が生えた草原を冷たい風が撫でた。

 草木はそれによって、密かに揺れる。掠れる。音がする。

 だが、草原で発せられる音源はそれだけではない。

 他にも、あった。

 動物たちの息遣いだ。

 一つや二つではない。

 それは数十にも及んだ。

 血に、おびき出されたのだ。

 その中心には等々力菊花の姿があった。

 最早、人ではない。

 死体である。

 生命活動を一切行っていない。

 その獲物のために、獣達は集まった。

 それぞれが菊花という肉にために、暗闇で光る目によって牽制しあっている。まだ、誰も手を出さない。トルベや佐藤が消えて、既に数分。既に周りに人の姿はない。獣達は楽に手に入る食料である菊花を得るために、それぞれがひたひたと足を滑るように移動させ、円を描くように動いていた。

 ぽつり、と空から水が一滴落ちた。それは一本の草へとつたい、地面へと流れて、土を濃く染める。

 雨だった。

 小ぶりで、氷のように冷たい雨だ。体を冷やすような。既に生前より熱が抜けている菊花の体を冷やすような。

 それは菊花の流した血の匂いを洗い流し、様々な雑音を消す。

 その時、一匹の獣が動いた。

 獅子だった。

 周りにいる他のどんな獣よりも図体が大きく、立派なたてがみを持ち、勇ましい獣だった。他の獣は群れで行動しているのに対し、その獅子は周りを統べる王のようであった。

 そんな獅子は、真っ先に菊花へと跳びかかった。

 そして足と足の間に菊花を挟む。

 もちろん彼という肉を得ようと、果敢にもその獅子に立ち向かうものはいた。だが、結果は惨敗。牙や爪は獅子に持つたてがみによって阻まれ、草原の中で最も立派な牙によって傷つけられた。

 その時に出来た隙を他の獣が狙おうとするが、獅子が高らかに周りを威嚇した。

 それだけで、他の獣は竦み上がり、足が前へと進まなくなった。

 獅子は周りをひと睨みすると、他の獣は脱兎のごとく逃げ出した。この広い草原で一人となった獅子は、それだけで満足し、手に入れた獲物を見つめ、腹部へと食らい付こうとした。

 ――瞬間、稲妻が轟いた。

 それは分厚く、黒い雲を引き裂くように発光して、雷鳴を起こしながら空気の層を無理やりぶち破る。

 落ちる先は一点。

 獅子と、菊花であった。

 獅子に落ちた雷は容易く全身を焼き、心臓を止めて、その生命を奪った。次に稲妻が定めた標的は水分をたっぷりと含んだ菊花だった。

 もちろん、その稲妻は菊花を貫く。

 だが、時として雷は気まぐれだ。

 何かの命を簡単に奪うようなこともあれば――逆のこともある。

 菊花へと落ちた稲妻は頭を伝い、心臓へと達した。そのまま菊花の首から胸にかけて、龍が這いずり回ったかのような火傷を残して、地面へと流れた。

 獣達は闇を払うような大きな光を残した場所へとまた、近づき始めた。

 そこには死体となった獅子と、菊花が眠っていた。

 どっくん。

 小さな音が鳴った。

 その音は誰にも聞こえない。

 どくん。どくん。どくん。

 その音はどんどん強くなる。

 だが誰にも聞こえない。

 聞こえないまま、死んだはずの等々力菊花の身体に、少しずつ熱い血液をまた送り込む。それは五臓六腑に染み渡り、止まったはずの脳を細かな血管まで熱い血が回り始めた。徐々に死んだ筈の菊花の身体に、熱い血が流れ始めた。

 むくり、と草原から死体が起き上がった。

 いや、死体“だった”男が短い眠りから覚めた。

 心臓が止まってからその時間は僅か六分。佐藤とトルべが去ってから、まだ四分しか経っていない。


「――っ!!」


 死体は、声も満足に出せない。

 何故なら全身は傷でいっぱいだ。刺し傷。打撲。火傷。また二種類の電気によって神経回路が一時的に狂って、それも合わせた混乱。記憶の混雑。数分前に何が起こったか、もしくは眠る前に何が起こったか、まともには判断できない。

 少しずつ、その記憶を男は取り戻していった。

 魔獣たちのオンパレード。

 異邦者たちの悲鳴のオーケストラ。

 腹から伸びる銀の刃。

 友だと思っていた男の醜い笑い声。

 騎士からの殺気。

 怒り。苦しみ。絶望。悔しさ。渇望。混沌。

 そして――光。

 圧倒的な雷光。

 それは背後からでも、いや、怖いもの見たさに後ろを見た時に目の前が金色の光で埋まっていく感覚。

 靄がかかった頭が冷たい雨によって冷やされ、徐々に覚醒し出す。


「……何…………が? 何な……んだ……これは?」


 未だに視界がぼやけているので、菊花は今いる場所さえ分からない。

 いや、それよりも身体に気になることがあった。

 熱い。

 血の熱さではない。

 ましてや、火傷のせいでもない。

 また別の流れを全身から感じる。それは肺を中心に広がって、血に乗り、全身を駆け巡る。そして左手の刺青に入って、滾るように熱く。すぐに上の服を脱いで、雨風で上半身を覚まそうとした。

 だが、熱は消えない。

 初めての感覚に菊花は酔って、嗚咽した。


 未だ混乱の渦の中にいる菊花に、また様々な獣が近づいた。

 食らうためだ。

 今度の獣は先程の獅子と比べると小さい。

 だが、最低でも菊花の腰ほどの背はあり、体長も一メートルを越しているだろう。口から見えた牙は獰猛で、それが何匹もいる。何の力も持たない人程度なら数匹で加工だけで簡単に倒せるほどの戦力を有する獣だ。


 しかし菊花はその存在に気づかない。

 未だ自分の体が分からないまま戸惑っているのだ。

 トルべの紋章術を受けた結果こうなったとかんがえるのが妥当か、それとも――


「――っ、ああ!!」


 だが、そんな事を長く考える時間など与えてくれない。

 すぐに獣が菊花へと跳びかかった。

 菊花は――まだ、呻いている。

 左腕の刺青へと入った熱い感覚が、今度は痺れへと変化した。血管を通して今度は痺れが全身を駆け巡る。死の前兆のようにも感じるが、また違う。痺れが、痛みが、この流れが、生きていることを実感させてくれる

 だが、耐え切れない。

 菊花は咆哮する。

 新しい感覚を受け入れようともせず、全身から吐き出した。


 ――瞬間、菊花は雷光に包まれた。


 まるで天へと昇る稲妻のように。

 それによって、菊花へと飛びかかろうとしていた獣たちも焼き殺される。


「はあ……はあ……これは……」


 菊花は体を襲った倦怠感に耐え切れず、地面へと背中から倒れこんだ。そのまま手足を楽に広げて、草原の上に大の字になった。

 最早彼を襲おうとする獣すらいない。先程の稲妻によって散り散りになって逃げ出した。


「俺の体は……一体……」


 ようやく目も慣れてきた。

 もう雨も小ぶりだ。あまり降っていない。

 菊花は目の前に映る黒く大きい雲を見つめていた。

 自分の身体に起こった変化に戸惑っていた。

 未だに身体を駆け巡る熱。それが刺青によって変化し、痺れとなった現象。そんな痺れを周りへ吐き出そうと考えれば、獣達の絶叫と雷鳴がすぐ近くで聞こえた。

 菊花はまた左腕へ熱い流れを操作し、痺れへと変えた。

 今度はそれを、空に手を伸ばした左手へ集めようとする。

 集めれば集めるほど、左手は強く痺れて、神経が焼き切れそうな感覚に襲われた。そして現界まで行って溢れだした。

 すると――紫色のいかずちが漏れた。


「何だよ……これ……?」


 菊花はデンキウナギになったのだと錯覚した。

 だが、自ら電気を生み出したことなど、生涯初めてだ。

 だとすれば――紋章術。

 すぐにこの力の正体が判明した。この世界のみにある特殊な技術。紋章術のせいで、自分がデンキウナギのように電気を発生することが出来たのだと。

 ここで、一つ疑問が浮かんだ。


 ――黒い刺青を持っている人は、紋章術を使えない。


 確かこのようにエレンシアやその他の神官たち言っている記憶があった。

 しかし、意識が無くなる前の記憶をよみがえらせると、この刺青を持つ佐藤秀吉が土を自分へと発射していた。手でもなく、道具でもなく、左腕が輝いて、独りでに土がこちらへ向かっていた、と菊花は記憶している。


「それも……嘘……か……」


 菊花は佐藤の言葉を一字一句間違えずに覚えている。

 その中には自分たち咎人を殺すために、国王、教会派、騎士派、が連携することも当然ながら覚えていた。

 ならば、紋章術が使えなかったのも、きっと彼らの陰謀だったと菊花は理解した。

 全ては自分たちを殺すため。

 その為には、紋章術のような力でさえ計画の障害になると考えたのだろう。だから自分たちは能無しへと落された。

 そして黒い炎も心のなかに燃え上がった。


「あの国へは……戻れない。金も……ない。何もない。どうすればいいんだよ?」


 だが、一人となった菊花に行き先など無い。

 ここがどこかも分からない。

 八方手詰まりだった。


 ――それじゃあ、頼んだわよ。菫のこと。しっかり守りなさいよ。


 その時、この世界に来る前に菫を預かった時の姉の言葉が思い出された。


「……そうだ! 菫! くっそ! なに、呑気に寝ているんだよ!」


 菊花は困憊する身体に鞭を入れて、無理やり起き上がった。

 どれだけ体が動くとはいえ、今の菊花はどう見ても怪我人だ。服の下は龍が這ったような火傷が巻き付いている。トルベに差された傷も表面は埋まっているが、外側が青く変色している様子から見て、中はきっと悲惨な状況になっているのだろう。また佐藤による数度の土弾、並びにトルベの雷撃。また朝からの重労働や魔獣から逃げた際の疲労。空腹。など、体の不調を上げればきりがない。


 確かに胸の中には、佐藤に、トルべに、そしてなによりもあの国自体に、復讐をしたい気持ちは確かにある。自分を嵌めた者たちを殺して、あの都を焼いたらどれだけ胸のすく思いをするだろうか。


 だが、そんなことより、姉と義兄の宝物である菫のほうがずっと大事だ。

 彼女も――咎人。

 おそらくこのままなら、自分と同じく淘汰される運命にある。

菫の側には瑠奈が付いているが、彼女は騎士派のグループに所属している。瑠奈のことを信用はできても、その他全てが疑わしい。


「行かないと……あいつは……あいつだけは……!」


 菊花はどうして今自分が生きているのか、その疑問さえも心の奥底に投げ捨てた。

 過程よりも、結果のほうが大切だ。

 例え自分がゾンビやフランケンシュタインになったから動けている説や、実は佐藤が見逃してくれた説や、神様が蘇らせてくれた説。もしくは自分の中の内なる力が覚醒して命を守ったなど、自分が行きている要因はいくつも考えつく。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 自分は生きている。動いている。

 そして、紋章術という力もある。

 守るべき存在がある。

 それならば、他に何をすることがあるだろうか。

 きっと――ない。


 菊花はすぐに草原を少し歩いた所に馬車の車輪の跡を見つけた。

 おそらく、これがあの城まで続く道。

 だとしたら、止まってなどいられない。

 しかし――そこへ魔獣が立ち塞がる。


「……何だよ? 退けよ!」


 目の前にいる魔獣は、菊花達が張ったキャンプを襲ったのと同じ尊大だ。人を簡単に殺せるような図体と、大角を持っている。

 数十分前は簡単に殺されるような存在だ。

 また、目の前の魔獣に人の言語など通じるわけもない。

 すぐに菊花は自分が得た力を発動させる。

 全身に力を溜めた。

 ここで逃げたなどいられない。

 左手を大きく後ろに引いた。

 菊花の髪の毛は体内に溜まった電気によって逆立ち、また刺青が生み出す膨大な電気量に、人の器が耐え切れないのか、身体の節々から紫電が溢れ出る。まるでそれは地獄の雷のようだ。禍々しい色をしていた。

 紋章術を初めて扱う菊花に、それら全てを統べる力など無い。今も制御がおぼつかなく、外界へと紫電は発散される。

 魔獣はそんな菊花を見て、絶対的な彼我の差を感じたのか、すぐに背を向けて逃げ出そうとする。

 だが、もう遅い。

 すぐに菊花は魔獣まで大地を踏みしめる。

 全身に流し込んだ雷は身体能力を格段に上げるが、その主である菊花ですら、満足に扱えない。方向がすぐに別の方向へ向くのを強引に魔獣へと向ける。その姿はまるで稲妻のごとく草原に焦げ跡を残しながらジグザグに、それでいて高速で魔獣まで距離を詰めた。

 そして魔獣とゼロ距離になると、全身に溜まった力を左の拳を突き出すと同時に――開放した。

 大地に雷電が奔り、魔獣は無様に握った左手によって胴体を貫かれた。


「邪魔なんだよ!」


 菊花はすぐに手を抜いて、魔獣を蹴り飛ばし、全身を雷で強化したまままっすぐ馬車の車輪跡を追う。

 その様子を、空を分厚い雲にある影はずっと見ていた。

 菊花の姿がなくなると同時に、その影もなくなった。

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