第九話 顛末
菊花を中心に大地に赤い花が咲く。
すぐに痛みで菊花が絶叫した。その場から動くことすらできない。右手で刺された傷を押さえるだけだ。それでも、ねっとりと、生暖かい感触が右手を濡らした。血は止まらない。トルベの持っている剣の切れ味がいいおかげか、それとも傷事態が浅いおかげか、血の出る量はそれほど多くない。また内臓も貫いていないようだ。
それにこの傷は――殺すのが目的ではないみたいだ。
殺すつもりなら、心臓に一突きだけでいい。足止めが目的だろうか。
菊花は自分の身に起こった事が理解できなかった。
例えば、目の前でトルベに笑顔で駆け寄って、彼の剣についた菊花の血を拭っている佐藤秀吉の存在が理解できない。彼は豹変したように、こちらを冷たい目をしていた。
「何が……」
菊花は徐々に全身を赤く染めながら呟いた。
彼の光がない瞳の黒さは苦しみが写っているのだろうか。それとも、絶望が写っているのだろうか。
身体はがちがちと震えて、声は絞るように細くなっていた。
全身には力が入らず、うつ伏せになったまま二人を呆然と見ていた。
「何がって、今の状況か? 等々力、お前には何も分かんねーよ。分かんないまま、死んでいくんだよ――」
佐藤は薄ら笑いをしていた。
「死ぬ、どうして? 俺が――」
菊花は呆然とする。
痛みに歯を食いしばり、つきつけられた現実を許容できなかった。
「……どうして? 神に仇なす“咎人”が死ぬのは当たり前でしょうが」
トルベは不快そうに呟いた。
その言葉は自分の意志ではなく、ほぼ反射的に出たものだった。
「咎人……?」
菊花はその言葉を反芻すると、突如、腹が裂かれるように傷んだ。
どれだけ現実を拒絶しても、痛みまでは無くしてくれない。
むしろ、痛みが“まだ”生きているということを自覚させる。
「あはは! まだ何も分かっていないようだな、お前は! そうだよ、なあ? 何も分からず、死ね! 死んじまえ! 生きている価値なんかねんだよ、お前は――」
そんな菊花を、佐藤は面白可笑しそうに笑った。
菊花にとって耳障りな笑い声が草原に木霊する。
――咎人。
その言葉を何度も何度も、まるで己へと刻むように菊花は心の中で呟いた。それと同時にこれまでの記憶を洗って、新しくその単語と過去を結びつける。
やがてその言葉は――罪人に、変わった。
すぐに思考が跳躍した。
視線が左腕の黒い刺青に吸い込まれた。
「まさか! お前が両崎さんや速水さんも!」
菊花は自分が殺されそうな理由を左腕に現れた“黒い刺青”だと分かった。
「誰のことをお前とか言っているんだよ――」
だが、それと同時に、佐藤に腹を蹴られて転がされた。
また、腹部から血が溢れる。
菊花は呻いた。また絶叫した。
自分の体が冷たくなっていくのを感じていた。
「ま、でも、そこまで想像したのは褒めといてやるよ。そうだよ、オレとトルベさんがあいつらを殺したんだ。まあ、お前には感謝しとくよ。オレの罪を背負ってくれて。あ、そうそう。全部、この件については国王も、教会側も、騎士派も全て納得済み。オレたち異世界人から見放された時点で……お前に味方はいなかったわけ。というわけで、一人寂しく死ねよ――」
これまで味方だと思っていた男から出た言葉は信じられないものだった。
菊花はすぐに心にどす黒く染まった。
佐藤と知り合って感じた恩義が、全て薄っぺらい虚構へと変わった瞬間だった。
全ては目の前のこの男たちのせいだったのだ。
異邦者たちに疑われたのも、それによって生じた虐めもそうだ。この一週間ずっと耐えてきた暴力は、この男のおかげで起こったのだ。
どんな気分なのだろうか、菊花には分からない。
自分の仕組んだ罠に嵌められた男が落ちる姿を見て、暴行されるのを感じて、その治療を進んでする気持ちを菊花には分からなかった。
心の中でせせら笑っていたのだろうか。それとも哀れに感じていたのだろうか。もしくは、自分の企てた作戦に見事に引っかかったことに歓喜を覚えていたのだろうか。菊花には分からないが、佐藤の表情を見ていると、その全てを感じたように思えてきた。
だが、怒りは沸々と湧いてくる。
心の底から。
これまで必死に耐えてきた視線と、暴力が引き金となるかの如く。
菊花は腹を押さえていない左手を強く握り締めた。それは爪が手のひらに食い込むほどに。
「お前のせいで! お前のせいで!!」
菊花は激しい怒りをエネルギーにして痛みを我慢し、左手を起点に体を起こして、それで殴ろうとする。
しかし、佐藤は嘲笑った。
――瞬間、佐藤の伸ばした左腕が黒く光ると、地面が大きく揺れだした。すぐにそこから塊となった土が菊花へと射出された。
菊花はそれを顔に受けて、また地面へと落ちて転がった。
それを見て、また、佐藤は嗤った。
「そうだよ、ぜーんぶ、オレのせいだよ。異邦者を裏切ったのもオレ。あの女をこの国に売ったのもオレ。お前を孤立させて、罪をなすりつけるのもオレ。そして――咎人を全滅させるのもオレだよ」
佐藤は舌なめずりをしていた。
菊花は服が血塗れになって、その上で体全体が泥まみれになって、それでも立とうとするのも止めない。だが、上手く建てない。足が地面の広がる地によって滑る。
それでも、菊花は二人を睨みながら、必死に全身へと力を入れた。
「咎人を全滅って……お前も……咎人……」
「そう。だからオレはトルベ様と密約を結んだの。密約。何個かの条件を対価に、オレの命を見のがしてもらうわけ」
佐藤はこれまでの作戦が上手くいったことに対して、少しだけハイになっているようだった。
その様子を、菊花は唇を噛み締めながらずっと見ていた。
「秀吉。あまり喋らないでくれ――」
「はいはい。分かりましたよ」
トルベがそんな秀吉を窘めると、彼はすぐに謝った。
どうやら力関係では秀吉よりも、トルベのほうが上みたいだ。
「……らしいんだよ。そういうわけで、お前の命はあと数分。精々、噛みしめるといいさ」
菊花は震える足を押さえて、また立ち上がって、二人を射抜いた。
「……おい」
「何だよ? 辞世の句ぐらい聞いてやるよ、オレは寛大だからなあ」
佐藤の言葉が気に触ったが、菊花は聞きたいことを言った。
「……お前を……」
「――やっぱ、やーめた」
佐藤はそう言って、また土の弾丸を菊花へと発射した。
菊花はそれに胸を打たれて、膝から崩れ落ちる。ダメージ自体は少ない。だが、腹部の刺し傷による激痛と、急速な血液消費によって菊花の体は衰弱していた。
菊花は呼吸が荒くなる。
額には汗も浮かんだ。
いつものように気楽な様子も無かった。
それよりも、彼らの奸計に嵌った自分の迂闊さを呪った。
どうして、同じ黒い刺青を持つということだけで佐藤秀吉を信用したのだろうか。どうして、罪人がいなくなった時、最初に騎士や国を疑わなかったのだろうか。ここを日本と同じように考えていたのだろうか。あの騎士たちの視線に何も感じなかったのか。もしくは教会の人間であるエレンシアに庇われて、それが未来永劫続くと錯覚していたのか。
状況や環境が変わっても、周りを深く疑わず、甘い考えだけで生きてきたことを菊花は責めた。
そんな後悔が菊花の心を占めて、やがて裏返る。
「――殺してやる」
深い憎悪へと変わった。
溢れ出る血のようにうずめく黒い炎だけが、彼の体を支配する。
「――それはこっちのセリフです。咎人は死ぬ。それは決定事項なのだよ」
だが、菊花の拳が届かない位置から、菊花へとまっすぐ伸ばしたトルベの右腕が輝いた。
その甲には、黄色で丸の中に大小様々な文字が渦巻くように刻まれてあった。
――紋章、だった。
トルベはその紋章を発動させると、右手に可視化した雷が蠢く。それは右手に込められたものが溢れたのだろう。空気を破る破裂音が菊花の耳にも届いた。思わず、耳を塞ぎたくなった。
その時、また菊花の心が裏返った。
怒りから、恐怖へ。
膝が笑いだした。
これまで漠然としていた死の恐怖が、ここにきて強くなる。
あれに当たれば死ぬ、との感覚が生まれる。
すぐに、体の向きが変わった。
二人に背中を見せた。
ここ二週間の自分の行動に対する後悔よりも、二人に対する憎しみよりも、もう一人も自分に味方がいないという絶望よりも、なによりも、なによりも、なによりも――生きたい、と願った。
「――死ね」
だが、無慈悲なトルベの言葉とともに、草原に雷鳴が轟いた。
それは刹那の内に菊花へと到達する。体の電気信号を狂わして、心臓も動きを止める。体をその膨大な熱量によって一部を火傷にも変え、その中にはあの傷も入っている。血はもう出ないが、服の下は悲惨な状況になっていた。
菊花は草原へと屈服したまま起き上がらない。
呻きもしない。
呼吸も既にしていない。
最早、生命活動の一切を放棄していた。
菊花は、草原で深い眠りについた。
◆◆◆
「トルベさん、どうしますか? この死体――」
佐藤は死んだ菊花に近づいて、足を使って彼を仰向きにさせる。
そのままトルベの指示にしたがって、脈や呼吸などを調べるが、その全てを彼はしていなかった。
「放っておけ――」
トルベはもう菊花を見ていてすらいなかった。
「放っておくって、首とかとらないでいいんですか?」
佐藤は意外そうに言った。
「咎人の血など浴びたくもない。それに――」
もう辺りは暗い。
空には星が出だした頃だ。
トルベが辺りを見回すと、幾つもの光る目が見えた。
獣だ。
魔獣ではない。ただの獣だ。それらが血の匂いにおびき出されたのだ。
「――あの死体は奴らが処理してくれる」
そのトルベの言葉に頷いた佐藤は、死体から離れる彼の後ろを追った。
すぐそこには、騎士団が用意した新しい馬車が既に止まってあった。トルべが手を回していたのである。
佐藤が後から聞いた話によると、異邦者たちに菊花以外の犠牲はなし。そもそもあの魔獣騒動でさえ、騎士たちが仕組んだ狂言なのだ。あの程度の魔獣に、熟練の騎士は死なない。
王都へと帰る馬車の中にいる自分たちの力が通じなかった異邦者たちに菊花が死んだことを伝えると、反応は様々だったが、皆が気落ちしていた。佐藤はその光景に笑いそうになったが、ぐっと堪えた。
馬車は王都へと続く。
佐藤が、トルべが、騎士が、教会が、そして国が仕組んだ悲報を乗せて。




