第零話 プロローグ
その日は特にいつもと変わらない一日だった。
いや、学生としては特別な日だったのかもしれない。
何故なら今日は――学園祭だ。
等々力菊花は高校二年生だった。
ただの高校生だった。公立高校に通い、ほどほどの成績をおさめていた。部活は焚き火部という意味の分からない部活に所属している。なにかを燃やすのが部活だ。だが授業が終わると毎日部活に向かうこともなく、殆ど帰宅部に近い。
そんな日々がこれからも続くだろう、と思った。
だが、その日はいつもとは、少しばかり様子が違った。
不幸が続いていたと言ってもいい。
まず、朝。その日は土曜日だった。通常休みの日に学校に向かわなくてはいけない、というだけで菊花は憂鬱だった。菊花は次の日から休みなので、楽しみにしていた。しかし、早くも不運なことがあった。まず母親が寝坊したので、朝食が無かったのだ。菊花の家の朝ごはんは基本米食なのだが、ご飯も炊き忘れていたらしい。いつも五時と早起きで、家事をきちんとこなす母が寝坊するなんて、と思いながらも、菊花は珍しいがたまにはこんなこともあるだろう、と母を特に責めはしなかった。何も食べず、家を出た。特に菊花の朝はいつも学校にちょうど間に合う時間に置きており、新しく朝食を待っている暇が無かったのだ。途中のコンビニで朝食を買って帰ろうか、と菊花は考えていた。
菊花は「ごめんねー」と謝る母に「いってきます」と大声を出してから玄関へ向かうと、母から大きな声で言われた。
「あ、そうそう。蘭が今日の文化祭には菫ちゃんを連れて行くらしいから、ちゃんと面倒見なさいよ――」
そんなことを聞いてから、はーい、と答えて菊花は家を出た。
ただ、何故だろうか、と菊花は思う。
その後、何故か信号を待つことが多かった。何故か自分が走っていると、ちょうど交差点に差し掛かる少し前に赤信号に変わるのだ。それが何度もあった。また学校までの行く道で一回だけあたる踏切も捕まった。右から左に交互に電車が三回も通った。そんなことがあったので、途中でコンビニに行く暇もなかった。お腹を空いたまま授業を受けなければならない、と憂鬱な気分になっていると、いつのまにか靴紐が解けたのか、菊花はしゃがんで靴紐を結んだ。
すると、がしゃん、と目の前で大きな音が鳴った。
植木鉢が落ちてきたのだ。
あのまま靴紐が無ければ、自分はあれを頭に受けていたのか、と思うと背筋に悪寒がうごめいた。
確かにここは近くに住宅街が多いが、上から落ちてくるなんて、と菊花は空を覗いた。四階だろうか。そこにいた中年の女性が「ごめんね」と大きな声で叫んだ。菊花は幸運にも当たらなかったので「今度から気をつけてくださいね」と声を出すと、その間に靴紐を結びきって、また学校へと急いだ。その背後には先程の女性から申し訳無さそうな言葉が降りかかった。
そしてまた学校にもう一息、というところで信号に引っかかり、そこで太腿を軽くあげて、いつでも走れるように準備をしていた。
今度は、頭の上に何かが落ちてきた。
臭かった。鳥の糞だった。
菊花は鞄の中から汗を吹くためのタオルを取り出し、頭を拭くが、残念ながらその臭いは取れなかった。そして携帯を見ると、見事に八時半を回っていた。遅刻確定だ。それからは走りもせずに、とぼとぼと歩いた。そして学校について自分の教室へと向かうと、不幸なことに扉は開かなかった。何故か、と思いながら菊花は何度も扉をがたがたとさせるが、鍵がかかっているようで何の音もしない。また、教室の中を覗いてみると、誰もいなかった。無人だった。
そういえば、文化祭の最初のスケジュールは開会式だったはずだな、と思い出した。とすれば、クラスメイト達は全員体育館にいるようだ。菊花もすぐにそこに向かおうかと思ったが、その前に、蛇口のある手洗い場へ向かって、髪を洗った。臭かったのだ。さらに先ほど使ったタオルも洗って、固く絞って、頭を拭いた。流石に制服がびしょ濡れになるのは嫌だった。
そしてその後、体育館へと向かう。
何十分も遅れて行ったので、教師からは白い目で見られた。特に髪の毛へと視線が向けられていた。絞ったタオルでは完璧に拭ききれなかったので、まだ髪は水滴がぽつぽつと落ちるのだ。
「どうしたんだよ? その髪は?」
このクラスは基本的に背の順で並ぶのだが、割って入る度胸など菊花にはない。一番後ろに隠れるように座った。
その時、壇上で話をしていた女性の生徒会長から厳しい目を向けられたような気がしたが、気にしては負けだと思った。
そして同級生である鬼瓦宗敦という男子に、小声で話しかけられたので、菊花は短く答える。
「鳥の糞に当たった」
無愛想な返事だった。
宗敦はそれに笑った。
宗敦は短い髪の毛を濃い茶髪に染めており、それなりにちゃらけた格好をしているので、クラスでもモテるタイプである。
糸目の彼の瞳が笑いをこらえすぎて、涙が滲んだ。その声が周りにも漏れたのか、生徒会長から「静かにしてください」とマイクで怒られた。何故か生徒会長の視線の方向が菊花に向いていたので、菊花は「違う」と叫びたくなった。もちろんしないが。
「お前のせいだ。お前の」
まだ宗敦は笑っていた。
どうやら鳥の糞が遅刻の原因だというのがかなり面白かったのか、まだ腹を両手で押さえながら体をぷるぷると震えさせている。
それから集会が終わって、文化祭が始まった。
菊花は教室に戻った。彼のクラスの出し物は唐揚げなのだが、それほど人数をかけなくてもいい出し物なので、早々に自分のすることが無くなった菊花は手持ちぶたさだった。販売のローテーションには入っているのだが、忘れていた、とサボる気満々だ。
教室の窓で他の生徒が元気に呼び込みをしているのを見ながら、菊花は教室の端で先ほど買った缶ジュースを飲んでいた。
「等々力! これから俺たちは出店を回るんだが、お前も来るか?」
そんな菊花に声をかけたのは、宗敦と佐竹秀だ。
佐竹は短い黒髪に眼鏡で真面目そうな風貌をしていて、所属している部活も将棋部と渋い。すらっとした長身で、もう顎の下に無精髭を生やしているのが特徴だ。
菊花はクラスの中でもこの二人と特に仲がよく、いつも一緒にいる。
また、この二人も焚き火部だ。秀は将棋部と兼部している。
だが――
「今日は無理だな。お前ら二人だけで回れ」
菊花は断った。
それに宗敦は唇を尖らせる。
「何だよ。それ、あれか? お前だけ彼女が出来たのかよー」
「違えよ。姪の面倒を見るんだよ」
「姪とは、菫ちゃんか?」
秀は菊花と小学校からの付き合いなので、彼の家庭事情はよく知っていた。
菊花が、ああ、と頷くと、秀は分かったと宗敦を引っ張って教室から消えた。宗敦は男二人で回るのは嫌だったらしいが、渋々引きずられていた。
それをひらひらとやる気のない手を振った。
そしてズボンのポケットの中にあるケータイが震えたので確認すると、姉の蘭からメールで校門近くで待っているとのこと。菊花は重たい腰を上げて、校門へと急いだ。
校門には年の離れた姉と、等々力菫がいた。
「菊花―!」
と、大声で菊花を呼びながら飛び跳ねている少女が姪の菫である。
まだ背は菊花の腰ぐらいまでしかなく、年齢も幼稚園の年長組だ。髪は動きやすいようにポニーテールにまとめていて、青いワンピースを着ている。可愛らしい少女なのだが、はるかに年上である自分を呼び捨てで読んで、どことなく自分と似ている顔を見ていると年の離れた妹のようにしか感じない存在だった。
「うっーす」
菊花はだるそうにしながら、そんな二人へと近づいた。
姉はどうやら菫を届けることが目的のようですぐに帰るとのこと。まだ仕事が残っているらしい。今日一日は菊花の親も忙しいので、面倒を見てほしいようだ。
「それじゃあ、頼んだわよ。菫のこと。しっかり守りなさいよ」
姉からの戒めの言葉も貰い、また姉から特別のお小遣いである一万円を渡されて満更でもない菊花は、菫と目線を合わせて「行くか?」と声をかける。菫は「うん」と元気よく頷いて、そんな菊花の右手を引っ張った。どうやら彼女にとって文化祭はお祭りのように思っているようだ。
「ねえ、菊花。私、わたあめ食べたい!」
すぐに目ざとい彼女がわたあめを見つけたので、それに引っ張られるように菊花も急ぐ。綿菓子を売っている人は同学年の女子で、さらに同じクラスなので旧知の仲だ。
「可愛らしい妹さんね」
彼女は菫を見て、頬を緩ませていた。
どうやら小さな子は好きらしい。
「まあ、姪だけどな」
「そうなの? それにしては似ているわね。はい。わたあめ、いっぱい食べてね」
満面の笑みで彼女は菫に大きな綿菓子を渡した。菫は人見知りなのであまり他人としゃべることが 苦手なので「ありがと……」と小さな声で言うと、より一層彼女は笑顔になった。
そんな風に、菊花は菫と一緒に出店を回っていった。その中で菊花が個人的に焼きそばを買った時に、体育館で小さな子でも楽しめるような出し物が開かれるとのこと。それは三年生がする劇らしく、近くの幼稚園や小学生用に作ったので菫でも楽しめるとのこと。
菫はそれを聞くと、焼きそばを頬張っている菊花の服を引っ張って体育館まで向かった。その中に用意された席の一つに座ろうとすると、顔見知りに出会った。
「あ、瑠奈ちゃん!」
菫が指をさして、菊花の服を離し、彼女へと近づいて腰へと抱きついた。
小泉瑠奈。菊花の幼馴染で、幼稚園からの付き合いだ。だが中学生に入ってから喋ることは殆どなく、菊花よりも彼の姉や菫と仲がいい幼馴染である。
「久しぶり、菫ちゃん!」
瑠奈はそんな菫を抱き上げる。
彼女は 学校の中でもファンが多いと云われる美少女で、特にフルートを吹いている姿が美しいと言われる。例え吹奏楽部の様々な者達が集まっても、その美しさは際立つ。演奏に邪魔にならないようポニーテールに纏め上げた髪は黒く美しく、またブレザーの隙間から覗けるうなじは色っぽい。目の色素が若干薄いのか、焦げ茶色の瞳は猫のように可愛らしい。それに鼻は小ぶりで、フルートを吹く口元は桜のように映えていた。
「よう」
菊花は眠たげに瑠奈に声をかけた。
「菫ちゃん、何か食べた?」
「食べたよ! わたあめ!」
だが、そんな菊花に瑠奈は返事を返すこともなく、菫に優しげな笑みをしている。
「おい。普通に無視すんなよ」
菊花はいつものことなので別段怒ることもなかった。
「あら、いたの?」
しれっと瑠奈は嘘をついた。
「いたよ。最初から」
菊花は声を尖らせた。
「てっきり、どこかで焚き火でもしているのかと思ったわ。ほら、等々力さんは焚き火部で有名だから」
瑠奈の言葉で菊花は嫌な記憶が蘇った。
「止めろ」
それは部活紹介の時である。
野球部やサッカー部は「一緒に甲子園を目指しましょう」や「楽しい学生生活を送りましょう」などと格好いい部活紹介をするのだが、焚き火部である菊花は「皆で一緒に燃やしましょう」と、危ない発言をして新入生から引かれたという苦い思い出がある。
実際、今でも後輩や先輩からはイロモノ扱いだ。
「まあ、等々力さんの苦い思い出はどうでもいいわ。それより、菫ちゃん、私と一緒に劇を見ましょうか?」
「うん!」
仲良くする女二人がパイプ椅子に座ったので、菊花も菫の横のパイプ椅子に座った。
その劇が終わると共に、菊花達の一日目の文化祭が終わった。
その日の帰り道、菊花は珍しく瑠奈と一緒にバスで帰っていた。もちろん菫がいるから瑠奈も着いて来たのである。また菊花の友人である宗敦や秀も一緒だ。彼らとともに、バスの一番後ろの席を占領していた。既に何個か停留所を過ぎたので、バスの中は学生だけではなく、社会人や一般客も混じっており、また前には見たこともある先生も座っていた。
――そんな時、いつものトンネルに差し掛かった。
短いトンネルだった。本来だったら数十秒で終わるほどの。
だが、誰かが気づいた。そのトンネルが終わらないことに。それを最初に気付いたのは運転手だったのかも知れないし、もしくは前に座っていた乗客だったのかもしれない。それは他の乗客にも蔓延し、やがてその異変に気づく。
先に外はなく、明かりのついたトンネルが広がった。
いや、途中からそんな明かりさえも消えた。
誰かが戸惑った。焦った。やがて絶叫した。泣き叫んだ。
左に座った友人たちは事態が許容できないのか無言で、右の奥に座った幼馴染は両手で菫の右手を握っていた。そんな中で菊花の服の裾を菫が強く握った。菊花が隣に座っている姪の瞳を覗きこむと、不安が伺えた。
菊花はそんな菫を励ますように、小さな手を片手で包み込んだ。
それから数分が経って、トンネルを抜けると、白い石が広がっていた。乗客はすぐに窓へと他の客を押しのけて身を寄せた。そこは建物の前だった。まるで大きな彫刻のようだ。ゴシック様式だろうか。壮大な建物だった。
そこから修道服を着た金髪の美しい女性と、剣を提げて鎧を着た男二人が現れる。
菊花は空気の変わった世界で、諦めたようにため息を付いた。