歌う旅人、ひとりぼっちの村
細い剣の先が、緑の草を薙いだ。
葉先だけが青い宙へとハラハラ舞う。
「はふん」
空気の抜けるようなため息を吐いて、キッカは細剣を肩に乗せた。
金色の細工、蒲公英の紋章がついた細剣は、細身の少女にも似合う可愛らしい意匠だった。
「草と空ばっか相手しててもしょーがない」
身体を大地に預け、手足を大の字に広げた。
目の前に大きな白い雲があるのに、手を伸ばしても一向に届きそうには無い。
遠くで羊の鳴く声と、ベルの音がからんと鳴る音が耳を掠める。
「ふぁ~」
不意な欠伸がキッカを襲う。
心地いい草の絨毯と、天高い青い空。
身を預ければ夢心地の如くだと、旅人はみな褒め称える蒲公英村。
それでもキッカにとっては、そんな風には思えなかった。
「ん?」
勢いよく上体を持ち上げると、連なる緑の山の峰が目に飛び込む。
点に見える白いものは羊たちだ。
長い髪をさらう風の向きが変わったのを感じ、キッカは走り出した。
※
風雨に晒された粗末な木の杭が、僅かばかりの土地の所有を誇示していた。
囲うに至らず、ただ並べられたその木の杭達は侵入者を容易に許してしまうのではないかと、住民でもないのに危惧してしまう程だ。
唐突に切れた木の杭と杭の間には、申し訳程度に入口のような、木の柱が二本。
“ようこそ、蒲公英村”
頭上に盛大に掲げられた木の看板には、そう書かれていた。
こちらも損傷がひどく、だいぶ意訳は含まれるが。
何年も手つかずである事は、考えずとも察する事ができた。
足元から徐々に顔をあげて遠くを見つめると、鮮やかな緑と青の境界線が見える。
瑞々しい草の匂いが鼻先を掠めた。
「……ここ本当に人が住んでいるのだろうか」
思わず呟く男の胸には、一抹の不安。
此処まで来るのに近隣の街道の村から三日程、途中の山道を延々徒歩で登って更に一日。
正直戻る時の事を考えていなかったので、装備も体力も底を尽きている。
これだから行きあたりばったりは、とまた怒られるだろうかとぼんやり考え始めていた時だった。
「お客さん?」
唐突に響いた声に、飛び上がる程に驚いた。
思わず後退りながら振り向くと、女の子が仁王立ちしていた。
「よかった。人がいたんだね…」
いろんな意味で安心して、胸を撫で下ろす。
女の子は一瞬眉間に皺を寄せたと思ったが、すぐに木の杭を軽やかに飛び越えてこちらに近づいた。
茶色い長い髪がふわりと宙に浮き、思わず目が向く。
飛び越えたその足には金属の装備があって、可愛らしい衣装と相反していた。
少女は男の目の前まで歩いてきて、腰に手を添えた。
「村だもの。そりゃー、此処には羊しか住んでないとか言われるけどさ」
釣り目だからか、不機嫌だからか、少女の顔は不服そうに見える。
正直自分もそうだったらどうしようと思っていたので、返す言葉に詰まって男は空笑いした。
「ええと、この村に入っても?」
「どうぞ」
言いながら少女が入口の方に向かって歩き出したので、男はそのあとについて行く事にした。
※
おそらく入口であろう、木の杭と門のような場所のすぐ近くの、小さな木製の小屋。
ただ一間には三人程が腰掛けられる小さな机と椅子、衝立がある。
衝立の向こうは寝所だろう。
着席を進められ素直に座ると、少女手ずから持成しのお茶を入れてもらった。
一口、口に含むと自己主張の激しい独特な味が体の髄まで沁み渡る。
「不味かった?」
少女が顔を傾けて問うた。
「…個性的な味がするよ」
まだあどけない顔の少女にそう言われてしまえば、素直な感想は述べられない。
「お茶なんてお客さんにしか出さないから」
「じゃあ、普段何を飲むんだい?」
「ヤギミルク」
少女は両手で拳を作って、おそらく乳搾りの動作を行いながら言った。
そっちを出してくれればよかったのにと思ったが、それも素直には口に出さないのが礼儀である。
おそらく、これが彼女流のおもてなしなのだろう。
「それで、お客さんはなんでこの村に?」
少女が目の前に座りながらそう尋ねた。
まだ舌先に残るなんともいえない違和感をこらえながら、男は笑顔を作る。
「僕はクリスト。旅人さ」
ふーん、と少女は気の抜けたような返事をする。
「迷子?」
「さすがに僕でもこんな場所で迷子にはならないよ」
男が首を振ると、少女は不服そうな顔をして頬杖をついた。
「何もないところだけど」
「草原と、山と、高い空と、羊とヤギ。そして君がいる」
クリストが少女の言葉に間髪いれず返すと、少女はさらに眉を歪めた。
“なにもない所”という言葉は、何処に言っても言われる事だった。
しかし時には人があり、時には富貴があり、時には食べ物がある。
何もない場所など、クリストは行った事がない。
そこに住む人々にとって当たり前のものは、クリストにとっては全て新鮮なのだ。
「旅人さんって何する人なの?旅だけで生きてけるの?」
「もっともな質問だね。僕は吟遊詩人さ」
「ぎんゆう…?」
街道の町や宿場町、人が集まる場所では珍しくない吟遊詩人も、このような場所では存在すら知られていなくても当たり前だろう。
クリストは吟遊詩人をどのように語ろうかと思案した。
「歌を。伝承の歌を語り継ぐものさ」
「伝承の歌?」
「芸人のようなものさ。物語り、歌唄い、奏でる」
「つまり?」
「…つまり、昔から語られる歴史や伝説なんかを旋律に乗せて歌ったり語ったりしているんだよ。後はそういう話や歌を集めたりなんかも」
詩人らしく詩的な言葉で表現しようとしたが、少女には全く効かなかったらしい。
結局、噛み砕いたわかりやすい言葉で説明的に語る事になった。
「それで旅ができるの?」
「人は物語が好きだからね。特に閉鎖された村や町なんかでは、外来の話者というのは意外と快く迎えられるものさ。その土地の神話なんか特に喜ばれる。そうすると、誰かが快く食事を提供してくれたり、宿を貸してくれる。富貴な町で美しい旋律を奏でればお金を投げてくれる。時には興行家や旅一座なんかが雇ってくれたりもする」
「なるほど」
納得したように少女は深く頷いた。
少々下世話な話で、純朴そうな少女が吟遊詩人を誤解してしまうだろうかとも思ったが、杞憂だったようだ。
少女は納得したように頷き感心していた。
「世の中にはいろんな人がいるのね」
「そうだね。けど、僕なんかそう珍しくない職業だよ。むしろ君の話を聞きたいのだけど」
クリストが微笑むと、少女は目を丸くして瞬かせた。
「あたしだって珍しくない」
「というと?…名前もまだ聞いてなかったね」
「あたしはキッカ」
少女は元気よくそう名乗った。
「この村の守人。歌姫にして剣姫」
そう言われて、クリストは素直に驚いた。
「…珍しいよ、それは」
「え?だって他の町や村にも歌姫や剣王はいるんでしょう?」
まあね、とクリストは答えた。
途端にチチッという高い声が聞こえて、窓辺を振り返る。
キッカが立ち上がり窓を上げると、小さな青い鳥が小さな足で器用に飛び跳ねて室内に入った。
そしてキッカの腕を伝ってその肩に乗る。
「可愛い小鳥だね。まちがいなく歌姫の証だ」
「名前はアオっていうの」
キッカが紹介すると、呼応するように小鳥が高い声で鳴いた。
「剣もあるのよ」
キッカが目線を向けた先をクリストも見ると、扉のすぐ横の壁に細剣が立て掛けられていた。
金色の柄に、茶色の鞘。少女でも扱えそうな軽そうな剣であるが、おそらくあれが“誓いの剣”なのだろう。
木の杭ですら傷むような村に、あんなに綺麗な剣があるはずもない。
「珍しいのはね、歌姫と剣姫を兼任しているって事だ」
「そうなの?」
「そうでなかったら、歌姫と剣王が別れている理由がない」
そうか、とキッカは納得したような顔をした。
釣り目なせいで勝気そうな子だと思っていたが、どうやら随分と素直であるようだ。
「でも無い事は無い。たまたま相応しいのが一人だったってだけでね」
「うーん…この村で歌人なのはあたしだけだし、剣を扱えるのもあたしだけだったから…」
それでかな、とキッカは呟いた。
こんな長閑そうな村で剣を扱う事があるのかと、クリストは違和感を覚えた。
「剣…扱えたんだね」
「うん。元々はあたしの家は、狼や山賊から村を守る役目だったんだって。でも剣王がいれば、それだけで狼も野犬も近寄ってこないし、山賊も出ないの。不思議だわ」
それが剣王の剣王たる存在理由である。
剣王はその神秘の力により、悪しき者を土地に近づけさせないのだ。
もちろん人間の複雑な念であれば、その網にかからない事も多いが。
しかしこのような山奥の村であれば、警戒するのはむしろ野獣の方なのだろう。
「歌人もあたしだけなの。たぶんだけど」
「たぶん?」
土地こそ広いが、そんなに人が多そうな村ではない。
現に今のところ人の気配はキッカ一人のみ。
それなのに全体を把握していないのだろうか。
「そういえばこの村ってどれくらいの人がいるの?」
「ん~…数えた事ないからわかんない」
キッカは椅子を後ろに少し倒しながら、窓の外を眺めて言った。
つられてクリストもそちらに目を向けるが、外の世界は相変わらず緑と青に支配されている。
「…まさか君一人って事は無いよね」
「それはさすがにないよ。酪農品売りに行く人や、そのおすそ分けくれる人もいるし。それに…あ!」
キッカが突然立ち上がったので、傾いていた椅子は勢いよく倒れた。
その音にびくりと肩を震わせている間もなく、勢いよく飛び出していくキッカをクリストはただ呆然と眺めていた。
目の前の席が空になった所で、クリストもいそいそと立ちあがって彼女のあとを追った。
ばたばたと立ち上がり開き放しの扉をくぐると、少し遠くにキッカが居た。
緑の絨毯を小走りで駆け近づくと、彼女は何処かをじーっと見つめていた。
「何かあったのかい?」
「あれ」
キッカが指差した方を、素直にクリストも見た。
ペンキで描いたような青、でこぼこ連ならる緑、点々とした白いもの…。
その間に薄く、細く、白い棒きれのようなものが辛うじて見えた。
ただし蜉蝣のように安定しないように見える。
おそらく遠すぎるのだろう。此処から見える棒きれは、近づくとおそらく一本の柱のようなものか。
結構な高さがあるものだと思われる。
「あれは?」
「赤い旗がかかってる」
「え…赤?」
キッカにそう言われて再びクリストは棒きれの方に目を向けた。
ただ白い棒きれのようなものは微かに見える。
話しからあれが旗を掲げる物であるのは察しがついたが、そこにかかっている旗までは見えなかった。
棒きれの天辺を見ても、ぐにゃりと視界は揺れている。
「僕にはちょっとわからないかな…」
「目が悪いんだね」
不思議そうにキッカはそう言ったが、今までクリストは目が悪い事を自覚した事はない。
あまりにも凝視しすぎて疲れた目を擦っていると、キッカは両腕は広げて、この村中の風を吸い込まんばかりの勢いで胸を膨らませた。
「…!」
次の瞬間、クリストは全身に風を打ちつけられたような、そんな感覚に陥った。
衝動が衝動のまま、身体を打ち据えて身動きができない。
しかしそれは錯覚だった。
実際にクリストの身体を押しつけてのは音圧…そう呼ぶべきものであろう。
キッカから発せられた、長く、高い旋律。
全身を突き抜け、空を駆け巡るかのような地声のハイトーン。
一音一音が長く、天辺からなめらかに下る旋律。
「すごい…」
キッカの歌声は、クリストが今まで聞いた事のない種類のものだった。
身体すべてで唄い、全身から音を奏でる。
それは峰に遠くこだまし、美しい旋律が帰ってくる。
青空に響くのは、ただ一人の合唱であるようだ。
風が吹き抜け彼女の髪を後ろ向きにさらっても、音だけはまっすぐと前を向かって走り続ける。
クリストは黙ってその音を聞き、歌詞に想いを寄せていた。
※
「よし!」
しばらくしてキッカは歌を終え、満足そうそう言い切った。
「素晴らしいよ」
クリストが手を叩きながらそう言うと、キッカは何故か不機嫌そうに眉を潜めた。
「き、聴いてたの…」
「そりゃあ、あれだけの声量があれば」
もしかしてこの村全てを覆ってしまえるのではないかと思った程だ。
障害物が少ない分、音も届き易いのかもしれない。
「今のは“創世女神歌曲七番 治癒神の降下”だね」
「し、知ってるの?」
両手で拳を作って興奮気味にキッカが言った。
「これでも音楽家の端くれだからね。むしろ僕は君がこの歌を知っていた方に驚いたよ」
「いや、あたしも知ってるの歌だけで曲名とかは知らなかったんだけど…」
クリストは自身のボロボロのマントの下を探り、腰に釣ったいくつかのケースの中から楽器を取り出した。
握りこぶしふたつ分ほどの、銀色の縦笛。
黒い吹き口に唇を当てて、穴を指で塞ぎながら奏でると、まるで鳥の歌声のような高い旋律が響いた。
「それ!」
キッカがクリストを指差してそう叫んだ。
笛から唇を放して、クリストはにこりと微笑む。
「この曲はね、随分古い歌曲でね。ある地方の神話…その元になった歌曲なんだよ。その土地の原住民で歌い継がれていた神話曲さ。ただそれだけ古いもので、今や演奏される事も珍しいよ。ただ今歌われる“治癒歌曲”はほとんど、この曲の流れを組んでいると言われているほど素晴らしい曲なんだよ」
旋律それ自体に力のある“歌曲”の中で、治癒歌曲は最も親しまれやすい。
もちろん、決まった旋律などなくても異能を使える歌人も多いが、歌曲は比較的力の弱い歌人でも扱う事ができるため、各地に広がりやすいのだ。
それでもこの古の歌をこんな山奥で聴けた事に、クリストは感動していた。
同じ治癒曲でも歌い手により効果の程度は変わってくるが、古の歌には古の力を感じる。
「あたしのお母さん…前歌姫なんだけど、お母さんに教えてもらったの。たぶん、お母さんもその前の歌姫に教えてもらったんだと思う」
「なるほど」
どういう経緯でこの村にこの曲が齎されたのかはわからなかったが、外界との接触の少ない場所では、古の曲でも残り続けるのであろう。
それがクリストには何故か少しだけ嬉しかった。
「ところで治癒曲という事は…誰かを治癒するための歌だったのかい?」
「うん。赤い旗は、怪我の証」
キッカの説明に依ると、村の各地に旗を掲げるための柱が設置してあって、異常事態があればそこに旗を掲げるのが決まりだそうだ。
怪我をしたり病気に罹ったりするとキッカは歌をうたい、野獣や夜盗が出ると剣を持って退治る。
「まあ、剣の方はまだ使った事ないんだけど…」
「長閑だね」
「何も起こらない所なのよ」
少しさみしげに瞳を伏せてキッカは言った。
確かに、キッカ程の声量があれば遠くの人でも癒せるのだろう。
しかし相手の姿が見えない癒し術なんてクリストは初めて見た。
戦場ならば重宝されそうだなんて、無粋な事まで考えてしまった自分を密かに恥じた。
「此処は広い村だけど人は少ないから…。みんな自分の持ち場を離れる事はできないの。だからこうして遠くからあたしは見守るしかないの」
彼女には村の出入り口を監視するという役目があった。
彼女自身もそこから離れる事は出来ないのだろう。
「でも本当は、あたしが直接なんとかしなきゃいけない怪我だって滅多にないわ。今日は珍しい事いっぱい」
言いながらキッカは両手を組んで腕を伸ばし、手のひらを空に向けた。
「あたしは、いっつも一人ぼっちなのよ」
そのままキッカは草原の上に手をついて座ったので、クリストもその横に座った。
風が全身に当たり気持ちよかったが、それは遮蔽物が何もないという事。
人ですらいない…キッカにはそう思えているのだろう。
少女の目をこっそりのぞき見ると、目線は何処ともわからない場所にあった。
この広い豊かな自然中で、彼女はひとりぼっち。
「じゃあ、歌を披露してくれたお礼に僕も一曲奏でよう」
言いながらクリストはまたマントの下を探り、一本の弦楽器を取り出した。
広げた手のひら三つ分の大きさの木製の土台に、4本の弦が張られた楽器だった。
指で弦をはじくと、心地よい音が転がる。
「実は僕も歌人なんだよ」
「本当に!?」
「世界にはたくさんの人がいる。もちろん、君や僕以外のウタビトも。そしてたくさんの想いや考えがある…決して世界は一人ではない。静かに耳を澄まして、想いを寄せて聴いてごらん」
クリストは口上の後、指を滑らせ弦をはじく。
そして風の音が止むと、静かに口を開いた。
朗々と、ゆったりとした平坦な旋律。
物語るように歌われる言葉は、世界を見せる。
クリストは歌った。
歌人のこと、歌人と人間の事、そして…蒼翼教の事。
歌が終わると、キッカは興味津津にクリストの顔を見上げた。
「そうよくきょう…?その人たちは、歌人や剣王の事が嫌いなの?」
「さあね。僕には彼らの気持ちはよくわからない。だけど、全ての人がそうとは限らないさ。人の数だけ想いはあるのだから」
「そうか…世界にはたくさんのものがあるのね…」
キッカはうわごとのようにそう呟く。
そして何かを決めたように、深く頷いた。
「ねえ、あたしにもっと歌を教えて!」
「…え」
釣り目をさらにキッと吊らせて、キッカは真剣なまなざしをクリストに向けた。
予想外の反応にクリストは急ごしらえの笑顔を張り付けるので精いっぱいだった。
「あたし、歌人としての力もっとつけたいし…それに歌は色んなこと教えてくれるってわかったから!」
きらきらと目を輝かせて少女は言った。
そう思ってくれた事はこの上なく嬉しい…事なのだが。
「うーん…僕は人に教えられる程、上手ではないからなぁ…ただの旅人だし」
「お願い!一曲だけでも良いの。あたし、あんまり歌って知らなくて…力の使える歌なんて、さっきの治癒の曲しか知らないの」
両手を合わせて頭を下げられ、クリストは困ったように眉を潜めたて頭を掻いた。
「んー…困ったなぁ。僕はこの村に長居するつもりはないんだ。短期間で中途半端に歌を教えるなんてしたくないし…」
「一晩だけでも良いから」
クリストが再び空に目を向けると、太陽が山の向こうに落ちようとしていた。
「悪いけど僕はもう村を去るよ」
「え、今から…?うちに泊まって行けばいいじゃない」
「明後日の昼に旅一座との約束があって…。早めに山を降りたいんだ。途中の山小屋に泊まるよ」
装備もそこで賄えば良いだろう。
正直に言えば面倒ごとを避けるためでもあったが、約束と早く山降りたいのも本心だった。
キッカは不機嫌そうに眉を潜めて頬を膨らませた。
「ずるい…」
「あはは、ごめんね」
背の低い彼女の頭が丁度良い位置にあったものだから、ついクリストはその頭をぽんぽんと数度軽く叩いた。
すると勢いよくその手を払い落された。
ちょっと、痛い。
「ふんっ」
そう言うと、キッカはそっぽを向いてしまった。
わかりやすい子だなあ、とクリストは妙に和んだ。
ひとりぼっちで寂しがる女の子の頼みひとつも聞けないという事が、後ろめたくないはずがない。
しかしクリストにはクリストの事情があり、特に歌姫である彼女にそんな中途半端な事はできないと思った。
「じゃあ…こうしよう。また会う事ができたら、その時は歌を教えてあげよう」
「…そんなの、貴方がまた此処に来ない限り叶わないじゃない…」
恨みがましそうな目でキッカは言った。
確かにそれはそうなのだけど。
しかしキッカがもっと大人になった時になら、再びこの地に訪れて会ってみたいとクリストは思った。
「じゃあ、世話になったね。有難うキッカちゃん。また会える日を楽しみにしているよ」
クリストはそう言い残して、広くて狭い蒲公英村を後にした。
※
クリストが山を下りて、約束の街道の町まで帰ってきたのはそれから二日後の事だった。
旅一座との約束は昼過ぎで、今は昼の少し前。
露店をうろうろと観ながら時間を過ごしていた時だった。
「よう、クリスト」
「こんにちわ」
露店のひとつで、旅一座の女の子が店番をしていた。
年齢はキッカよりもさらに年下であろう幼い少女だったが、各地で集めた物を売るのが彼女の仕事らしい。
彼女の店番でも手伝おうかと思い、挨拶を交わした。
「みんなもう、来てるの?」
「おお、来てるぞ。おめえも団長ンとこ行ってもいいぞ。みんなもう準備おわってっから」
「そっか。じゃあ、ちょっと早いけど合流しようかなぁ」
「おお、ツレも待ってるぞ」
歯を見せてにかっと女の子は笑ってそう言った。
とても感じの良い笑顔…ではなく。
「ツレ?」
「おお。おまえ、いつも一人で旅してると思ってたけど、あんなねーちゃんとも旅すンだなァ。おれらの事出迎えてくれたねーちゃんだよ」
「…ねーちゃん?出迎え?」
物すごく嫌な予感と悪寒。
クリストは急いで旅一座が居住を作ったという場所に向かった。
すれ違う一座の面々への挨拶もそこそこに、急いで“ツレ”がいるというテントを開いた。
「おっそい!」
大きな怒号が耳を劈く。
そこに仁王立ちしていたのは…此処には似つかわしくない姿。
色んな衝撃に思わずクリストは尻もちをついた。
「き…キッカ…ちゃん?」
「ちゃん、は別にいらないわ」
長い髪を払いながら、してやったりという得意げな笑顔でそう言った。
「なんで此処に…ていうかなんで僕より早く?近道とかあったの?」
「近道。ないでもないけど、貴方には無理な道だったでしょうね。ていうか本当に遅い」
きっと地元民じゃないと迷うのだろうとか、山道に慣れている彼女だからこその足腰だろうとか。
そんな事が頭をぐるぐる廻ったが、今のとこそれはどうでも良い。
「え、いや。なんで此処に?君、役目はどうしたの?」
「良いの!たぶん、何も起こらないし。村長に“修業のために村を出ます”って言ったらオッケーもらえたし」
片手を腰に、片手でブイサインを作ってキッカは勢いよくそう言った。
「いや…あの…で、なんで此処に?」
「師匠についていこうと思って待ってたの。旅の一座と約束してるって言うからきっと此処にくると思って、団長さんには話を通しておいたわ」
「し、ししょう…?」
へたりこんだクリストに、キッカはぐいっと顔を近づけて指をさした。
「あなた」
「は?」
「よろしくね、クリスト師匠」
「…は?」
未だ混乱でぐるぐるする頭を押さえるクリストに、キッカはにっこりとほほ笑んだ。
「約束したでしょ。次に会ったら、歌を教えてくれるって」
「…え、」
まさかこんなに早く再会するとは思わなかった。
…ではなく。
「そ、そんなのダメだよ」
「あたしの方は問題ないよ。村長にも、団長さんにもオッケーもらったし」
「団長さんになんて…?」
「修行のために師匠のクリストについてきましたって」
再びブイサインをしてとても良い笑顔でそういうキッカ。
なんと根回しの良い。
「いや、いやいや…君は帰りなさい、村に」
「ダメよ!修行に出るって言ったんだから易々と村に帰ったら怒られるわ。あたしそう簡単に帰るつもりないの」
「うう…だけど僕は弟子は取らないし、誰かと旅するつもりも…」
「…あたしだってアテが他にないの。貴方が教えてくれないっていうならここの団長さんに話して旅一座にいれてもらおうかしら…」
旅一座の団長にはクリストも世話になっている。
関係ないのに、旅一座に迷惑をかけるわけにはいかない…いや、一概にキッカが迷惑とは言えないが。
しかしキッカは自分との軽はずみな約束のせいで此処までやって来た。
世間知らずな彼女が何を仕出かすかもわからないし、何処で野たれ死んでもおかしくない。
そう思うと次から次へと心配ごとがのしかかってきた。
そんな重責を関係のない団長へと託すわけには…いかないのだろう。
「ど、どうしても…帰らないつもり?」
「…つもりよ」
「僕が拒否したら、本当に旅一座に入るの?」
「…」
キッカは少し目を伏せて唇を軽く噛んだ。
「…本当はクリストについて行きたい。だってあたしに世界は広いって教えてくれて、歌を教えてくれるって約束してくれたのは貴方だもの。貴方に、貴方の歌を教えてほしいの」
「キッカ…」
そう言われれば、嬉しくないはずがない。
だけど今まで一人で旅してきたのに、旅の道ずれ…それも女の子との旅だなんて。
「だからもし、あたしを置いてくような真似したら地の果てまで追いかけてやる」
「…それは、こわい」
キッと吊りあげられた目から真剣さがひしひしつ伝わってきてそら恐ろしい。
自分で言うのもなんだが、半日ほどしか交流していない、得体の知れない初対面の男についてくるだなんて行為が、そもそも無茶で世間知らずだ。
世間知らずな女の子一人を撒くなんて簡単な事だろうが、そうすれば彼女は更なる無茶をしてまで自分を追いかけまわすのだろう。そんな感情が伝わってきた。
それは…ただ旅をするよりよっぽど危険だ。自分を追いかける旅なんて。
彼女の死体でも目にした日には、罪悪感に殺されるかもしれない。
クリストは自分のおかれた状況を思い出し、くすぶる胸の中の闇を握りつぶした。
「…はあ、わかったよ。ただし教えたらすぐに帰るんだ。いいね」
「やったあ!」
妙な所で、妙な子に懐かれてしまった。
そう思いながらも、彼女の嬉しそうな顔を見ていると、少しは楽しい気分になってくるから不思議なものだ。
何より“ひとりぼっちの村”にいた時より、彼女がずっと幸せそうに笑っている事が嬉しかった。
大変な約束をしてしまったと後悔する反面、笑顔にする事ができてよかったという充足感にも抗えない。
「よろしくね、師匠!」
「うーん…その呼び方は…まあいいか」
自分は誰かに、何かを教えられる程立派な人間ではないのだけど。
そんなクリストの想いを他所に、無邪気に笑うキッカ。
こうして、二人連れの旅は幕を開けてしまうのだった。
主催企画にて書いたものです。色々と何やら設定が出てきてますが、続きそうで、今のところ続きが無い読み切り小説となっております。
機会があれば連載で書いてみたいと思いつつ、今のところ何の予定もございません。