ブロンクス
高田馬場に「ブロンクス」という小さなバーがある。
いや、正確には今年の1月まではあった。
栄通りという馬場随一の歓楽街を入って少し歩くと右斜め前方に
ゲームセンターが見えてくるが、その手前の路地を右に入って
すぐの雑居ビル1階にひっそりとやさしく「ブロンクス」は
僕たちを待っていてくれた。
大学生だった頃、もう20年も前になるが、酒好きの先輩に
連れていってもらったのがブロンクスとの出会い。酒の味は
おろか、一気飲みばかりさせられていて酒とは苦しいものとしか
思えなかった当時の僕にとっては、薄暗がりの中でジャスが
流れるお洒落な店内の雰囲気と見たこともない高そうなボトルが
並ぶのを目の当たりにしてそれだけで、大人の気分に浸り酔った
ものだった。
マスターの作るカクテルはどれも正確でしっかりとした味わいに
仕上げられていた。口数は少ないけれども、どんな話題にも耳を
傾け優しい口調で応じてくれた。シェイカーを振るときの恐いほど
真剣な眼差しから、グラスに注ぎ「お待たせいたしました」
と差し出すときの優しく微笑む表情の移り変わりにもカクテルの
「味」を感じたものだった。
一人でも気軽に行ける店で、なかなかそういう場所に出会うことは
難しい。現に僕には「ブロンクス」しかなかった。
大学を卒業からしても、ほぼ定期的に「ブロンクス」には通って
いた。一人で行くときが多かったような気がする。
「ブロンクス」で飲んでいた時間、多くのことをマスターと語り
合ったけれども、今となっては何を語り、何を語らなかったのか、
さっぱり思い出せない。まるで夢でも見ていたかのような心持ちで
あの空間の中でしかすべては語ることができなかったのだし、あの
空間にいた時だけが語るべき現実があったような気がしてならない。
勿論、それは陶酔感を持った錯覚なんだけれど。
先日、ある方から「ブロンクス」が閉店したことを聞いた。
久しぶりに受けた悲しい衝撃だった。鼓動が早くなり全身に響き
渡るのがよくわかった。思えば、仕事内容の変化や、通勤経路から
外れてしまっていることもあって「ブロンクス」には2年近く訪れる
ことはできなかった。最後に行ったときは、たった一つある小さな
テーブル席だったから、マスターともほとんど会話を交わしては
いない。今となっては、失ったものの大きさを感じる余り、どうして
もっと頻繁に顔を出さなかったのかと悔いばかりが残る。




