問題の多い介護士志願
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その日はとても良い天気だった。
日本の夏は蒸し暑くて過ごしづらいと言う意見もあるが、私の住んでいる地域は空気がカラリと乾いていて、日陰に入るだけで簡単に涼をとることができる。特に、近所の丘の上にある公園などは風も吹くうえに湧き水から流れる小川もあり、さらには間近では五月蠅くてかなわない蝉が鳴く木々から適度に距離を置いた屋根つきベンチまで設置されている。ちなみにベンチは一部の人々の間では夏の風物詩を涼しい風と共に楽しめるスポットとして利用されているのだ。
その一部の人々の中には私、読書家の田村鞠子も名を連ねている。
別に名を連ねたからといって名誉があるわけではない。夏の屋外で何時間もベンチに腰掛けるばかりの姿などは健康的な若者のイメージからは程遠いだろう。しかし、私はここで本を読むのが好きなのであって、やめるつもりはない。
あ、良い風が吹いた……。
「………」
私は、図書館やスターバックス等に移動するつもりは無い。
ここはとにかく気持ちがいいのだ。私のこの気持ちを分かってくれる人間も少なからずいて、たまには誰かと同席することだってある。あまり大勢が集まると敵わないけれど、余裕を持って4人ほど座れる丸いベンチが一杯になることはめったにない。
今日もまた、良い天気なうえに公園にも人気が無くて、とても過ごしやすい。
「おや、今日も居たのですか?」
「あ、笹原のお爺さん、こんにちは」
そう思っていたところで、なかなか思い通りにはいかないらしい。本を読むのに夢中になっているうちにもう一人、ベンチの常連がやってきた。
「本当にここがお好きなんですね」
「えぇ、まぁ。不思議と居心地が良いものですから」
このお爺さんは昔から、私が初めて来た日よりずっと前から、夏のこの時期にここで本を読むのが習慣になっていたらしい。どのくらい昔からなのかはわからないが、ここの居心地が昔から変わっていないのだと思うと、少し不思議な気分になる。
それに何十年も昔から変わることが無いような、歴史的にも大切な場所ならばなおさら敬意をもって全身で堪能しなくてはいけない。特にお爺さんを見習って、読書で。
「今日は何の本を読んでいるのですかな?」
「えっと、障害者の方のための本を何冊か……。私、なにげに読むの早いんですよ?」
興味深そうに私の読む本を眺めるお爺さんに、脇に積んである既読の物をいくつか貸してみる。
「これは……。どれも立派な本ですな」
「なんて書いてあるかわかりますか?」
「いや、こういう勉強はしたことが無いので、私にはさっぱりです。しかし、こういう本が大切なのは一目見ただけでよくわかります」
笹原のお爺さんは最近になって私がどんな本を読んでいるのか尋ねてくるようになった。それがどういうつもりなのかはわからないが、これほどの年長者に良い勉強をしていると言われるのは、くすぐったくも悪い気はしない。
「将来はやはりそちらの方に就職されるのですかな?」
「はい、そのつもりです」
そちらの方とは障害者介護の方面のことだろう。確かに私の夢はだいたいそのあたりの職業だ。
私とお爺さんはなかなかに親しい仲だと自称できる程度には気心は知れている。気の置けない仲といっても過言ではない。それだけにいつも本を読みながらポツリポツリと、しかしかなりプライベートに踏み込んだ話までできたのだ。
「私には、一人娘が嫁ぎ先で生んだ孫がいましてな。いや、嫁ぎ先はすぐ近所なんですがね」
お爺さんが語り始めたとき、これは長い話になるぞと思った。
「どんなお孫さんなんですか?」
「ちょうど、貴女と同じくらいの年です。孫も貴女と同じように介護についての勉強に熱心に取り組んでいました……」
私と同じくらいの年、とはいっても私は昔から成長していないと言われる程に童顔だから、お爺さんの想像する孫とは5歳程度の年の開きがあってもおかしくない。私がその頃に読んでいた本は、よく思い出せない。介護についての本だったような気はする。
お爺さんはどこか遠くを見るような目をしていたが、すぐに私に視線を戻す。
「どうしてそんなに熱心に勉強するんだと尋ねると、その理由がまたいじらしいんですよ」
「どんな理由だったんですか?」
「私は昔、足を悪くしたことがありましてね。そのときの私の様子を見て、助けてあげたいと思ったから、だそうです」
そう語るお爺さんの表情は、まさに爺馬鹿全開といった具合のものだった。老人のそのうえ孫自慢ときたら、その話の勢いは往々にして留まるところを知らないものだろう。
「子供の頃から『じぃじ、じぃじ』と呼びながら私の後ろから小さい足で追いかけて来たものです。あぁ、このベンチの上で本を読み聞かせてやったこともありましたね……」
「仲がとても良いのですね」
「まぁ……。そう、ですな……」
間違いはないと思って述べた感想だったのだが、お爺さんの反応は私が予想していたものとは違う。もしや、今は不仲なのだろうか。だとしたらあまりにも無茶な話の振りである。お爺さんの話ぶりから察する限りではそのようには思えないが……。
私が気まずそうにしていると、お爺さんは話を付け足した。
「仲は、今でも良いと思いたいです。しかし、ある日を境に距離ができてしまって……。孫はまるで私のことを忘れてしまったかのように……」
「………」
お爺さんの私を見る目は、なぜかとても優しげであった。
あと微妙にぼやかして話している気がするのは気のせいではないだろう。どうしてそのような話し方をするのかが私には分からないが、問い詰めるのも気が引ける。
しかし、ふとお爺さんの私を見る目に、妙な熱がこもっていることにも気付く。こちらはあるいは気のせいかもしれない。しかし、同時にこれ以上は話を続けてはいけない予感がしていた。
だから私は本を閉じてベンチから立つ。
「じゃ、じゃあ、私はそろそろ帰りますね。もう日も暮れたことですし」
「もう日が暮れたから、ですか。こんな真夜中まで、灯りもつけずに一人で読書だなんて、随分と変わったことをする人だと思いましたが、帰る理由はなんとも普通ですね」
そう、私が手元の本を読み始めたのは"既に日が暮れてから"だった。しかし灯りをつけずに読んでいるのもべつにおかしなこととは思わないし、お爺さんは今更になってなにをいうのだろうか。
お爺さんの様子がいつもと違う。いや、私の心境もいつもとは違うのだが、やはり大きく違うのはお爺さんの方だと思う。こんな風に私を引き止めることなんて今まで一度もなかったし、そもそもいつも帰るのはお爺さんの方が先だった。
最初に会った時などは、私が人気のない黄昏どきに一人で読書しているときにやってきたのだが、何やら変な物を見たような様子で、話しかけるわけでもなく逃げるように帰ってしまった。それから何日も同じように私を見つけてはそれだけで帰っていくのを繰り返して、しばらくして私の方から話しかけたのだ。
「もう少しだけ、お話できませんか?」
だから、お爺さんの方に呼びとめられるのは初めてのことだった。
しかし私はお爺さんがどこか寂しそうな様子でもあることに気付き、仕方なしに再びベンチに座った。
「変な話をしてしまってすみません。貴女に話してもしょうがないことなんですが、つい……」
年寄りの愚痴を聞くのも若者の務め、という言葉は呑み込んだ。いくら親しい仲でも流石に無礼が過ぎるだろう。
それよりも、私は話を切り替えることにする。
「それはそうと、お爺さんこそこんな夜中に何をされているんですか?」
「おはずかしながら、もう相当にボケが進んでいましてね。気付いたら想い出深いここに来てしまっているんですよ」
しっかりしているように見せかけてボケが進んでいることは、わりとあるらしい。しかしそれにしては本当にしっかりして見える。これは身内の人間にとっては落差によるショックが大きいケースだ。
「ボケは自覚されているんですね」
「えぇ、何が夢で何が現かわからないのは本当に大変です。先ほども貴女が孫に見えて、つい呼び止めてしまいましたよ」
「………」
冗談にしては笑えなかった。自虐物のギャグは使うタイミングを間違えるととても悲惨である。
「うっかり連れて帰ったりしちゃダメですよ」
「さすがにそこまでは、まだボケてはいませんよ。孫も最近は身内でも男を避けたがる年頃ですし……」
私も思春期の頃は父に対してそんな風だっただろうか。
それにしても、孫と他人への接し方がごちゃごちゃになっているのは何故だろうか。ボケを自覚しているからわざとこうしているのか、こうなるのもボケのせいなのかはわからないが、苦労の様子がうかがえる。
「いや……。あるいは意外と、わからないかもしれませんね。最近では自分が何がしたいのか自分でさえよくわからないことがよくある……」
「今もですか?」
「ま、まぁ……。そうですね……」
かなりずけずけと聞いてみたが、どうやら図星だったらしい。
先ほど私が感じた嫌な予感もそういったものが原因なのだろうか。
「今日は少し話をしすぎたせいか、頭がごちゃごちゃしてます。今日もそろそろ帰ることにします」
私の言葉が不快だったのかもしれない。あるいは混乱させてしまったのか。しかし私には逃げるように立ち上がるお爺さんを引き止める言葉がすぐには思いつかなかった。
だから……。
「今日はたくさんのお話、ありがとうございました。……明日も、私はここにいるからね……」
私はお爺さんに明日の約束を取り付けて、お爺さんが了解の返事をするだけしてそのまま立ち去るのをただ見送った。
出かかった言葉を噛み殺して、ただ、見送った……。
夜中、家に帰ると親に叱られた。
「一年ぶりにお盆休みで帰ってきたと思ったら遊びに出たきりでこんな時間まで連絡もなし!まったく何やってんの!」
「ちょ、ちょっとお爺ちゃんに会いに……」
とはいっても、帰ってきた瞬間に怒鳴りつけて来たのは母だけだった。父も心配はしていて、布団に入ることなくリビングで待っていたようだが、言葉はなく椅子に座って手招きしているばかりだ。
私がまず母に対応すべきなのかどうかと迷っていると……。
「とりあえず、こっちに来て座りなさい」
父の低い声でそう命じられると、考えるより先に身体が動いてしまった。
母も私が父に呼ばれてリビングに入っていくのを止めたりはせず、一緒にテーブル前の椅子に腰かけた。これはいわゆる家族会議の形である。
最初に口を開けたのは父で、柔らかな口調で問いかけて来た。
「義父さんに会ってきたのか」
「う、うん……」
旧姓『笹原』の母は何か言いたそうだが、実の父親が話題に上っていることもあってか、まずは夫に流れを任せているらしい。
「どうだった?」
「えっと、元気だったよ?生きてたときよりも。でも、ボケてて私のことは分からないみたいだった。それでも毎年この時期には毎日会いに行ってるから、顔と声は覚えてくれたよ」
初めて会った時、私がお爺ちゃんと呼びかけても、返事さえしてくれなかった時のことを思い出す。最初のうちはまるで理性が無い、感情ばかりの目で私を見ていたものだ。今日も少しその気があった気はするが……。
私がすらすらと話すと、父は母の方を見てから、腕を組んで唸った。母の意見を待っているのか、あるいは去年の、私がいきなり丘の公園でお爺ちゃんを見たと言いだしたときのことを思い出しているのかもしれない。
「ちなみに会いに行ってるのはあの丘の公園ね。いつもは夕方頃になると来てくれて、少しだけ話をすると帰っちゃうんだけど……」
父は『あの心霊スポットか……』と、言って溜息をついた。確かに、あの公園はかつての古戦場跡であったりと、その手の噂が湧きやすい立地ではある。しかしお爺ちゃんが現れるのは、生前からあの公園が好きだったからに違いなかった。
「長話をするにしても、せめて連絡ぐらい入れても良かったんじゃないのか。義父さん相手に遠慮もいらないだろうし、俺達が心配することぐらい義父さんだってわかっただろう」
「だから、私が孫だってことは分かってもらえないんだってば」
「………」
胡散臭がられているのが肌で感じられた。しかし、嘘をついていないのなら正面から顔を見て向き合えばいいと私は信じている。
「その荷物は?」
「点字の本。最近になってお爺ちゃんが私の読む本を聞いてくるようになったから、今も勉強を続けていて、こんな本も読めるようになったよって教えてあげようと思って」
重い鞄の中から、お爺ちゃんが立派なものだと褒めてくれた本を取り出して見せる。
鞄の中に他には何も無いことを示すと、父はふむと唸ってみせた。
しかし、母の方はというと実の父を夜遊びの免罪符に使われたと思ったのか、口を固く結んで怒声を押さえこんでいるように見えた。しかし、この場で幽霊について私が語るようなことがあれば、それは油に火を注ぐようなものだろう。私の頭の中には一つも今の母にかけるような言葉が見当たらなかった。
「そうか、まぁ、何事もなかったようで良かった。今日はもう夜も遅いから、シャワーだけ浴びて早く寝なさい」
父は私を逃がすようにそう言った。私も厚意に甘えて逃げるようにリビングから出ていく。
後ろ目で、私がその場から居なくなったせいか、全身の力が抜けたようにテーブルに突っ伏して溜息をつく母の姿がチラリと見えた。あと、隣の席に座りなおして心配そうに母を見ている父の姿も。
私はシャワーを浴びながら、自分の親不孝ぶりに溜息をついた。
叙述トリックというものに挑戦しつつ、認知症などの知的障害者の介護について毒づくような作品を書いてみました。
内容への感想の他、まだまだ未熟な私の今後のため、文章構成などの改善点を指摘して頂ければ嬉しいです。