The Colors of Logic
二〇七六年十一月 オンタリオ州 クレアモント
ルーカス・オリヴェイラは、日没とともに愛車のペダルをキックした。
気温三十二度C、今のクレアモントで望める限り最高のサイクリング日和だった。
夕映えは追われるように去り、道路の遮熱舗装は本来のほの白さを取り戻していった。
街角には人通りが出始めていた。しかし間もなくブロックロードのゲートを抜け、オークリッジズへの登りに入ると人影は絶えた。寒地の木、サトウカエデは北に撤退し、周囲はその名の通り、黒いオークの森となっている。ルーカスはパワーアシストレシオを上げて、暗闇の中、雪と見紛う純白の道を駆け上がった。
(いや、雪などクレアモントでは何年も見た者はいないはずだ、とルーカスは思った)
やがて現れたオークリッジズは新興のゲーテッド・コミュニティだ。気候変動に追われた金持ちの避難所である。白い防壁に囲まれ、高い建物は中央に集められて地上からは見えない。それは要塞だった。
ルーカスは警備員の誰何に両手を挙げてボディチェックを受け、芝生に並んだ特徴のないまっ白な箱の群れ……巨人の墓地のようだが、実は遮光壁に覆われた高級住宅……の間を、何の興味も示さず駆け抜けた。
目指す邸宅は入口の反対側、やや不便な一角で、他の箱と比べると小さいがやっぱり大理石の墓石に似ていた。
白い壁の片隅が扉になっている。IDカードで解錠し中に入ると、中は冷房が効いた建屋で、日本風の青木の生け垣に囲まれた、飾り気のない小さな家が建っている。
屋内に入ると同時に、ルーカスはモバイルフォンの〈プロトコル〉を起動し、皮脂や汗の臭い分子を破壊した。ヘルメットに押しつぶされていた髪と肌がサラサラになり、ルーカスの口元が無意識に緩んだ。
門口のベルを鳴らし、「来たよ」と一言告げて、返事も待たずに歩み入る。住人は人前に出るのが極端に嫌いだ。表札の名前すら偽名であった。
奥の書斎のドアが開き、生成りのアオザイに紺のデニム、浅黒い肌のもしゃもしゃ白髪の老人がほほ笑んだ。
「よく来てくれたな! 入んなさい」
寂しい部屋だった。唯一、人間味があるのはウォールナットの本棚に並んだ古びた哲学書、科学書のたぐい。動くものと言えば時計すらなく、ビジネスデスク上の端末に、時折ログがちらつくばかり。三十年の隠遁者にしては何もなさすぎる部屋だった。
この牢獄にも似た書斎の主こそ、伝説の数理物理学者、アルトゥール・ムカサであることを知る者は少ない。
実のところ彼は過去の人である。スキャンダルにより表舞台からの隠退を余儀なくされたからだ。しかし――
彼が発明したムカサ・プロトコルの名を知らぬ者はいない。
三十年前のことである。ホログラフィック原理とランダウアー原理を結び付け、NPUの計算処理により量子真空に干渉できる、と提唱したのが若き日のアルトゥール・ムカサであった。そして証拠に、微量の放射性元素の半減期を弄んで見せさえした。
VLSIの発明は、脳によるヘルツとミリメートルスケールの計算を、ギガヘルツとナノメートルの世界にスケール変換した。
ムカサ・プロトコルは、LLMを介したナノ回路上のビットパターンの変化が、フェムトスケールの真空をハックする、一種のプログラミング言語だった。
「元気そうだね、父さん」
ルーカスは言った。
「おお、気候が合ってるのかな。故郷を思い出すよ」
故郷とは、ルーカスが生まれる前の、まだ昼間に外に出られた頃のサンパウロだ。外気温の記憶が、老人の体の芯に残っているのかもしれなかった。季節は逆だったが……
アルトゥールが本棚の、手前の本をどかしてマグカップを出した。ルーカスは、最初は無頓着にもほどがある、と驚いたが、何度も訪問するうちに慣れてしまっていた。
ルーカスが細挽きの濃いコーヒーを眉を顰めながらすすっている間、父はデスクに出しっぱなしの自分のカップに角砂糖を三つも入れてかき混ぜた。
息子も自分が幼い頃住んでいた、気候制御された集約複合建築のキッチンを思い出した。
いつもコーヒーの香りが漂い、やはりアルトゥールは砂糖を三つ入れていた。
まだ混ぜている。
「言いにくそうだね」
「お前の母親にも関係ある話なんだ」
ルーカスの顔が引き締まった。
「なぜ今さら」
「今さらだと! 今だからだ。私は今日この日のことだけを思って生きてきた。お前たちを失い、私にとって時間は止まってしまったからだ。いや、泣き言ではない。私にそんな資格は無い」
そうだ、父さん、あなたにその資格は無い……だけどあなたがどんなに苦しんだかも僕は知っている。だから許したのだ。
「聞きましょうか」
「去年、太陽に最接近した、トロント大学とサンパウロ大学の合同コロナ観測機な」
「ケルビンでしたっけ」
ポルトガル語で智天使のことだ。アルトゥールは頷いた。
「寄付金の代わりに、あれに秘密でペイロードを載せてもらった」
嫌な予感がした。ルーカスはマグカップを置いた。
「秘密? なんでまた」
「私は悪評高い男だぞ」
「だからって……後ろ暗いことでもあるんですか」
「そうやって痛くも無い腹を探られるのが嫌だからだ」
しかし今時の宇宙機は、ムカサ・プロトコルによる軽水素核融合ロケットのおかげでペイロードには余裕がある。
「偽名でも何でも使って堂々と乗せりゃいいじゃないですか。説明できないようなものなんですね?」
「自己複製機械を少し」
ルーカスはのけぞった。過去は許してもテロは別の話だ。
「ああ! なんてことを。嘘だと言ってくれ父さん」
アルトゥールは指でCの字を作った。
「ほんのこれくらいだぞ」
「僕だって自己複製機械くらい知っている。ごまかされるわけがないでしょう!」
「まあ聞いてくれ」
――造化の奇跡の他に、核酸のように分裂して増えるナノスケールの精密機械を造った者はない。いや、ナノマシンでは不可能なのだ。そこは熱ノイズが支配する混沌である。
しかしフェムト、いや、さらに小さいサブフェムトの世界は――
「――苦労したが、私はプロトコルで量子カオスを抑えることに成功した。それからがまた大変だったが、確率波を調速機に、質量を脱進機に、クォークを組み上げてマシンを作ったのだ。色荷論理素子を」
ルーカスは両目を抑えた。
「それ自身がNPUであり、無限に自己複製プロトコルを反復するフェムトマシンを。それを太陽に落としたって? 太陽はいつ消滅するんですか」
――第四の御使ラッパを吹きしに、日の三分の一と月の三分の一と星の三分の一と撃たれて、その三分の一は暗くなり――
神の怒りでさえ三分の一で止めるものを、自己複製機械は次の一瞬で太陽の三分の二が消え、その次の一瞬で世界は暗闇になる……
「そんなことにはならん。ガンマ線はフェムトマシンを破壊する。もろに共振周波数だからな。光球より内側では存在できないのだ。だから太陽コロナに留まるようにプログラムした。コロナが少し薄くなったって誰も気が付かんよ」
落ち着き払った父親に、ルーカスはかっとなった。
「何を知ったようなことを! 実験もしてないくせに!」
「だってさ、太陽には、どこの星からかユニヴァースからか知らんが、すでにフェムト工作員がたくさん来ているぞ。
その排熱を、地球人は、何でコロナはこんなに熱いんだ? って不思議がってるだけじゃないか。今さら多少増えたって変わらんだろう」
「今ユニヴァースって言いましたね!?」
アルトゥールは身を乗り出した。
「そこが肝心な所だ。工作員はクォークの塊だから、収縮して陽子サイズになる。工作員はコロナの中で増殖するだけでなく、増殖率が終端速度に達したら、あとは陽子の中に……量子ワームホールの中に送り出すのだ」
ルーカスは目を剥いた。
「他の星どころか、他のヴァースの恒星まで食い物に……」
そしてぎゅっと目を閉じた。理由が分かったからだ。
「……母さんに関係する話って、これなんですね?」
数秒の沈黙が塊のようにわだかまった。
「うむ」
ルーカスは父の大それた行為を責めたい気持ちと、父への同情の板挟みになった。世界を変える能力と動機だけを授かってしまった男への。
「推測を言っていいですか?」
「うむ」
「工作員と言っていましたね。そいつらは、どうにかして行き先の恒星で、惑星を探すんだ。地球に――過去の地球にそっくりな平行地球を。そして――父さんが浮気をする前に歴史を変えるつもりだ」
二〇四〇年 サンパウロ州 カンピーナス
アルトゥール・ムカサのプロトコルはまずエネルギー分野に最初の市場を確立していた。
常温常圧軽水素核融合炉。四〇フィートコンテナに納まるシステム一式が、一日二〇〇ミリリットルの水で、データセンターー拠点の電力を賄うことができた。
施設だけでなく遠隔地の電源としても導入実績があるほどだった。それほど安定した、故障知らずの装置だったのだ。ビー玉ほどの炉心に、水素ガスを吹き込むポンプの他には、固定されていない部品はアクセスドアしかなかった。
研究でもビジネスでも追い風のそんな時、彼に接触してきたのが石油メジャーの交渉人だった。
プロトコルの将来性と、エネルギー産業界への脅威を感じてのことだな――とアルトゥールは直感したが、その通りだった。
交渉人が携えてきた契約条件は、大金――メジャーにとっては端金――でプロトコルの権利を全て売り渡せ、と言っているようなものだったのだ。一見、共同研究だの資本参加だのまともなビジネス面をしているが、人事権と決裁権の条項たるや。
意外性が無さすぎて落胆するほどだった。
それもあって、アルトゥールは初対面から交渉人に反発を覚えていた。
「ストーンブレイクという男だった」
「ストーンブレイク。名前は?」
「ネイサン・ストーンブレイク。知り合いか?」
「いや、初めて聞いたよ」
「これが嫌な感じの男でな。背が高くて筋肉質、目が小さいが絵に描いたような白人だった」
ルーカスはテーブルの下で、こっそり指で十字を切った。
「外見で決めつけるのは良くないよ、父さん」
アルトゥールはげっそりした顔になった。
「その通り。私は未熟だったのだ。今のお前より若かったのだぞ。おまけにビジネスも順調だったしな。何もわかっちゃいない、エゴが膨れ上がった愚かな若造だったのだ。私は彼に契約書を叩き返した」
そこから先はルーカスも当事者だ。今更責める気も無いが、聞きたくもない話だった。
父は研究だけでなく営業面も一手に引き受け……多忙のあまり家に帰らなくなり……いつのまにか、ビジネスパートナーとして雇った女性と深い仲になっていたのである。
「だがもし私が、ストーンブレイクと交渉していたら? いや、メジャーの要求を丸呑みするのではない。しかし妥協点を見つけることができたかもしれない」
「人生をやり直したい、と?」
「数えきれないシミュレーションを走らせた。ほとんどのインスタンスが一致したよ。それより前でも後でもいかんようだ。いや、私の人生などどうでもいい! お前と、母さんと、そして……」
最悪なのは……
「どうでもよくはないよ、父さん」
ルーカスは過ぎていった歳月を思った。怒り、家族を持つことへの恐怖、それを乗り越えさせてくれた出会い。そしてついに得た、許しと諦観を。しかし、その全てを引き換えにしても、償わなければならない相手がいた。もしそれが可能ならば。
許した以上、彼もなにがしか、共犯者だった。
……最悪なのは、アルトゥールの不倫相手の夫が、妻と子を残して自殺したことだった。
「済まない、ルーカス」
「大丈夫だ。この世界の僕は、何も変わらないんでしょう? 母さんも」
「もちろんだ」
「……あの人たちも」
いつとも知れぬ時、宇宙の果てのどこか
何億回の自己複製を繰り返したことか? 何兆光年の彼方であろうか?
そのG2V型恒星の黄金色のコロナの中で、群制御により回折格子を形成したフェムト工作員たちが、その三番目の惑星の青い反射光に、強いヘリウムのシグニチャを探知した。
それが決め手だった。軽水素核融合の間違いようの無い痕跡だった。その惑星にはムカサ・プロトコルが存在するのだ。
他の惑星や主な恒星の位置も、第三惑星の大陸の配置も、全てが条件に合っていた。工作員の一機から量子ワームホールを通じてGOサインが送られ――
――すでに第三惑星、パラレル地球に拡散し、カンピーナス市の特定の座標に潜入していたもう一機の工作員が目覚めた。それは誰あろうパラレルのアルトゥール・ムカサの心臓血管の至近だった。
フェムト工作員にとっては真空に等しい希薄な原子間空間の暗黒の中、それは痛覚神経末端に脱分極を引き起こすプロトコル・フィールドのビームをフルパワーで照射した。
外しようが無かった、標的は工作員の十億倍も大きかったのだ――
その夕刻、カンピーナス集約複合建築のホテルフロアのロビーでは、外の暑熱も知らぬげに、紅白の金魚の群れが大水槽の中で水草と戯れていた。
ネイサン・ストーンブレイクは、サンパウロ風のやけに甘いコーヒーを前に、静かにソファにもたれていた。
会議室の準備はできていた。団子鼻の、スーツよりカウボーイハットが似合う田舎風の顔だちだが、今はギリシャ哲学者の彫像のように、静かに内心の声に耳を傾けていた。
――クライアントの条件は強硬すぎる。受け入れられる訳がない。
――彼らは焦っているのだ。気候破壊が存続に関わる逆風になっている。
――それにしても極端だ。最低条件は非現実的だ。
――合法でまともな振りをしているのが性質が悪い。端的に下品だ。
クライアントは追い詰められて、過学習したAIエージェントの耳当たりの良い言葉を鵜呑みにしているとしか思えない。
それでも彼はここに立たねばならなかった。彼はプロの交渉人だからだが――心の奥に、石油メジャーの力でムカサの技術が普及すれば、エネルギーの泥沼を抜け出せるかもしれないと期待があったのである。
――ムカサが、賢明な人物だといいのだが。クライアントが冷静になるまで時間を稼げるくらいに。
敵同士が、勝利に等しいステイルメイトを目指して争う奇妙なチェスゲームの、彼は孤独なプレーヤーだった。
ところが突然起こった騒めきに、彼は顔を上げた。
彼は咄嗟に立ち上がり、重苦しい嫌な予感が背中にのしかかっていることに走りながら気づいた。彼は叫んだ。
「救急車を呼べっ」
中途半端な姿勢で立ち尽くす人々の輪の中心に、浅黒い痩せた癖毛の男が心臓を掴むように体を丸めて倒れている。ストーンブレイクは手近な男を指さして怒鳴った。
「AEDっ」
そして倒れているムカサに駆け寄ると、彼は薄く目を開けてストーンブレイクと目を合わせた。意識はある!
不意にストーンブレイクは予感の正体を悟った。自分でも理由は分からないが、待ち合わせの時間ちょうどであることに、なぜか気づいたからだ。
そして一方、ムカサは垣間見た、自分を助け起こした男の、冷たいビジネスマンの仮面に隠れていた、純朴なテキサス男の素顔を。
――工作員は、拡散する激痛のパルスに何の興味も示さず、ワームホールに信号を送り返した。
MISSION COMPLETE
「……そうだ」
「それでも父さんのおかげで、どこかのパラレル地球で、違う可能性が開けたんだ」
デスクの端末の画面が一行上にスクロールした。
MISSION COMPLETE
「分かってくれるか」
気まずい沈黙が落ちた。素直になるほどルーカスは若くなく、率直になるには若すぎた。
「どんな風に変わるんだい」
「シミュレーションによると、私は検査入院し、原因不明の内部神経痛発作ということになるらしい。実際に心臓が悪いでもないからな。
健康不安を抱えた私は、石油メジャーと妥協的な契約を結び、研究権を持ったまま、家庭の時間を取り戻すことになる」
「良いと思うよ」
端末がまたスクロールした。
MISSION COMPLETE
「意外と多いな」
積みあがってゆく完了報告を、ルーカスは訝しんだ。アルトゥールは肩をすくめた。
「そうでもないさ。ポインター状態というものがある。ユニヴァースは無数に存在するが、それぞれがとれる状態は有限だ。中間状態はカオス不安定性によって消えてしまう。
ところで遺産の話をしたいんだが」
「急に現実的だ」
「いかんか」
「だって父さん、まだ死にそうにないじゃないか」
「ゲホッ、ゲホゲホッ」
ルーカスは目を覆って首を振った。
「分かったから聞かせてください」
「パラレルヴァースは無数にあるが、そこらにほいほい転がってる訳じゃない。当たりを引く工作員は極々僅かだ。ほぼ全てが無関係な星に辿り着く」
せっかく少し落ち着いたのに、とルーカスは思った。なんだか寒気がぶり返してきたぞ。
「父さんがそれを無駄にするはずがない」
「そうとも。工作員どうしはワームホールで繋がっている。そしてワームホールの両端では時間が同期する。何億光年離れていようと」
アルトゥールはコーヒーを注ぎ、また砂糖を入れながら言った。
「ほぼ遅延ゼロの量子暗号化LANだ」
ルーカスは端末の画面を畏怖の、いや恐怖の目で見つめた。
「そんな……」
「それをお前に遺す」
超――マルチヴァースに跨る――天文学的な数のノードからなるグリッドコンピュータを――
「素因数分解でも格子問題でも、好きに問うがいい。この世で計算されたことがあるものなら、あらゆる答えをこれは知っている」
ルーカスは青ざめて立ち上がった。
「かえって迷惑だよ!」
「私も作ってから、しまった! と思ったよ! いざ質問しようとしたら、足が震えてどうしても勇気が出ん。
頼みがある。私が死んだら、死んだ後だぞ、こいつに尋ねてくれないか……」
ルーカスは顔の皮膚感覚が無くなっているのを感じた。
「……改変された宇宙では、お前と母さんは幸せか? と」
ルーカスはデスクの上のディスプレイに向かって立ち尽くした。
黒字に白い文字だけの、真冬のように簡素なカラースキームだった。
なんという身勝手な、臆病な……自分と同じ、普通の人間か。
仮に質問したとして、どんな答えがあるというのか。
YES、彼らは幸せです。
NO、彼らはやはり不幸です。
自分にも問う勇気があるだろうか。




