静かな家は愛溢れる世界
何のために生まれて何をして生きるのか。
幼い頃に聴いた歌にそのような詞があった気がする。果たしてどれだけの人が、この問いに答えられるだろうか。
しかし、私は断言できる。
私は妹に出逢うために生まれて、妹を愛して生きる。
妹の陽菜が産声を上げた瞬間を、私ははっきりと覚えている。
高くて、まだ形の定まらない音だった。
不快ではなかった。ただ、少しだけ、空気が乱れるのを感じた。
私は父に連れられてその場にいた。
父の抱える腕の中で、私は生まれたばかりの小さな命を見ていた。
小さな塊が、布に包まれている。
赤くて、未完成で、触れれば壊れそうなほど頼りない。
それでも、目が離せなかった。
理由は分からない。
ただ、視界の中心に置いておく必要があると、そう理解した。
抱き上げられたそれは、まだ泣いていた。
音が続く。一定ではない揺れが、空間に広がる。
無意識に父の腕から逃れて、私は一歩、近づいた。
触れてみたいと思った。
そうすれば、少しは整う気がした。
誰かに止められたかどうかは覚えていない。
けれど、次に触れたとき、あの子は静かになった。
それだけは、はっきりと覚えている。
泣き声が止む。
空気が落ち着く。
その変化が、心地よかった。
ーーーーこの子は、私だけが見ていればいい。
その意思が頭から爪先まで全身を支配する。
この時から、ただの幼児が“深月”という私になった。
妹の名前は、陽菜になった。
呼べば、こちらを見る。
触れれば、静かになる。
脆くと易しい。
そして何より、離れたときにだけ、不安定になる。
それが分かってからは、あまり離さないようにした。
周囲はそれを「面倒見がいい」と言った。
否定はしなかった。説明する必要もなかった。
どう呼ばれても構わない。
私と妹の、この在り方が維持されるならば、それでいい。
それからいくつかの年月を経て、家には、私と陽菜以外の生活音がなくなった。
両親は仕事で家を空けている。
それは特別なことではなく、最初からそういうものとして受け入れていた。……そう思わせておく方が、都合が良い。
不便はない。
むしろ、変数が少ない環境は管理しやすい。
連絡は定期的に来る。
その多くは、私が応対した。
陽菜は元気にしている。
学校にも問題なく通っている。
生活に不自由はない。
事実だけを伝える。
余計な情報は、判断を鈍らせる。
帰宅の予定を聞かれたときは、無理をしなくていいと答えた。
仕事を優先するのは自然なことだ。
そのほうが合理的で、実際に困ることもなかった。
陽菜の世話は、私一人で足りる。
他人の手は要らない。
生きる意味を理解した私には、世界がクリアに見える。あらゆる煩わしさが意味を成さない。
完璧な姉に、私はなれる。
この家は静かで、変化が少ない。
だから、維持が容易だった。
ーーーー外からの介入は、少ないほどいい。
陽菜は、よく笑うようになった。
私を見て、笑う。
呼べば、迷いなく近づいてくる。
本当に愛らしい。小さく愛すべき命は、一秒ごとに見える世界から養分を吸い上げている。
成長と呼ぶ“それ”は、陽菜に変化をもたらす。
他の人間に視線を向けることが増えた。
学校という環境に入ってから、その傾向は顕著になった。
当然の反応だと思う。
問題はない。
ただ、調整は必要だった。
「ねえ、深月」
ある日、陽菜が私を呼んだ。
「今日ね、クラスの子と一緒に帰ったの」
「そう」
「優しくてね、話しやすい子だった」
陽菜は楽しそうに話していた。
声の調子が少しだけ高い。
その変化を、私は正確に認識する。
「明日も一緒に帰るかも」
「そう」
繰り返す。
否定はしない。
ただ、必要な確認だけを行う。
「その人と、どこまで仲良くなるつもり?」
「え?」
陽菜が少しだけ戸惑う。
「普通に、友達だよ?」
「そう」
それ以上は言わなかった。
十全だ。
陽菜は純粋だ。
檻に入れて枷を付ける必要はない。
方向だけ整えれば、自然と戻る。
実際、その後の数日で、陽菜はまた私の隣にいる時間を増やした。
帰宅後、私の近くに座る。
話しかける。
触れれば、逃げない。
これで良い。
ーーーーやはり、この状態が最も安定する。
夜、陽菜の部屋に入る。
ノックはしない。
必要がないからだ。
「陽菜、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
ベッドの上で、こちらを見る。
その視線が、最初から変わらないことを確認する。
私は椅子に座らず、そのままベッドの縁に腰を下ろした。
距離が近い。
呼吸が分かる。
その状態が、一番正確だ。
「……どうしたの?」
陽菜が先に口を開く。
「確認」
「なにを?」
少しだけ考える。
言葉にする必要があるかどうか。
けれど、ここは明確にしておいたほうがいい。
「陽菜」
「なに?」
「あなたは、誰を一番見ている?」
陽菜は一瞬だけ目を瞬かせた。
理解に時間はかからない。
「深月だよ」
即答だった。
それでいい。
けれど、確認はもう一つ必要だ。
「これからも?」
「うん」
迷いはない。
その返答を聞いて、わずかに思考が整う。
必要な条件は満たされている。
ならば、次に進んでも問題はない。
「陽菜」
「なに?」
「あなたが好きよ」
言葉にするのは初めてだったが、内容に変化はない。
最初からそうだったものを、表に出しただけだ。
「……わたしも好きだよ」
少しだけ声が揺れている。
けれど、否定はない。
「じゃあ、陽菜はこれからもわたしだけ見てくれる?」
「見るよ」
それで十分だった。
私は陽菜の手を取る。
温度が伝わる。
安定する。
額に唇を寄せる。
触れる。
接触は、状態を強化する。
陽菜の呼吸がわずかに乱れる。鼓動が早まり、躰が温まる。
陽菜の瞳に映る私自身を見た。
ヒトも所詮はケモノ。
私もヒトだったのだと、私はこの時初めて理解した。
額に触れた温度は、すぐに消えなかった。
唇を離したあとも、そこに残っているように見えた。
陽菜は何も言わず、ただこちらを見ている。
視線が逸れない。
その状態が維持されていることを確認して、わずかに息を吐いた。
問題はない。
想定していた反応と、大きな差異はなかった。
陽菜の手はまだ私の中にある。
力を込めなくても、離れない。
それで良い。
次の日から、陽菜の行動はより明確になった。
学校では距離を取る。
必要以上に関わらない。
それは適切な判断だと思う。
外部に過剰な情報を与える必要はない。
けれど、帰宅後は違う。
陽菜は迷いなく私の側に来る。
隣に座り、自然に躰を寄せる。
その選択に、躊躇がない。
望ましい状態だった。
「陽菜、手」
「また?」
「触りたいの」
理由を問われることはない。
陽菜は手を差し出す。
指を絡める。
温度が交わりひとつになる。
外部で発生したわずかな揺れも、この接触で整う。
「陽菜は、私以外の人と仲良くしないでね」
「しないよ」
即答。
その速さに問題はない。
むしろ、余計な思考が挟まっていない証拠だった。
「本当に?」
「深月が好きだから」
私は陽菜の肩に寄りかかる。
体重を預けると、陽菜は少しだけ息を詰めた。
もちろん、拒絶などしない。
受け入れている。
なら、この程度の負荷は問題ない。
「陽菜も、もっと甘えていい」
「甘えてるよ、充分」
「足りないわ。もっと欲しい」
言葉は正確に選ぶ必要がある。
不足している要素は、明確に伝えたほうがいい。
陽菜の首に腕を回す。
距離を詰める。
呼吸が混ざる位置。
この状態が最も情報量が多い。
「陽菜の全部、私にちょうだい」
「……うん」
少しだけ間があった。
けれど、拒否ではない。
本当に、可愛い子。
夜、陽菜の部屋に入る。
灯りは落ちているが、起きていることは分かる。
「陽菜、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
ベッドの端に腰を下ろす。
昼間よりも、空気が柔らかい。
陽菜の呼吸が、一定ではない。
わずかに揺れている。
原因は理解している。
それも含めて、問題はない。
「ねえ、深月。隣で寝ていい?」
「当たり前でしょう。いつものことじゃない」
「そうだけど……今日は違う」
陽菜はそう言う。
違いは認識している。
けれど、本質的には変わらない。
関係に名前が付いただけだ。
私は布団の中に入る。
陽菜の手を取る。
昼間と同じ温度。
確認する。
「ひな……。あなたが可愛くて狂いそうよ」
言葉は正確ではないかもしれない。
けれど、近い。
陽菜の反応が大きい。
呼吸が乱れる。
心拍が上がる。
意識がこちらに集中している。
望ましい。
「……わたしも、深月が好きで狂いそう」
「狂っても良いのよ。私が赦すわ」
条件は満たされている。
私は陽菜の頬に触れる。
軽く唇を寄せる。
ただの粘膜同士の接触が、こんなにも悦ばせてくれる。
「陽菜は、私の世界だから」
言葉にすると、輪郭がはっきりする。
「わたしもそう。深月が世界の中心だよ」
なんて美しい対称性。
すべてがここに在る。
陽菜が私に抱きつく。
腕の力は強くない。
けれど、離そうとはしない。
そのまま目を閉じる。
呼吸が少しずつ揃っていく。
体温が重なる。
境界が曖昧になる。
この状態が、一番安定している。
外部の影響はない。
介入もない。
必要な要素はすべてここにある。
ーーーーこのままでいい。
最初からそうだった。
これからも変える必要はない。
両親からの連絡は、その週にもあった。
帰宅の予定を問われる。
「無理をしなくて帰って来なくても良いわ。お仕事が忙しいのでしょう。こちらは何も問題ないから安心して」
私は事実をなめらかに言葉にした。
この家は、すでに安定している。
余計な変化は必要ない。
私は両親にとても感謝しているーー愛すべき陽菜を産んでくれたこと、そして、陽菜を愛する私を産んでくれたことを。
私をつまらない世に産んだのを恨んだこともあったけれど、陽菜が産まれてからはすべてに感謝しているの。
最低限の義務を果たした上で、この家に帰らないでいてくれるならば。
私たちの世界を脅かさないのならば。
私は貴方たちが生きることを赦します。
電話を切ったあと、陽菜の部屋へ向かう。
ドアを開けると、陽菜がこちらを見た。
「深月?」
「なに」
「なんでもない。呼びたくなっただけ」
「そう」
問題はない。
陽菜はここにいる。
私を見る。
それで良い。
陽菜への愛と悦びと愉しみが、今日も私を世界に繋ぎ止めている。
お読みいただきありがとうございました!
以前書いた「温もり伝わる静かな家」
https://ncode.syosetu.com/n5289ll/ の姉視点のスピンオフでした。もしよろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。
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