第1話 その力、取り扱い注意
ガタッ、ガタタッ……。
東京、中野区。築三十年の木造アパートの一室に、今にも壊れそうなエアコンの駆動音が響いている。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の中の惨状を照らし出していた。
ベッドの上には布団がなく、肝心の住人は床に落ちた布団の上で丸くなっている。
「……んぁ……」
大学生の天城駆は、重たいまぶたを閉じたまま、右手をだらりと宙に向けて振った。
その瞬間、皮膚の下で何かがざわりと蠢く。
彼の体に共生している仮想物質が、脳波に反応して起動したのだ。
机の上に置いてあった缶コーヒーが、まるで透明な糸に引かれるように宙を滑り、コトン、と駆の手のひらに収まる。
「便利だけど……完全に堕落の道だよなあ、これ」
寝ぼけ声で呟きながら、駆は指一本動かさずに『開ける』と念じた。
シュッ、と微かな金属音がして、プルトップが勝手に押し込まれる。
ナノマシンが金属の分子に干渉し、形状を変化させたのだ。
起き抜けの体にカフェインを流し込み、彼はようやく上半身を起こした。
駆は、都内の大学に通うごく普通の二年生だ。
講義に出て、バイトをして、帰って寝る。
たった一つ、幼い頃の事故で体に入り込んだナノマシンを除けば。
(誰かに見せびらかすもんでもないし、平和に暮らせればそれでいいんだよな)
彼は大きくあくびをして、着替えのために立ち上がった。
あくまで、生活を少しだけ楽にするための『秘密の道具』。それが駆のスタンスだった。
最寄り駅へ向かう道中。
駆はポケットにイヤホンを突っ込んだままだったことを思い出し、歩きながら指先で空中に線を引いた。
ひゅるっ。
ナノスウォームが空気を震わせ、微細な磁場を発生させる。ポケットの中で絡まっていたコードがひとりでにほどけ、蛇のように這い出してきた。
駆はそれを空中で掴み取る。
「サンキュー。相変わらず器用だな……」
耳に装着し、いつものロックバンドの曲を再生しようとした、その時だった。
『駆、緊急事態。三時の方向、上空!』
突然、イヤホンから緊迫した少女の声が響いた。
再生した曲ではない。駆の脳波とリンクしているオペレーションAIの声だ。
「え?」
駆が反射的に空を見上げる。
建設中のビルの屋上付近から、黒い影が猛スピードで落下してくるのが見えた。
資材運搬用の大型ドローンだ。制御を失っているのか、不規則な軌道を描きながら、歩道へ向かって突っ込んでくる。
その落下地点には――スマホを見ながら歩いている女子高生がいた。
「おいッ!!」
駆は地面を蹴った。
常人なら絶対に間に合わない距離。だが、駆の思考に合わせてナノマシンが瞬時に反応する。
足元の摩擦係数を操作し、爆発的な加速を生み出した。
(間に合え……!)
女子高生が驚いて顔を上げるのと、ドローンが頭上に迫るのはほぼ同時だった。
重量五十キロはある鉄塊が、彼女を押し潰そうとする。
「くそっ、弾けろ!!」
駆は女子高生を抱き寄せながら、滑り込むように右腕を真上へ突き出した。
体内のナノスウォームが総動員され、大気中の電子を急速に集束させる。
バヂヂヂッ!!
右手の先から青白いプラズマの閃光が迸った。
電撃魔法――科学的に再現された雷撃が、落下してくるドローンを直撃する。
ドローンの電子回路が一瞬で焼き切れ、プロペラが停止。さらに、ナノマシンが作り出した圧縮空気の『壁』が、その勢いを強引に殺す。
ドォォォン!!
激しい衝撃音とともに、黒煙を上げたドローンが歩道の脇、ガードレールをひしゃげさせて着地した。
周囲にいた人々から悲鳴が上がる。
「っ……、あっぶねえ……」
駆は荒い息を吐きながら、腕の中の女子高生を見た。
彼女は腰を抜かし、震える瞳で駆を見上げている。
「け、怪我は?」
「あ……え、えと……はい……」
無事だ。
駆はホッとしたのも束の間、すぐに冷や汗を流した。
周囲の視線が、壊れたドローンと、そして自分に向けられている。
特に、手から放たれた青白い光を目撃した人もいるかもしれない。
『駆、これ以上は目立ちすぎる。早く離脱して』
イヤホンから、AIの冷静な指示が飛ぶ。
駆は小さく舌打ちをした。
「……悪い、あとは警察に任せるから!」
駆は女子高生にそう言い残すと、逃げるようにその場を走り去った。
背後でざわめきが大きくなるのを感じながら、路地裏へと駆け込む。
(バレたか? いや、ドローンの爆発に見えたはずだ……たぶん)
心臓が早鐘を打っている。
壁に背を預けて息を整えていると、イヤホンの向こうでAIが呆れたように言った。
『ナイスファイト、と言いたいところだけど……派手にやったね、駆』
「しょうがないだろ! 見捨てるわけにいかないし」
『まあね。でも、あのドローン……ただの故障じゃないよ』
「は?」
『制御プロトコルが外部から書き換えられてた。誰かが意図的に落としたのよ』
駆の背筋に冷たいものが走った。
ただの事故じゃない?
「……まさか、俺を狙ったのか?」
『その可能性は低いけど、ゼロじゃない。今日から私があなたの影の家庭教師として、戦闘訓練もメニューに追加しておくね』
「はあ!? 戦闘訓練だぁ!?」
『文句言わない。とりあえず、名前を決めてよ。呼びにくいから』
駆はため息をつき、空を見上げた。平和な日常は、どうやら脆くも崩れ去ったらしい。
「……ナノでいいよ。よろしく頼むぜ、相棒」
『了解、駆。スパルタで行くから覚悟してね』
楽しげなナノの声とは裏腹に、駆の表情は引きつっていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




