海の見える境内で
海がきれいな町ほど、静けさは深い。
山に囲まれ、電車は一時間に一本。観光地になれそうな絶景があっても、そこへ来る人は多くない。だから、景色だけがずっとそこに残っている。
この物語は、そんな町の森にある「古びた鳥居」から始まります。
くぐるだけで、時間の流れがずれる場所。噂としては聞いたことがあるけれど、確かめる勇気はない――そんな程度の不思議です。
主人公の深町恒一は、空気を読むのが得意です。
得意だからこそ、本音を隠せます。隠せるからこそ、いつの間にか自分が何者なのか分からなくなる。冬が近づくほど、周りは勝手に進んでいくのに、自分だけが置いていかれる気がしてしまう。
そこへ転校してきた篠宮澪は、淡い顔で、鋭い言葉を投げます。
「言わないなら、無かったことになるよ」
不思議は、問題を解決してくれません。
むしろ、逃げたくなる心を優しく包んで、その代わりに“外側の時間”を進めていきます。落ち着くための数秒が、誰かの数時間になってしまう。取り返せない差が、静かに積み上がっていく。
それでも――鳥居は残ります。
逃げ道は消えません。
消えないからこそ、選ぶしかない。使うのか、使わないのか。言うのか、言わないのか。
海の見える境内で、彼らが何を選ぶのか。
この冬の物語を、どうか最後まで見届けてください。
第一話 古びた鳥居
十一月の終わり、廊下の窓は薄く曇っていた。海から来る風が冷たくて、制服の隙間に入り込むたび、息が浅くなる。
「転校生を紹介します。篠宮さん」
担任の声に、教室の空気が一段だけ上がった。視線の先に立った女子は、淡い。髪も表情も蛍光灯に溶けそうな薄さなのに――目だけが、驚くほどはっきりしていた。
「篠宮澪です。よろしくお願いします」
それだけ。自己紹介ってもっと、当たり障りのいい言葉で埋めるものじゃないのか。けれど澪は言葉を足さないまま、ざわめきを受け流して席へ向かった。
放課後、黒板消しの粉が舞う中で、委員長の椎名一がプリントを机に叩いた。
「商店街の冬灯り。うちの学校は協力枠が決まってる。時間守れるやつだけ、明日残って」
声に無駄がない。それだけで教室の温度が下がった気がした。
「はいはい、わかったって」
志賀波が笑って場を丸めようとする。
「椎名、言い方キツい。みんなやるだろ」
「“やる”って言葉が一番信用できない。できるかどうかで答えろ」
椎名の視線が僕に飛んできた。
「深町。お前は?」
胸の奥が、ひゅっと縮む。空気を読むのは得意だ。だからいつも、答えを曖昧にして、角が立たない方へ逃げる。
「……空いてるときに、手伝う」
言った瞬間、椎名の眉がわずかに動いた。
「空いてる“とき”って何だよ。お前、いつもそうだな」
笑って流せばいい。軽く返せば波風は立たない。……なのに、口角が上がらなかった。
そのとき、前の席から澪がふいに振り返った。視線が合う。逃げ道がない。
「深町くんって、本音どこ?」
「……え?」
「言わないなら、無かったことになるよ」
澪はそれだけ言って、また前を向いた。まるで自分に言い聞かせるみたいに、淡々と。
帰り道、波が隣を歩く。
「気にすんなって。澪、ちょっと変わってるだけだろ。椎名もいつも通り」
「……うん」
返事はしたのに、胸の奥だけがずっとざわついていた。“本音どこ?” そんなの、分からない。分からないのが怖い。
このまま、何者にもなれず終わりそうで怖い。そう思った瞬間、自分が急に薄くなる。
気づいたら僕は家とは逆の道へ曲がっていた。町外れの森。子どもの頃は虫取りで入ったことがある。今は暗くて、誰も近づかない。
「おい、どこ行くんだよ」
波の声が背中に飛んでくる。
「……ちょっと、頭冷やす」
「ここで? 森で? 波風どころじゃねぇって」
言い返せなかった。僕は森の入り口に足を踏み入れる。枯れ葉が靴の下で湿った音を立てた。木々の間は空より早く暗くなる。
――戻ろう。そう思ったのに、胸の奥のざわつきが足を止めさせない。
僕は、闇雲に走った。
枝が頬をかすめる。息が痛い。どこへ行きたいのか分からない。分からないまま、ただ逃げたい。走って、走って――急に視界が開けた。
木々の隙間の向こうに、赤い影が立っている。近づくほど、それが“門”だと分かった。
古びた鳥居。
塗装は剥がれ、柱の根元は黒ずんでいる。なのに倒れずに立っている。まるで、ずっとここで誰かを待っていたみたいに。
「……何だよ、これ」
喉が乾いた。風が止んだ気がした。森の音が遠のく気がした。
子どもの頃、誰かが言っていた。森の奥に鳥居があって、くぐると時間がずれるって。大人に聞けば笑われる噂。年寄りに聞けば「そんな話もあったな」と濁される昔話。
背後から、波の息切れした声がした。
「……おい、深町……! 急に走るなって……」
波が鳥居を見て言葉を失う。
「……うそだろ。こんなの、あったっけ」
僕は返事をしなかった。鳥居の向こうが、暗いのに“黒”じゃない気がした。そこだけ空気が薄い。音が少ない。怖いのに、落ち着く。
――ここなら、何も考えなくていい。
足が勝手に動いた。鳥居の下へ。冷たい木の影。柱の横をすり抜けて、境界線を越える。
その瞬間、森の音がすっと消えた。
風も、葉の擦れる音も、波の息も、全部。代わりに遠くで“波みたいな音”だけがする。なのに、海の匂いがない。
振り返ると鳥居はある。でも外側の森が“薄い紙”みたいに遠い。
「……ここ、なに……」
声が自分のものか分からなかった。
五秒だけ。そう決めた。息を整えたら戻る。僕は鳥居をもう一度くぐった。
――音が戻る。
枯れ葉。風。波の荒い呼吸。夜の冷たさが一気に肌へ貼り付いた。
「深町! お前――」
波が怒鳴りかけて途中で止まった。僕の顔を見て、それからスマホを見て、目を見開く。
「……え、嘘。今……何時?」
波の画面の時刻。数字が現実味を持って迫ってくる。
「……二時間?」
僕は、たった五秒しか息をしていないのに、空はもう完全に夜だった。遠くの商店街の灯りが、さっきより確実に増えている。
鳥居の前に立ったまま、僕は初めて思った。
逃げ道を見つけた、って。
――そして、それが一番怖い、って。
第二話 消えた二時間
翌朝、教室はいつもよりざわついていた。冬灯りの担当表が黒板に貼られ、椎名がペンで線を引いている。
「ここ、昨日のうちに仮で決めた。異論は今言え」
昨日のうちに――? 僕の頭の中に、鳥居の暗さが一瞬よぎる。僕は昨日、その二時間分、ここにいなかった。
波が僕の机に肘をついて小声で言う。
「昨日のこと、誰にも言うなよ。絶対波風立つ」
「分かってる」
分かってる。分かってるのに、胸がざわざわする。僕が言わなければ、無かったことになるはずなのに。
「深町」
椎名の声で背筋が固まった。
「昨日『空いてるときに』って言って帰ったよな。で、どこ行った」
教室の空気がまた一段冷える。
「……家」
嘘が舌に貼り付く。
「ふーん。じゃあ今日は残れるな。時間、守れよ」
僕は頷いた。でも頷いた瞬間、澪が後ろから静かに言った。
「昨日さ、深町くん。帰り道、途中でいなくなったよね」
音が消えたみたいに静かになる。波が「おい」と小さく唸る。椎名がゆっくり澪を見る。
「篠宮。今言う必要あるか」
「あるよ」
澪は椎名を見て、次に僕を見た。
「言わないなら、無かったことになる。けど……無かったことにしたいのは、誰?」
喉の奥が熱くなる。笑って流そうとして、できなかった。
放課後、冬灯りの準備で残った教室は昼より寒い。椎名は段取りを詰め、波は場を丸め、僕は指示を待つふりで時間をやり過ごす。澪だけが僕の“逃げ”を見ている。
作業がひと段落したころ、澪が小さく言った。
「森、行った?」
息が止まる。
「……なんで」
「なんとなく。深町くん、昨日から“境目”みたいな顔してる」
意味が分からないのに当たっているのが怖い。
「……行った。走って、奥まで」
波が顔をしかめる。
「やめろって。澪も突っ込むな。そういうの、面倒になる」
「面倒でも、言わないと残る」
澪は波を見ずに言った。
僕は床を見た。
「……鳥居があった」
口から出た瞬間、世界が少しだけ動いた気がした。
澪は頷く。
「やっぱり」
どうして“やっぱり”なのか、僕には分からない。ただ、澪の目が鳥居の向こうと同じ色に見えた。
僕は思った。
あそこは逃げ道だ。息ができる場所だ。
でも、僕が息をした分だけ、外は進む。
それを、僕はもう知っている。
第三話 冬灯りの予定表
冬灯りは、古い商店街が年に一度だけやる小さな点灯イベントだ。派手な観光地みたいな賑わいはない。けれど、シャッターの多い通りにだけ、確かに“冬が来る”合図が灯る。
だから椎名は必死だった。予定が崩れれば、その合図が消える。
「深町。掲示用の紙、今日中に切って。志賀、貼り場所の地図。篠宮、案内の台本、読みやすく書き直して」
椎名の指示は正確で、逃げる隙がない。
僕はうなずきながら、頭の片隅で鳥居のことを考えていた。あそこに入れば、五秒で二時間。心を整える時間が増える。逃げる時間が増える。
作業の途中、澪が僕の手元を覗いた。
「切り方、丁寧。こういうのはちゃんとできるんだね」
「……別に」
「“別に”って言葉、便利?」
心臓が小さく跳ねる。
「深町くん、鳥居の中、入ったんでしょ。二時間、消えたんでしょ」
僕は小さく頷いた。
「もう一回入ったら、どうなると思う?」
答えられなかった。
波が割って入る。
「やめとけって。考えれば考えるほど、面倒になる。ほら、掲示用の紙、曲がってるぞ」
波は僕を守りたいのだと思う。でもその守り方は、僕に“考えるな”と言うのと同じだった。
その夜、僕は森の入り口に立っていた。自分でも分からない。背中を押されたわけじゃない。むしろ、誰にも知られずに、息をしたかった。
鳥居はそこにあった。近づくほど、空気が薄くなる。
くぐらない。今日はくぐらない。
そう思ったのに、足は一歩だけ前に出てしまった。
――五秒だけ。
僕は鳥居をくぐった。
内側は相変わらず静かだった。音が少なく、遠くで波みたいな音だけがする。ここなら、僕の焦りも曖昧さも、いったん止まる。
僕は数えた。
いち、に、さん、し――
五で戻るはずだった。
でも“戻る”という意志が、ふっと薄くなる。
目を閉じれば、楽になる。
このまま少しだけ、何も考えないでいられる。
気づけば僕は、六まで数えていた。
慌てて鳥居をくぐり直す。外側へ。
森の音が戻る。空の色が、ほんの少しだけ違う。
スマホを見る。二十四分進んでいた。
六秒。たった一秒増えただけで、外は二十四分増える。
僕は理解した。
この不思議は、“少し”を許さない。
第四話 置いていかれる
次の日、僕は昨日の“二十四分”を埋めるために丁寧に動いた。遅刻も欠席もしていない。椎名の指示も守った。笑顔も作った。
それでも、会話のどこかが噛み合わない。
「深町、昨日の貼り場所、変えたから」
波が言う。
「え、昨日?」
「昨日。お前、うんって言ったじゃん」
僕は言葉を失った。僕の中の“昨日”には、その会話がない。僕は森にいたはずだ。
「……ごめん、覚えてない」
波が一瞬だけ、顔を固くした。すぐに笑う。
「いいって。波風立てんなよ。俺が言っとくから」
波が笑えば、場は丸くなる。
でもその笑いが、僕の胸に小さな穴を開ける。
澪は、その穴を見つける。
「“覚えてない”って言うの、怖くない?」
「……怖い」
「じゃあ、やめればいい」
正論。
椎名の正論と違って、澪の正論は僕の逃げ道を消す。
冬灯りの準備は進む。商店街の人たちが学校に来て、説明会があって、掲示が貼られて、放送の台本ができていく。
僕は“参加している”はずなのに、どこか外側にいるみたいだった。身体は教室にあっても、僕の時間が教室にちゃんと残っていない。
ある日、椎名が僕を呼び止めた。
「深町。ここ、数字が合わない。お前が書いた分、抜けてる」
「……え」
「“え”じゃない。確認して提出しろって言った」
僕は反射的に謝る。でも、どこをどう直せばいいのか分からない。僕が作業していたはずの時間が、僕の中で薄い。
澪が横から言う。
「深町くん、昨日の放課後、途中で抜けてた」
椎名の目が細くなる。
「……またか」
波が慌てて割って入る。
「ちょ、やめろって。そういうの言い方――」
「志賀、止めるな」
椎名は冷たく言った。
「“止める”のは、責任を取ってからだ。深町、もし何かあるなら言え。ないなら、もう曖昧な返事するな」
喉の奥が詰まった。
言えない。言えば僕は“変なやつ”になる。
言わなければ僕は“信用できないやつ”になる。
その夜、僕はまた森へ向かった。
逃げるために。
それが一番、恥ずかしいのに。
第五話 無かったことになる
鳥居の前で立ち尽くす。
僕はもう知っている。五秒で二時間。十秒で四時間。三十秒で十二時間。二分で二日。
“落ち着くため”に入るには、代償が大きすぎる。
だから今日は、くぐらない。
……そう思っていたのに、思考が追いつく前に身体が動いた。
内側は静かで薄い。色も音も薄い。自分の輪郭だけがはっきりする。
ここだと僕は、考えなくていい。
「何者にもなれない怖さ」を、いったん棚に置ける。
僕は数えた。
いち、に、さん、し、ご。
戻る――はずだった。
でも“戻る”という意志が、また薄くなる。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、楽でいたい。
気づけば僕は、三十まで数えていた。
はっとして鳥居へ戻り、くぐり直す。
外側に戻った瞬間、空気が刺さった。
寒い。
そして、空が違う。
夜だったはずの森が、もう朝へ傾いている。
スマホを見る。十二時間進んでいた。
「……やった……」
学校へ行けば、僕は“昨日の放課後”を丸ごと失っている。
教室に入った瞬間、視線が刺さった。
椎名が僕を見る。
「深町。昨日の作業、途中で消えたよな」
波が僕の袖を引く。その手が震えているのが分かる。
「……もうやめろって。頼むから」
波は初めて、本当に怒っている声だった。
それなのに僕は返せない。返せないまま、笑いそうになった。笑えば角が立たないから。
澪が僕の机の前に立った。
「深町くん」
淡いのに鋭い目が、僕の逃げ道を塞ぐ。
「言わないなら、無かったことになる」
澪はゆっくり言った。
「でもね。無かったことにしたのに、残るものがある。そういうの、嫌い」
喉が鳴った。
残るもの。罪悪感。空白。置いていかれた時間。
僕はやっと、声を出した。
「……怖いんだ」
それだけ。
それだけ言うのに、全身が痛かった。
「何が?」
澪が聞く。
「……分かんない。分かんないのが怖い」
言ってしまった瞬間、僕は少しだけ呼吸ができた。
なのに、その日の放課後――僕は“その会話の細部”を思い出せなくなっていた。澪の表情も、波の声色も、椎名の目の冷たさも、ぼやける。
僕が飲み込んだ本音ほど、記憶が薄い。
まるで鳥居が、「言わなかった分」を奪っていくみたいに。
第六話 境界に立つ
週末、冬灯りの現地確認で商店街へ行った。古いアーケードに、昼の光がまだらに落ちている。シャッターの多い通りでも、準備のために人が動くと、少しだけ息を吹き返す。
椎名は商店街の人と話しながら、僕らに指示を出す。波はその横で空気を柔らかくしようと笑う。澪は少し離れて、周囲を観察していた。
僕は歩きながら思う。
僕がいなかった時間も、ここは進む。
僕が逃げた分だけ、誰かが埋める。
帰り道、澪が僕に並んだ。
「森、もう行った?」
「……行った」
「何回?」
僕は答えられなかった。数えたくなかった。
澪は僕の沈黙を見て言った。
「ねえ。行くなら、今日、私も行く」
「……え」
「鳥居の中には入らない。けど、そこまで一緒に行く」
波が横から即座に言う。
「やめとけって。澪まで巻き込むな」
「巻き込むのは、黙って見てる方だよ」
澪は波を見た。
「志賀くんの“波風立てない”って、優しさに見える。でも、それって」
言葉を選ぶみたいに澪は一拍置く。
「深町くんが“言わないまま消える”のを許してる」
波が黙る。
僕は胸が痛くなる。波は僕を守っている。でもその守り方は、僕を薄くする。
夕方、森の入り口。空は早く暗くなり、海の匂いが冷たくなる。
鳥居の前に立つと、澪が一歩だけ前に出た。
「これが……」
澪は柱に触れない。触れないまま、空気だけを確かめる。
「境目」
澪は小さく言った。
「ここ、静かすぎる」
僕は鳥居の中を見た。薄い世界。逃げ道。
ここに入れば、僕はまた“少し”楽になれる。
澪が僕を見る。
「深町くん。入る前に、一個だけ言って」
「……何を」
「本音。短くていい」
僕は笑いそうになった。
でも笑ったら、また無かったことになる。
「……僕は、怖い」
「何が?」
「……僕が、僕のまま終わるのが」
言った瞬間、背中が熱くなった。恥ずかしい。弱い。情けない。
でも澪は否定しなかった。
「じゃあ」
澪はまっすぐ言った。
「その怖さと一緒に、外にいよう」
その言葉が、僕の中で小さく鳴った。
外にいる。進む方にいる。逃げない方にいる。
鳥居は何も言わない。
ただ、そこにある。
第七話 二分の逃避
冬灯りの本番が近づくと、学校も商店街も慌ただしくなった。放送の台本、案内係の動線、飾りの最終チェック。椎名の声はさらに鋭くなる。波の笑いはさらに軽くなる。僕の心はさらに重くなる。
僕は、やることが増えると安心する。
やることがあると、本音を考えなくて済むからだ。
……でも、その逃げ方はもう使えない。
僕にはもう一つ、逃げ道がある。
鳥居。
その日の放課後、僕は一人で森へ向かった。
“本番前に落ち着くため”。言い訳は整っている。
鳥居の前に立って、僕は深呼吸をした。
五秒だけ。
五秒で二時間。
なら、五秒で戻ればいい。
内側に入る。静かだ。薄い。遠い波の音。
僕は目を閉じた。
いち、に、さん、し、ご。
――戻る。
そう思った瞬間、足元の枯れ葉が滑った。内側で滑る感覚が妙に現実的で、僕はバランスを崩して膝をついた。
「……っ」
焦って立ち上がり、鳥居へ向かう。なのに、鳥居が少し遠い。さっきまで目の前だったはずなのに、距離の感覚が薄い世界のせいで狂う。
僕は走った。
走って、走って、やっと鳥居をくぐる。
外側へ戻った瞬間、風が刺さった。
寒い。
寒すぎる。
空が違う。
夕方だったはずなのに、もう夜――じゃない。朝でもない。
薄い灰色の空。
海の匂いが、昨日より冷たい。
スマホを見る。通知が溜まっている。
日付が二つ進んでいた。
「……二日?」
喉が鳴った。
僕が内側にいたのは、二分もなかった。
二分で外は二日。
冬灯りの本番は――明日だったはずだ。
僕は走った。森を抜け、坂を下り、息が裂けるほど走った。学校へ向かう。
校門の前に貼り紙がある。
撤収の連絡。冬灯りは、もう終わっていた。
僕の膝が笑った。
教室に入ると椎名がいた。数人が片付けをしている。
椎名は僕を見るなり、声を低くした。
「深町。お前、どこに行ってた」
僕は答えられなかった。
鳥居の内側と言えば、信じてもらえない。
信じてもらえなくても、言わないと――もう戻れない。
波が教室の隅から出てきた。目が赤い。怒っているというより、疲れている。
「お前さ……昨日も来なかった。今日も来ない。俺、ずっと――」
波は言いかけて、言葉を飲み込んだ。その飲み込んだ言葉が、僕の胸に刺さる。
澪が遅れて入ってきた。僕を見た瞬間、目が揺れた。
「……やったんだ」
澪の声は小さかった。
「入ったんだね、鳥居」
椎名が眉を寄せる。
「篠宮、何の話だ」
澪は椎名を見て、それから僕を見る。
「深町くんが言わないなら、私が言う」
澪は息を吸った。
「森の鳥居。そこをくぐると時間がずれる。深町くんはそれで……二日、消えた」
沈黙が落ちた。
椎名の顔が固まる。波が澪を見る。僕は床を見る。
椎名が笑った。けれどそれは笑いじゃない。乾いた音だった。
「ふざけてるのか」
澪は首を振る。
「ふざけてない。信じなくていい。でも……深町くんは今、責任を取れないくらい、逃げ道に寄りかかってる」
波が震える声で言った。
「……だから言っただろ。波風立つって」
その言葉がもう“守り”じゃないと、僕は分かってしまった。
波風が怖いんじゃない。立った波風を、自分で越えるのが怖いだけだ。
椎名が言う。
「深町。話はあとだ。今日は帰れ」
「……帰れ、って」
「ここにいても、もう取り返せない」
取り返せない。
そうだ。鳥居のせいで、僕は取り返せない場所に立っている。
僕は教室を出た。廊下の窓から海が見える。冬の海は、綺麗なのに冷たい。
――鳥居は、まだ森にある。
僕はそれを知っている。
また逃げる道はある。
でも逃げても、外は進む。
僕だけが置いていかれる。
第八話 鳥居は残る
冬休みの前日。学校は大掃除でざわついていた。廊下の窓は相変わらず曇り、海からの風はさらに冷たい。机を運ぶ音、雑巾の水の匂い、誰かの笑い声。
僕は、どこにも入れないみたいな気持ちで教室の隅に立っていた。
椎名は僕を避けているわけじゃない。必要なことだけ言う。必要なことだけ。
それが椎名の誠実さなのだと、今は少し分かる。
波は、僕に優しい。優しいまま距離を取る。
その距離が、僕にとっては痛い。
澪は、僕の前に立つ。相変わらず淡いのに、目だけがはっきりしている。
「深町くん」
僕は顔を上げた。
「森、行ってない?」
「……行ってない」
嘘じゃない。二日消えたあの日以来、僕は森に近づいていない。近づけば、足が勝手に鳥居へ向かうと知っているからだ。
澪は小さく息を吐いた。
「よかった」
その一言が、僕の胸の奥を少しだけ温める。
僕は言った。
「……ごめん」
短い言葉。
でも今までの僕には難しい言葉だった。
波が近づいてくる。手に雑巾を持っている。
「……お前さ」
波は言いかけて、口を閉じた。
そして、いつもの笑いを作らずに言った。
「俺、止め方、間違えた」
僕は目を見開いた。
「え」
「“波風立てんな”って言えば、なんとかなると思ってた。でも……ならなかった」
波は視線を逸らす。
「お前が消えた二日、俺、ずっと腹立ってた。心配もした。情けなくもなった。……全部だよ」
波の本音が、僕の胸に落ちる。
痛い。けど、温かい。
僕は息を吸った。
「僕も……怖かった」
言葉が震える。
「僕が、僕のまま終わるのが怖い。だから……楽な方に行った。森に行って、鳥居に行って……消えた」
椎名が少し離れた場所からこちらを見ている。近づいてはこない。でも聞いている。
僕は椎名の方へも言った。
「椎名。ごめん。曖昧な返事で……全部、投げた」
椎名はしばらく黙っていた。
そして短く言った。
「……次は、曖昧にするな」
それだけ。
でも椎名なりの“許し方”だと、今の僕は分かる。
放課後、澪が言った。
「海、行こう」
僕と波は顔を見合わせて、頷いた。
高台の絶景ポイント。冬の海は、息をのむほど綺麗だった。青が深い。空が高い。なのに風が冷たい。綺麗さと冷たさが、同じ場所にある。
澪が海を見ながら言う。
「逃げ道って、消えないんだと思う」
僕は黙って聞く。
「鳥居も、なくならない。深町くんが知った以上、もう無かったことにはならない」
澪が僕を見る。
「だから、選ぶしかない。使うか、使わないか」
波が小さく笑った。
「それ、めっちゃ正論」
「正論じゃない。……私の願い」
澪はそう言って、また海へ目を戻した。
僕は森の方角を思い出す。
鳥居は今もそこにある。
僕が息をしたくなれば、いつでもくぐれる。
でも――僕は、海の冷たさの方を選びたいと思った。
進む時間の方を。置いていかれない方を。
僕は言った。
「……僕、冬休みの間、何かやってみる」
波が目を丸くする。
「何を?」
僕は笑いそうになって、やめた。曖昧に逃げたくなって、でも踏みとどまった。
「まだ決めてない。でも……決める。逃げないで」
波が「おう」と短く返す。
椎名が遠くで頷く。
澪が、ほんの少しだけ口角を上げた。
帰り道、森へ続く分かれ道が見えた。そこに鳥居は見えない。けれど僕は“そこにある”と知っている。
足が一瞬だけ、そちらへ向きかける。
その瞬間、海の冷たい匂いを思い出して、僕は靴先を戻した。
鳥居は、今も森にある。
――それでも僕は、帰り道を選んだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、「不思議そのもの」よりも、不思議があることで浮き彫りになる“人の弱さ”でした。
逃げたくなる瞬間。笑って誤魔化したくなる瞬間。言葉にしたら壊れそうで、喉の奥に押し込めてしまう瞬間。そういう小さな選択の積み重ねが、気づかないうちに自分の時間を薄くしていく――そんな感覚を、森の鳥居に託しました。
鳥居の内側は静かで、優しい場所です。だからこそ危険でもあります。
楽になれる場所があると、人はそこに寄りかかってしまう。寄りかかった分だけ、外側の時間は進み、誰かの毎日が積み上がっていく。
「逃げ道は消えない」という事実は、救いでもあり、試されるものでもあると思います。
深町恒一が最後に選んだのは、答えの綺麗な正解ではありません。
鳥居がなくなったわけでも、世界の仕組みが解き明かされたわけでもない。
それでも、足先が一瞬だけ森へ向きかけて、戻る――その小さな動きに、彼の“変化”を込めました。
篠宮澪の「言わないなら、無かったことになるよ」という言葉は、誰かを追い詰めるためじゃなく、残ってしまうものから目を逸らさないための言葉でした。
志賀波の「波風立てない」は優しさの形で、椎名一の正しさは誠実さの形で、それぞれが不器用に誰かを守ろうとしていた。
その不器用さごと、冬の空気の中に置いておきたかったのだと思います。
もし読んだあと、海の匂いや、冷たい風や、夕方が早い町の気配が少しでも残っていたら嬉しいです。
そして、あなたにも“鳥居みたいな逃げ道”が頭に浮かんだとき、ほんの少しだけ立ち止まれる物語になっていたら――それ以上のことはありません。
鳥居は、今も森にあります。
だから物語は終わっても、選ぶことだけは続いていきます。
またどこかで。




